四 「互いに言葉を交わして」


 月夜の中、白銀の光が空母都市の空に閃いた。ほんの一瞬、一筋の光が伸び、間をおかずして消える。
 ワイヤーを張った状態で窓枠に足をかけ、ノアは以前やったように窓を軽く叩いた。
「あ、ノアさん!」
 窓を開けたアルシアは驚いた表情でノアを見つめた。目を大きく見開いたアルシアに、ノアは笑みを浮かべて見せる。
「よぉ、また来たぜ」
 バンダナを靡かせて、ノアは窓から部屋の中に下り立つ。ワイヤーを回収し、アルシアの代わりに窓を閉める。
「寝るとこだったか?」
「いえ、読書していただけです」
「そっか、なら大丈夫か」
「はい」
「なぁ、悪いんだけど、何か食べるものねぇかな?」
 飯食ってないんだ、そう言って、ノアは苦笑した。
「残り物で良ければありますけど」
「それで十分」
 アルシアと共にダイニングルームへと向かい、ノアは彼女に促されてテーブルに座った。
「少し温めますので、二分ほど待って下さい」
「あいよ」
 相槌を打ち、ノアはダイニングで料理を温めているアルシアの背中を眺めていた。
 華奢な体付きの割に、彼女は気丈だ。軽い発作を起こしかけても、平然としてテレビに映ろうとする。普通の人間なら気付かないほどに、彼女は自分の発作を堪えていた。
 観察眼を鍛えられているノアには直ぐに判った。
「なぁ、アイドルやってるのは疲れないか?」
「でも、私以外の人には、できない事でもありますから」
 ノアに背を向け、アルシアは料理を装いながら答えた。
「そりゃあそうだろうな」
 溜め息混じりにノアは呟いた。
 確かに、アルシアが今やっている仕事は彼女以外のアイドルには無理だろう。彼女でなければ、ヘヴンの平和の象徴にはなれない。戦争でアルシア自身が大きな傷を負っているからこそ、彼女の声には重みが生じる。同時に、彼女の生い立ちを知らされた視聴者は、アルシアの声に心を動かされる。
 たとえ同情であろうと、感動さえしていれば彼女が歌う事には意味が生まれるのだ。
 戦争に巻き込まれて、無事でいられるものは少ない。
 空母都市自体が空襲を受けたとしたら、最上層で生活している人々の多くが犠牲になる。怪我を負った場合、まず助からない。救助に時間がかかる上に、広範囲に渡って被害が生じる空襲では、発見される可能性も低い。
 アルシアが生きているのも奇跡に近い確立なのかもしれないのだ。
 彼女と同じ境遇に置かれた者がゼロとは言い切れないが、アイドルになって平和を訴えている者はほとんどいないだろう。
「私一人では力不足だとは思います。ですが、何もしないで生きているよりは、この方が気が楽なんです」
 どうぞ、そう言って、アルシアはクリームシチューの盛られた皿をノアの前に置いた。
「お、うまそう」
 適度に温められたクリームシチューから立ち昇る湯気と、香りに、ノアの意識が一瞬会話から外れた。
 スプーンで掬い、口に運ぶ。
「どうですか?」
「下手にレストランで食うよかこっちのが美味いな」
 最初は驚いた表情だったが、やがてノアの表情は笑顔に変わった。
「おかわりって貰えるんかな?」
「あ、はい。まだ少し残ってますけれど」
「くれ」
 歯を見せて笑い、ノアは空になった皿をアルシアに差し出した。それを目を丸くして見つめていたアルシアだったが、直ぐに笑顔を浮かべ、残りのシチューを皿に盛った。
「ん、サンキュ」
 礼を良い、ノアは二杯目のシチューを口に運んだ。
「お腹空いていたんですか?」
 笑みを浮かべたままアルシアが問う。
「まぁね。今日はちょっと動き回ったから」
 エンジェルズに追い回されたとは言えず、ノアは苦笑を浮かべた。
 今の空気が心地良く、それを壊してしまうであろう言葉を発するかどうかノアは迷った。直接、ノアの仕事には関係のない事だ。問う必要性はない。
 それでも、ノアは問う選択を選んでいた。
「さっき、気が楽って言ったけど、それ本当か?」
