アメノアト

著:白銀

 私は、独り、歌っていた。
 意味のある言葉などない。ただ、音程を繋いでメロディを紡ぐだけの、歌とも呼べないような歌だ。
 気が付いた時、彼はそこに立っていた。
 薄暗い部屋の中央にいる私から見て真正面、唯一の出入り口に。
 彼は立ち尽くしていた。
 ボサボサの黒髪は水に濡れ、雫が滴り落ちている。雨の中を走ってきたようで、息が上がっている。肩を上下させ、荒い息を吐いている。見に着けている無地 の白いシャツとグレーのズボンはずぶ濡れで、何度か転んだらしく泥も付いている。濡れて張り付いたシャツや髪に構うことなく、蒼い大きな瞳を見開いて、少 年は私を見つめていた。
 私は歌うのを止め、少年に問いかける。
「どうしたの?」
 僅かに目を細めて、私は少年を見つめる。可愛らしい、と表現した方がしっくりくる印象だった。気弱で、大人しそうな少年に見えた。
 彼は、私の言葉にはっとして視線を辺りに彷徨わせる。
 広い部屋の奥、私の後ろの方で動いている機械の静かな駆動音だけが響く。
「あ……その……」
 返事が見つからないのか、最後に私へ視線を戻した少年は口ごもって俯いた。
 唇を僅かに噛んでいるのが見えた。
「道にでも迷ったの?」
 優しい声をかける。
 この場所には、そう簡単に入れない。そもそも、この場所の存在は限られたごく一部の人しか知らない。
 まるで何かから逃げてきたかのような少年の風貌に、偶然迷い込んだのだろうと思った。そうでもなければ、ここに彼のようなあどけなさの残る少年は似合わない。
「逃げて、来たんだ……」
 少年はどこか苦しそうに、呟いた。
「皆、仕方ないって、諦めてるから……」
 それがイヤなんだ。
 少年の言葉に、私は目を伏せた。
「どこをどう走ったのか、憶えてないけど、ただ……」
 ざりっ、と音がして、少年が一歩前へと踏み出した。床に積もった埃が微かに揺れて、泥水に濡れた足跡に変わる。
「歌が、聴こえたんだ」
 私は、顔をあげた。
 少年がゆっくりと私の方へと歩んでくる。
「綺麗な、歌だった……」
 でも、そう言って少年は立ち止まる。一度だけ迷うように視線を床へ落として、再び私を見る。伏せた顔を上げた少年は、寂しそうな、辛そうな、そんな表情をしていた。
「……哀しそうだった」
 少年は、部屋の中央の台に腰掛けている私を僅かに見上げるようにして、そう言った。
 私は僅かに目を見開いて、少年を見下ろす。
「君は、何でこんなところにいるの?」
 それは当然の疑問だった。
 何も知らない人にとって、私がこの場にいるのは不自然なことだろうから。この部屋には、もう何年も人の訪れた気配がない。地面や、部屋の隅にあるコンテ ナに降り積もった埃がそれを物語っている。足跡も少年のものしかない。私が部屋を出入りしている形跡がないことにも気付いたのだろう。
 私の髪や肌、服も近くで良く見れば薄汚れていて、とても綺麗だとは言えない。
「……雨は、好き?」
 私は、暗く汚れた天井を見上げて、呟いた。
 少年が不可解そうに眉根を寄せた。また数歩、少年は私へと歩み寄る。
「私がね、降らせてるの」
 小さく微笑んで、少年を見つめる。
 少年は信じられないものを見るかのように目を丸くした。私のもとまであと十歩ぐらいだろうか。そこまで近付いて、ようやく私の背後にあるものが見えたようだった。
「遠い昔にね、大きな戦争があったの」
 大きく背中の開いた白いワンピースを見に着けた私の背後、部屋の最奥部には、巨大な機械が置かれている。広い部屋の四割にも達しようかという、大きな機械だ。暗い部屋の中では、近付かなければ、それが壁に見えてしまうほどの。
「宇宙にまで広がった戦争は終わったけれど、大勢の人も、自然も、消えてしまった」
