コンプレックス・アンド・ライフ

著:白銀

 理解されないというのは、正しい言い方ではないと思う。
 きっと、理解することはできない、のだ。
 頬杖をついて、垂れ流される言葉の羅列に耳を傾ける。授業をぼんやりと聞きながら、今日は帰ったら何をしよう、等と考えていた。
 授業終了を告げるチャイムが鳴り、教師が授業を切り上げて教室を出て行く。
 教室が急に騒がしくなる。生徒たちが活気を取り戻し、次の授業のために動き出す。
 次の授業、それが何かを思い出して、気分が沈んだ。
 多くの生徒は体を動かす体育が好きだ。頭を使う勉強などより、スポーツをしていた方が楽しいのだろう。実際、運動神経の良いクラスメイトたちは体育という時間になると途端に活き活きとし始める。水を得た魚のように。
 もちろん、そうではない者もいる。運動神経が抜群に優れている生徒なんて学校の中でも一握りだ。とはいえ、大抵は座学より体を動かす方を好む。
 ただ、僕は、例外だった。
 体育というものがことさら嫌いで、それをするぐらいなら倍の時間座学をしていた方が良いとさえ思っている。
 運動神経が悪い劣等感だと思う者もいるだろう。実際、そういう類の感情はある。
 僕は昔から運動が苦手だ。
 というより、できなかった。
 何をやっても人並以下、なんてものではない。下手くそ、なんて程度じゃない。運動音痴、なんて言葉もあるが、それより酷いんじゃないかと思うことさえある。
 からっきしだった。
 理由はある。
 生まれて直ぐに患った肺炎の後遺症で、喘息を今でも患っている。
 気管支が細くなり、呼吸が難しくなる。本当に酷い発作を起こせば死ぬことさえある。実際、喘息の発作で死んだ人というのはいる。
 僕の場合は、重度の喘息だった。
 五十メートルを全力疾走することすらままならない。そもそも、全力疾走ができない。
 これがどういうことか、理解できるのは同じぐらい酷い持病のある人だけじゃないだろうか。
 幼い頃から、喘息で入退院を繰り返して育ったせいか、肉体がまともに発達する時期に十分な運動ができなかった。それが一番大きな影響なのだろう。人並の身体能力がないのだ。
 当然体力はかなり低い。一瞬走っただけで直ぐに息切れしてしまう。移動はもっぱら徒歩で、駆け足でさえ長時間は続けられない。自転車も上り坂は無理だ。下手に運動なんてすれば、発作を起こして救急車を呼ぶハメになる。
 だから、体育の時間になると僕は大抵見学だった。
 楽しそうに体を動かしているクラスメイトたちを遠目に、日陰に腰を下ろして眺めているだけの暇な時間でしかない。
 それだけならいい。
 一番嫌なのは、まともに体を動かせる連中の僕を見る目だ。
「かわいそう」
 なんて思われているのならまだいい方だ。
「本当はできるんじゃねぇの?」
「サボりじゃねぇの?」
 そう思っている目が、嫌なのだ。
 普通に体が動く人には、恐らく、分からないだろう。
 どのみち、あの中に混ざったところで活躍なんてできやしない。ただ、いるだけしかできないだろう。チーム分けで人数が同じになるのなら、足手纏いにしかならない。完全に戦力外だ。
「やる気あんのかよ?」
「もっとちゃんとやれよ」
 などと、運動神経の良い者からは邪険にされるに違いない。
 だって、仕方がないじゃないか。
 走ることすらままならないこの体じゃ、まともに運動なんてできやしない。
 見た目こそ、普通の人間に見えるが、中身はハリボテもいいところだ。ちょっと動けば、直ぐにボロがでる。スポーツで言うところの基本的な動きのフォームさえ、頭の中でイメージはできてもその指示が体には行き届かない。
 実際、体調がすこぶる良い時に他の人に混じってやったら笑われたことがあった。恐らく、フォームがなっていなかったから。自分でも変な動きになってしまったと思った。逆上がりだって、未だにできない。
 思った通りに体が動かない感覚なんて、本人にしか分からないだろう。頭では理想や、そうあるべき、という動きがイメージできる。けれど、現実にそれを実 行しようとしても、どうしてか上手くできないのだ。体のバランスが悪いとか、筋力が足りないだとか、そういう色んな要因が重なっているのだとは思う。
 ただ、それを見た他人が、僕の無様な動きを見て、本気でやってない、と思うのがどうしようもなく辛い。その程度もできないのかと思われるのが、無様な動きしかできない自分が、恥ずかしくてたまらない。
 けれど、自分ではそれが精一杯なのだ。
 悔しさはある。人並にスポーツがやってみたいと思うこともある。それができれば価値観だって変わるだろう。
 だが、今の自分には人並になる程度まで体を鍛えることすらままならない。
 なのに、他者は理解してはくれない。
 いっそ、大勢のクラスメイトがいる中で発作を起こして救急車で運ばれて見せれば、皆ある程度は分かってくれるんじゃないだろうか。でも、自分から発作が起きるような状況に持っていくことなんて、恐ろしくてできやしない。
 呼吸ができない辛さ、普段以上に体が言うことを聞かなくなる苦しさは、それを味わった者にしか分からない。息を吸っても、全身に酸素が行き渡らない。常 に全力疾走をした後のような息苦しさ。気管支が詰まり、それでも無理に呼吸を通そうとするから咳が止まらない。まともに立ってなどいられない。
 その、発作の感覚自体、恐怖の対象なのだ。本能的に感じる、命の危険だと言ってもいいかもしれない。
 酷くなればなるほど、辛いとか、怖いとか、苦しいとか、そういった感情や気持ちといったものさえ、抱けなくなる。ただ、何も考えられなくなって、呼吸だけをしようとする。息を吸って、吐く、それだけしか考えられなくなる。
 それ以外の感情や思考は、発作を起こす前の正常時にこそ抱けるのだ。