 アルシアは目を見開いてノアを見つめた。
「本当です」
 極僅かに声が震えているのを、ノアは聞き逃さなかった。彼女自身も自覚できない程に、微細な声の震えがある。
「俺には、そうは思えないんだけどな」
 ノアはシチューを口に運ぶ手を止め、アルシアを真っ直ぐに見つめた。
「どうして、ですか……?」
「テレビとかで二回か三回、アルシアを見たけど、どれも心からの笑顔には見えなかった」
 アルシアが言葉を失う。
「私は……!」
「他の奴らには隠せても、俺にはそうはいかないぜ?」
 ノアの言葉にアルシアが黙り込む。
 俯いたアルシアの表情は、向かい側に座っているノアには見えない。
「反戦を謳うのは悪い事じゃない。平和を望むのは良い事だと思う」
 シチューを掬い、ノアは言った。それを口の中へと運び、飲み込んでからまた言葉を紡ぐ。
「けれど、こんな所で反戦を歌っても、戦争をしている場所には届かない」
 ノアの言葉だけが部屋に響く。反響していると感じる程ではないというのに、重量感があるようにすら聞こえた。
「本当は、解ってるんじゃないのか?」
 アルシアはノアから顔を背けるように俯いたまま、黙り込んでいる。
 途端に、ノアには彼女が小さく見えた。
 同時にノアは後悔していた。
 何故、こんな事を聞いたのだろうか。反戦を謳っても、中枢区域では小競り合いが続いている。声が届かない事は、彼女自身が一番理解しているだろうに。
 ヘヴンが平和なのは、中枢区域から離脱したためだ。戦火に巻き込まれない位置にまで離れたという部分が大きい。結果、ヘヴンと中枢区域の間では交流が著しく滞り、情報がほとんど流通していない。
「解っています」
 ぽつりと、アルシアは俯いたまま漏らした。
「でも、私には、あなたのように動き回る力が無いんです」
 今度はノアが黙り込む番だった。
 アルシアは、実際にメディアに映る事で声が届いているかどうかを肌で感じ取っている。恐らくは彼女が一番気にしているであろう部分を、ノアは掘り返してしまったのだ。アルシア自身、自分の身体が不自由な事が煩わしいと感じているはずだ。思うように身動きできないというのは、煩わしいものだ。状況的なものではあるが、ノアも数回味わった事がある。 
 ただ、彼女がそんな身体だからこそ、今の地位を確立しているというのもまた事実だ。変える事のできないジレンマを、アルシアは抱えているに違いない。
「自由になれないのなら、私のような人が少しでも少なくなるようにしたいんです」
 身体が言う事を聞かない苦しみと辛さは、当人達でなければ解らない。健康体のノアには、それを推測する事しかできないのだ。
「動こうと思えば動けるんじゃないのか?」
「え?」
「戦争を間近にするのが怖いだけなんじゃないのか?」
「なら、どうすればいいんですか!」
 顔を上げたアルシアに、ノアははっとした。
 彼女は、泣いていた。
「今までだって、私なりに考えてやってきたんです! でも、私はここの象徴でしかないんです!」
 今まで堪えていたものが溢れ出したように、きつく閉ざされた両目から涙が零れ落ちる。
「ここを離れたら、私には何も無いんです……!」
 にわかに、ノアは理解した。
 メディアでは、政府に働きかけを行えるようになったと言われているが、実際は違うのだ。政府がヘヴンを中枢区域から確立させると同時に、平和を維持するための偶像として仕立て上げたに過ぎない。
 平和になるならばそれでもいい。彼女はそう考えてきたのだろう。
 だが、平和になっているのはヘヴンだけだった。中枢区域まで彼女の声は届かない。ヘヴンの政府から離れてしまえば、彼女は非力で不自由な少女に過ぎないのだ。
 目の前で涙する彼女に、ノアは何も言葉をかけてやる事ができなかった。ノア自身、自分が言った事が間違っているとは思っていない。同時に、彼女の言葉が間違っているとも思えなかった。どちらにも賛同できたからこそ、言葉が見つからなかったのだ。
