第四章
 第十一話「凄いよ峻くん」



 キック・オフと同時に相手陣内へと侵入していく3トップ。
 ワイドに開いた前線を追うように、チーム全員が前へと進み、ラインが一気に押し上げられる。同時に、春輝へと戻ったボールは、敵のプレッシャーが来る前にワンタッチで弾かれ、そのまま小気味いいパスワークが展開されることになった。
 中盤の三人を機転に、右、左、後ろ、前と、2タッチ以内で繰り出されるショートパス。サイドバックは上がり気味、最終ラインも徐々に競り上がり、気付い た時には、ほとんどの選手が相手陣地に入ってしまうような状況になってしまっている。素早く細かいパス回しに、少しずつマークがずれてしまったサッカー部 は、ラインを下げて危機に備えるしかできなくなってしまったのだ。
 聖哉たちは焦らない。じっくりとボールを動かしながらも、彼らはそのポジションを流動的に変化させ、パスコースを読ませない事で、ポゼッションを高めて いく。パス・アンド・ゴー、そしてオフ・ザ・ボール。そう呼ばれるサッカーの基本を、尽きない運動量を基に、忠実にこなして行くのだ。
 そして、スイッチを入れる瞬間は、本当にさり気無く、また速かった。
 利一が聖哉にボールを戻した時に、祐人が右に開いて、ボールを欲しがる。前半の動きから、ゲームメーカーとしての祐人に警戒感を持つ敵守備陣が注意を向けた時、利一が上がっていったのを見て、ディフェンダーがそのエリアを注視した。
 聖哉のモーションは速かった。
 右足一閃、相手の目線のさらに深く、右サイドのライン裏にロングボール。その瞬間を見定めた峻が抜け出して、取れるか取れないかの場所に猛然とダッシュを開始。
 あっ、という空気がサッカー部に流れた。そして、遅れた反応で峻を追いかけ、慌てて彼の中へのコースを切ろうとする。しかし峻はスピードに乗ってボールに追い付くと、トラップを大きくとって、ペナルティーエリアに侵入したのだ。
 それだけで、マークの遅れたサイドバックを振り切ると、あとはカバーに来たセンターバックと競争だ。どちらが早くボールに触るか。スライディングに来た ディフェンダーを、足の裏で柔らかくボールを戻して、自分のものに。飛び出すキーパーを横目に見ながら、峻はボールの深くに足先を入れ、チップキックでふ わりとクロス。
 息を呑む場内。その軌道を目で追いながら、落下点へと急ぐ伊佐樹の爪先を越え、惜しくも反対側へと抜けてしまうボール。ペナルティー外でボールを拾ったのはサイドバックの輝であったが、中に侵入していた秋寛へのパスはカットされ、クリアされてしまった。
 残念。タッチラインを割ってフリースローになる時に、聖哉は峻と、そんな言葉を暗黙に交わした。目線を合わせて軽く肩を竦めるだけで、二人の間に苦笑が浮かんでしまうのだ。
 その後はひたすら、ホシノさんFCが支配する展開になる。サッカー部は、未だに混乱した状態で、試合に入りきれていない。大声を出して状況を打開しようとする彼らだが、残念ながら対策バッチリの聖哉たちは悠々とボールを回し続けた。
 ワイドに開いたウイングをケアする為にラインを下げざるをえないサッカー部。中盤で、テクニックに優れた春輝と祐人を中心にパスを交換しつつ、時折、空 いた選手が飛び込んでいく。彼らは頻繁にポジションを入れ替えて、常にマークマンを惑わせ、スペースを作り続けるからこそ、流れを支配しできているのだ。 特に目立ったのが右サイドに張った峻であり、元々のフィジカルに、スピードに乗ったドリブルがプラスされ、パワフルな突破で再三、深い位置を抉っていっ た。これは、相手が要注意と目している老貴兄弟が、二人とも左サイドの近い位置で囮の動きを繰り返しているからだろう。
 その結果、押し込まれたサッカー部は攻撃に繋げる迫力が無く、脅威にならない相手に聖哉たちは余裕を持ってボールを持つ、の好循環が発生しているのだ。 フィジカル面に課題を残す彼らだからこそ、ゴール前で溜める作業はできないが、その分、距離の近い選手が後方の押し上げを支援する。そして、絶え間ない飛 込みで波状攻撃をかけるホシノさんFCに、サッカー部はより縮こまって受身になる。
 もう得点の匂いはすぐそこまで迫っていた。



 右サイド。やや寄った位置から、峻が中央の春輝にボールを戻し、ペナルティー手前での簡単なフェイントで相手の隙を窺う。だがその後で、スペースが見付 からない事を確認すると、囲まれる前に背後へボールを戻す。受けた輝がすぐに聖哉に渡すと、峻は相手の上がって来た最終ラインと並び、いつでも飛び出せる 体制を整えた。
