六 「繋がる事情」


 上層区第二階層の住宅街を無事に抜け、ノアとアルシアは中層区へと降りて来ていた。
 エレベーター付近では上から避難してきた住民が流れ込み、混乱している。ノアは最上層から降りた時と同じように、爆雷によって空けられた穴から下へと降りていた。無人となったビルの屋上に降り立ったノアはそこで一度休憩を取る事にした。アルシアを落ち着かせるためだ。
 爆雷による損傷は中層区にぎりぎり届いているといったところだ。中層区の地面は、熱量で歪んでいる部分はあるものの、穴があいている場所は無い。
「落ち着いたか?」
 屋上の柵に両腕を乗せて周囲の様子を見ていたノアは、背後に振り返って尋ねた。
「……はい」
 目を伏せ、階段への入り口の壁に背中を預けたアルシアは小さく答えた。
「心、強いな」
 ノアの言葉に、アルシアは顔を上げた。目を見開いてノアを見つめている。
「もっと、傷になってるかと思った」
「皆が、励ましてくれましたから」
 アルシアが曖昧な笑みを浮かべた。
 悲運のアイドルとして有名になったアルシアの下には、多数のファンレターが寄せられたようだ。それも、アルシアを励ます内容のものがほとんどだったらしい。
 彼女が平和を歌い続けていた背景には、仕事をする事で激励してくれた人達に応えたいという思いがあったに違いない。全てを失い、たった一人になったアルシアにとって、激励の手紙は心の支えになるのだろうから。
「私、何て言えばいいのか分かりません」
 アルシアはノアから視線を外す。
 聞きたい事は沢山あるのに、何から聞けばいいか、聞いて良いものなのか、分からないのだ。知りたいと思う意志と、知るべきではないと考える恐怖が同居しているに違いない。
「いいさ、俺の方から話すよ」
 ノアは溜め息をつくと、告げた。
「ヘヴンは、中枢区域に目をつけられていたんだ。一度、壊滅的な打撃を受けた後、中枢区域から離れて、辺境空域で独自に動いていたからな」
 集団の中で独断行動をすれば目立つ。
「え、でも、それは……」
「ん?」
 アルシアが口を挟んだ。
「中枢区域が、ヘヴンを追放したと聞いてます」
「何だって?」
 ノアは眉根を寄せた。
 中枢区域がヘヴンを追放したという情報は聞いていない。
「本当です。以前、政府の方が話しているのを聞きました」
「それはいつ聞いたんだ?」
「ヘヴンが中枢区域を離れる前、私が今の仕事を始めて間もなくです」
 アルシアの答えに、ノアは眉根を寄せた。
 中枢区域からヘヴンが離脱したというのは、中枢区域周辺の人々にとっては大きな事件だった。だが、その前にヘヴンが爆撃に遭うなど、多大な被害を被っていた事もあり、ほとんどの人は敵の攻撃が理由だと考えている。
「もしかして……」
 ノアの頭に、一つの仮説が浮かんだ。
「どうしたんですか?」
「ヘヴンを追放されたのは、アルシアの働きが原因かもしれない」
 その言葉に、アルシアが硬直した。
 アルシアが平和を掲げてアイドルになったのは、ヘヴンが中枢区域から離れる前だ。現在でも、中枢区域での戦争は続いている。目的や思想は空母ごとに様々だが、利害が一致している者同士が同盟を組んだ結果、中枢区域は二つに別れた。連合国家軍と反連合軍の戦争は、もはや後には退けない状態にある。戦争が終結するためには、どちらか一方が折れるしかない。
 そんな情勢の中、平和を掲げる思想というのは邪魔になる。平和のために、戦争を早く終わらせようと戦うのならまだ良い。だが、平和のために戦争を止めよう、という思想は士気を下げる。士気が低下してしまうような思想が中枢区域に広まらぬようにするには、思想を広めている根元を排除するしかない。
 だが、同じ連合国家軍の中でいざこざがあれば、反連合軍に隙を見せる事になる。
 アルシアの働き掛けが今ではヘヴンの治安維持に貢献しているというのだから、排除対象に入ってもおかしくはない。アルシアのデビューをノアが知らないのは、情報統制で遮断されたためだろう。ヘヴン以外に広まらぬようにしたと考えるのが妥当だ。
