三 「天国の奥」


 ノアはカフェで早めの昼食を取りながら、雑誌形式のヘヴンの地図を眺めていた。
 朝食を取ったノアはホテルを出て直ぐに観光関係の建物を探した。そこでヘヴンの地図を購入したのである。
 ヘヴンを探るにしても、どこから手をつけるべきなのか分からない。加えて、土地勘の無いノアには、探るべき場所も分からないのだ。地図をヘヴンの見取り図代わりにしようというのである。
「全く、あのジジィめ。図面ぐらいコピーしてよこせっての」
 派遣した主の悪口をぼやいて、ノアはサンドイッチを齧る。
 咀嚼しながら、ヘヴン上層区の地図を眺める。船という構造上、空母都市はいくつかの階層に別れている。主に一般人の暮らす上層区、科学者や研究者などが仕事場とする中層区、自衛軍や政治担当者などが活動する下層区の三つが一般的だ。一つ一つの区が、必ず単体で存在しているという訳ではなく上層区が二階層や三階層ある空母都市もある。無論、それぞれの区に住む人は完全に決められている訳ではなく、中層区や下層区であっても一般人はいる。目的による比率が違うだけなのだ。
 建物によっては手続きが必要なものもあるが、どの階層にも一般住民が存在しているため、エレベーターによる移動は誰でも可能なものになっている。
 地図を見る限り、ヘヴンは、上層区が二階層、中層区と下層区は一階層という区分がなされているらしい。
「思ったより階層が少ないな……」
 外見的に容積を考えれば、もう一階層は詰め込める構造になっていた。だが、ヘヴンは全部で四階層ある。
 中枢区域から離れている事を考えれば、ヘヴンは田舎と呼べる。人口がそこまで増えていないという事だろう。
 階層が少なければ、調査というノアの仕事も減るのだが。
「んー、どうすっかねぇ……」
 サンドイッチを飲み込み、ノアは紅茶のカップに手を伸ばした。
 アルシアの話を踏まえれば、エンジェルズを探る場合には政府関係を狙った方が良いという事になる。
 紅茶を口に付けてから、ノアは考えた。
 まず、ディヴィエイトの所在を追うのは困難だ。飛び去った方角を考えれば、既にヘヴンの領域から外に出てしまっている可能性もある。そうなれば、ディヴィエイトを見つけ出す事は絶望的だ。
 空母都市以外に、人の住める場所は極僅かしかない。空母上空以外でディヴィエイトが力尽きて失速した場合、彼は助からない。空母とは言え、海面からの高度はキロメートルの距離に達している。空母から落下した場合、水面に叩き付けられ、衝撃で身体がバラバラになってお終いだ。
 次に、ヘヴンの調査というノアの仕事だが、これはこれで複雑だ。思いつくのはエンジェルズの事ぐらいしかない。
「ま、下りるっきゃねぇか」
 小さく溜め息をついて、ノアはカップを置いた。
 席を立ち、会計を済ませるとノアは店を出た。
 とっとと済ませよう、そう思って一つ頷くと、ノアは駆け出した。
 空母都市の層を移動するためには、大型のエレベーターを使うのが一般的だ。層と層の間は様々なものの出入りがあるため、エレベーターも複数存在している。また、層間移動エレベーターは定刻に各層を移動するように出来ている。
 今の時間を考えると、次の移動時刻に間に合わなかった場合一時間近く待機しなければならない。
 ノアは大通りへと飛び出し、近くに停車していた地区巡回バスに乗り込んだ。
 層があるとは言え、空母都市は広く、大きい。巡回バスもそれぞれの地区ごとに複数存在している。勿論、列車といった高速の移動手段も存在する。
 層間移動エレベーターに最も近い場所でノアはバスを降りた。
 地図を見ていたのが役立ち、迷わずにエレベーターへと駆け込む。
 層間エレベーターは乗り物と徒歩の者で乗り場が分かれている。乗り物の場合は大型のコンテナのような空間に入り、次の階層に行くのを待つ。人間の場合、ロビーのような空間で待つ事になる。それなりに時間がかかるため、座る場所や飲料の自動販売機なども用意されているのだ。