「……お願いします、出て行って下さい。一人に、させて下さい」
 暫くして、アルシアは告げた。
「解った」
 ノアは静かに頷き、席を立った。
 扉を開けてから、ノアは一度アルシアを振り返った。
 彼女は椅子に座ったまま、俯き、表情は窺い知れない。ただ、テーブルに滴り落ちた涙の粒が、アルシアが泣いている事実を物語っていた。
「飯、美味かったよ。ご馳走様」
 それだけ告げて、ノアは外へ出た。
 人気のない通りに出たノアは大きく溜め息をつく。壁に背を預けて寄りかかり、夜空を見上げる。
「何であんな事言っちまったんだ、俺は……」
 言うつもりはなかった事が、口を突いて出ていた。本当は、ただ会話ができれば良かったはずなのに。
 彼女自身が一番、感じていたであろう無力さを、ノアは突付いてしまった。
 だが、ノア自身が彼女に告げた言葉に嘘や偽りはない。正直なノアの気持ちである事に間違いはない。
「俺が戦争やってたからか?」
 自分の右手を見つめ、ノアは嫌悪を込めて呟いた。
 かつて、ノアは今とは違う立場にいた。今となっては、忌々しい記憶でしかない、過去がある。昔は何の疑問も抱かずに、ノアはそこにいた。だが、今は違う。
 厭になって、ノアは抜け出したのだから。
 それから、今の立場に落ち着いた。政府はノアを手放したがらず、目の届く場所に置いた。
「嫌われちまったかな……」
 綺麗に晴れた星空を視界に収め、ノアは苦笑した。
 アルシアと揺れている時期の自分が被ったのかもしれない。だとしても、ノアが言うべき言葉ではない。既に気付いている事を他人に指摘されるのは、辛い。深く悩んでいればいるほどに。
 いっそ、雨が降っていればいいのにと、ノアは心から思った。罪悪感を引き立て、追い討ちを掛けてくれるようなものが欲しかった。彼女に告げた言葉が持つ重みが、ノアにも圧し掛かっている。
 戦争が怖い。巻き込まれて全てを失ったアルシアにとって、戦争というものに触れる事が怖いのは当然だ。今の状況を作り出し、悩みと悔やみの起因と対峙する事を恐れていない訳がない。戦争とは、彼女から大切なものの全てを奪い取った存在だ。同時に、対峙するには余りにも大き過ぎる、実体のない存在でもある。
 ノアには、晴れた夜空が怨めしかった。

 *

 部屋に一人残され、アルシアの心は沈んでいた。
 何故、感情的になってしまったのだろうか。アイドルというものになってから、今まで、誰に対しても冷静でいられたというのに。
 ノアの告げたものと同様の言葉を浴びせられた事もある。その時ですら、冷静に応対できた。勿論、本音は言わずに、だ。
 彼の言葉は、アルシアを思っての事なのかもしれない。いや、今のアルシアには、そうだと断言できる程の確信を持っていた。
 最初に出会った時から、ノアには何か異質なものを感じていた。バンダナを巻いていたり、大きなリストバンドを付けていたりという格好もそうだが、身に纏っている雰囲気が違う。具体的にどう違うのか問われてもはっきりとは言えない。アルシアがそう感じるだけなのかもしれない。
 ただ、心のどこかにノアが引っ掛かっていた。最初に出会ってから、ずっと。
 エンジェルズに追われるというのは、普通ではない。
「ちょっと、助けてくんないかな……?」
 アルシアの前にノアが現れた時、彼はそう言った。はっきり明言するでもなく、アルシアの判断に任せるように。
 普通の人間なら助けたりはしないだろう。それでもアルシアがノアを匿ったのは、彼の言葉の中に「諦め」を見たからだ。助けを求めてはいても、断る事の可能なものだった。
 ノア自身、不審者である事を自覚していただろう。だからこその言葉だ。
 恐らく、彼はアルシアを巻き込む事を恐れていたのだ。
 他者を思いやる心があると思えたからこそ、アルシアはノアに手を差し伸べた。
「ノア、さん……」
 一人になり、頭が冷やされてきた今ならはっきりと解る。
