五 「強襲」


 中枢区域と連絡が取れない。それは、ノアの孤立を意味する。
 ディヴィエイトがいない今、ノアに味方はいない。
 そもそも、中枢区域と連絡が取れないという事自体が信じられない。高度な技術で構築されたプログラムが簡単にいかれてしまうとは思えなかった。
「どうなってんだよ……!」
 エラーと表示された端末の画面を睨み、ノアは呟いた。
「教えてやろうか?」
 唐突にかけられた声に、ノアは動きを止める。
 ゆっくりと顔を上げた先に立っていたのは、ディヴィエイトだった。壁に背を預けて腕を組み、エンジェルズの制服を身に着けている。
「ディヴィエイト!」
 いつの間に、ノアはその言葉を呑み込んだ。
 信じられないものを見るような目を向けるノアに、ディヴィエイトは微かに肩を竦めた。
「お前、何で……」
 今まで何をしていたのか、何があったのか、何故エンジェルズの服を着ているのか、聞きたい事は山ほどあるというのに、何から言えば良いのか判らない。ノアは、ただ言葉を詰まらせた。
「直に、連合国家軍の部隊がヘヴンに攻撃を仕掛けてくる」
 ディヴィエイトの口から放たれた言葉に、ノアは眉根を寄せた。一瞬、理解できなかった。
「お前もろとも、ヘヴンを沈めるつもりだ」
「何言ってんだよ、お前……」
 自然と、ノアの表情が強張る。
 中枢区域の連中がヘヴンに攻撃を仕掛ける。そうなれば、今、中枢区域と連絡の取れないノアに脱出の術はない。加えて、宣戦布告もなしに奇襲されたなら、ヘヴンは確実に沈められてしまう。この状況でヘヴンが沈めば、ノアも巻き込まれて死ぬ事になる。
 だが、中枢区域の諜報員でもあるノアは、まだヘヴンにいるのだ。情報の転送もしていない。
「まさか、始めから……?」
 ディヴィエイトは何も言わない。
 始めから仕組まれていた事だとすれば、辻褄が合う。
 ノアをヘヴンに向かわせた後で、ヘヴンを沈めれば、その戦闘でノアも命を落とすだろう。加えて、情報が転送できなければ、ノアがヘヴンに留まる時間は長くなる。そもそも、ヘヴンの調査、という範囲の広い曖昧な内容の仕事を任されれば、暫くヘヴンに留まるであろう事は明白だ。更に、ヘヴンの構造や地図などを持たせなかったのも、ノアの行動時間を増やすためだろう。
 そうして時間を稼ぎ、ヘヴンを強襲する。
 ヘヴンに不穏な動きがあったとしても、その計画ごと沈める事ができる。加えて、ノアも始末する事が可能だ。
 噛み締めた奥歯が音を立てた。
「お前も、俺も、厄介者だったという事だな」
 ディヴィエイトが呟く。
 素性の知れない記憶喪失のディヴィエイトと、機密を知り過ぎたノアは、中枢区域にとっては厄介なものだったのだ。特に、ノアは機密を知りながら、軍を離れようとした。中枢区域の裏を知り過ぎている。前線から退く事はできたものの、軍の管理下には置かれていた。
 もし、ディヴィエイトが中枢区域でも翼を出した事があったなら、厄介払いされる可能性は高くなる。有用なデータが採取できれば、後はお払い箱にしたい所だろう。
「何でお前がこんな事知ってるんだよ?」
「中枢区域で身体の検査を受けている最中に聞いた。俺が寝ていると思っていたらしい」
 何でもない事を言うかのように、ディヴィエイトは淡々と答えた。
「今の情報は選別代わりだ。今から空港へ向かえば、まだ間に合うだろう」
「選別代わり? お前、まさか……」
 眉根を寄せるノアを一瞥してから、ディヴィエイトは背を向けた。
「思い出したんだ、俺のすべき事を」
 ディヴィエイトが呟く。
「記憶、戻ったのか!」
 ノアの言葉に、ディヴィエイトは静かに頷いた。
 その言葉に、ノアは目を鋭く細めた。
「ディエル、まだかかるの?」
 ディヴィエイトの脇に見える通路の奥から、一人の女性が歩み出た。それは、以前、ノアをホールドアップした女性、フィーゼシアだった。
「フィズか、もう終わる」