 部屋の周囲にある座席に腰を下ろし、ノアは再度地図を眺める。顔を地図に埋めるようにして、ノアは地図を記憶していった。
 同時に、考えを廻らせる。
 昨日、ノアはエンジェルズを数人殺めた。普通なら、ノアは殺人犯として指名手配されているはずである。だが、ノアが指名手配されている様子はない。
 アルシアと会い、ホテルに戻った後でテレビでの報道を確認したが、ノアが映し出された事は一度も無かった。
 ディヴィエイトを追う事を重視して、ノアを放り出したのかとも考えたが、安易過ぎる。むしろ、ノアを捕らえてディヴィエイトの情報を吐かせようとするはずだ。ノアがディヴィエイトの事を全く知らなかったとしても、言葉では信用されないのは目に見えている。
 ならば何故、ノアを放っておくのか。
 自分でも特徴的だと思う紺色のバンダナを巻いたノアなら、指名手配されれば直ぐにでも見つけ出されてしまう。
 尾行されている気配も感じない。監視カメラにも何度か映っているはずだが、エンジェルズのリアクションはない。
 泳がされているのかもしれないと思いつつも、ノアには自ら動くという選択肢しかなかった。動かずにいるという選択肢は、ノア自身がイライラするだけだ。
 ノアはどうにか地図を眺める事で時間を潰し、エレベーターが最下層まで下りるのを待った。最下層に着いた瞬間、ノアは地図を手早く畳んで立ち上がり足早に歩き出す。
 最下層に出て、ノアは大きく息を吐いた。
 金属で覆われた天井には光の筋が無数に走り、階層を明るく照らしている。時間によって光量を調節し、朝や夜といった時間帯を表現するものだ。
 閉塞的なようにも見えるが、実際に内部を歩き回ってみれば見た目よりも広い事に気付く。
 足早に進み、ノアは巡回バスに乗り込んだ。地図と地区名を照らし合わせ、目的地に着いた所でノアはバスを降りた。
 直ぐ近くに巨大な建造物が見える。階層の天井にまで届く巨大な建物は、空母都市では数える程しかない。即ち、エネルギー生産施設か、政府首脳部だ。無論、ノアがいるのは後者である。
「この中までは地図に載ってないんだよな」
 頭を掻いて、ノアはバスターミナルのベンチに腰を下ろした。
 ジャケットの内ポケットからおよそ十センチ四方の大きさの携帯端末を取り出し、電源を入れる。バスターミナルに備え付けられている電力供給用プラグに端末のコードを差し込み、外部電源を得た。
 折り畳まれていたディスプレイを開き、タッチボードに指を触れて操作する。
 ヘヴンのネットワークに接続し、データベースにアクセスする。通常、データベースは住人のランクによって閲覧できる情報が制限されている。三段階あり、民間人、研究者もしくは軍関係者、政府関係者の三つだ。
 ノアはまず民間人レベルの権限でデータベースにアクセスした。
 エンジェルズを検索してみるが、ヘヴン独自の自衛組織であるという以外に目ぼしい情報はなかった。二年前の、中枢区域から離脱した後に設立された組織であるという事ぐらいしか判らない。
 ディヴィエイトという人物についても情報を検索してみたが、民間人レベルの権限では何の情報も得られなかった。
「まぁ、そうだよな」
 一人納得して、ノアは一度データベースからアクセスを切断した。
 そして、もう一度アクセスする際、ノアは端末内にインストールされているあるプログラムを起動させた。端末の個人情報を偽装し、一時的に政府関係者並のアクセス権限を持てるプログラムである。正規の個人情報ではないため、長時間アクセスしていればネットワーク内の防衛プログラムに引っ掛かってしまう。短時間で済ませなければならない。
 こいつならどうだ、と内心で呟き、ノアはデータベースにアクセスした。
 先程と同様に、エンジェルズを検索する。そうして出てきた情報に、ノアは目を疑った。