 ノアは、どこかアルシアに似ていた。
 過去のアルシアは、両親を失い、身体の一部を失い、茫然としていた。アルシアは病院で目を覚ました時、両親が既にいない事を知っていた。父も母も、アルシアの目の前で息絶えたのだから。
 だが、それだけではない。
 二人が死んだ後も、アルシアの意識は残っていた。動かなくなった二人を見て発狂したのを憶えている。周りで火の手があがっても、アルシアは泣き続けた。いっそ、一緒に死んでしまいと思っていたのかもしれない。別の意味で、それが一番楽だったとも思えるのだから。
 近くを逃げ回っていた一人の青年がアルシアを見つけ、その場から連れ出そうとしてくれた。それを拒否したアルシアを強引に引き剥がし、彼は走った。途中、近くで爆発が起きて二人は吹き飛ばされた。
 アルシアは吹き飛んできた建物の破片の直撃を受け、身体が引き裂かれるかのような激痛に気を失う。その寸前に見えたのは、頭から血を流しながらもアルシアを連れて逃げようとする青年の姿だった。
 気がついた時、アルシアは一人で寝かされていた。病室には他にも負傷した患者が大勢いたが、どれもアルシアの知り合いではなかった。あの青年もいなかった。
 青年はアルシアと共に救助されたが、間もなく息を引き取ったらしい。全て、後で聞かされた事だ。
 両親が死んでしまった事もショックだったが、同じくらい、青年の死もアルシアを揺さぶった。お互いに名前すら知らないというのに、青年はアルシアを助けようとした。そんな彼が死んでしまった事に、アルシアは酷くショックを受けた。青年一人なら逃げられたのではないか、自分が彼を殺してしまったのではないか、と。
 やがて、メディア関係者が病院を取材に来た。偶然カメラを向けられたアルシアは、自分の負った傷と両親、青年の死を語った。それが始まりだった。
 名も知らぬ人に助けられ、その人までもが死んでしまう。戦争を無くしたい。そう思い、向けられたカメラに、積極的に反戦を訴えた。
 今では、ヘヴンの治安状態を維持するための象徴となっている。アルシアの存在は、最初から政府に目を付けられていた。裏でアルシアを都合良く動かしていたのは、彼らだ。
 それでも、平和が続くのならば構わない。アルシアはそう思っていた。
 だが、戦争自体は終わらなかった。ヘヴンは平和になったが、他の場所では争いが続いている。ヘヴンの政府はアルシアを手放そうとはせず、アルシア自身も自分の身体のためにこの場を離れる事はできなかった。
「私は……」
 視線が、ノアの座っていた場所に向かう。
 空になった器だけが残されている。
 テレビ番組などでも何度か料理を作り、美味しいと言われた事があるが、ノアに言われた時が一番嬉しかった。
 アルシアの笑みが心の底からのものではないと気付いたノアが持っているのは、鋭い観察眼だけではない。恐らくは、アルシアと同じか、似た思いを抱いた事がある。境遇や状況は違っても、心の奥に何かが残るような体験をしている。そう感じられた。
 視線がアルシアの目の前に戻る。テーブルは零れ落ちた涙で濡れていた。
 空っぽの器が置かれた誰もいない席と、テーブルに落ちた雫。が二人の姿なのかもしれない。自分の思う通りに動く事のできるノアと、自由に見えて縛り付けられているアルシアの関係に思えて仕方がなかった。
 立ち上がり、アルシアはドアを開けて外を見回す。
 ノアの姿はなく、ただ、綺麗に晴れ渡った星空があるだけだ。
 彼の宿泊しているホテルも知らず、何の目的で動いているかも知らず、アルシアの方からノアに接触するのは極めて難しい。
 ノアが羨ましい。
 今日の事で、嫌われてしまったかもしれない。
 元々ヘヴンの住人ではないノアとは、そう遠くないうちに別れなければならない。彼は自由なのだから。ノアの仕事の内容は判らないが、彼ほどの行動力があれば長くはかからないだろう。もしかしたら、今のが最後になるかもしれない。
