フェージング・オーヴァー
<Fading Over>

著:白銀

 十二月に入って数日が過ぎたある日、俺は仲の良い三人の友人と近所の食事処で夕食を取っていた。
 小さな店ではあったが、店内は割と小奇麗で、値段の割に量が多いことで大学生である俺たちには足を運びやすい場所だった。ややオレンジがかった明かりの下で、食事をしながら談笑していた。
「だからそこは腹の動きで次のモーションを予測してだな」
 大盛りのマーボー定食を食べながら、対角に座る友人の一人が言った。
「いや、見えねーって」
 ラーメンを啜っていた向かいの友人が笑いながら言い返す。
 最近流行りのゲームについて、話が弾む。
 口の中のものを飲み込んでから、何か言ってやろうと思った時だ。
 突然、俺の携帯電話が鳴った。
「お?」
 自分でも驚いたのは、普段設定している着メロと違ったことだった。
 つまり、登録されていない相手からの着信だ。
 レンゲを置いた右手をスラックスのポケットに突っ込み、携帯電話を引っ張り出す。
「あ、メールか」
 閉じた携帯電話の外部液晶にはメールであることを知らせる短いメッセージが表示されていた。
「でも、誰だ?」
 不信感を抱きつつ、携帯電話を開いてメールをチェックする。
 知らないアドレスから、メールが来ていた。宛先が複数あることに、スパムやダイレクトメールの類ではないかと推測する。
 件名は、メールアドレス変更を知らせる旨が書かれていた。差出人の名前と共に。
 名前を見て、絶句した。
 いや、絶句は言い過ぎか。ただ、言葉がなかったのは確かだ。
 どう反応すべきか分からない。その時の感想はそれしかなかった。
「どしたん?」
 隣に座る友人が声をかけてくる。
「ん、いや、知り合いがアドレス変えたってメール。別に返事は後ででいいな」
 何でもないメールだと言って、携帯電話を閉じてポケットに押し込んだ。
 じわじわと湧き上がり始めた苛立ちと共に。

 友人たちと別れて帰宅した俺はベッドに腰を下ろして携帯電話を開いていた。
 あの時受信したメールを、もう一度見返す。
「……何で、今更」
 送信相手は、高校の時に付き合っていた女性だった。
「……どうして、俺のアドレスが混じってるんだ」
 見知らぬ宛先が並んでいる。
 きっと、送り主の友人たちなのだろう。
 だが、メールアドレスの変更を告げる宛先の中に自分のアドレスが入っていることが何より不審だった。
 付き合って、一年程度で別れた相手だ。確かに、その後も暫く交流はあった。だが、いつも一方的に突き放してきたのは向こうだ。
 一人になって、メールを見ていると苛立ちが抑えられない。自分でも表情を歪めているのが分かる。
 返事を出すべきか、迷った。出さなければ、きっとこのまま何事もないだろう。
 このメールを削除すれば、なかったことにもできる。
 ベッドの上に仰向けに寝転がった。メール画面のままの携帯電話を片手で閉じて、天井を見上げる。
 なんだろう、前にも似たようなことがあった気がする。

 ――あぁ、そうか。

 あれは、高校に入って一ヵ月が過ぎた頃だっただろうか。
 ある日、自転車で高校から帰る途中、中学校の時同じクラスだった彼女と偶然出会った。
 同じクラスだったのは三年の時だけだったが、委員会が同じになったこともあって他の女子たちよりも会話をするようになった。特に趣味が同じだったわけではないが、何となく気の合う奴だなという印象を持った女の子だった。
 ルックスは平凡と言えば聞こえは悪いかもしれないが、最高に美人というわけではない。割と地味な印象だったが、派手な者たちよりも好印象だったのは間違いない。
 県内でも上位に入る進学校に、俺は頑張って合格していた。頑張った、と言っても、別段そこに行きたいという理由があったわけではなかった。ただ単に自宅から一番近いから、だった。毎日片道電車で一時間だとか、電車代だとか、面倒だったというのが大きい。
 中学の時親しかったクラスメイトたちも何人か俺と同じ高校を受けたが軒並み落ちてしまっていたこともあって、中学の知り合いが妙に懐かしく感じたのを覚えている。
「ねぇ、携帯電話持ってる?」
「ん? ああ、あるよ」
 別れ際、彼女が携帯電話のアドレスを交換しようと言ってきた。
 俺は中学の時、携帯電話を持っていなかった。さほど必要性を感じなかったし、学校内への持ち込みも禁止だったから、持っていても仕方がない。それに、携帯電話は当時普及し始めて間もない頃で、持っているクラスメイトはいたがごく一部だった。機能も少なく、料金の定額制度なんてのもまだなかった。
 高校に入ると同時に、携帯電話を持つようになった。親に持たされた、というべきか。中学の時よりも行動範囲が広がるだろうから、緊急時にも連絡がつくように、と。
