第二章
 第四話「チューしますよ」



 そっ、と。目を閉じた二人が、互いの唇を優しく重ね合わせる。
 聖哉はこの瞬間を、未だに緊張しながら迎えているのだ。もう何度も交わしたはずの口付けも、まだまだ慣れる事が出来なかった。
 口と口を触れさせるだけのキスを数秒だけ。また、そっ、と顔を離すと、美玖の睫毛が小さく震えているのが見えた。これもまたお決まりの光景で、彼女もまだまだ緊張しているのだ、と言うのを伝えてくれる。
 聖哉は少しだけ笑った。でもその頬は燃えるように熱く、カチカチに強張った筋肉は、その力みを抜いてはくれないのだ。
 美玖が一瞬だけ目を伏せる。その後で上目遣いに、聖哉を覗き見るような視線を投げてきて、二人して物凄い照れた空気を醸し出した。
「あ、はは……っ!」
 と聖哉が笑うと、
「う、ふふふっ」
 と美玖もはにかんだ。何だか小っ恥ずかしい光景である。夕暮れ時の小さな公園、人気のないこの場所だからこそ、そんな甘ったるい二人だけの世界を形成していられるのだ。
 でもやっぱり小っ恥ずかしい。聖哉も美玖も、お互いの顔が熟れたトマトのように真っ赤なことを確認していた。
(これはトマトではない……チェリー・トマトだ!)
 などとボケる余裕は、聖哉にはないのである。
 二人はしばらく、潤んだ瞳を見詰め合わせながら、この甘ったるく他人は入っていけないような空間に身を委ねるのであった。
 最初のキスは一ヶ月と半くらい前。三回目のデートで初キスを、などと笑っていたのが嘘のように、最初のデートでチューしてしまったのである。
 耐え切れなかった、とでも言うべきか。帰り道に立ち寄った、同じ公園で、別れを惜しんで衝動的に。聖哉は美玖の頬に手を沿え、真っ直ぐに彼女の瞳を見据 えて、好きだよ、と囁いた。普段ならクサくて恥ずかしくて、絶対に言わないことだが、その時はなんだか不思議な魔力に吸い寄せられたとでもいうべきか、美 玖の魅力に頭の中がほだされて、羞恥心を考えることがなかったのである。
 その時の感触は今でも覚えている。指に触れる、瑞々しく柔らかい美玖の肌。彼女の瞳が輝きを増し、スッ、と閉じられた瞼に、聖哉は導かれるように近づいていったのだ。
 睫毛の震えに目を奪われて、そこがそんなにも色気を含んでいることに、始めて気付かされたのである。
 あとは、プニッ、と唇が唇に触れて、美玖の甘い体臭を間近で吸い込み、頭の中がショートしたかのような感覚に襲われた。
 キスってこんなに気持ちいいんだ、なんて感動した物である。
 その後は二人して、顔から火が出る、という表現が適切な物だ、と言うことを始めて確認し合ったのであるが。
 兎にも角にもそれ以来、彼らはデートの締め括りに、必ずこの公園でキスするようになった。もうお決まりの儀式のようなものだ。
 うふふ、あはは、とひとしきり笑い合った後で、聖哉は、コツン、と額を美玖の額と軽く付き合わせた。
 熱い。
「いい加減、慣れてもいい頃だと、思うんだけどなぁ」
 と苦笑する。
「そう……ですね。でも、この不思議な感覚に慣れちゃうのは、ちょっと寂しいです」
「へっ?」
 間近で、焦点も合わないような距離で目を合わせる二人。美玖の意外な言葉に少し眼を広げると、彼女はゆっくりと微笑みながら、
「この瞬間って、すごく、幸せなんです」
 そう言ってくれた。
「…………!」
 可愛い。
 ホントに可愛い。
 いやマジで可愛い。
 聖哉は、そっと、彼女を抱き締めた。細い腰、ひ弱な肩、甘い匂い、柔らかで温かい肌。それらを全て、全身で感じたかったのだ。
「あっ……!」
 少しだけ、驚いたような声を上げた美玖も、すぐに力を抜いて、聖哉の頬に頬を擦り付けてくる。
「むふふーっ」
「えへへーっ」
 夕暮れの赤い世界の中、二人のシルエットはしばらく、寄り添ったまま重なっていた。
 なんつかもう、勝手にやっとれ、って感じ。←投げやり



 聖哉くん達がそんな甘い一時を過ごした翌日。
 小川南高校サッカー部の一同が、真夏の過酷な日差しの中で、校庭の砂に塗れながら練習をしているのである。