 せめてもう一度会いたい。今日の事を謝りたい。そう思う。
「自由に、なりたい……」
 アルシアの唇から、今まで押し隠していた心が溢れた。
「……もう、人形でいるのは厭なのに」
 ノアを追う事もできない自分の身体と、政府に縛り付けられた心が、恨めしかった。それでも、アルシアには、今の生き方しかできない。それが、辛かった。

 *

 翌日、ノアは最下層に来ていた。それも、政府首脳部の存在する建物の内部に。
 今までに引き続き、ノアへの監視や警戒が全くなかった事もあり、侵入は比較的容易だった。来訪者として、正式な手続きを経て施設内に入り込んだのである。その上で、一般人が立ち入り禁止となる区域へと進んでいた。無論、監視カメラなどのセキュリティへの対応も怠っていない。
 流石に、監視がつけられていないとはいえ、ノアが正面から機密区域に踏み込めば取り押さえられてしまう。そうならぬよう、細工を施していた。
 壁の一部をワイヤーで切り裂き、内部にある監視カメラ関係の配線へと特殊な装置を取り付けたのだ。一定時間内、監視カメラの画像が固定され、人が通った事が分からないように仕向ける。更に、パスコードなどを打ち込まなければならない回線に対しても同様のウィルスを侵入させ、セキュリティも無効化した。
「甘く見られたもんだな」
 昨日、最下層の一画でエンジェルズと交戦したというのに、その形跡が全く無くなっていた。弾痕もほとんどが修復され、血の跡も見当たらない。昨晩もメディアでチェックしたが、ノアの行動に関しての報道は一切無かった。
 ただ、ノアがヘヴンのネットワークに最高権限で不正侵入した際は包囲された。アクセスを感知したから、という理由だけではどうにも不審な点がある。
 結局のところ、有益な情報はネットワーク上には存在しなかったのだ。にも関わらず、ノアを大勢で包囲するというのはおかしい。
 理由は、ディヴィエイトに関係しているのだろうとノアは予測した。エンジェルズの亜種とも考えられるディヴィエイトがヘヴン以外からやってきたのだ。恐らくは彼の事情を知りたいのだろう。そのために、ノアを包囲して尋問した。
 結果として、ノアがディヴィエイトについて具体的な情報を持っていない事を知り、エンジェルズが手を引いたのかもしれない。
 全て憶測の域を出ないが、ノアが行動をする際に邪魔となるものが付近にないというのは事実だ。
 機密区域に侵入し、一直線の通路をノアは奥へと進んで行く。
「人はいない、か……?」
 ドアの見当たらない一直線の通路には隠れ場所がない。挟み撃ちに合えば逃げ場のない造りになっているのだ。
 通路の奥からは人の気配がなく、後方から誰かが追ってきているわけでもない。それでも警戒を怠らず、ノアは突き当たりまで足を進めた。
「エレベーター?」
 突き当たりにあったエレベーターに、迷うことなくノアは乗り込んだ。
 階層表示はなく、下へ向かうスイッチだけが存在している。
 急速に降下していくエレベーターの中、ノアは違和感を抱いていた。
 やがて、違和感は確信へと変わる。
 エレベーターは明らかに最下層よりも下へと動いている。それが単なる建物としての一階であったとしても、別の最下層が存在する事に変わりはない。
「それで階層が少なく感じたのか」
 エレベーターの中でノアは納得した。
 観光ガイド等を見た際に階層が少なく感じたのは錯覚ではなかったのだ。本当の最下層を隠したために、全体を見れば容積に対しての階層数が少ないという事だ。
 空間的な余裕は他の階層と同じぐらいはある。それだけの広さがあれば、大抵の事ができるはずだ。秘匿されているが故に、誰にも知られる事なく。
 エレベーターが停止し、扉が開いた。
 ノアはエレベーターから降りると、周囲を見回した。
 まだ建物の中らしく、通路が伸びている。さほど遠くない場所にガラスのドアが見えるが、内部に明かりはなく、人がいる気配もない。同時に、通路に監視カメラもない。