 帰宅して携帯電話を見ると、いつの間にかメールが届いていた。さきほどアドレスを交換して別れた彼女からだ。
 俺は目を丸くした。
 メールには、中学の時から好きだった、付き合って欲しい、という内容の文章が書かれていた。
『うん、今度飯でも食いに行こう』
 そう返した。
 好きだと言われたのは素直に嬉しかった。高校に入って一ヵ月経ってはいたが、やはり話していて気が合うと感じられたから、彼女なら悪くないとも思った。
 その返事を出してから、俺は彼女とちょくちょく会うようになった。
 高校が違う、しかも一方は進学校であったために平日は中々時間が合わなかった。だから、平日はメールで、会う時は大抵週末の休日だった。
 試験前には近所の図書館で一緒に試験勉強もした。
 夏休みを前にして、祭りに行こう、花火を見よう、プールに行こうと話し合っていた。
 しかし、結局それらは話だけだった。
 彼女の高校が夏休みになっても、一週間以上ものあいだ、俺の高校は休みにならなかった。いや、年間の行事予定では夏休みになっていた。ただ、補習という名目で登校しなければならなかったのだ。
 進学校の勉強は放っておけば直ぐについて行けなくなる。小学校中学校と成績は良かったが、俺はどちらかと言えば不真面目な人間に近い。問題を起こすという意味はない。単に、内心では勉強したくない、遊びたいと思っていただけだ。周りの高校が夏休みになっても登校しなければならないのは苦痛だったが、サボるという考えはなかった。
 だから、夏休みになっても彼女と会える時間はあまり増えなかった。彼女の方も、夏休みになって友達付き合いでの用事もあっただろう。
 そんな中、花火を見に行こうと二人で約束した日は、雨が降った。花火は中止、二人で行くという予定も白紙になった。土砂降りの雨の中、二人で出掛けるという話にはならなかった。
 それから直ぐにお盆の期間になってしまい、忙しくなってまた中々会えなかった。
 お盆明けの八月半ばには終わってしまう短い夏休みのせいで、大したデートは出来ずじまいだった。結局、まともに休みと言えたのは一週間ほどではなかったか。その癖宿題だけは多かった記憶がある。
 また、月に何度か週末に会う関係が続いた。クリスマスはお互いに家で予定があったため何もなく、年明けの初詣も日程が合わなかった。ただ、三月の彼女の誕生日には、当日ではなく数日ズレはしたものの、デートをして安物ではあるがアクセサリをプレゼントできた。
 春休みもまた、俺の方が忙しくてほとんど都合が合わなかった。
 進学校だったせいか、二年生になって月一回、週末に模試が入るようになった。週末の休みしか彼女と直接会う機会がない俺にとって、その模試には休日を奪われること以上の怒りを抱いたものだった。
 それから数か月が経ち、夏休みも目前に迫ったある日、俺は自宅でレンタルしてきた映画を見ていた。俺は休日だったが、彼女の方は既に予定が入っていると以前より聞いていた。真夏の暑い中、外へ出かける気力はなかった。
 映画を見ていると、携帯電話が震えた。
 設定した曲から、彼女からの着信、それもメールだとすぐに判別できた。
『ごめん、もう私に関わらないで』
 目を疑った。
 何でそんなメールを送ってくるのか、わけが分からない。直前までのメールの遣り取りを見返してみても、この結論に至るような雰囲気はまったくない。愛想を尽かしたとか、意見が合わなくなってきたとか、そんなことを向こうが思っていたとは、少なくともメールの文面からは読み取れなかった。
「何で……?」
 と、返したかった。
 けれど、そう返したところで素直に答えは教えてくれないだろう。送られてきたその一文から、直感的にそう思っていた。きっと、はぐらかされる。理由を言うつもりはないんだと、メールの文面から読み取った。
『君が、そう言うのなら』
 あの時の俺は、結局、そう返したんだった。
 当然、色んなことを考えた。
 新しく好きな人ができたから、本当に好きなのか試したくて、付き合ったことで何か辛い目にあった、送信相手を間違えた、何か事件に巻き込まれた。些細なことから、非現実的なことまで、当時考え得るあらゆる状況を想定した。
 それでも、簡潔な一文だけのメールでは、理由を推察することすらできない。反論や、食い付くことに期待していたのかもしれないなどとも考えた。
 受け入れる結論をしたのは、失望が一番大きかったかもしれない。
 突然別れのメールを送ってきた相手に対する失望と、そうさせてしまったかもしれない自分に対する失望が。理由さえ伝える気がない相手にも、咄嗟に食い付いて聞き出そうとしない自分にも、失望していた。