 その大きな機械からは、無数のケーブルが伸びている。太さもバラバラなケーブルは、そのほとんどが一点へ向かって伸びている。
「戦いの残骸、鉄の雨が降り注いでいるから、人は街を壁で覆うしかなかった」
 いくつものケーブルは私の背中に繋がっている。
 私は、人間じゃない。
「地上を守る大気層にも穴が開いてしまったから、雨を降らせ続けるしかなかった」
 有害な宇宙線から地上を守っていた大気層にも、戦争は甚大な被害を残した。鉄の雨は、分厚く強固な壁を作ってなんとか凌ぐことができた。けれど、有害な 宇宙線のいくつかは透過してしまう。だから、雨を降らせて無害なレベルまで減衰させるしかなかった。無害化するだけの機能を持たせられるほど、地上には資 源も、文明も、遺されていなかったから。
「私はね、この街を守っているの」
 管理用の生体コンピュータ、それが私だ。
 雨量の調節や、壁で覆われた街の環境を整える。それには高度な情報処理能力と、柔軟な即応性が求められた。当時、最も適しているとされたのが、人の脳だった。
 少年は言葉を失っているようだった。
 彼には難しい話だったかもしれない。
「……私がいないと、街が滅びてしまうから」
 こうして話している今も、背後の大型機械が私の脳を使っている。私の意思に関わらず、普段使っていない領域のすべてが、環境調整に利用されている。
「私がここにいるのは、そういう理由」
 私はここから動けない。機械化された体に食事はいらない。必要な電力は背中に刺さったケーブルのうちのどれかから供給されている。
「……ずっと、ひとりで?」
 少年の目が僅かに細められた。
「ええ」
 私は静かに頷いた。
 もうどれぐらい、ひとりきりで過ごしただろう。背後の機器のメンテナンスにさえ来なくなって随分経つ。
「寂しく、ないの?」
「私にしか、できないから」
 少年の言葉に、私は目を閉じて答えた。
 私がここから抜け出せば、街を守る雨も、閉鎖された環境の調整も、止まってしまう。そうなれば、すべての人が命を落としてしまう。
「辛く、ないの?」
 私は目を開き、少年を見る。
 少年は、真っ直ぐに私を見つめていた。
「……おかしいよ、そんなの」
 少年は俯いて、ぽつりと呟いた。
 表情が見えない。どんな顔でその言葉を紡いだのか、私には見えなかった。
 ただ、顔を上げた時の彼の表情は、真剣なものだった。
「誰かが我慢しなければ皆が救われないなんて、いやだ!」
 力強い声だった。
 どこか弱々しかった印象からは一変して、少年の表情は引き締まっていた。
 その瞳には、強い光があるような気がした。どんなものにも揺るがない、優しい光が。
「皆……皆そうだ! 心の底じゃいやだと思ってるのに、仕方がないって諦めてる! 他の方法を考えようともしない!」
 叫ぶような訴えに、返す言葉がなかった。
 どんなことがあったのか、私には分からない。ただ、彼が他の人と違うのだということだけは、分かった。
 自分だけが訴えても、ひとりの力では何も変えられない。そんな現実に打ちのめされて、それでも諦めきれずに足掻いている。きっとそうだ。逃げてきた、と彼は口にしたけれど、それは多分、変えられる何かを探してただがむしゃらに走っていただけだ。
 駄々をこねているだけだ、と一蹴するのは簡単だ。けれど、私にはできない。
「あ……」
 この場所へ数人の人間が近付いている。機器に接続された私の意識が、その情報を受け取った。
 それを少年に伝えようと私は口を開いたが、もう遅かった。
「君だって……!」
 少年が何かを叫ぼうとした時だった、
「ここで何をしている!」