 ノアは素早く通路を進み、警戒しつつ部屋に侵入した。
 部屋には誰もおらず、電気もついていない。何もない部屋の奥、更に存在する扉へと歩みを進める。
 長い通路が続き、次に扉を開けた瞬間、ノアは息を呑んだ。
「これは……!」
 その部屋は広かった。
 部屋の中には巨大なシリンダーが規則的に並び、シリンダーとシリンダーの間に通路が来るように網目状に足場が造られている。薄暗い部屋の中、シリンダーが仄かに光を帯びていた。
 だが、目を引いたのは、シリンダーの中身だ。
 人間二人分は余裕で入るであろう巨大なシリンダーの中に、人が浮いている。緑掛かった透明な液体の中で、全裸の人間が眠っていた。一つのシリンダーにつき一人の人間が、性別を問わずに眠っている。
「これが、エンジェルズ……」
 ノアには、そうとしか考えられなかった。いきなり人間がエンジェルズのような力を手に入れられるとは考え難い。何らかの手順を踏んで生体調整を行うと考えていたが、恐らくは今見た光景がその調整に違いない。
 言葉を失っていたのも束の間、ノアはシリンダーの一つに歩み寄った。二十代と思しき女性が浮かぶシリンダーを一瞥し、視線を落としていく。シリンダーの基部になる付近にはノアが予想していたようなコンソールパネルなかった。
 一つ一つのシリンダーに操作パネルが無いという事は、全てのシリンダーは一括して管理されているという事になる。
 そこで一瞬考えを巡らせる。
 ここにいるエンジェルズを全て処分すべきか否か。
 後々敵となるのであれば排除するべきだろう。だが、この場で生体調整を受けている人間達全員が敵になるとも言い切れない。ノアに危害を加える事がないのであれば、排除する必要もない。それに、排除するためにシリンダーを破壊したり、コンソールでシリンダー全ての機能を停止させたとすれば、恐らくは何らかのセキュリティに引っかかるはずだ。単身乗り込んでいるノアとしては、セキュリティに察知されるのは避けたい。
 包囲されるのを避けるとなれば、シリンダーは放っておくしかない。
「とりあえずは、情報だな」
 自分に言い聞かせるように呟き、ノアは部屋の奥へと足を進めた。
 調整管理室と記されたドアを開ける。内部には、生体調整のためのシリンダーを管理しているであろう機器が壁と一体になるように並んでいる。
 ノアは機器の中から情報を引き出す事に使えそうな端末を探し出すと、起動させた。
 システムが起動するまでの僅かな時間でディスクを取り出し、端末に押し込む。重要なデータがあればコピーして持ち出すためだ。
『エンジェル、概要』
 そう記されたファイルを展開する。
『後天的に人間の身体を変質させ、肉体強化を施す事により、身体能力の向上を図る。肉体強化を施した者達で戦闘部隊を編成。これをエンジェルズと呼称する事にする』
 冒頭の一文は誰もが考え付くところだ。肉体を単純に強化するだけでも、他の生命体に比べて身体能力の低い人間の力は予想以上に上昇する。
 同時に、強化された身体を動かすために神経系も発達する。反射神経などが強化される事により、知覚能力も上昇するのだ。
 ノアは詳細に纏められた能力上昇の値や、調整方法をディスクにコピーし、更にファイルを読み進める。
『翼を生成する機関を人為的に生成させる事によるメリット。一、翼という本来なら人間に存在しない器官を動かすため、脳の使用領域が増加、思考能力が上昇する。二、脳の機能が拡張される事により、通常の人間が持ち得ない特殊な能力が使用可能となる』
 ノアは眉根を寄せた。
 メリットの前者はまだ納得できる。思考能力が上昇する事が兵士としてメリットなのかどうかは判断しかねるが、能力の上昇という点においてはプラスであると言える。だが、後者はにわかに信じ難い。
 通常の人間が持ち得ない特殊能力とは、何なのか。