「万能戦闘部隊エンジェルズ。人間の肉体に手を加え、簡易的な飛行能力と高い身体能力を持たせた戦闘員による部隊」
 そこに書かれていた文章を、ノアは口に出さずに反芻する。
 生物兵器を開発するという計画は、大抵の軍でも考える事だ。生物兵器を用いるという考え方が持つ利点の一つは、強力な戦闘力を量産できるというものだ。高い戦闘能力を持つ兵士ばかりが存在するわけではない。安定して高い戦力を確保できるという事には利用価値がある。
 だが、ほとんどの空母都市ではこうした計画は却下されてきた。
 なぜなら、空母都市という体系に人類の生活圏が変化した事で、侵略のやり方そのものにも変化が生じたためだ。空母都市そのものを欲したり、占領したりするという目的が無いのであれば、わざわざ白兵戦をする必要はない。戦闘機による爆撃などで空母都市を撃墜してしまえば済むのだから。
「まぁ、予想範囲内か」
 驚きはしたものの、人間に有りえない翼を持たせるためには外部的な処置をする他に考え付く案はない。基本状態が人間である事から、ノアも薄々気付いていた事だ。
「てことは、ディヴィエイトも……」
 恐らくは生物兵器として強化された一人なのだろう。
 どういう経緯で中枢区域の人間になったのかは分からない。だが、彼が失踪する寸前の様子や翼の色を見れば、他のエンジェルズとは異なる存在である事は推測できる。
 ディヴィエイトという語句に当てはまる情報もなく、エンジェルズに関する情報はそれだけだった。
 詳細情報はデータベースには無かった。直接関わりのある施設を探らねば得る事はできないだろう。
「となると、問題は、何でエンジェルズ(こんなもの)があるかって事だな」
 口の中で呟き、ノアはアクセスを終了する。偽装プログラムを停止させ、電源プラグを引き抜いた。端末を折り畳み、内ポケットにしまい込むとベンチから立ち上がる。
「おい貴様、何をしていた?」
 突然、背後から声が聞こえた。
 ノアが振り返ろうとした瞬間、硬いものが後頭部に押し当てられる。
「動くな。手を挙げろ」
 鋭い声に、ノアは指示に従った。
 不正アクセスをしている姿を見られたのだと思ったが、違う。ノアは周囲の様子には常に気を配っていた。誰かに見られていたのでなければ、ヘヴンのアクセスの解析技術がノアの予想以上に素早く不正プログラムを検出したという事だ。
「貴様の目的は何だ?」
「まぁ、調査、かな」
「何を調査していた?」
「いや、具体的には指示されてないんだよね」
「どこの手の者だ?」
「まぁ、ヘヴン以外から来た訳だけど」
 背後からの声に、ノアは曖昧に答えていく。
「誰からの指示だ?」
「詳しくは知らない」
 勿論、知らないというのは嘘だ。諜報活動において情報を洩らすという行為はしてはならない。人によってその判断は異なるものだが、少なくともノアはこの場で情報を洩らすつもりはなかった。
 情報を漏洩させたとしても、見逃して貰えるとは限らないのだから。
「知っているだけの情報を吐いて貰おうか」
「この場で?」
「不正アクセスをするような奴に、わざわざ隙など与えるものか」
「厳しいねぇ」
 返答に、ノアは苦笑する。
「なら、先にこっちから質問させてもらってもいいかな?」
「言ってみろ。答えるかどうかは別だがな」
「あんたはエンジェルズか?」
「……そうだ」
「なら、何で俺を放っておいたんだ?」
 疑問に思っていた事を、ノアは直接ぶつけた。
「貴様に教える必要は無い」
「あ、そう」
 ノアは溜め息雑じりに呟いた。
「今度はお前が答える番だ」
 銃口らしい、硬いものでノアは後頭部を突付かれる。
「俺は、リーガ・レシラン。連合国家軍の特殊部隊所属の戦闘員。別の部隊に所属しているディヴィエイトっていう奴の連れって事で派遣されたんだよ」
 名を偽り、ノアは事実を一部だけ改竄した内容の情報を喋っていった。
「そのディヴィエイトがいきなり発狂してどっか行っちまったから、情報を得ようとしてたんだよ」