 部屋に強烈な光が差し込んで、私の視界が白く染まる。同時に、乱雑な足音と共に数人の男たちが部屋に踏み込んでくる。その勢いに埃が舞い上がる。
 一瞬だけ振り返って、少年は顔を顰めながらも私へと向き直る。
「寂しいなら、変えようとしなくちゃ! ずっとこのままでいたって、そんなの辛いだけだ!」
「ここは立ち入り禁止だ! 入っていい場所じゃない!」
 私へと叫ぶ少年を、男たちが乱暴に取り押さえようとする。
「侵入禁止と書いてあったはずだ!」
 男たちの怒声に、少年は必死で抵抗していた。
「こんなところに閉じ込めて! ひとり置き去りにして! なんで平然としてられるんだよ!」
 力の限りに、彼は叫んでいた。
 それが私のことを思ってのものだとしても、私には何もできなかった。
「放してよ! 何でだよ!」
「ここはお前がいていい場所じゃない! 帰るんだ!」
 機械化されていても、力があるわけじゃない。脳だけ取り出して機械に接続することもできた。ただ、それではあんまりだからと、自我を保てないだろうからと、設計技師の人が気を利かせてくれただけだ。ただのパーツにはしたくない、と。
 私は、目の前で取り押さえられ、部屋の外へと連れ出されていく少年を見ていることしかできなかった。
「名前! 名前教えてよ!」
 少年が一際大きな声で叫んだ。
 強引に押さえ付けられた両手両足を力の限りばたつかせて抵抗しながら、少年が叫ぶ。
「やめてよっ! 何もしないよ!」
「ダメだ! 大人しくしろ!」
 それでも、子供の力では大人に敵わない。
「迎えに行くからっ!」
 少年の瞳が、私を見ていた。
「ボクが! 必ず!」
 私には、その瞳から目を逸らすこができなかった。
 取り押さえられ、連行されていくあどけなさの残る少年が、凛々しくさえ見えるほど、その瞳は真っ直ぐだった。
「……シエ……ル……」
 か細い声が、意識せず私の口から漏れていた。
 少年が部屋の出入り口のドアの向こうへと消えていく。
「今日のことは忘れたまえ」
 男たちの最後の一人が一度だけ振り返り、私に告げた。暗い部屋と、男の手にしたライトの明かりのせいで、顔は見えなかった。ただ、声に感情は感じられなかった。
 ドアが乱暴に閉められ、衝撃と生じた風に埃が舞い上がる。足音が遠ざかっていく。少年のわめき声も、すぐに聞こえなくなった。
 また、私はひとりになった。
 少しの間、私はただ茫然と扉を見つめていた。
 乱れた埃だらけの床に刻まれた足跡と、泥水の汚れだけが、私の他にこの部屋に残されたものだった。
 どれだけ茫然としていたのだろう。
 私は、また歌い始めた。
 ――シエル。
 私の、名前。
 まだ、憶えていたことに自分でも少し驚いた。
 誰もいない部屋でひとり、私は歌い続けた。
 意味のある単語も、言葉でさえないメロディだけの歌を。
 何故、歌っていたのか、自分でも忘れていた。
 私に残されたものが、それしかなかったからだ。私を、人として繋ぎ止めてくれた彼の残したものだったから。
 彼、技師は、良く私のもとを訪れてくれた。私の話し相手になってくれた。彼が、私の心を人間のままに繋ぎ止めてくれていた。
 だけど、彼はもうこの世にはいない。私が、この役目を負う時に若い青年だった彼は、老人となり、亡くなった。おじいさんになっても、体が言うことを聞かなくなるまで私のもとへ訪れてくれた。
 いっそ心を消してしまった方が、完全に機械のパーツにしてしまった方が、楽だったのではないか。中途半端に人の心を残してしまったのは、私にとって酷なことではなかったか。
 そう悩んでいたことさえ彼は私に打ち明けてくれた。