 どうして、と聞くこともできた。俺に何か落ち度があったかと聞くこともできたはずだ。
 けれど、打ち明けるのが辛いなら、イヤなら、強引に聞き出したくもなかった。言いたくないなら言わなくていい。
 そういう結論を出していた。
 同時に、もしかしたら俺は彼女を本気で好きではなかったのかもしれない、とも思えてしまった。
 彼女に告白されるまで、恋愛経験はなかった。だから、好きの度合いが恋愛のそれだったかどうか、自信がなくなってしまったのも事実だ。彼女とは話していて楽しかったし、一緒にいてつまらないと思うこともなかった。友達と恋人の区別がなかったと言われても反論できない。
 ただ、その一文だけの遣り取りを最後に、彼女との付き合いは終わりを告げた。
 色々考えても、答えは出なかった。それこそ、たとえ無茶苦茶で誰かに言えば笑われてしまうような理由でも、思い付く限りのものを考えたのだ。
 けれど、何があったにせよ、俺は彼女にとって、別れる決断を下すに至る程度の存在だったのだ。その考えに至り、食い付く気力を失った。

 ――あの時のメールに、似てるんだ。

 あの時も、酷くイラついた気がする。見ていた映画に集中できなくなった。
「何考えてんだ、こいつ……」
 閉じていた携帯電話を開く。
 返事を出さない、という選択肢は消えていた。納得できないことは多々あるが、今教えてくれるというなら聞き出してやりたいとさえ思っていた。
「……馬鹿か、期待すんな」
 返信メールを作成するボタンを押す。
 何て返してやろうか。

 ――そういえば。

 彼女との交信が耐えてから一年が経ち、季節は秋だった。
 自分の部屋でベッドに寝転んでマンガを読んでいると、突然、連絡が途絶えていた彼女からメールが届いた。あまりいじっていないせいで電話帳から消していなかったから、彼女からだと直ぐに分かった。
『あの時はごめんなさい。また友達として付き合ってくれますか?』
 俺はただ、唖然としていた。
 もう来ないだろうと思っていた相手からのメールであったこともそうだが、そこに書かれていた内容に、どんな感想を抱けばいいのか分からなかった。
 友達として、と書かれていたことから、恋人としてのよりを戻すつもりはないことが分かった。つまるところ、話し相手としてのレベルまで戻して欲しい、ということか。
 ただ、何より驚いたのは、俺にメールを送ってきたということだった。それも、何の説明もなしに。
 謝罪の言葉は書かれていた。だが、なぜあの時、俺を振ったのか、その理由は書かれていなかった。
『話し相手ぐらいにはなるよ』
 断る理由はなかった。
 振った相手に今更、と思う反面、またメールをくれたことを嬉しく思っている自分もいた。
 嫌いになったからという理由ではなかったんだと思えたからだろうか。ただ、期待感が無かったとは言えない。
 理由が分かるかもしれない期待と、もしかしたらまた付き合えるかもしれないという期待、恐らく、どちらもあった。
 何故、俺を振ったのか。遠回しに問い質す内容のメールも送ったが、謝る言葉ばかりで理由を教えてはくれなかった。推測の材料になるような情報も一切書いてくれなかったのだ。
 あの時、食い付いても無駄だと感じた直感は正しかったんだと思い、失望の色が濃くなった。当然、俺がそう思ったことはメールで送りはしなかったが。
 それから、また彼女とはメールをするようになった。
 遣り取りの内容に以前のような雰囲気はなくなっていた。あの本が面白かった、あれが欲しい、どこに行ってみたい、次に会える時にはどうしようか。そんなかつての遣り取りは微塵もなかった。
 彼女が一方的に送ってくる相談のメールに、俺が答えるというのがほとんどだった。内容も、女子同士の交友関係でのちょっとした行き違いについてだったり、何らかの状況に対する第三者としての意見であったり、本当にただの話し相手という印象だった。
 どうしてまた俺に相談相手になってくれとメールしてきたのか聞いたこともあった。
『君ぐらいしか、こんな話できる人いないから』
 苦笑を表現する絵文字付きで、そんな答えが返ってきた。
 中学の頃から、元々そこまで活発な人物ではなかったから、交友関係はあまり広くなかったようだ。悪い言い方をすれば、少しばかり敵を作り易いタイプだったとも言える。
 毎日のように顔を合わせる相手には相談し辛い内容だったかもしれない。男で、しかも高校が違うから意識しなければ直接会うこともなく、一度付き合っていたからある程度価値観を知っている俺が、彼女にとっては相談相手として最も適していたのかもしれない。
 都合が良過ぎると思わないでもなかった。
 ただ、彼女に応じていればいつか、理由を教えてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。