「ヘヴンから中枢区域へ情報が全く入って来ない理由も説明がつく」
 ノアは顎に手を当てて呟いた。
 中枢区域の情報はヘヴンにも少なからず入ってきている。だが、その逆はほとんどない。ヘヴンからの情報というのは全くといって良いほど少なく、仮にあったとしても極小さな事件ぐらいだ。中枢区域から離れている事と、戦争が続いている事もあって、ヘヴンの情報は重要視されていない。人々の関心は目の前の戦争や、自分達の空母都市内での事件に意識が剥いているのだから。
 平和という思想を遮断しているとも考えられる。
「仮説だけど、ヘヴンとの交流が極端に少ない事を考えれば、十分考えられる話だ」
 ノアは視線を空へ移した。
 中層区の天井に開いた穴から、戦闘の光が見える。
「だとしたら、ヘヴンへの攻撃はその時から決まっていたのかもしれない」
 中枢区域から追放され、孤立したヘヴンが何か策略を企てるとも限らない。エンジェルズという組織まで作っていたぐらいだ。中枢区域も、ヘヴンを長期間放置する事が危険だと判断していてもおかしくなかった。
「そんな……」
 アルシアが両手で口元を覆った。
 言ってしまって、ノアは自分の仮説を喋ってしまった事を後悔していた。中枢区域からの離脱はともかく、ヘヴンが中枢区域から攻撃を受ける理由としてアルシアの存在があるというのが真実だとすれば、彼女は相当なショックを受けるはずだ。
 平和を掲げているが故に、戦争を呼び込んでしまったのだから。
 ノアが自分自身に顔を顰めた瞬間、背後で轟音が響いた。
 振り返ったノアの目に飛び込んできたのは、中層区の天井を突き破って戦闘機兵が落下してくる光景だった。それを合図にしたかのように、中層区に兵士が侵入してくる。
 ジェットパックを背負った中枢区域の兵士と、翼を生やしたエンジェルズが多数流れ込んでくる。戦闘機兵も何機か侵入してきていた。銃弾と衝撃波が中層区の空を交錯する。
「やめて、やめて、下さい……!」
 アルシアはふらふらと立ち上がり、呆然と戦闘を見つめていた。その顔には悲しみに歪み、瞳からは涙が溢れ始める。
「お願いだから、やめて下さい!」
 終いには、アルシアは空へと叫んでいた。
 大人しい彼女の様子からは想像もできないほどに声を張り上げて、アルシアは戦闘の停止を訴える。彼女にそれだけの声が出せるのだという事に、ノアは少しだけ驚いていた。
 力の限り叫ぶアルシアの姿が痛々しくて、ノアは顔を伏せた。
 そして、次の瞬間には彼女を連れて逃げる事に意識を向けていた。叫んでいれば、いずれ注目される。ジェットパックを装着した兵士相手に、ノアが彼女を連れたまま逃げ切るのは難しい。
「この戦闘の元凶が何を言う」
 ノアが一歩、アルシアへと踏み出した瞬間、背後から声が聞こえた。それも、ノアには聞き覚えのある声だ。まだノアが今の立場にいなかった頃に聞いた、声が。
「その声、リーガ……!」
 バンダナを翻し、ノアは振り返った。
 一体の戦闘機兵が、二人のいるビルの屋上の前に滞空している。
「久しいな、ノア!」
 機兵のスピーカーから声が聞こえた。
「お前とは、上手くやってけると思ったんだけどなぁ」
 ノアは無言でリストバンドに触れた。いつでも戦闘ができるように。
「リーガ、アルシアが元凶だってのは、本当か?」
「ああ、お前が知らないのは当然だがな」
 笑みを含んだ返答が返って来る。リーガ・レシラン、以前、ノアが口にした偽名だ。それは、特殊部隊にいた頃の同僚の名前だった。
 口には出さなかったが、リーガの言葉でノアは自分の仮説に確信を持った。
「ヘヴンを落としても、お前は生き延びそうだからな、直々に潰しに来てやったよ」
 流石は元戦友、ノアの考えを良く読んでいる。
「エンジェルズはどうした?」
「俺達は別働隊でね、足止めされている間に来たってわけだ」
 状況の変化に困惑し、怯えるアルシアを他所に、ノアは平然とリーガと言葉を交わす。
「まだ残ってるのか、アルテミスは」
「お前を殺すためにな」