 それはサイドアタッカーの峻だけでなく、常に背後を狙い続ける伊佐樹も同様で、今この時点でボールホルダーの聖哉には、いくつものパスコースが存在しているのだ。
 だが聖哉は、すぐに裏を狙うようなことをせず、ゆっくりボールをキープすると、顔を上げて周囲を見渡すような動きを見せたのである。この余裕を持った動作は、すぐに敵方の寄せを招いてしまい、プレッシャーに来た6番と10番が聖哉を挟み込んでしまった。
「聖哉!」
 そう叫んだのは峻だけではなかったが、彼はすでにそれを察知していたのか、簡単にターンすることで10番のプレッシャーを躱し、背後に迫った6番を身体 を入れてブロックする。それと同時に足元に置いたボールを転がすと、タッチライン際から近づいてきた利一に横パスを渡した。
 峻は一連の流れの中ですぐに動きを変え、寄って来ていた敵のサイドバックから離れるように利一の方に近づいて、こっち、と叫ぶ。それを聞いた利一がダイレクトで縦に、峻にボールを送るのだ。
 足元にボールを納めたとき、出した利一が猛スピードで駆け上がって行くのが見えて、敵が何人か、それに釣られてしまう。その瞬間には、峻のマークは3番一人になり、目の前の敵だけに集中できるようになる。
 背後はタッチライン、こちらがゴールを向いてボールを持っている。有利な状況を確認した上で、峻はボールを、一回だけ跨いだ。それで敵が飛び込むのを止める。峻はもう一度、今度は逆の足でボールを跨ぐと、右足のインサイドで二回、小さく左に動かすようにタッチした。
 その、不恰好で大袈裟な体重移動に連れられ、3番の重心が僅かに右足に偏る。その瞬間、峻は右のアウトサイドで切り返し、大きく右サイドのスペースへとドリブルを開始。
「あっ!」
 マークマンの、驚嘆の吐息が小さく聞こえた。その瞬間に、よし、と痛快な気持ちが峻の中に芽生える。
 大胆なサイドステップで相手を置き去りに。マシューズ・トリックとも呼ばれるこのフェイントでスペースへと飛び出すと、その先には誰も居ない、峻だけのピッチが広がっているのだ。
「こっち!」
 サイドを深く抉った峻の耳に、ペナルティーエリアから催促の声。中には利一と伊佐樹、そのやや後ろに祐人が見える。同時にサッカー部の、カバーリングを求める怒声が響くが、そんなことはクリアーな峻の思考には何の影響も与えなかった。
 2タッチ目のドリブルに追いついて、少し小さくタッチすると、軸足の足首を捻って身体を内へ。ボールを良く見て当て所を決めると、インサイド・キックでマイナス方向へのクロスを上げる。
 それは、ニアの利一の背中を掠め、伊佐樹や祐人も届かない方向へと向かい、相手ディフェンダーすら擦り抜けてペナルティーアークへと飛翔して――
 飛び込んだ秋寛が地を蹴り、空中で重心を入れ替えて、無理な体勢でも強引に右足を振りぬいた。
 ゴッ!
 強烈なジャンピングボレー。抑えた弾道がピッチの芝を少し削り、バウンドしてクロスバーの内側へと突き刺さる。ネットを揺らしたボールがゴールライン内へと落ちる様子を、呆然としたように全員が見詰めると、次の瞬間には雄叫びが上がっていた。
「おおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!」
 峻は叫んで両手を振り上げ、次には倒れた秋寛へと駆け寄っていたのだ。
 前線に居た全員に潰された秋寛が、助けてー、と小さく悲鳴をあげる中、彼らはついに同点へと追いついたのである。



 完全に試合の流れを掴んでいる。
 そう確信できるのが、今の状況であり、試合再開後のキックオフでも、サッカー部は完全に攻めあぐねていたのだ。
 中盤の寄せが早く、ボールホルダーを基本的に3人で囲んで奪うスタイルは、彼らが暑さにも負けない猛烈なダッシュで動き続けている証拠である。それに気 圧されて無闇に後ろに下げるパスでは、攻撃は余り機能しない。だから、最終ラインから闇雲に出すロビングのパスは、サイドならば足の速い輝や利一が処理す るし、センターは真二が対応するか、キーパーの海杜が飛び出してしまう。身体の強いフォワードに当てようとするも、それは数人がマークとポジショニングに 気を配って、事前に潰す。徹底的な対策を取ることにより、サッカー部はにっちもさっちも行かない状態に陥ってしまうのだった。
 その結果が、奪われたら背後からゆっくりショートパスを繋がれる展開であり、マークのズレを突いて造り出されるチャンスなのである。