 大学受験を控えた高校三年目の秋だったから、必然的にそのこともメールの話題になった。俺は理工系大学に進むつもりでいたが、彼女は法学部に進むつもりらしかった。
『二人とも受かったら、折角だし久しぶりに会わないか?』
 年が明けて直ぐ、そんなメールを送っていた。
 俺も、彼女も、進学先は地元の大学ではなかった。高校を卒業して、大学生活が始まれば恐らくもう直接会う機会はない。メールではなく、直接会えれば何か分かるかもしれないと思っていたのも事実だ。もっとも、メールを出した時はただの思い付きでしかなかった。
『うん、受かったらメールするね』
 イヤだと言われる可能性もあったから、その返事を見て少し安心していた。
 それから暫くメールでの遣り取りはなかった。お互いに、結果が出た時がメールをするタイミングだと思っていたからだろう。
 試験結果が出たのは俺の方が先だった。それなりに頑張ったこともあって、無事合格していた。
 受かっていた旨をメールで彼女に伝えた。受かるか心配になってきた、という返事を見て、大丈夫だ落ち付いて自信を持て、と返した。
『うん、そうだね、何とかなるよね、頑張るよ!』
 そのメールが、彼女から送られてきた最後のメールだった。

 ――あの時も返事に迷ったんだった。

 結局、彼女から合格を伝えるメールは来なかった。結果発表の日付はあらかじめ聞いていたから、その日のうちにメールが来なければアウトだ。
 メールが来なかった翌日、連絡するか否かで俺は迷った。
 突然相談相手になってくれとメールが来て、途切れていた関係は以前とは少し違う形で繋がっていた。少なくとも、他の誰にも相談できないだろうと思われる話をされた俺はそれなりに信頼されていたと思う。
 大学に受かっていればメールが来る。来ない時は、落ちた時だ。もちろん、落ちる可能性も考えていた。彼女もそうだが、自分が落ちた場合も。
 もっとも、俺が落ちて彼女が受かった場合なら、会おうとメールを出すつもりでいた。
 結果は逆だったわけだが、これは正直気まずかった。落ちたのが俺だったら、まだ良かった。要は、俺の気持ちの問題だから。
 だが、彼女が落ちて俺が受かっていたあの時、何てメールを送ればいいのか分からなかった。何を言って慰めても、俺は受かっているのだ。落ちてしまった彼女に、受かっている俺の言葉を受け止めるだけの余裕があるのかどうか、図りかねた。
 付き合っていた頃は電話もちょくちょくしていたが、話し相手に関係が変わってからは一度も電話したことはなかった。振った男の声を聞くのが怖かったのか、彼女から電話がかかってきたことはなく、俺は電話をかける気はまったくなくなっていた。俺の方から話を切り出すメールもなく、彼女からのメールにただ応えていただけだったから。
 受かった俺が何を言っても、彼女には嫌味にしか聞こえないかもしれない。彼女からメールが来なかったのが、何より決定的だった。なら、そっとしておいた方がいいかもしれない。
 そう思ったから、俺の方からはメールを出さなかった。話し相手として返事をしていたように。
 それから数週間が経ち三月が終わる頃、俺は携帯電話を買い換えることになった。高校にいた三年間使っていた携帯電話も、もう古い機種になっていた。だから、というのもあるが色々とガタが来ていたから、この機会に新調しようというのが本音でもあった。
 携帯電話を買い換えると今まで送受信してきたメールのデータは消えてしまう。電話帳は引き継ぎができるが、それ以外の待ち受けや着信メロディなどのデータはまた入れ直さなければならない。残そうと思えばメールデータも残せないこともないが、面倒なのは間違いない。
 携帯電話を買い換える直前、壁紙や着信メロディ、メールデータなどを一通り確認した。
 その時に、ふと彼女のことを思い出した。
 あれからどうなったのか、どうしたのか、少し聞きたくなった。あれから少し時間も経っているし、大丈夫だろうと踏んで、メールを送った。当然、言葉は慎重に選んだ。結局、どうなったのか、とりあえずそれだけでも聞ければ良かった。
 メールを送って、直ぐに着信があった。
 少し早過ぎると思ったが、返ってきたのはエラーメールだった。宛先が間違っているから送信に失敗した、という内容が英語で書かれたメールだ。
 驚いた、というのとは少し違う気がした。
 あぁ、やっぱり。
 まぁ、そうだよな。
 大学に落ちて、すでに受かっていた俺からメールが来たらどうしようとか、惨めな気持ちになって、受かった俺からの言葉なんてどんなものでも聞きたくないと思ったら。
 簡単なことだ。