 目を見開くノアを他所に、ディヴィエイトがフィーゼシアに顔を向ける。
 よくよく考えれば、エンジェルズの服を着込んでいるのなら二人が会話をしても不自然な事はない。ディヴィエイトが元々エンジェルズだったというだけだ。
「俺は、ヘヴンを守らなければならない。もし、お前が邪魔をするというのなら、容赦はしない」
 鋭く細めた視線をノアへ向け、ディヴィエイトが告げる。
「あなたには、少しだけれど、感謝しているのよ。彼を連れて来てくれたんだもの」
「感謝、だって?」
「ええ。彼は、私と違って、エンジェル・セカンドへの調整の際、精神負荷に耐え切れずに暴走し、失踪してしまった。まさか、中枢区域で発見されていたとは思わなかったけれど」
 フィーゼシアはノアを見下ろし、言葉を紡ぐ。
「中枢区域がヘヴンを狙っていると解ったから、あなたがどう動こうと私達には問題無いのよ」
 恐らくはディヴィエイトから情報を聞いたのだろう。中枢区域の強襲がある事を知ったヘヴンは、対応するための準備に人員を割いていたという事だ。切り捨てられたノアに時間を割く事自体が無駄だったのだ。
「お前らに、中枢区域の部隊が倒せるのか?」
 ノアは問う。
 中枢区域の保持する戦力は半端なものではない。戦時中だからといって、ヘヴンの強襲に手を抜くとも思えなかった。
 表向きは平和を掲げているヘヴンには、戦闘用の兵器は銃火器程度しか見受けられない。空襲を仕掛ける戦闘機に対応する術があるのだろうか。
「エンジェルズはそのためのものだ。ヘヴンの住人全てを逃がすのは無理だからな」
 フィーゼシアの言葉に、ノアはエンジェルズの情報を思い出した。
 特殊な能力を持つというのが真実ならば、戦闘機を破壊できる可能性もある。
「ここは戦争反対だからな、こうやって、我々が兵器を持たずに戦力となるのさ」
 誇らし気にフィーゼシアは言った。
 人間を調整して生み出した生体兵器としての戦力ならば、一見しただけでは兵器には見えない。戦力に見えないのならば、表向きは戦争反対を掲げ、兵器を削減しても総合的な戦力は変わらないのだ。生物兵器としてのエンジェルズは、ヘヴンには都合の良い戦力だったに違いない。
「そういう事だ。だから、お前に構っている暇はない。この先の事は好きにしろ」
 ディヴィエイトが告げる。
 見逃してやる、ノアにはそう聞こえた。
「それから、俺の名はディエル・ロー・サイグスだ」
 ディエルはそれだけ言うと、フィーゼシアを連れて通路の奥へと消えて行った。
 ノアには、追う事ができなかった。もう、ディエルはノアの仲間ではない。いや、そもそも、ノア自身に仲間などいなかった。中枢区域でさえも、ノアを切り捨てたのだから。
 ノアの仕事は無くなった。中枢区域に縛られる事なく、動けるようになった。
 湧き上がる怒りと、悲しみを堪え、ノアは端末を閉じるとジャケットの内ポケットにしまい込んだ。
 ノアも、最終的に切り捨てられるだろうとは考えていた。いつになるか読む事はできなかったが、その時が今来るとは予想していなかった。否、まだ大丈夫だと甘い考えを持っていたに過ぎない。
「俺は、死なねぇぞ。生き延びてやる……!」
 殺されてたまるものか、心中で呟き、ノアは来た道を引き返していた。

 *

 最上層にまで戻ったノアは、ホテルへの道を急いでいた。部屋に置いてきた荷物を回収した上で、退路を確保しなければならない。
 生き延びるためには、敵の部隊が来るまでにヘヴンから離脱するしかない。
「くそっ」
 口の中で悪態を繰り返す。
「ん……?」
 街中にある大型のスクリーンから、歌が聞こえてきた。自然と、ノアの足は止まっていた
 儚げに目を細め、アルシアが両手でマイクを抱えて歌っている。今までとは違う、どこか寂しげな声と眼差しがノアの心を突いた。
