鉄の雨
著:白銀

 歌が聞こえた。
 アと、ラと、ルの、たった三つ音だけで紡がれる歌だ。
 楽器は無い。
 しかし、それはとても綺麗な歌だった。
 薄暗い部屋の中で、少女は一人で歌っていた。
 背の半分ほどの台に座り、真っ白なワンピースを身につけ、亜麻色の髪を僅かに揺らして。
 どこか寂しげな表情で、少女は歌を紡ぐ。歌声は美しく、澄んでいる。部屋の中に歌声が響く。金属の壁は声を反射し、まるでエコーがかかったかのように少女に続いて歌っていた。
 部屋で唯一の入り口に少年は立っていた。
 ボサボサの黒髪は雨で顔に張り付き、泥だらけのシャツとズボンもびしょ濡れだった。息も上がっている。
 少年はただ目を丸くして、呆然と歌う少女を見つめていた。
 不意に、歌が止んだ。
「どうしたの?」
 少女が問う。
 薄暗い部屋の中で、少女の視線が入り口に向かう。
 少年は何も答えられなかった。問いかけられたことが判らなかったのかもしれない。
 薄暗くはあったが、何も見えないほどではなかった。少年には少女の姿が見えていた。逆に、少女からも少年は見えていた。
 少年の視線は少女の目を見つめていた。
 長い睫毛に、哀しげに細められた瞼。微かに光を湛えて、瞳が揺れている。
 沈黙が続く。
 少年は何も考えられず、ただ少女を見つめていた。
 答えが返ってこないことを悟ったのか、少女は少年から視線を逸らすと口を開いた。
 再び、歌が紡がれ始める。
「あ……」
 少年が発した声に、歌が止む。
 ゆっくりと、少女は少年に目を向けた。
「なんで、こんなとこにいるの?」
 問いに答えられなかった少年は、逆に少女へ問いを発していた。
 少女の問いは、少年には難しかった。部屋に入って来た少年に対して、「誰?」と問うでもなく、「どうしてここにいるの?」と問うでもなく、少女は「どうしたの?」と尋ねた。
 何故、少女がそんな問いを放ったのか、少年には理解できなかった。だから、答えも出せなかった。
「じゃあ、どうしてここに来たの?」
 くすりと笑って、少女は少年に問いを返す。
「僕は……」
 少年が言葉に詰まる。
 少女は何も言わず、答えを待つ。
 びしょびしょの服に、濡れた髪。裾や顎から水滴を垂らしながら、少年は言葉を選んでいるようだった。
「――歌が、聞こえたから」
 少年の言葉に、少女は少しだけ目を見開いた。
「僕、逃げて来たんだ」
 少しだけ迷いながら、少年が語り出す。
「何もかも、厭になって……」
 少年は俯いた。
 外は雨が降り続いている。
 止むことのない雨だ。少年は生まれてから一度も晴れた空を見たことがない。雨は、少年が生まれる前からずっと降り続いている。
「走って、転んで、息が上がって……」
 少年は顔を上げた。
「気がついたら、歌が聞こえたんだ」
 少女は少年を見つめている。
「綺麗な歌だと思った」
 だけど、そう言って少年は言葉を区切り、ゆっくりと足を前に運んだ。
「哀しそうだった」
 少年は真っ直ぐに少女を見つめた。
 だから、歌っている人に会いたかった。少年の眼はそう告げていた。全てが厭になって、ただ一人逃げ出した自分と、どこか似ている気がしたから。
「そう……」
 少女は少年を見返して、微笑んだ。
「私はね、ここにいないといけないの」
 問いへの答えを、少女は囁いた。
 ゆっくりと歩いてくる少年を見つめ、少女は優しく目を細める。
 少年の足が止まった。目を見開き、一度、少女の顔を見上げる。少年の視線は、彼女の後ろへと向かっていた。
「私がいないと、皆が困るから」
 寂しげに微笑む少女の背後には、いくつものチューブが伸びていた。
 チューブは壁から少女の背中へと伸びている。少年から少女の背中は見ることができない。
 だが、もし見ることができたなら、少女の背中にはいくつものチューブが突き刺さっていたことだろう。そうとしか思えなかった。部屋の中には少女しかいないのだ。彼女が座っている台はあるが、チューブは少女の背中にしか向かっていない。台の後ろへ向かうチューブは見あたらなかった。
「雨は、嫌い?」
 少女の問いに、少年は答えられなかった。
 信じられないものを見ているかのように、呆然としていた。
「私が、降らせているの」
 少女の言葉が、少年には理解できなかった。
「遠い昔に、大きな戦争があったの。空のずっと上、宇宙で、人は戦っていたの」
 静かな声が部屋に響く。
「戦いは終わったけれど、大勢の人が死んでしまったの。自然も消えて、空からは戦いの残骸、鉄の雨が降り続いている」
 哀しげな声で少女は語る。
「人は、街を覆うように壁を造って、鉄の雨を凌いでいるの」
 残骸の雨の中では、人は生きていけない。生活の場を確保するために、生き残った人々を守るために、空を覆う壁が造られた。
「だから、私は雨を降らせるの」
 大きな戦争によって、有害な放射線を遮る大気層の多くが破壊されてしまった。戦いの残骸は壁で遮ることができた。だが、放射線だけは壁を透過してしまう。地上に残された文明と資源だけでは、放射線を無害化する機能を壁に持たせることができなかったのだ。
 放射線を無害なものに変えるため、人々は雨を降らせた。閉鎖空間の中に雨を降らせ、放射線を減衰させて無害なレベルまで下げている。
「私がいないと、街は滅びてしまうから」
 雨量の調節と、閉鎖空間の環境を整える存在が必要になった。それに彼女が選ばれた。
 身体のほとんどを機械化され、少女は生体コンピュータとして環境管理システムの核とされたのだ。
 幼い少年には、彼女の言葉はほとんど理解できなかった。
「一人で、寂しくないの?」
 少年は問う。
 少女の身体は華奢だった。肌は透き通るように白い。
「私にしか、できないから」
 少女は微笑んだ。ただ、その笑みはどこか哀しげなものだった。
 たとえ寂しくても、少女はここを動くことを許されない。
「そんなの、おかしいよ……」
 少年の表情が曇る。
 少女は驚いたように少年を見つめた。
「だって、君はここにいるのが厭なんでしょ?」
 少年の言葉に、少女は答えなかった。いや、答えることができなかったのかもしれない。
「厭なのに、どうしてここにいるの?」
「私がいないと、皆が困るから……」
 力なく、少女が答える。
「そんなのおかしい!」
 少年は叫ぶように訴えた。
「誰かが我慢しないと皆が喜べないなんておかしいよ!」
 少女が目を丸くする。
 少年は真っ直ぐに少女を見つめていた。瞳には光が見える。揺るぎない、光が。
「僕は、それが厭で飛び出して来たんだ。皆、本当は厭なと思ってるのに他の方法を探そうとしないんだ!」
 少年が叫んだ直後、部屋の中に光が差し込んだ。
 入り口に、ライトを手にした男達が立っていた。
「何故ここにいる! ここは立ち入り禁止と書いてあったはずだ!」
 男達は少年に駆け寄ると腕を掴んだ。
「ねぇ――!」
「さぁ、帰るんだ!」
 言葉を遮って、男が少年の腕を引く。
 子供の力では大人に勝てない。どんなに嫌がっても、少年は大人達に引き摺られてしまう。暴れても、少年一人の力では大人たちに抗うことはできなかった。
「放してよ! まだ話がしたいんだ!」
「ここはお前がいて良い場所じゃない!」
 嫌がる少年を大人達は強引に引き摺っていく。
 少女はその光景から目を逸らしていた。
 最初から、少年が連れていかれると知っていたのだろう。この場所は街の外れにある。周囲には何もなく、誰も近寄らない場所だ。同時に、少女を守るために監視されている場所でもある。
 もう何年もこの場所に訪れる者はいなかった。だから、監視の目が緩んでいたのかもしれない。本来なら、この場所に辿り着く前に警備の者たちが侵入を防いでいたはずだ。
「――迎えに行くから!」
 少年が叫んだ。
 少女は驚いて、視線を少年に向ける。
「絶対、僕が君を迎えに行くから!」
 必死になって、少年は声を張り上げる。腹の底から、力一杯、叫んでいた。
「僕が――!」
 大人たちが少年の口を塞ぎ、部屋の外へと引き摺り出した。もがく少年を数人がかりで抱え上げ、大人たちは去って行く。
「……今日のことは忘れるんだ」
 部屋に残った一人の男が、静かに告げた。
「はい……」
 少女は静かに頷いた。そっと、表情を隠すように。
 残った男が部屋を出て行く。
 一人へ戻った少女は胸に手をあてる。少年の言葉が残っている。少女の言葉を聞いても、仕方ないとは考えない少年の言葉だ。いや、仕方ないと考えたくないのかもしれない。
 目を閉じて、少女は歌を紡いだ。少しだけ、明るい歌を。
 彼女は初めて、大人の命令に従わなかった。