 アドレスを変えればいい。そうすれば、変更後のアドレスを知らない俺はメールを送れない。彼女からメールが来ない限り、俺は彼女にメールができない。
 電話をかけてやろうかとも思った。メールアドレスは変更できても、携帯電話の番号はそう簡単には変えられない。
 だが、メールアドレスを変更しているぐらいだ。きっと、着信拒否にも設定されている。そこまで頭の回らない奴じゃない。
 結局、彼女が落ちたと分かった日、メールを出すかどうかで悩んだのは無駄だった。それだけははっきりした。
 それから今に至るまで、彼女からメールが来たことはなかった。もう、ほとんど忘れていた。
 携帯電話の電話帳を見直せば、彼女の電話番号と話し相手だった頃の古いアドレスは残ったままだった。携帯電話を買い換えてから、新しく登録することはあっても電話帳の整理はしてなかった。当然と言えば当然だ。
 返信のキーを押す。
『久しぶり』
 件名にそう入力した。
『送信ミスだろ? とっくに俺のアドレスなんて消してると思ってたよ』
 送信を押す。
 彼女からメールが来て何より驚いたのは、まだ俺のアドレスを持っていた、ということだった。確かに、俺は携帯電話を買ってから一度もアドレスを変えたことがない。だから届いたのだろうが、彼女が俺のアドレスを消さずに残していたことに驚いた。
 電話をかけてやろうかとも思ったが、もしあれ以来着信拒否になっていたらそのままだろうと思ってやめた。
 それから二日後、返事が届いた。一人暮らしのマンションに帰宅して携帯電話を見ると、メールが届いていた。
『あなたにはたくさん謝らなきゃいけないね……。色々と迷惑をかけたから』
 無言でメールを読んでいく。
『あれから色々あって、県外の大学に入って婚約もした。県内にはもう戻らないと思う。もう二度と会うことはないと思う。本当にごめんなさい』
「……またか」
 携帯電話を閉じて、ベッドの上に放り投げた。
 着ていたコートをハンガーにかけて、持っていたバッグを部屋の隅に置く。手洗いとうがいを済ませ、冷蔵庫から飲みかけの紅茶のペットボトルを掴んでベッドに腰を下ろす。
 一口飲んでから、携帯電話を掴んだ。
 メールをもう一度見直す。
 またか。何を思うより、そんな言葉が出ていた。
 結局、こいつはまた何も語らずに終わらせるつもりだ。謝らなければならないと言って、迷惑をかけたと言って、それだけで済ませるつもりだ。色々あって、で済ませているそこが俺は知りたいのに、そこを話そうと言う気が毛頭ない。
 俺の思い込みだと言われればそれまでだが、どうせ聞いたところで答えは返ってこない。それは彼女の話し相手となった時に実感している。
「婚約だぁ? ……んなこと知るか、ふざけんな!」
 携帯電話を投げ捨てそうになった時、着信メロディが鳴った。
「……おう」
「あれ? 機嫌悪い?」
 名前も見ずに電話に出たが、着信メロディから相手は分かっていた。今現在付き合っている『彼女』からだ。
 自分でも驚くほど無愛想な声が出ていた。その俺の声に、相手は驚いたようだった。
「……まぁ、ちょっとな」
 溜め息をついて、言った。少しでも不機嫌さが抜けるように。
「で、どうしたんだ?」
 とりあえず苛立ちを押し込めて、俺は用件を聞いた。
「ああ、次の日曜、空いたから会えるよって話」
「お、バイト変わってもらえたん?」
 確か、以前確認し合った時はその日、彼女の方はアルバイトが入っていたはずだ。
「いやね、変わってくれって頼まれて日曜と交換できたの」
 俺も彼女もアルバイトをしているため、会える日の調整などで電話やメールをよくしている。丁度、その電話だった。
「おー、そりゃ良い報せかな」
「まぁ、それはいいとして、珍しく機嫌悪かったじゃない。どうしたの?」
「んー……」
 話すかどうか、少し迷った。
 こんな話をしたってつまらないだろう。メールの返事を見る限り、恐らくもう俺からのメールに返信はこない。あのメールを最後にするつもりで送ってきた気がする。
「話してみなよ、少しはすっきりするって」
 にこやかな笑顔が脳裏に思い浮かぶほど明るい声で促してくる。
「それとも、私ってのはその程度なのかな?」
 言葉とは裏腹に、優しい声だった。責めているのではない、優しい声音の挑発だ。
「……分かった、言うよ」
 苦笑する。根負けしたと言うのは少し大袈裟か。
「高校の時付き合ってた元カノからメールがきたんだよ」
 高校時代に付き合っていた元カノから、アドレス変更を伝えるメールが俺にも来たこと。その元カノには突然、理由も告げられずに振られていること。高校卒業前に話し相手として関係が再構築されたこと。元カノが大学に落ちて、アドレスも変えられてそれ以来連絡が途絶していたこと。
 俺はかいつまんで事の経緯を説明した。