 ノアはスクリーンに映るアルシアに鋭い視線を投げた。任務の間、アルシアの事は心の奥底へと押しやっていた。ノアがこなす仕事の中には、時として感情が邪魔になるものがある。仕事とプライベートを分ける事がほとんど習慣になっていた。
「今日は最上層でのライブなのか」
 歌を歌うアルシアの背後に青空が見えた。画面の端に観客らしい人影が映る事からも、撮影セットというわけでもなさそうだった。
 このまま行けば、ヘヴンは戦闘に巻き込まれる。
 エンジェルズ達は中枢区域の部隊をヘヴンの周囲で抑えようと考えているようだが、少なからずヘヴンにも攻撃は届くだろう。そうなれば、最上層にいる人々の被害は相当なものになるはずだ。
 最上層に家を持つアルシアとて例外ではない。むしろ、運動能力が一般人に比べて劣るアルシアは攻撃に巻き込まれる可能性が高い。
「今からで、間に合うか?」
 小さく呟き、ノアはホテルへと急いだ。ホテルに着くと、部屋へと戻って荷物を整え、フロントで手続きを済ませた。
 バッグを肩にかけ、ノアは街中のスクリーン前に戻る。
 スクリーンを凝視し、アルシアがいるであろう場所の特徴を見極めた。昨日、ヘヴンの構造を知るために購入した地図を広げ、位置を特定する。
「思ってたよりも遠いな」
 眉根を寄せ、ノアは呻いた。
 走っていては、手遅れになる。かといって、交通機関を使うにしても数分などという短時間で着ける場所ではない。
「仕方ねぇ、やるか」
 ノアは大きく息を吐き出し、両手首にあるリストバンドに交互に触れた。ロックが外れ、ワイヤー・システムがアクティブに変化する。
 手近な高層ビルの屋上へと右腕を突き出し、ワイヤーを射出する。銀色の光が閃き、ノアと建物とを繋ぐ。アンカーが建物の壁を捉えた事を手応えとして感じ取り、ノアはワイヤーを巻き取った。建物へと引き寄せられ、ノアの身体が浮き上がる。
 十数秒と経たないうちに建物の屋上へと辿り着く。着地すると共に周囲を見回し、手頃な建物に当たりを付けるとワイヤーを放つ。
 ビルの間を縫うように、ノアはワイヤーを使って移動していった。バンダナが顔の脇ではためくのを感じながら、ノアは白銀の筋を放ちながら進んで行く。
 通常の交通機関よりも素早く、目的地へと一直線に突き進んでいった。
「見えた!」
 ノアの視線の先、開けた公園の中央に特設されたステージが見えた。その上で、アルシアが歌っている。
「はっ!」
 細く息を吐き出し、右腕をアルシアへ向けた。一瞬でアルシアや観客の僅かな動きを見極め、ワイヤーが命中しないように方向を微かにずらす。
 放たれたワイヤーが白銀の筋となって伸びる。アルシアのすぐ脇をワイヤーが通過し、後方にある建物に命中した。
 別の建物に打ち込んでいた左腕のワイヤーを回収し、右腕のワイヤーを使って加速する。
 目を見開き、ノアはアルシアと接触する瞬間に意識を集中させていく。
 観客はアルシアに注目し、近付いていくノアは見えていない。
 すれ違う瞬間、ノアは左腕でアルシアの身体を抱き寄せるようにして捕まえた。そのまま引き寄せ、ワイヤーを打ち込んだ建物まで移動する。
 一瞬の事に、アルシアは何が起きたのか解らない様子だった。目を瞬かせるアルシアを他所に、ノアはワイヤーを別の建物の屋上へと打ち込んだ。
 観客が静まり返り、間を置いて騒ぎ始める。
「歯を食い縛れ、舌を噛むぞ」
 脇に抱きかかえたアルシアに囁き、ノアは跳んだ。
「え?」
 きゃっ、とアルシアが微かな悲鳴を上げたのが聞こえた。
 風を切って空を駆ける。
「な、なに? どうしたんですか!」
 屋上に逃れたノアに、アルシアが困惑しながら辺りを見回す。
「アルシア、今すぐヘヴンから出るぞ」
「ノアさん……? 何を言ってるんですか?」
「ここは中枢区域の攻撃を受ける。早くここから逃げないと巻き込まれるんだ!」
 うろたえるアルシアに、ノアは告げる。