 今もまた、パスミスをカバーリングで奪い返し、聖哉と祐人の簡単なパス交換から、春輝とポジションを入れ替えて中央に侵入した峻が放つ強烈なミドル シュートという場面が繰り広げられた。その低い弾道は、甘いコースからキーパーの腕の中に納まってしまったが、それは素晴らしい攻撃であったのだ。
「なんか……スゴイね」
 思わずそう呟いたのは、水筒片手に固まったままの杏里であった。それに、うん、と頷いたのは美玖である。
「確かに、スゴイ勢いで押してる。サッカー部は、ほとんどハーフウェーから先に運べてないわ」
 類の意見は至極まともで、やっぱり皆がそう感じていたんだな、と樹理は思った。
 それと同時に、彼女はもう一つ、大切なことも考えなければならなかったのである。
「峻が、この流れを、引き寄せたんだ……」
 ポツリ、と。自分だけに囁くように、樹理はそう口にしていた。
 しかしそれは周囲にも聞こえていたようで、
「そうね。硝子先輩のドリブルが、完全に流れを引き寄せたんだわ」
「あの人、さっきまでディフェンダーだったよね? なんでバックラインに居たのか、意味が分からんわ」
「なんか、ホントに、スゴイよね。さっきのシュートも強烈だったし……」
 彼女たちはそれぞれに、峻のプレーの感想を述べている。やたら冷静な批評だが、02年の日韓W杯からサッカーを見てきている少女たちの分析力は、それなりのものではあった。
 ただ、樹理はそのことが少し嬉しくも有り、また悔しくもある。
 峻のことをずっと目で追いかけていた樹理である。自分だけが気付いてあげたいという独占欲も出てしまうのだ。まぁ、あれだけの活躍なのだからそれは無理な話なのだが。
 しかし、樹理にとってより大切なことは、他の部分にあるのだ。
「ねぇ。硝子さんのプレースタイルさ、リュドヴィク・ジュリーを思い出さない?」
「そうね。05−06のバルサ時代が懐かしいわ」
 そんな会話が、杏里と類の間で交わされる。
 樹理は、自分の瞳に涙が溜まりそうになるのを、感じていた。美玖がそんな彼女の様子に気付き、顔を寄せてくる。
「ね、もしかして、硝子先輩って……」
 憚るように聞いてきた質問。樹理はゆっくり、頷いた。
「うん……多分、あたしに、見せたいんだ」
 そうなんだ、と美玖が頷く。ただ、樹理は彼女が思っているよりも大きく、その確信を持っていた。
 思い出すのは、樹理と峻しか知らない思い出。まだ二人が疎遠になる前のこと。
 あの時、峻の家を訪れた樹理は、撮り溜めたサッカーのビデオを消化している彼を見つけて、一緒に画面の前に座ったのだ。
 当時はモナコが、デシャン政権下でモリエンテスやロテンなど代表クラスの選手と共に、チャンピオンズリーグの決勝まで躍進した時期だった。ちょうどその時の試合が流れる画面の中で、樹理は主力として右サイドを駆け回る小柄なのに筋肉質の選手に注目したのだ。
 この人スゴイね、と樹理が言うと、峻は、この選手? と背番号を指差したのだ。
 うん、と少女が頷くと、そうか、と峻は笑った。
『この人はね、リュドヴィク・ジュリっていう、フランス代表のプレイヤーなんだよ』
 オレも好きなアタッカーなんだ、と自慢するように語る峻。だが樹理は、他のことに食いついてしまう。
『ジュリって言うの? じゃあ、あたしと同じ名前なんだ』
 いま思うとジュリーは苗字だが、当時の樹理は無邪気にそう笑ったものだ。すると峻は、気付いたか、て顔で相好を崩し、
『そうだよ。だからオレは、この選手が好きなのかも知れないね』
 なんて、とても陳腐で恥ずかしいセリフを口にして見せた。
 それはいま思い出すと、顔から火が出そうになるほど歯が浮くような言葉なのだが、当時の樹理はそんな事を露も考えずに、
『じゃあ、あたしも大好きになるよ』
 と笑っていた。
 それは、些細な記憶だったのかもしれない。実際、つい先程まで、樹理が忘れていた事だったのだ。
 だが、それを峻は、律儀に覚えていたに違いない。彼はそういう男だ。そして、そういうプレースタイルで、今もピッチを駆け巡っている。
 樹理の頭の中には、当時の峻の、ニコニコとした優しい笑顔が思い出された。そうだ、そういう顔が嬉しくて、樹理も一緒に、ずっと笑い続けていたのだ。
 彼女は赤面する顔を隠すように頬を押さえながら、小さい声で呟くように、
「あの、バカ……恥ずかしいマネを」
 と、悪態をついた。
 ただ、彼が一生懸命に訴えようとしていることを感じて、その愚直さに涙が溢れそうになるのを、必死に宥めているのも事実なのだ。
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