 飛行能力を持たせるのが目的ならば、個人用のジェットパックを持たせれば良い。コストは掛かるが、生体調整よりも効率は良いはずだ。自分の身体となる翼の方が扱い易いのかもしれないが、それだけでは生体調整というのは非効率だ。
『現在確認された特殊な能力』
 思考を中断し、ノアはファイルに視線を戻した。まずは全てに目を通した方が良い。
『翼の振動による波の干渉効果』
 要は衝撃波を作り出すという事だろう。
 ノアは今まで、ファイルに記された能力を受けた事がない。実際にその能力を見ていないノアには、真実か否か判断できなかった。常識的に考えて、安易に信じる事はできない。だが、だからといって嘘であるという保障もない。背に翼を生やす事のできるエンジェルズの存在ですら常識から逸脱しているのだ。寧ろ、真実であると判断すべきだろう。
『エンジェル・セカンドについて』
 次に見つけたファイルの名が気にかかり、ノアはそれを展開した。
『実際に編成されたエンジェルズのデータを基に、更なる強化を図る。基本概念は、エンジェルズを統率する一段階上の強化人間とする。問題点は、生体調整の適正がある人材が少ない事。生体調整の際にかかる精神的な負荷に耐えられない者は精神崩壊を起こす恐れもある。現時点での成功例は一人。この段階以降の強化には研究の余地有り』
 ノアはデータを全てディスクへとコピーすると、部屋を出た。
「エンジェルズの次の段階があったのか……。あいつと関係があるのか?」
 呟き、生体調整室から出た。来た道とは別の、サイズの一回り大きい三つ目のドアを開け、通路を進む。
 あいつとは、ディヴィエイトの事だ。成功例が記されていたところを見ると、ディヴィエイトがエンジェルズ・セカンドであるとは言い切れない。ヘヴンから離脱したと考えても、それを成功例と記すとは思えない。単純に、他の空母都市でも同様の研究が行われている可能性も存在するのだから。
 情報は得た。
 後はディスクにコピーした情報を中枢区域の本部に転送すれば、ノアの仕事は完了する。追加の依頼が無ければ、これでヘヴンを発つ事になるはずだ。
 通路の先は、建物の出口だった。
「ここが、最下層、か」
 一見して、他の階層と変わらない雰囲気を持っている。だが、歩いているのはエンジェルズの服を着込んだ者達ばかりだ。僅かにエンジェルズ以外の者もいるようだが、状況から考えても一般人には見えなかった。恐らくは、生体調整に関わる者か、エンジェルズの編成に関わっている政府関係者だろう。
 ノアは手近な物陰に身を潜め、携帯端末を開いた。システムを立ち上げ、エンジェルズの情報を記録したディスクを押し込む。
 特殊な暗号回線を使い、ディスクから更にコピーした情報ファイルを転送させる。
「……ん?」
 画面にエラーが表示され、転送処理が中断した。
 再度転送を行うが、直ぐにエラーが表示され、転送処理が中断してしまう。
 暗号回線はそう簡単にハッキングできるものではない。他者が暗号回線を掴んだとしても、転送した情報全てを掴む事はできない。何かが転送された形跡を発見し、そこからファイルを復元する事はできても、転送自体を止める事はできないようにされている。
 ヘヴンがジャミングをしているわけでも、空母内部にいるからという理由でもない。ノアの携帯端末も正常に機能している。コンピュータウィルスやハッキングを受けている様子はない。
「どうなってんだ、おかしいじゃねぇか……!」
 ノアが持っている携帯端末は、中枢区域においても高性能なものだ。情報伝達機能は特に高いものが搭載されている。現時点では、ノアの端末の通信手段を遮断するような技術は存在しない。ヘヴンの技術力がそれほどまでに発達しているのか、中枢区域で何かあったというのか。それとも、別に原因があるのか。
 ただ、厭な胸騒ぎがした。
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