 辺りが騒がしくなり始めていた。平和の象徴として有名だったアルシアが観客のいる前でいきなり姿を消せば、騒ぎになる。だが、できる限り迅速に行動しなければ中枢区域の攻撃が始まってしまう。彼女を助けるためには、手段を選んではいられなかった。
 ディエルがフィーゼシアに急かされていた事を考えれば、攻撃は今日中だ。それも、夜になる前だろう。既に昼は過ぎている。時間がない。
 ノアがヘヴンに着いてから、今日で三日目だ。
 中枢区域が準備を急げば、空母都市一つを陥落させるだけの戦力を編成するためには二日もあれば十分だ。中枢区域からヘヴンに到着するまでにほぼ一日掛かっている事も考慮すれば、準備は既に整っている。
「中枢区域の攻撃……?」
「ここが戦場になるかもしれないんだ」
 口ではそう言いながらも、確実に戦場になるであろうとノアは考えていた。
 アルシアの背後の方角に見える空港から、一隻の船が飛び立つのが見えた。手続きなどを考えれば、その飛行艇には乗り込む事はできない。乗るなら、次の便だ。
「行くぞ、アルシ……!」
 ノアの言葉が終わらないうちに、遠くで何かが光った。
 飛行艇が飛んでいった方角から、光が見えた。強烈だったのは一瞬だけだが、その後で赤い光が見えた。同時に、黒い靄のようなものも。
 刹那、ノアの背筋に久しく感じていなかった感覚が走った。
 戦場の空気だ。
 今のノアには忌々しいと感じる。
 ほんの一瞬、戦場の空気が風となってノアに纏わりつく。たったの一秒にも満たない時間であっても、ノアには十分だった。
「間に合わなかった!」
 ノアの表情が険しいものへ変わっていく。
 今の光は、飛行艇が撃ち落とされて生じたものだ。次の便でヘヴンから出たとしても、撃ち落とされてしまう。もう、一般の飛行艇で脱出する事はできない。
 ヘヴンの街並みのあちらこちらから、砲台が姿を現していく。空母都市が防衛体制に入った証拠だ。それが敵襲の証明にもなる。
「何、今の……?」
 アルシアが振り返り、遠くで消え行く光と砲台を見て呟く。
「中枢区域の部隊が来る」
 ノアは空を見上げた。
 複数の迷彩が施された輸送機がヘヴンの頭上で姿を現していく。ゆっくりと、晴れ渡った空に輸送機が目に見え始める。周囲が混乱する中で、迷彩を解いた輸送機から大量の爆雷が投下された。
「くそっ、やっぱりそう来るか!」
 音も無く落下する球体が地面に接触した瞬間、轟音と閃光、衝撃と熱量を放つ。全てを吹き飛ばそうとするかのような爆発がヘヴンの最上層を襲う。
「きゃあああぁっ!」
 爆発の衝撃はノアとアルシアのいる建物をも崩した。二人とも空中へ放り出される。爆発で全てが吹き飛ばされる。住人を始め、建物、上層区の地面が削り取られていった。
「アルシアぁーっ!」
 叫び、ノアは右手を突き出す。放たれたワイヤーがアルシアの脇を通り過ぎ、ノアと地面を結ぶ。そのまま、一直線にワイヤーで空を駆け、アルシアを左腕で捕まえた。
 ノアが着地すると同時に、爆雷の投下が終了する。
 ほんの数分の間に、ヘヴンの最上層は変わり果てた姿になっていた。
 建物は崩れ、火災によって黒煙が立ち上る。地面には大きな穴が開き、捲れ返った層の間の金属が地形を滅茶苦茶にしていた。巻き込まれた人々が辺りに倒れ、生き延びた人々が何かを叫びながら逃げ惑う。
「あ、ぁああ……」
 声だけでなく、身体も震わせ、アルシアが声にならない悲鳴を上げる。
「エンジェルズ……!」
 飛行艇が撃ち落とされた空域から、翼の生えた人影が多数、高速で向かってきているのが見えた。ノアが見たエンジェルズの飛行速度とは比べ物にならないほどの速度だった。ジェットパックの速度にも匹敵するかもしれない。
 先頭にはフィーゼシアの姿が見えた。その背中にはディエルと同じ、黒い翼が生えていた。
 エンジェルズが到着するのと同時に、輸送機の中から、二足歩行型の戦闘機兵が落下してくる。直線的な身体に、両腕に銃器を装備した機兵が空中から射撃した。エンジェルズの一人がそれをかわし、一際大きく翼をはためかせた。