 もし体がなくなって、脳だけが機械に繋がれていたら、どうなっていたか分からない。心を消すことが、当時できたのかなんて私には分からない。それは周り の者たちが納得して正当化するためだけの方便で、自我を消すことなんてできなかった可能性だってある。きっとそう思ったから、彼は私に体を残したのだろ う。
 機械であっても、見て、聞いて、話すことができる。手も足も、動かすことができる。ケーブルに繋がれているから、この場を離れることはできない。
 それでも、彼と話すことができるだけで、私は嬉しかった。不自由に感じたことも、怒ったり、哀しんだこともある。そんな感情を何度、彼にぶつけたことか。彼はその度に、私を抱き締めてただ謝るだけだったけれど、私は彼を恨んだことは一度もなかった。
 ずっと歌い続けているこの歌も、彼が良く口笛で吹いていたものだった。
 曲名は分からない。彼は忘れたと言っていた。元々は歌詞があったのかもしれない。もしかしたら彼のオリジナルだったのかもしれない。
 ただ、いつしかそのメロディを、私も口ずさむようになっていた。
 私は口笛が吹けなかったから、声で音程を繋いで。
 優しく、少しだけ激しくて、それでいてどこか切なくて。綺麗な、美しい曲だ。
 私は、ただ、歌い続けた。
 それしか、私にはできなかったから。そうしている間は、忘れずにいられる気がして。
 どのぐらいの時が経ったのだろう。
 薄暗い部屋の入り口に、一人の青年が立っていた。
「まだ、歌ってたんだ?」
 ゆっくりと歩みを進めながら、青年が言った。乾いて風化し切った泥水の汚れを踏み越えて、厚みを増した埃にあの時よりも大きな足跡を残しながら。
 ボサボサの黒髪に、優しい光を湛えた瞳が見えた。顔の右側に、大きな傷があった。額から右目の上を通って頬の中央ほどまで達する、縦に長い傷痕だ。ただ、右目は治療したのか見えているようだった。
「あ……」
 歌が、止まる。
「俺のこと、憶えてるかな」
 青年は優しく微笑んだ。
 気弱そうな面影はなかった。逞しさすら感じられるほどに、彼は成長していた。
「もう、我慢しなくていいんだ」
 私の前までやってきて、彼はそう言った。
「鉄の雨は、止んだんだ。壁も、雨も、もう君が制御する必要なんてない」
 私には、壁の外のことを知る術はなかった。
 機器のメンテナンスもずっとされていないし、システムを監視している管理者たちが私からのアクセスを拒んでいたのだろう、街の情報を得ることさえほとんどできなくなっていた。
「もう、いいんだ」
 青年を、私はただ見つめていた。
「でも、私は……」
 ずっと昔から、私はすでに人間ではない。目の前の青年と出会った、あの時よりずっと前から。
 人並の生活なんてできるわけがない。それに、壁も、雨を降らせることも、必要がなくなったのなら、私という存在に価値はない。
 私がここにいる意味も、もうない。私は、もう要らない。
「変わったんだ……変えたんだ、すべて」
 優しい声に、私は俯いていた顔を上げた。
 青年は右手を差し出して、微笑んでいる。
「晴れた空、見に行こう」
 何も言えずにいる私を、彼はただ優しく微笑んで見つめている。
「迎えに、来たんだ」
 その言葉で、涙が溢れた。
 何もかも、分かっているとでも言いたげな優しい瞳に、もう何も言えなかった。
「……うん」
 私は、彼の手を取った。頬を涙が伝うのを拭おうともせずに、精一杯の笑みを彼に返した。それだけで、彼は笑みを深めて、私の手を力強く引いてくれる。
 背中のケーブルが外れていく。
 長い間、整備されていなかった接続部は錆びや腐食でボロボロだった。それまで接続を認識できていたのが不思議なくらいに。
 視界の端に、ちり、と接続が切れた警告が出たけれど、もう構いはしない。
 私は、裸足のまま彼の手に引かれて走り出した。埃まみれの薄汚れた白いワンピースがなびく。地上へと向かう通路を、私はひたすら進んでいった。