 だがその中に、三年生の姿は無い。夏のインターハイ、県予選で惜敗した彼らは、冬の全国を目指すことなく、全員が引退してしまったのである。何故なら小 川南は低レベルの進学校。生徒の多くが大学、短大、専門学校などへの受験を控えているのである。志望校の絞り込みや見学会・説明会への参加、夏期講習に先 行試験対策の小論文や面接の練習など、これからが忙しいのであった。特に有望な選手がいたわけでも、大会で過去に実績を残したわけでもないオガ南3年生 は、プロクラブの誘いを受けるなんて事を誰も経験せず、彼らの目には何も決まっていない進路を見据えるより他無かったのだ。だからとても、サッカーに打ち 込める環境ではなかったのである。
 そう言う訳で、新生オガ南サッカー部は、1・2年生だけでのチーム構築を開始したのである。当面の目標は、休み明けの県内大会である。秋口にあるこの大 会は、少なくない3年生引退組みの学校が新布陣でチームを試すことから、さしずめプレ・シーズン・カップ戦の様な役割を果たしているのだ。
 汗を流し流し、炎天下の屋外スポーツに勤しむ、健気な少年たち。その中で最も目立つのはやはり、整った顔立ちで華麗にボールを操る双子の兄弟であろう。 春輝と秋寛の老貴兄弟は、たった一ヶ月かそこらですぐにレギュラーの座を掴み、インターハイ予選から主力として活躍、県ベスト8という学校以来の快挙に大 きく貢献していた。まだ完全にチームに馴染んでいないせいもあるが、個人技で強引に打開していくプレーは常に独善的と非難されてしまうのだが、それでも チームに欠かせない人材なのは確かであった。
 ピピーッ、と甲高い笛の音。転がるボールをヒョイと拾い上げ、部員達が足を止める。汗だくの彼らを前に顧問の先生が苦笑しながら、全員に集まるように指示を出した。紅白戦の終了と、練習後のミーティングを知らせたのだ。
 ミーティングは簡単だった。練習で出た問題点の指摘と、その解消法の論議、それとこれからの予定を少々。各々が水を手に取りながら話を聞いて、質問等が なかったのでそれで終わりだ。春輝と秋寛はそれを聞くと、静かに木陰へと移動した。運動後のストレッチで身体を解し、疲労を少しでも解消する為である。
 まだまだ夏が居座る天気、低い空に浮かぶ分厚い積乱雲の下で、猛暑にヘトヘトの部員たちが部室へ戻る。それを横目に、二人は淡々と調子を整えた。
「秋寛、頼む」
「ああ。……張ってるなぁ、おい」
 秋寛は、春輝の足の強張りに少しだけ驚きながら、足首を曲げて筋を伸ばした。そのままグイッ、と足を持ち上げて、思いっきり股関節を解すのである。
 そして次は反対を、と春輝が足を上げようとしたところで、新部長の長山が顔を出した。
「おい、双子」
 と声をかけてきたので、何だろうと二人して長山へと視線を向ける。
 その、揃った動きにやや気圧されたように長山が目を張ったが、すぐに気を取り直したように目付きを厳しくした。どうやら余り良い話じゃないな、と二人は直感する。
「お前ら、試合に出る気なのか?」
 長山はそう言った。ぶっきらぼうな口調。その言葉の意味するところには、簡単に思い至った。
「出て欲しくないようだね」
 春輝が苦笑する。歓迎されてないとは思っていたが、今になって言われるとは思っていなかった。
 秋寛の顔にも苦笑いが浮かんでいる。だが二人には、それなりに事情が分かっているつもりなのだ。だから彼らは冷静でいられるのだろう。
「ああ、お前らが気にいらねぇ。いきなり入ってきて、ポジション奪ってそのままだ。都合よすぎるとは思わねぇか?」
「別に。俺らは先輩にスカウトされて、入部したんだ。ポジションだって実力だろ。悪びれる必要なんかない」
 秋寛が事も無げに放った言葉で、長山は眉間に皺を寄せて、すぐに眉根を下げる。冷静な男だ。
「確かに先輩たちがお前らをスカウトしたけどな、その人たちは引退だ。後のことは俺らが決める。問題は、一人ひとりの実力じゃなくて、チームとして機能するために必要なことだろう」
「……何が言いたいのかな」