 途端に、発生した衝撃波で機兵が吹き飛ばされた。
「何? 何が起きてるんですか?」
 震える身体を自分で抱き締め、アルシアが呟く。
「こういう事が起きるから、逃げようって言ったんだ」
 ノアはアルシアを立ち上がらせる。
「陽動に引っ掛かったのか、あいつら」
 視線を細め、ノアは呟いた。
 恐らくは、戦闘機がヘヴンに向かってきていたのだろう。それに対応するためにエンジェルズが出払ってしまったのだ。エンジェルズがいない隙を突いて、輸送機をヘヴンの真上まで移動させたに違いない。
 ヘヴンの飛行艇が撃ち落とされたのも、その方向で戦闘が起きていたからだ。陽動とは言え、ヘヴンから脱出する船を逃さないための部隊でもあるのだろう。
「行くぞ、アルシア!」
 ノアはアルシアの手を引いて駆け出した。
「一体、どういう事なんですか!」
 必死に走りながら、アルシアが声を上げる。
「中枢区域は、ヘヴンが邪魔になったんだ。ついでに俺も始末しようとしてる」
 振り返らずに答え、ノアは地形の悪くなったヘヴンの道路を走っていく。
 空では機兵とエンジェルズが戦闘しながら高度を落としていくのが見えた。いずれ、ヘヴンの上での戦闘になるだろう。エンジェルズの戦闘能力は機兵に近いレベルにまで達しているようだった。それでも、機兵の攻撃の破壊力の方が圧倒的に高い。命中すればエンジェルズと言えど、一瞬で粉々になってしまうはずだ。
 だが、機兵と生身で戦えるというのは、驚くべき事だ。エンジェルズは十分、実用レベルに達している。
 地上の人間達にとっては、機兵の銃撃が無薬莢弾である事が幸いだった。薬莢の出る武器が使用されれば、頭上から金属の塊が雨のように降って来る事になる。そうなれば逃げ惑う人々は成す術なく死んでいくだろう。
「ま、待って……下さい……っ!」
 不意に、アルシアが苦しげに呻いた。
 ノアははっとして、足を止めた。ふらついてくるアルシアを抱き止め、ノアはその時になって彼女の運動能力が低い事を思い出していた。走るだけでも呼吸困難になる。それを忘れていた。
「はっ、ぁ……はぁ……っ」
 身体を折り曲げ、アルシアは胸を押さえて蹲った。彼女の首筋にはびっしりと汗が浮き出ている。
 ノアは声をかけようとして、伸ばした手を止めた。最初にアルシアの手を引いて走り出してしまったのはノアだ。大丈夫かどうか、今更声をかけてももう遅い。
「うぉぁっ!」
 直後、ノアの背後で轟音が響いた。衝撃波に、ノアの足元がふらつく。
 機兵が着地し、空中のエンジェルズに砲撃を行っていた。十メートル近い大きさの機兵をノアが見上げると同時に、機兵のカメラ部分が二人に向いた。
 気付かれたと思った瞬間には、ノアは駆け出していた。
「やらせるかぁっ!」
 叫び、右腕のワイヤーを射出する。直ぐ脇の建物にワイヤーを打ち込み、ノアは跳躍した。同時に、左腕のワイヤーを道を挟んだ対面の建物の壁に打ち込む。右側の壁を蹴って左側の建物に跳び上がり、更に壁を蹴って高く跳躍する。
 機兵の胸部、コクピットがある高さまで跳躍したノアは、両腕を大きく左右に開いた。四つのワイヤー射出口から白銀の光が飛び出す。左右四本ずつ、合計八つのワイヤーが射出されていた。
 大きく開いた両腕を交差させるように横薙ぎに振るう。真正面で八つのワイヤーが交錯し、白銀の光はリストバンドへと納まっていく。
 右腕のワイヤーを直ぐ脇の建物に打ち込み、ノアは落下を防いだ。ワイヤーを使って着地した瞬間、機兵が崩れ落ちた。
 八つのワイヤーで上半身をバラバラに切り裂かれた機兵が崩れ落ち、瓦礫の山を作る。パイロットは助からないだろう。コクピットを中心に切り裂いたのだから。パイロットの死体自体は外側から見る事はできない。瓦礫の山の中に挟まれている死体をわざわざ見ようとも思わない。
「アルシア、動けるか?」