 何度か足をもつれさせて転びそうになったが、その度に彼が抱き止めてくれた。自分の足で歩いて、その足で外へ向かう。それを、彼は大事にしてくれた。
 暗い通路の向こうに光が溢れているのが見えて、自然と足が速くなった。
 眩しさに目を細めながら、私は外へと辿り着いた。
 空を覆っていたはずの壁は、綺麗になくなっていた。いや、見渡せば壁はまだあった。だが、地面に残されたのは外縁部ぐらいで、見上げれば遮るものは何もなかった。
 白い雲が、澄み渡った青い空が、そこには広がっていた。
 地面には草が生え、辺りは草原のようになっていた。背後を振り返れば、私のいた地下室へ向かう入り口にも草木が絡みついていた。
 青年は私の手を引いて、丘のようななだらかな斜面になっている場所へと足を進めた。そうして、芝生の上に腰を下ろす。
 何も言わずに私を見上げる彼に、私もその隣に腰を下ろした。
 無機質で硬い台の上に座り続けていた私にとって、地面の上はとても柔らかく心地の良いものだった。顔が地面に近くなって、草木の匂いに気がついた。
 風が吹いて、もうずっと手入れのされていないくすんで汚れた金髪がなびいた。ワンピースの裾が揺れて、草木が心地の良い音を立てて踊る。
 そこからは、水平線の向こうまで、見渡すことができた。壁の縁の向こう、ずっと遠くに海が見えた。光を反射して輝く青い海に、その近くに港町のようなものが見えた。
 壁の外に、街ができていた。壁の中にも、まだ人が住んでいるような形跡があった。ただ、壁の中の街は私がシステムにアクセスして見ることのできた景色とは違っていた。食料を作り出す工場のようなものはなく、作物の畑があった。
 街の情報を制限されていたのではなく、もう街の情報が取得できなくなるほど壁がなくなっていたのだ。システム自体、ほとんど機能しなくなっていたのかもしれない。
「遅くなって、ごめん」
 私が周りの風景に圧倒されていると、青年が小さく呟いた。
「本当は、もっと早く迎えに行きたかった」
「……ううん」
 私は青年に首を振った。
 顔の傷を見れば、逞しくなった体を見れば、彼が頑張っていたのは一目で分かる。どれだけ苦労したのか、辛い目にあったのか、私には分からない。ただ、とてつもなく大変だったはずだ。それでも挫けずに、彼は諦めずにやってきたのだろう。
 だから、私のことも忘れなかった。
 迎えにきてくれた。
「ありがとう」
 自然と、そう言えた。
 心が残っていて、残してもらえて、良かった。たったこれだけのことでも、そう思えてしまった。
 どこまでも澄み渡った綺麗な空、草木の匂いを運ぶ風、柔らかくて温かい芝生の地面。外は、光に満ち溢れていた。
 また涙が溢れた。
 視界が僅かに霞む。
「今日はいい天気だ」
 そう言って、青年は芝生の上に仰向けに寝転がった。
 私も、彼に倣って寝転んだ。視界一杯に青い空が広がる。白い雲がゆっくりと流れ、降り注ぐ陽光は眩しくて、温かい。
 何も考えられない。ただ、心地が良かった。
「昼寝でも、するかい?」
 そう言って、彼は私に膝枕をしてくれていた。
「今日は絶好の昼寝日和だ」
 彼が微笑んで、私の頭を優しく撫でた。
「……手、汚れるよ?」
 私の言葉に、彼は小さく笑った。
 機械化された私には、睡眠なんて必要がなかった。いつも機械に繋がれて脳を使用されていたのだから、眠ることなんてできなかった。
「いいんだよ、もう、休んでも」
 穏やかな声だった。
 もう繋がれていないのだから、眠ることもできる。そう言いたいのだろうか。
 陽光や風の心地良さと、青年の膝の温もり。その心地良さに包まれていたら、自然と眠ってしまいそうだった。