 ディヴィエイトの行方に関しての情報は得ようとしていたのだから、これは嘘とも言い切れない。
「これで十分だろ?」
「そのディヴィエイトについて、詳しく話せ」
「俺も知らねぇよ。初対面だったし、あいつは無口だったからな」
 答えながら、ノアは周囲に視線を走らせた。
 余りにも人気が無い。気味が悪いと感じるほどに。
「そっちはどうなんだよ? あいつの事、何か知ってるのか?」
「貴様に教える必要はない」
「聞く気はあっても言う気はないのか。フェアじゃねぇな」
 背後で鼻を鳴らす音が聞こえた。
「情報くれないんなら、もういいか」
 言うと同時に、ノアは銃口から逃れるように身体を横へと投げ出した。
 地面に接触する前に、左右のリストバンドに一度ずつ触れる。背中から着地し、受け身を取って足を着けると同時に腕を横に薙いだ。射出されたワイヤーが、音もなく伸びていく。腕を延長するかのように伸びたワイヤーが、声の主へと向かう。
 声の主は、今までにノアが見てきたエンジェルズと同様の衣服に身を包んだ女性だった。蜂蜜色の長髪に、整った鼻筋と切れ長の双眸の女性だ。
 ノアが腕を薙いだ瞬間に見た彼女の表情には、笑みが浮かんでいた。
 女性は空中へと跳躍し、ノアのワイヤーをかわす。その瞬発力は、今までにノアが見たエンジェルズのものよりも高かった。
 人間の身長以上の高さまで簡単に飛び上がり、女性が表情を崩さずに着地する。
「他の奴らとは違うな……。あんた、名前は?」
「フィーゼシア・シータ・ラインシェルド」
 ノアの問いに、女性が答えた。差し障りのない情報なら喋っても良いという事なのだろう。
 フィーゼシアが銃をノアへと向ける。
「これが最後の警告だ。大人しく投降しろ」
 冷淡に告げるフィーゼシアに、ノアは考える素振りを見せた。
「やっぱ止めとくわ」
 捕らえられた所で、ノアが得られる情報は何も無いだろう。脱出する事も相応に困難なはずだ。色々と準備がしてあるのなら別だが、素で捕まっては下手をするとそのまま殺されてしまう可能性もある。
「ならば、死ね」
「早っ!」
 相手の決断の早さに文句を口走りながら、ノアは銃口から逃れるように駆け出した。背後で銃声が聞こえる。
 だが、数秒のうちに追いついて来たフィーゼシアがノアの目の前に飛び出した。そのままノアへと銃を向ける彼女から逃れるために、ノアは横へと身体を投げ出した。
 銃声が響く。
「デルタ部隊、かかれ!」
 フィーゼシアが号令を出した直後、周囲の建物の影から何人ものエンジェルズ隊員が現れた。全員が銃を持ち、ノアへと向けている。
「げっ!」
 顔を引き攣らせ、ノアは進行方向を変えた。
 横に跳び、銃弾をかわしながら右腕をエンジェルズの一人へ伸ばした。ワイヤーの先端がアサルトライフルの銃身に張り付く。腕に伝わる微細な振動からそれを感じ取ったノアは、腕を引いた。同時に、ワイヤーを回収させる。
 エンジェルズ隊員の手からライフルが奪い取られ、ノアの手に吸い込まれるように引き寄せられた。着地して受け身を取りながらアサルトライフルのグリップを右手で掴み、脇に抱える。
 片膝を着いた状態から、ノアはアサルトライフルの弾丸をフルオートで周囲にばら撒いた。弾丸を身体に受け、複数のエンジェルズが仰け反り、吹き飛ばされる。鮮血がしぶき、地面や建物の壁に飛び散った。致命傷になった者はほとんどいないだろう。牽制でしかないのだから。敵の攻撃を抑える事さえできれば良い。
「数が多い!」
 思わず愚痴を零し、ノアは建物の屋上へと左腕を伸ばし、ワイヤーを射出した。
 一瞬の内に先端が建物の壁に命中し、ノアはワイヤーを回収し始めると同時に地面を蹴った。高速で巻き取られるワイヤーがノアの身体を持ち上げる。上昇しながら、エンジェルズへとライフルを乱射し、その反動による微細な動きも利用して攻撃をかわしていった。