「で、さっき謝罪のメールが届いててさ。大学で色々あって婚約したとか書かれてたけど、あの時の理由とか何があったとか、やっぱり説明はなかったんだよ」
 彼女は俺の話が一通り終わるまで黙って聞いていた。
「そのメール見た直後だったから、イラついてたんだ」
「ふーん、なるほどねぇ……」
 一応、俺に元カノがいたことは伝えてある。高校時代に付き合っていてすぐ振られて終わった、ぐらいの情報しか教えていなかったから、詳しく話すのは今回が初めてだが。
「……どう思う?」
 同じ女としては、どう思うんだろう。そこは純粋に興味がある。もしかしたら罵倒されるかもしれないが。
「身勝手な人ねぇ」
 さらっと、そんな返事が返ってきた。
 嫌悪するでもなく、侮蔑するでもなく、ましてや面白そうに笑うこともなく、彼女はそう言った。
 なんとなく、拍子抜けした。もっと何か言われるかもしれないと思っていたから。もしかしたら俺には分からない理屈でも述べられて、俺の方が否定されるかもしれないと思っていた。自分に非があるとは思っていないが、それは俺が自覚している中での話だ。もしかしたら俺に非があったのかもしれない。そこを言われたら、自覚のなかった、察することのできなかった俺にはどうしようもないことだから。
「一方的過ぎるとは思うわね。言わなきゃちゃんと伝わらないのに……」
 電話の向こうから、彼女の苦笑交じりの声が聞こえた。
 言葉にしなくても分かることは確かにある。けれど、それは相手と直接向き合えていたらの話だ。メールで送られてきた言葉だけでは、あんな短文では相手の事情を推し測るなんてできやしない。表情や口調、仕草なんて見えるわけがない。
 伝わる情報は、単純にその言葉の意味するところしかない。
「ま、受け取る方も受け取る方だけど」
 ちょっとだけ、彼女は意地悪そうな声で囁いた。
「だよなぁ……」
 ただからかっているだけだと分かってはいても、いつものようにあしらう返事は出てこない。
「……その人に、未練ある?」
 彼女の声のトーンが少しだけ低くなって、真面目な質問だと分かった。
 そりゃそうだ。昔の女から、偶然かもしれないとは言えメールがきて、しかもそれでイラついてたなんて話をすればそう思って当然だろう。
「いや、未練じゃないよ。結局、何があったのか知りたいだけ」
 今度はこっちの声が苦笑交じりになった。
 未練はない。それだけははっきりと言える。今、あいつのことが好きかどうかと問われれば返事はノーだ。嫌いになったかと言われればそれも違う。
「嫌いにはなれなかったけど、もう好きじゃあなくなってる。あいつのことにもうあまり関心はないんだ」
 どうでも良くなった。
 それが正直なところだと思う。
 結局、あいつのことを嫌いにはなれなかった。
 好意の反対は嫌悪ではなく、無関心だと誰かが言っていた。だとしたら、今の俺のあいつへの感情は好意の反対に位置しているのだろう。
 ただ、何があったのかだけは知りたいのだ。自分が何故振られたのか、何か理由はあったはずなのに、それが分からないのが気持ち悪い。腑に落ちない。
「……そっか」
 少しだけ、優しい声が返ってくる。
「……疑わないのな」
「だって、あなた、自分には正直だもの」
 何だかこそばゆくなって、そんな言葉で無駄に探りを入れてみたが、返ってきたのは彼女の笑い声だった。
「だから振られたのかもな」
 苦し紛れの誤魔化しだが、少し本音でもあった。
 結局、あいつの方に原因がなかったなら、俺が原因と言うしかない。あいつが何も教えてくれなかったから、真実は分からないが。
「若かったのよ」
 どっちが、とは言わなかった。俺か、あいつか、あるいは両方か。
「おいおい、まだ若いだろ。たかだか数年前を若かったとか、まだ言いたくねーよ」
 言って、笑い合う。
 ずいぶんと落ち着いた。気持ちに余裕が出てきたのが分かる。
「……ありがとう、だいぶすっきりしたよ」
 息を吐いて、俺は言った。
 やはり、一人で溜め込んでしまうとフラストレーションは処理に困る。行き場のない苛立ちを自分の中で消化するのに時間がかかってしまう。誰かに聞いてもらうだけでもずいぶんとすっきりする。
 人に話すだけで、思ったよりも冷静になれる。
「ね、言ったでしょ?」
 穏やかな、それでいて少し自慢げな声に、俺は話した相手が彼女で良かったと思った。
「……なぁ、今から会うってのは無理か?」
 ふと、そんなことを口にしていた。
「なぁに? 慰めて欲しいの?」
 また意地悪そうに笑っている声が返ってきた。
「バカ、ちげーよ」
 苦笑しつつ否定する。慰めてもらいたいと思うほどへこんでいるわけじゃない。
「いやさ、こいつのアドレス消すのに立ち会ってもらえんかなと」