 私を見つめる青年の顔は穏やかで、優しいものだった。
 一瞬だけど、あの技師の青年が、彼に被って見えた。
「うん、ありがとう」
 この温もりの中で眠れば、いい夢を見れそうな気がした。
 だから、私は霞む視界を、ゆっくりとまぶたで閉じる。
「おやすみ、シエル……」
 ああ、届いていたんだ。
 彼の最後の優しい声に、私は心の中に温かいものが広がっていくのを感じながら、まどろみの中へと沈んでいった。


 少女が眠ったのを見届けて、俺は静かに目を閉じた。
「……今まで、ありがとう」
 俺は動かない少女の体を抱き上げて、立ち上がった。
「もう、いいの?」
「ああ……」
 女性の声に振り返らず、俺は少女を見つめて頷いた。
 少女は機械に繋がれていなければ、生きていけなかった。機械が彼女の生命維持に必要なエネルギーを供給していたのだから、当然のことだ。ただ、あのままでも少女はもう長くはなかった。壁が取り去られて、環境が改善されて、システム自体が必要なくなった。
 そうなる少し前から、既にシステムは不調をきたしていた。もう、限界だったのだ。メンテナンスできる者はいなくなっていたし、だとしても修理するための道具や部品など、過去のもの過ぎて手に入らない。
 あの大型機械が停止するのは、もう時間の問題だった。いや、もう何時止まってもおかしくない状況でさえあった。
 少女が自覚していたかどうかは分からないが、もう彼女自身の体も限界だったはずだ。外へ向かって走っている時でさえも、意識を失いかけて足をもつれさせていたようだった。
「そう……」
 少しだけ寂しそうに、女性が呟いた。
「せめて、青空を見せてやりたかった。あんな場所で終わるなんて、寂し過ぎるから……」
 生命機能を停止した少女を抱えて、俺はゆっくりと歩き出した。
 少女の存在を知る者は、もう自分ぐらいしかいなかった。システムを管理していた大人たちは、管理の必要がなくなるとすぐに管理を放棄してしまっていた。彼らさえ生まれる前の戦争の遺物でもある少女の存在はタブーに近かった。だから、大人たちは少女さえ放棄した。
 朽ちてゆく機械と共に、誰にも知られずにこの世を去るであろう少女のことを、忘れられるはずがなかった。
「俺の、初恋の相手だから、さ」
 隣を歩く女性に、俺は哀しみの交じった笑みを見せた。
 少女を救う方法も探した。だけど、どうしても見つからなかった。今の技術では、彼女を救うことは不可能だった。
 ならば、せめて最後に見せたかった。
 変わった世界を、変えた世界を。
 女性と共に、俺は少女を丁寧に埋葬した。空が良く見える小高い丘の上に。それが最後に俺が少女のためにできることだった。
「雨の後には、虹も出るわ」
 女性が静かに呟いた。
「雨がやめば、晴れもする」
 俺も、応じるようにそう口にした。
 最後の瞬間、少女の心は晴れただろうか。
 シエルという少女のことは忘れない。その哀しみさえも心に刻んで、この世界を生きていく。
 雨は、いつまでも続かないから。
 鉄の雨が止み、晴れ渡ったこの世界を。
 後書き

 以前書いた、「鉄の雨」のリメイクです。ついでに一人称視点にしてみました。
 後半はほぼ新規書き下ろしですが、「鉄の雨」を書いた時点でほぼ思い付いていた内容だったりします。書くかどうか、蛇足でないかどうか、雰囲気を損ねてしまわないかどうか、少々悩んだりもしましたが、せっかく思い付いたので書いてしまえと、全部盛り込みました。
 コンセプトは「鉄の雨」と同様、「綺麗な話」のままだったりしますが、果たしてそういう印象を抱いて頂けるかどうか……。

短編の目次へ
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