 百メートル近い建物の屋上へと飛び出すと、ノアは弾切れになったライフルを捨てた。エンジェルズが追っ手くる前に屋上から建物内へと続くドアを蹴破り、階段を駆け下りる。
 階段を三階分ほど下りた辺りで、ノアは途中の窓を開けて外の様子を見た。エンジェルズがいた方向とは逆の向きに窓が向いているらしく、敵の姿は見えない。
「この辺が丁度良いか……」
 呼吸を整えながら、ノアは窓から身を乗り出し、枠に足をかけた。
 恐らく、エンジェルズは飛行能力を使って屋上からノアを追いかける者達と、建物の一階から向かって来る者とで挟み撃ちをするつもりだ。ノアならば、同じ状況で追い詰める側の時、挟み撃ちの指示を飛ばす。
 そう考えたからこそ、ノアは窓枠を蹴って建物から飛び出した。
 ノアは右腕を前方にある建物へと伸ばしてワイヤーを撃ち出し、身体を高速で引き寄せさせる。その途中、左手側に見えた建物に左腕を向けてワイヤーを撃ち込み、右腕のワイヤーアンカーを建物から切り離して回収した。左側にベクトルが変わり、ノアの身体が大きく弧を描くようにして左折する。
 左折した所で、今度は同様の手順で右へと曲がった。ノアはワイヤーを用いて建物の合間を縫うように進んで行った。
 上手く行けばこれだけでもエンジェルズを撒く事ができる。
 暫くそのままワイヤーでの移動を続け、ノアは階層の天井に届く程に大きな建物の非常階段に足を下ろした。最初にノアがエンジェルズと交戦していた政府の建物前からはかなり離れている。
「そろそろ身を隠した方が無難だな」
 小さく息を着いて、ノアは非常階段から建物の中へと侵入した。
 都市の上空を移動する事で、ある程度は人目を避けられているはずだ。百パーセントとは言い切れないが、地上を戦いながら逃げるよりはマシだ。ワイヤーを用いれば移動速度も速い。
 建物の中に入ったノアは、まず監視カメラの位置を確認した。
「とりあえず、ここにはないな」
 今まで追っ手が無かったとはいえ、これからは監視カメラなどにはできる限り映らない方が良い。
 通路には人気がなかった。左右にはいくつか扉が見え、部屋が多数ある事が判る。ドアには名札の書かれた札が下げられ、その人物専用の控え室である旨も記されていた。迂闊に侵入すれば、内部の人間に発見されてしまうだろう。
 ノアは足音を立てぬよう慎重に通路を進んで行った。
 通路を進んで行く間、ノアは得られた情報について考えていた。
 エンジェルズが人間に手を加えた生物兵器だとして、それを造り出した目的については何も分からなかった。フィーゼシアに尋ねたとしても、恐らく情報は得られなかっただろう。エンジェルズという生物兵器の詳細も同様だ。
 調べるためには、製造場所を突き止め、潜入するしかない。内部にある情報を直接狙うべきだろう。
 広範囲に拡大しているコンピュータネットワーク内には置く事のできない情報は、書類という形で存在する場合が多い。ネットワークから隔離されたコンピュータに残されている場合もある。ただ、共通している事は、重要な情報は厳重に保管されているという事だ。
 ノアがしなければならない事は、エンジェルズの詳細情報を入手する事だ。加えて、ディヴィエイトに関する情報も必要になるだろう。その上で、ノアを派遣した上司にあたる人物に宛てて電子メールで情報を送信すれば任務は完了だ。
「ぶっちゃけ、面倒だな……」
 大きく溜め息をついて、ノアは感想を口に出した。
 不意に声が聞こえ、ノアは周囲への警戒を強める。まだ聞き取る事のできない声が近付いてくるのを感じ取り、ノアは隠れる場所がないか探した。左右のドアは控え室だ。迂闊に内部に逃れる事もできない。
 控え室ではない空き部屋がないか、ノアは急いで部屋の前に下げられている札を確認していった。
 名札の中に、アルシアの名を見つけたノアは、迷わずにドアを開けて部屋の中に入った。