 一人だと、その寸前で迷ってしまうかもしれない。未練はないが、事情は聞きたい。だから残しておこうと思ってしまうかもしれない。そんな迷いを振り切るために、彼女に傍で監視していてもらいたいと思っていた。
「アホ、そこまで甘えんな」
 返ってきたのは、明るい笑い声だった。
「ま、だよな」
 返事は分かっていたから、俺も笑いながら答えた。
「じゃあ、私この後用事あるからそろそろ切るね」
「おう、またな」
「ん、日曜ね」
 彼女の返事を聞いてから、電話を切る。
 もしかしたら、俺はあいつのことを話した時、彼女に怒って欲しかったのかもしれない。もしかしたら、彼女ならあいつが俺を振った理由が分かるかもしれない。そうしたら、何でそんなことも分からないのかと罵倒してきたかもしれない。そうなれば、少なくともある程度の理由が分かるかもしれない。そんな深読みが無かったとは言えない。
 ただ、彼女は俺の話を聞いてくれただけだ。多少の意見は言っても、その過去についてとやかく言ってはいない。
 甘えるな、と笑いながら彼女が言ったのだって、その返事がくると知って聞いたことを分かっているからだ。少しばかりの後押しが欲しくての言葉だと、分かっていたのだ。
 待ち受け画面をしばらく見つめてから、俺はメールフォルダを開いた。あいつのメールをもう一度読み直す。
 今度は、あまり苛立たなかった。
『そうか。婚約おめでとう。お幸せに』
 たったそれだけ。心にもないことを無感情に書いて、返信した。
 それから、あいつとのやりとりをすべて削除した。アドレス変更を伝えるメール、俺の返事、それに対するメールと、さっき送ったばかりのメールの、計四通だけではあったが。
 メールを完全に消去して、電話帳を開いた。
 期待したって無駄だった。
 俺は、あいつの名前で登録されたデータを選び、サブメニューから削除にカーソルを合わせる。
「……じゃあな」
 僅かに目を細めて、俺はそれだけ言うと、決定キーを押した。
 データが消える。ただ、それだけだ。俺の記憶から、あいつが消えることはないだろう。
 きっと、何があったのか知りたいという思いは、あいつが記憶に残る限り、存在し続けるだろう。それでも、過去はもう取り戻せない。
 結局、俺はあいつに何を期待していたのだろう。何があったのか聞き出せたところで、もうどうすることもできないのに。
 どうすることもできないのに、俺は何故知りたかったのだろう。
 知らないままの方が幸せかもしれないとも思うが、何かがあったことを知ってしまったのだから、知らないままでは気持ちが悪い。それでも、恐らく俺がその理由を知ることができるチャンスはもう無いに等しい。
 徹底的に調べようとすれば、知ることはできたかもしれない。けれど、あの時、俺はそうしようとは思わなかった。知るのが怖かったというのは、確かにある。あいつに無断で探ることに罪悪感を抱きそうだったというのもある。だから、あいつの口から、あいつの言葉で聞きたかった。
 けれど、あいつはいつもそれを俺に言おうとはしなかった。俺にだから言いたくなかったのかもしれないと考えるのは自惚れか。
 今、調べようと思っても手掛かりはない。当時、彼女と仲が良かっただろう友達の連絡先を俺は知らないし、事情を知っていそうな人の心当たりもない。そもそも、高校が違ったということもあってか、お互いの友人たちとの接触というのは皆無だったから。
「……腹、減ったな」
 なんだかんだで時間は夕飯時になっていた。
 一人暮らしなせいで大抵自炊しているが、今日は夕食を作ろうという気にはなれなかった。
 携帯電話を手に取って、着信履歴から友人の番号へ電話をかける。先日、夕食を共にとっていた友人の一人に。
「あ、俺だ俺」
「オレオレ詐欺ならお断りだ!」
「ちょ、相手分かってんだろお前」
 友人の切り返しに、俺は思わず吹き出した。
 携帯電話で、しかも登録されているはずの相手だ。電話に出る前に誰からかかってきたのかは確認できる。
「で、どした?」
 俺の反応に満足したのか、相手はすぐに本題を要求してきた。
「いや、飯作るのめんどくなったから、またどっか食いに行かね?」
「んー」
「ダメか?」
 もしかしたら、相手はもう夕食の準備に手を付けていたりするかもしれない。そうなったら、最悪一人で外食だが、それはそれで寂しい。
 気を紛らわす意味でも、誰かと行きたい気分だった。
「……俺、今日はカレー食いたい気分なんだ」
 真剣な声で何を言うかと思えば、そんな言葉が返ってきた。
「……じゃあカレーでいいから」
 苦笑しながら、俺は答えた。
 俺の方で特にリクエストはなかったから、それで問題ない。
「んじゃ、あの二人も誘ってみるか」
「そうだな、メール送っとくよ」