「見当は付いてるだろ? お前たちはスタンドプレーに走りすぎるし、周囲との連携も確立できてない。機能性を考えた場合、二年間ずっと一緒にやってる奴らを入れた方が、より真価を発揮できる」
 その事は二人とも重々承知していることだが、改めて言われると辛いところではあった。攻守において連携ミスが多く、結果、二人で崩す場面が多い。それに周囲が不満を持っているのは理解していたのだ。
「つまり、何だよ。ハッキリ言え」
 秋寛が先を促すと、長山は一拍だけ置いて、深呼吸をした。
「スタメン落ちだよ。二人とも、チームに完全にフィットしてない。当分、練習試合や公式戦は、ベンチに座ってもらう」
 その言葉を額面どおりに受け取るなら、恐らく二人は納得しただろう。しかしそれだけでは終われない私怨が、長山から出ている気がして、素直に受け取れない気持ちがある。
 だから春輝は、あえて長山に食いついた。
「待って。それは理に適ってない。僕らは充分に結果を出してきたし、チームの連携ならこれから確立すればいい。だって、公式戦にはまだまだ時間があるんだ、そのための練習だろう?」
 立ち上がって、真っ直ぐに相手の顔を見据える。静かな非難を込めて、本音を言ってくれと願いながら。
 彼らの気持ちが分かっているのだろう、長山は少しだけ複雑そうな表情をした後で、
「ああ、そうだな。でも、正直、お前らが出続けても不満は残る。ポッと出の転校生に、友達の定位置が奪われたんだ、オレ自身が納得できないんだよ」
「そんなのは理由にならねぇだろ! 勝ちに拘るなら、感情なんざうっちゃっとけ!」
「ふざけんな! 前の試合だって、お前らがコンディション不良で落としたんだろうが! 俺たちは、気まぐれなファンタジスタなんかに頼らないチーム造りを進めてるんだ。俺たちだけでも勝てるって、それを証明してやる」
 キッ、と睨み合われた視線。秋寛が食って掛かるように前のめりになり、長山がそれを正面から受け止める。もちろん春輝も、険しい眼つきで彼を見ていた。
 だが、そんな険悪な雰囲気は、長山が溜息一つで中和する。そして改めて二人の顔を見詰めると、
「お前らの言い分も分かる。確かに技術は圧倒的だし、試合を決めてきたって自負もあるんだろ? だったら、勝負をするのが一番だ。俺たちと試合をしよう」
 と言った。
「し……」
「試合ぃ?」
 いきなりな話に、双子は揃って素っ頓狂な声を上げる。それに構わず、長山は話を続けた。
「さっきも言ったように、俺たちは俺たちのチーム造りを進めてる。だから、お前らのいないサッカー部で、お前らのチームを倒せたら、条件を飲んでもらうんだよ」
「なっ、……俺らのいないサッカー部って、俺たちのチームはどうすんだよ! まさか、補欠にも入れない一年坊を使えってのか?」
「いや。お前らは、知り合いの中から好きなチームを造ればいい。ほら、ちょうど何とかって仲良い先輩が居たろ。そいつらを頼めばいいじゃねぇか」
「な、なん……だと」
 長山の言い分は滅茶苦茶である。それは、正規の練習をしているサッカー部相手に、帰宅部の素人である聖哉たちをぶつけろと言ってるのだから、不利以外の何物でもない。それに他人に迷惑をかけるのも気が引けるだけに、春輝が噛み付こうとしたところで、
「別に嫌ならやんなくても良い。ただ、お前らをメンバーには入れないがな。嫌われたまま部に在籍し続けるより、双方が納得できる形を取るのが一番だと、俺は思うがね」
 挑発的な言葉だ。高飛車な言い様には、完全に虚仮にした意味がある。それを感じ取った春輝は頭に血が登り、それは普段では絶対に味わえない双子の感応を呼び覚ました。
 それ即ち、同じ気持ち。
『やってやろうじゃねぇか、コラぁ!』
 二人は同時に、そう叫んでいたのである。



『と、言う訳なんです!』
 そんな声が響く中、額を地面に擦らんばかりに平伏した老貴兄弟を前にして、聖哉たち一向は呆れるやら慌てるやら、どんなリアクションをとればいいのか困惑しきりであった。
「いや〜、そんなことを、いきなり言われてもねぇ……」
「心の準備って言うか、ね……」
「まぁその、とりあえず頭を上げなよ」