 室内は真っ暗だった。電気がついておらず、出払っているのか人の気配もない。当然ながら、アルシアもいない。
 空室だったのはノアにとっては幸運だった。にもかかわらず、残念だと思っている自分自身の心にノアは驚いていた。
「馬鹿か、俺?」
 うんざりしたように顔を顰め、ノアは口に出して呟いた。
 この部屋に入る前、ノアは建物に無断で侵入した事はおろか、エンジェルズと戦っていたのだ。たとえ室内にアルシアがいたとして、ノアに弁解できる事は余りにも少ない。不審人物以外の何者でもない。安心するならともかく、残念だと思うのはおかしい。
 苦笑いを浮かべて、ノアはドアに寄り掛かった。
 暫くしてノアが部屋の外に出た時、人の気配は既に無かった。周囲を警戒しながら、通路を進んで行く。途中、先程と同じように人の声と気配が近付いてくるのが分かった。
 近くに控え室のようなものもなく、ノアは咄嗟に右手側にあった両開きの扉を開けて中へと逃れる。音を立てぬように注意しながら、室内に入ったノアの耳に、聞き覚えのある歌声が飛び込んで来た。
 扉の付近には高い壁のようなものが置かれ、内部の様子は見えない。一部、壁のない部分があるが、その先からは大勢の人の気配がした。
 撮影スタジオか何かなのだろう。
 判断した時には、ノアは頭上にワイヤーを射出していた。天井には網の目のように張り巡らされた鉄骨に照明機材が取り付けられている。骨組みにワイヤーを打ち込んだノアは、身体を持ち上げて鉄骨の上へと移動した。
 天井から見下ろしたスタジオの中で、アルシアが歌っていた。
 両足で地面に立ち、マイクを両手で包み込むようにして、彼女は歌っている。
 観客は誰一人として物音を立てず、聞き入っている。スタッフだけでなく、撮影される側の者達も聞き入っているようだった。ノアだけは、無言でそれを見つめていた。
 緩やかな曲調と、アルシアの静かな歌声。内容は反戦と、平和な世界への願いだ。希望を感じさせるはずの歌は、ノアには悲哀しか感じられなかった。アルシアは無表情に見える。だが時折、彼女の表情には翳りが見えた。極僅かな、一瞬のものではあったが、ノアには目の錯覚とは思えなかった。
 やがて、歌が終わると同時に拍手が沸き起こる。拍手の中、アルシアは一つお辞儀をしてから、撮影セットの中で一つだけ開いている椅子に腰を下ろした。
 席についたアルシアの額には薄っすらと汗が滲んでいる。僅かに唇を開けて静かに息をし、荒くなった呼吸を押し隠しているのが分かった。
「癒されますねぇ」
「いつ聞いても、心に響きます」
 口々にゲストらしい人達が言葉を交わす。アルシアの様子に気付く者は、いない。
「そう思えるのなら、あんたらは幸せだな」
 誰にも聞こえる事のないノアの呟きが、ざわめきに掻き消されていく。
「この都市の平和は彼女によって守られていると言っても過言ではありませんからね」
 司会者らしい人物の言葉に、ノアは耳を傾けた。
「アルシアさんの活動は、今やこの都市の政府にも影響を与えています。その歌声がこの都市を他の場所とは違う平和な天国にしていると言えるでしょう」
 平和を掲げるアイドル、アルシアの言葉が脳裏に甦った。
 間を置かずして、直ぐに撮影は終わった。天井に身を隠したまま、ノアは観客やゲストが退場していくのを見つめていた。
 マネージャーが車椅子をアルシアの下まで押して行く。アルシアは薄い笑顔を浮かべて車椅子に乗った。口の動きから、マネージャーに礼を言ったのだろう。
 観客が退場するのを見送ってから、アルシアはスタジオの出入り口へと向かい始めた。
「お疲れ様です」
「はい……」
 マネージャーに受け答えるアルシアは笑顔を浮かべていた。
 ただ、ノアには彼女の笑顔が心からのものには見えなかった。
BACK     目次     NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送