 良く行動を共にするメンバーである残りの二人にも聞いてみることにした。気を紛らわすなら皆いた方が俺としても好都合だ。
「おっけ、じゃあちょっと出かける準備するわ」
 その言葉を聞いてから電話を切って、俺は二人の友人宛にメールを送った。
 返事はすぐに届いた。二人ともオーケーだという返事を見て、三人宛に打ち合わせのメールを送る。時間、場所などを打ち合わせて、スムーズに集まれるように。
 メールを送ってから、俺はベッドに下ろしていた腰を上げた。
 俺も出かける準備をしなければ。
 コートに腕を通し、財布を持って、携帯電話をポケットへと突っ込む。
 結局、何一つ分からなかった。それは、俺があいつへの興味を失ったということに他ならない。それでも知りたいと思うのは、やはりあいつを嫌いにはなれなかったからなのだろう。そりが合わなくなって喧嘩別れしたわけでもない。ただ、好き、という感情はもうほとんど残っていない。
 あいつが俺を捨てたことに変わりはない。それに関して何も釈明しない。
 たとえ、いつかあいつがよりを戻そうと言ってきても、応じはしないだろう。少なくとも、説明がない限りは。
 今更、しつこく追い縋ろうとも思えない。
 あいつにとって、俺はその程度の存在だったのだ。いくらあいつが悩んで決めたことだとしても、言ってくれなければ俺には伝わらない。何があったのかを教えてもらえなかった俺にとって、あいつが悩んだかどうか考えたところで無駄なことだ。あんな短いメールでは、あいつの気持ちを察することなんてできやしない。
 あの頃、本気で調べたり聞き出そうとしたりしなかったのも、きっと今の結論と同じだったからかもしれない。
 あいつも、その程度の存在なんだ、と。
 だから一気に興味が失せて、知りたいと思っても俺から動くのが億劫になってしまったのだろうと思う。あいつに言わせることで、贖罪をさせたかったのかもしれない。
 あいつへの思いは色褪せていった。それでも褪せた色のまま俺の中に残っていた。
 ふっ切ることができるかどうかは分からない。けれど、あいつがよこした最後のメールを見る限り、もう二度とメールでさえ会話することはないだろう。なら、これであいつとのことはすべて終わりだ。
 あの頃は、ずっとこのままの関係でいられると思っていたかもしれない。一方的に振られて、話し相手になって、また途絶して、今頃になって突然メールが届いて。そんなことになるなんて、予想だにしなかったことだ。
「さっむ……」
 外へ出た瞬間、冷たい夜風に思わず身震いしながら呟いていた。日が沈んで、街灯の明かりはあるものの辺りは暗い。気温は恐らくマイナスだろう。雪はまだだが、もう本格的に冬だ。これくらいの寒さは当然だろう。
 吐く息が白い。
 俺がどれだけ願ったところで、時の歩みは止まらない。俺もあいつも、すでに別々の道を歩いている。俺の道から手の届く範囲を、あいつは歩いていない。
 分かっていたことだ。別れたのなら、あいつはあいつの道を進むだけだと。
 俺は男で、こんなみみっちい性格だから、簡単に過去を上書きして綺麗さっぱりふっ切ることはできない。もしかしたら、一生ふっ切れずに終わるかもしれない。あいつとの過去は、褪せて、枯れたまま俺の中に残り続けるだろう。いくら新しい思い出に埋もれても、消えはしないだろう。
 ただ、はっきり言えることはこれ以上の更新はないだろうということだ。あいつとの過去が消えなくとも、俺は俺の道を進み続ける。その先で、良いことでも嫌なことでも、色んなものに巡り合うはずだ。
 これから抱える思い出が増えて行けば、あいつとのこともいつか笑い話のように捉えることができるはずだ。
 今の俺には、今の彼女だっているんだから。
 こんな終わり方でも、どれだけ納得がいかなくても、もうどうにもならない。
 だから、俺はせめてあいつといた頃よりも良い未来へ向かわなければならない。いや、どの道あいつとは上手く行かなかったのかもしれない。
 だとしたら、これから進む先は必然的にあいつといた頃よりも良いものになるはずだ。
「こりゃカレーで正解だな……」
 冷えて白くなった息が夜の闇に溶けるように消えていくのを目で追って、小さく笑う。
 寒空の下、俺は歩き出した。
 後書き

 以前書いた、「フェイド・メール」のリメイクと、ついでに一人称視点の練習もかねて書いた作品です。
 書いている途中で「フェイド・メール」とは違う終わり方を目指した結果、なんだか中途半端になってしまったような……?
 路線変更しなかった場合として、「フェージング・アウト」も掲載。途中まで全く同じ展開です。
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