 祐人と輝が顔を見合わせる中、啓一が優しい言葉をかける。ご丁寧に「頭」を「こうべ」と読んでる辺りが、ナイスですね。
「受けてくれますか!?」
 ガバッ、と顔を上げて問うてくる春輝。それに渋い表情をするのは、利一と真二である。
「ん〜……唐突だしなぁ、受けるべきかどうか、迷うよ」
「ぶっちゃけ私事だしなぁ。メンドイことを持ってきたもんだ、て感じだ」
 真二の方は本当に冷たいですね。
 一方の伊佐樹と峻はと言うと、
「いいじゃんいいじゃん、面白そうだし。俺も久しぶりにボール蹴りてぇし」
「困ってるなら、力を貸すよ。そんな挑発的な言い分、流石に腹立たしいもんな」
 と頼もしい言葉を放っていた。一方の聖哉は、なんだかやや頭を捻っている所である。
 そんな、グループの意見が分かれている時は、やはり公平に討議を重ねるのが定石である。彼らは互いに顔を突き合わせて、どうするのが一番なのかを話し合うのだ。
「俺は正直、やりたくないなぁ。このクソ暑い中で、見ず知らずの奴らとサッカーする元気なんざ、残ってないし」
「でもさぁ、このまま何となくサッカーするより、俺は試合してぇな。真剣にやった方が面白いだろ」
「まぁ、先方の言い方が気に食わないのはありますけど、でも俺たちは関係ないし。余計な火の粉は被りたくないですよ」
「だからって放っとくのは違うんじゃないかな。二人とも俺らを頼ってくれてるわけだし、頭に血が上ったのを反省してるみたいだしさ」
「確かにメンドクサイのはあるけど、今は休み中だし、別段、予定があるわけじゃないから。いいんじゃないかな、別に」
 などと意見を交し合う中、最終的に決断力のある祐人と輝が出す結論を待つのが、いつも通りの展開である。そして今回も、その例に漏れることは無いのである。
 彼らはそれぞれの意見を拝聴した上で、難しい顔して組んでいた腕をゆっくりと解き、口を開くのだ。まずは輝から。
「老貴兄弟が話したのが事実なら……奴ら、俺たちを指名してきたことになる。ってことは、完全に嘗められてるってことだ。その後輩坊主ども、礼儀を知らぬ狼藉、目に余るだろう」
 などと難しい言葉を紡ぐのだが、要するにファ●キンな言い様を晒しやがった二年坊にすっかりキレ気味、という事である。
 ついで祐人の意見。
「確かに挑戦的な言い方だけど、これはチャンスでもある。俺たちはいつも、敵の居ない状態でボールを蹴ってた。それが、真剣に戦える相手を見つけたってことだ。これは自分たちの成長を知るためにも良い物差しになるよ。それに、大切な友人の頼みだ、断れるはずも無いよね」
 二人はそういって、結論を確かめたのである。そして彼らの言葉に、ただただ頭を垂れていた老貴兄弟も、明るい顔して面を上げたのだ。
「あ、ありがとうございます!」
「恩に着るよ、みんな!」
 そんな二人に、ほぼ全員が顔を見合わせて、頷きを交わす。
「確かに、喧嘩を売られちゃ、やるしかないな」
「その通り! くそったれファ●キンなオックス野郎どもをブチ黙らせてやろうぜ、野郎どもー!」
『オオーッ!』
 と、気勢を上げてそれぞれの思惑が一致して、なんともアレな熱気がその場を包む中。
 うーん、うーん、とドタマを捻くり続ける聖哉に近づいた真二は、
「お前はさっきから、なにをそんなに悩んでんだ?」
 と肘で突くと、さりげなくそれが気になっていた全員が耳をそばだてるため黙る。
 そんな、さり気無い注目状態に居る聖哉がゆっくりと顔を上げ、
「いやね。さっきの春輝たちの話を聞いててさ、どうにもデジャ・ヴュっていうかさ、俺にもあったかなー? っ的な疑問が掠めてねー。何なんだろ、この感じ?」
 と、未だに頭を捻くりまわしている状態である。
 そんな彼を不思議そうな目で見つめる諸君の中に、ちょっと気まずそうな兄弟が一組。
「いやまぁ、あの時は僕らも、必死でしたし……」
「忘れてるようなのが幸いだよな……思い出されたら恥かしいー!」
 と赤面している春輝と秋寛には、まぁ誰も気付かないのである。
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