 いっそ死んでしまえば楽になるんじゃないかと思う時だってある。珍しい見世物のように見られるぐらいなら、異物として蔑まされるぐらいなら、自分という存在を消し去ってしまいたい。
 見学だって、本当はしたくない。この場から逃げ出して、一人教室で読書に耽っていたいぐらいだ。
 こうして、眺めているだけで劣等感は膨らんでいく。
 まともに体を動かすことさえできない、しない落ちこぼれ。協調性のない、足手纏い。
 自意識過剰だと言われても否定できない。ただ、それでもそういう風に見られているんじゃないかと思ってしまうことを止めることができない。
 こればっかりは努力でどうにかできるものでもないんだ。
 数人から「要らない奴」、と見られるのなら耐えられる。世の中には色んな人がいるから、そういう見方をしてくる嫌な奴がいるんだってことぐらい分かっている。
 けれど、ここにこうして座っているだけで、輪の中から外れているだけで、皆が「要らない奴」として僕を見るんじゃないかと思ってしまう。誰からも必要とされないなら、ここにいる意味はあるんだろうか。
 見学とは言うが、見て学んだところで僕には実践なんてきっと一生できやしない。
「相変わらず、暇そうだな」
 苦笑いを浮かべたクラスメイトが一人、近くに腰を下ろした。
 休憩、といったところだろう。流れ出る汗を運動着の裾で拭い、乱れた呼吸を整えるように大きく息を吐く。
「暇だよ。つまらない」
 素っ気なく答える。
「たまに、羨ましいけどな。面倒なのパスできてさ」
「サボってるわけじゃない」
「分かってるって、でも全く利点じゃないとも思わないだろ?」
 軽い口調ではあったが、からかっているような言い方ではなかった。
 唇を尖らせて、そっぽを向く。
 この持病で楽をしているところがあるのは事実だ。マラソン大会だとかを面倒臭がる生徒は多い。そんな時には羨ましいと思う者もいるだろう。もし、皆と走 れる体だったとしても面倒だと思うかもしれない。そういう意味では、楽ができると言われても否定はできない。実際、肉体的には楽だ。
 だからと言って、参加できるかと言われれば不可能なのだが。
「好きで楽してんじゃないよ……」
「そう言うなって。少なくとも、俺は大変だっての分かってるつもりだからさ」
 苦笑をしたまま、クラスメイトが立ち上がる。彼がそう言うのには理由がある。
 彼の妹も、喘息持ちらしい。僕ほど重症ではないらしいが、発作のことだとか、症状については他の人より知っている。
「また今度さ、テスト勉強手伝ってくれよ。お前んちでゲームもやりてーし」
 そう言いいながら軽く手を振って、友人はまた輪の中に戻っていった。
 気の毒に思ってくれているのか、同情からなのか、単に話してみて気が合ったからなのか、きっかけが何にせよ彼とは友人になれた。
 他の人と違って、偏見なく接してくれる。持病が原因で、僕が周りにウザがられた時も、庇ってくれた。
「しょうがねぇだろ。本人の意思でそうなってるわけじゃないんだから。大変なんだよ、やりたくてもできないってのはさ」
 あの時のその言葉が、周りに通じているのかどうかは、正直分からない。高校生程度の脳味噌では、医学的知識だってないだろうし、授業で習う内容でもない。
 ただ、明るくて人付き合いも良いあいつの言葉だったから、少なからず影響があったのは確かだ。あの輪の中に居場所がないことに変わりはないが、少なくとも、嫌な目で見られることは減った。
 あいつがいるから、まだここにこうしていられる。自棄になったり、引き籠ったり、他者を拒絶したりせずにいられる。
 理解することはできない。
 それでも、理解しようとすることはできる。理解したいと思うことはできる。
 だから、人は自分以外の他者と繋がっていくことができるのだろう。支え合うことができるのだろう。
 そうすることで、生きていくことができるのだと思う。
 誰だって、好きで死にたいなんて思うことはないはずだ。生きているよりも死んでしまった方が良い、という考えに至るから、死にたいと思うはずなのだ。
 この持病とはずっと付き合っていかなければならないんだと思う。いつか治ったと言える状態に辿り着ける可能性もゼロではない。ただ、ゼロではないだけで、実際のところ、完治するのは難しい。アテにはできない。
 ずっと、制限を背負っていかなければならない。
 だとしても、あいつのような人との付き合いがある限り、僕は生きていけるんだと思う。
 そして、僕だって、同じような思いを抱いている人に手を差し伸べることができる。きっと、似たような思いや境遇の者がいれば、僕は話しかけていただろう。話をしてみたいと思っただろう。歩み寄ろうと、歩み寄りたいと、考えたと思う。
 他の人よりも、苦悩を知っているから。その人のそれと全く同じだとは言わない。程度や形の違いはあれど、それを持たない者よりは、理解の度合いは深いはずだ。近い位置にいるはずだ。偏見なく付き合えるはずだ。
 支えられて救われたように、誰かを支えられる人に、支えようとできる人に、なりたい。
 どんなに辛さを感じても、惨めさを抱いても、孤独感に苛まれても、手を差し伸べようとしてくれる人がいる。歩み寄ろうとしてくれる人がいる。
 それだけで、救われるんだ。
 まだ、生きていてもいいかなって、思えるんだ。
 後書き

 小説というよりはエッセイ。お陰でストーリー性はあまりないですね。
 ふと、障害関係の短編を見かけて、触発されて書いたもの。
 著者が喘息持ちなので、その経験談的な思考なんかも混じっていますが、基本的には一応フィクションです。
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