 薄暗い部屋の入り口に、一人の青年が立っていた。
「あ……」
 少女には、彼が誰なのか直ぐに判った。
 ボサボサの黒髪に、光を湛えた瞳。優しげな眼差しで、少女を見つめている。
「俺のこと、憶えてるかな?」
 青年は優しく微笑んだ。
 一歩ずつ、少女へと歩み寄る。
「私……」
 青年は優しく首を振る。
「もう、我慢しなくていいんだ」
 少女は、ゆっくりと歩いてくる青年を見つめていた。
「鉄の雨は、もう止んだから」
 空から降り注ぐ残骸も、放射線の問題も解決した。閉鎖空間で生きる必要がなくなったのだ。
「一緒に、行こう」
 青年は微笑み、少女に手を差し伸べる。
「私、もう人間じゃないから……」
 少女は俯く。彼女の身体はそのほとんどが機械化されている。この場所にいることだけが少女の使命だった。役割が終わったのなら、少女の存在価値は無に等しい。
「言ったろ? もう我慢しなくていいんだって」
 優しい声に、少女が顔を上げる。
 青年は手を差し出したまま、微笑んでいた。
「迎えに来たんだ」
 その瞬間、少女の瞳に涙が溢れた。
「晴れた空を見に行こう」
「――うん」
 少女は笑った。青年の手を取り、台から下りる。背中に取り付けられたチューブやコードが外れるのも構わずに。
 暗い通路を、青年は少女の手を引いて走り出す。
 近付いてくる通路の出口からは、光が溢れていた。 


 後書き

 今回の短編は、前作「偽りの邂逅」とは異なるコンセプトで書きました。
 前回が「長編から切り抜いたワンシーン」であったのに対し、今回は「綺麗な話」をコンセプトにしています。
 雰囲気を重視しているため、抽象的な内容にしました。同時に、背景などはあえてぼかして、更に雰囲気を前面に押し出すようにしたつもりです。
 雰囲気を重視したらセリフが多めになってしまいました。この辺は難しいところですね。
短編の目次へ
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