 リーガの言葉と同時に、ビルの屋上を囲むようにジェットパックを装備した兵士が展開した。他の兵士と違うのは、銃を持っていないという事だ。
 代わりに、ノアが身に着けているものと良く似たリストバンドを皆がつけている。
 ほんの一瞬だけ、ノアはアルシアを見た。怯えた表情で周りを見回している。逃げるための時間はない。仮に逃げるとしても逃げ切れるのはノアだけだ。アルシアを連れて行けば、追いつかれてしまう。
「やれ!」
 リーガの号令と共に、兵士が腕を持ち上げた。
 瞬時に、ノアは両腕を交差させるように構え、全てのワイヤーを射出した。八つのワイヤーが放たれると同時に、腕を開くように振るう。
 白銀の光が閃く。
 逃げ切れなかった兵士が二人、複数のワイヤーで分断され、血を撒き散らしながら落下して行った。手応えだけを腕に感じ、ノアは視線を背ける。
 ノアの足元にワイヤーが打ち込まれ、兵士が突撃してくる。ワイヤーを伸ばした腕を振るおうとする兵士へと、ノアは自ら飛び込んで回し蹴りを浴びせた。踏み込んできた事に兵士が虚を突かれ、動きが止まった瞬間に蹴りが決まる。横に吹き飛ばされる兵士へと腕を薙ぎ、ばらばらに分断した。紅い血が飛び散り、落下していく。
 上下左右から向かってくる僅かな光の反射を見切り、ノアはアルシアの背後にある壁にワイヤーを打ち込んだ。そのまま高速で飛び退き、ついでに唖然としているアルシアを階段の建物の中へ押しやる。
 周囲から迫り来るワイヤーの間をすり抜けるように駆け抜け、ノアは腕を振るう。下半身を狙ってのワイヤーを飛び越え、前転しながら両腕のワイヤーを振るった。回転で捻りの加わったノアのワイヤーが、兵士のワイヤーに絡みつく。手首を返すように振り払い、ノアは絡みついたワイヤーを一瞬で解く。
 その反動で兵士がバランスを崩したところをすかさずワイヤーで切り裂いた。ワイヤーの後を追うように紅い血が舞う。
 兵士達が何かを叫ぶ。怒声か罵声か、ノアにはどうでも良かった。ただひたすらに、敵の動きを見切り、ワイヤーを振るった。敵がいなくなるまで。
 屋上を血が汚していくのを無視して、ノアはワイヤーを振るった。
 最後の兵士は、階段の中から出てきたアルシアを狙っていた。腕を振り被る兵士へ、ノアは躊躇する事なく両腕のワイヤーを振るう。 
 八つのワイヤーが一瞬で兵士を肉塊に変えた。霧のように血が舞い、直ぐ傍にいたアルシアにも飛び散った。
「あ、ぁ……あ、ぁあ……」
 ぱくぱくと口だけを動かし、アルシアは変わり果てた屋上に視線を彷徨わせた。顔に触れ、手に付いた血を見て、アルシアは呆然としている。
「お前だけ高みの見物か、良い身分になったもんだな」
 距離を取って滞空しているリーガの機兵に視線を向け、ノアは言い放った。
「素人ばかり集めやがって。急ごしらえの部隊じゃねぇか」
 ノアの言葉にも、リーガは動かない。
「忘れちゃいないぜ、お前が部隊を潰そうとした事。これはそのツケだと思いな」
 リーガの声が聞こえた。
「まさか!」
 声を聞いた瞬間、ノアは駆け出した。
 自分自身が浴びた血を呆然と見ているアルシアへと、ノアは駆け寄る。
「アルシア! 直ぐに離れるぞ!」
 ノアの声に、アルシアは大きく反応した。
 びくりと肩を大きく震わせ、ノアを見る。その表情には、明らかに恐怖が見えた。
「いや、触らないで下さい……!」
 ノアが伸ばした手を、アルシアは払った。
「話は後で聞いてやる! 今は口論してる暇なんてないんだ!」
 嫌がるアルシアを強引に抱き上げ、ノアは機兵がいるのとは反対側からビルを飛び降りた。
「いやぁーっ!」
 ノアは叫ぶアルシアの体重を左腕に移し、右腕を自由にするとワイヤーを向かいの建物に打ち込んで引き寄せた。
 その背後で爆音が響いた。視線を背後へやれば、機兵が爆発を起こしていた。
「汚ねぇ事しやがる……!」
 噛み締めた奥歯が音を立てる。
 兵士と戦わせて時間を稼ぎ、逃げる時間を奪った上で機兵を爆発させる。つまりは、部下を足止め役、言い換えれば捨て駒にしたという事だ。