 蹲ったままのアルシアに駆け寄り、ノアは問う。
 彼女が動ける状態にないのなら、ノアが運ぶしかない。
「だ、大丈夫……です。落ち着いて、きましたから」
 徐々に呼吸が整っていくアルシアを見て、ノアは顔を歪めた。走っての移動はアルシアへの負担が大き過ぎる。かといって、ノアが彼女を背負って行くとなれば移動力が低下する。両手が塞がってしまっては、いざという時にワイヤーが使えない。
「いたぞ! ノア・スクリームだ!」
 頭上から声が聞こえ、ノアは顔を上げた。
 ジェットパックを背負い、脇にライフルを抱えた兵士が滞空していた。
「歩兵もきやがったのか!」
 舌打ちし、ノアは兵士が銃を構えるよりも早くアルシアを右腕で抱きかかえ、左側に見えた狭い路地の奥へとワイヤーを射出する。手応えを感じると同時にワイヤーを巻き取り、地面を蹴飛ばした。ノアの身体は高速で引き寄せられ、路地の奥へと滑り込む。
 銃声が聞こえるのとほぼ同時だった。
「ノ、ノアさん……」
 アルシアが何か言いたげに口を開く。彼女の顔には不安が広がっていた。状況が理解できないだけではなく、様々な事に不安と恐れを抱いている。
 彼女が両親を失った時と同じ状況になりつつある。精神的にはもうガタガタだろう。
 ノアはどこかでアルシアを落ち着かせる必要があると感じた。そうでもしなければ、彼女の心が崩壊してしまいかねない。
「アルシア、俺に捕まっててくれ」
 ノアはアルシアを背負うと、告げた。左腕をアルシアの尻に回し、右腕を自由にする。恐怖もあってか、アルシアはノアにしっかりと抱き付いた。微かに彼女の身体が震えているのを感じた。
「くそっ、こんな状況じゃなければ……」
 アルシアの胸がノアの背中に当たっている。同時に、ノアは彼女の尻にも触っている。当然だが、今は喜ぶだけの余裕がない。
 切羽詰った状況でなければ良いのにと、ノアは心の底から思いながら、走り出した。
 喜ぶだけの余裕はない。それでも、そういう風に考える事ができているというのはノアが落ち着いている証拠だ。周りやアルシアは混乱しているというのに、ノアは自分でも驚く程に冷静だった。多少の焦燥感はあるが、まだ平常心が大部分残っている。
「染み付いてるんだよな」
 戦場にいたという経験の賜物だ。今では快く思っていないが、慌てて何も考えられなくなってしまうよりはマシだとも思えた。
 狭い、廃墟のようになった路地を駆け抜けていく。
 路地の中には他に住人は見当たらない。やはり、大半は広い大通りの方へ行ったのだろう。多くの人間がいた方が、こういう時は安心できるものだ。もっとも、場合によっては大勢で移動する方が命取りになる事もあるのだが。
 狭い路地は途切れていた。
 爆雷の影響で住宅街の一部は吹き飛び、綺麗に円を描いて地面に穴が空いている。最上層の地面を貫き、上層区の二階層目が見えていた。
「丁度良い、ここから中へ入るか」
 周囲を見回し、ノアは穴の中に飛び降りた。
 バンダナがはためき、アルシアの体重が消える。ノアは右腕で穴の縁にワイヤーを打ち込み、落下を止めた。停止した瞬間にアルシアの体重が一気に圧し掛かったが、堪える。
 そのまま、ワイヤーを緩やかに伸ばして行って二階層目の地面に足を着けた。
 二階層目の内部も混乱していた。
 既に機兵は二階層目にまで侵入し、エンジェルズと交戦している。その戦闘の余波が周囲の建物を壊し、最上層に空いた穴を広げている。階層の天井からも時折破片が落下してきていた。
「うぅ、う……」
 ふと目線を背後に向けると、アルシアはきつく目を閉じて泣いていた。
「アルシア……」
 ノアは唇を噛み締めた。
「どうして……どうして……」
 ぼろぼろと涙を零し、うわ言のように呟くアルシアを背負ったまま、ノアは二階層の中を駆け出した。
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