 そんなに俺が憎いか、口の中で呟き、ノアは辿り着いた先の建物の中に侵入すると、アルシアを放した。
「ひ、人殺し……!」
 座り込んだまま、アルシアはずるずるとノアから離れていく。そのまま背中が壁にぶつかるまで離れ、恐怖で引き攣った顔をノアに向ける。
 ある程度は予想していた反応に、ノアは寂しげな笑みを浮かべた。
「あの状況で、他にどうしろってんだよ」
 努めて穏やかに、ノアは呟いた。
 相手が聞く耳を持たない時は戦うしかない。話し合いで解決しようとしても、相手にその意思がないのであれば、話し合いは成立しない。いくらアルシアの言葉が人の心を感動させるとしても、限界がある。
 戦場でそんな事をしても、殺してくれと言っているようなものだ。
「でも……!」
 アルシアが流す涙が、彼女の頬に付いた血を薄めている。
「俺には、アルシアみたいな生き方はできないんだよ」
 僅かに疲れたような表情を浮かべ、ノアは呟いた。その言葉に、アルシアは驚いたようにノアの顔を見つめる。
「俺は、中枢区域の孤児院から軍に引き取られて、戦闘の技術を叩き込まれて育った」
 気付けば、ノアは自分の身の上を語っていた。
「仕事と言えば、人を殺す事ばかりだった。そんな事が何年も続いてた」
 危険な任務、特に暴徒殲滅やら敵部隊殲滅やら、要人暗殺などの仕事をし続けて来た。その時の特殊部隊の名がアルテミスだ。月と狩猟の女神の名を冠された特殊部隊が、ノアのかつての居場所だった。
 部隊の中でも、ノアの戦闘技術は抜きん出ていた。ワイヤーを用いた戦闘では負けを知らず、絡まったワイヤーを一瞬で外す「解き」と呼んでいる技術も自力で編み出した。隣にいる人物を一切攻撃せずに、周囲の敵を薙ぎ払うという芸当もやってみせた事がある。
「そのうち、仕事に嫌気が差してきた」
 人を殺す事に罪悪感を抱かぬように育てられたノアにとって初めて感じたのは、人生への疑問だった。
「何でこんな事してるんだろうって、疑問に思ったんだ」
 自分自身がただ、何となく毎日を生きている事に気付いたと言い換えても良いだろう。仕事は命懸けのものばかりだったが、上からの命令通りにしか動いていない事に、ノアは疑問を抱いた。
 疑問を口に出したとしても、命令通りに動けば良いという簡潔な返答が返って来るばかりだった。ノア達にしかできない事だと言われた事もある。だが、だからといって、ノアは上の返答に納得する事ができなくなっていった。
「決定的だったのは、敵の隙を誘い出すために、不必要だと判断された味方を排除した時だ」
 一体、それがどんな作戦だったのか、ノア達には知らされなかった。敵のスパイだったのか、単に持て余していた部隊だったのか、今でも全く判らない。
「このバンダナ、その時の味方の隊長が身に着けてたものなんだ」
 ノアは苦笑いを浮かべた。
 疑問を抱きながらも戦うノアに、彼は、死ぬ直前に自分の足で歩けと教えた。敷かれたレールの上を歩くだけで良いのかと、彼は言った。他の生き方を知らないと答えたノアに、彼は、自分で探せとだけ告げた。
「その時に、俺は名前を変えた。自由な鳥、ウィルバードってな」
 ノア・スクリームという名前を捨て、自分の意志で生きるという自らの思いを名前にした。結局、完全に連合国家軍から自由を得る事はできていない。だが、心だけでも自由でありたいと思っている事に変わりはない。
「部隊を辞めたいと言い出した時、上はそれを許さなかった。だから、俺は仕事でわざとヘマをした」
 その結果、部隊は壊滅的な打撃を受け、上層部はノアを外さざるを得なくなったのだ。元々、ノア自身、部隊の事を快く思っていた事もあり、実行に躊躇いは無かった。
 無論、上層部はノアの抹殺を画策した。幾多の裏仕事をこなしてきたノアは、公にされれば中枢区域が不利になる情報と直結する事情を多く知っている。ノアの存在を消す事で、明るみに出る事を防ごうとするのは当然だ。
 だが、上層部の仕向けた暗殺部隊などを、ノアは全て退けた。拘束されたとしても、ノアは必ず脱走する。リーガとも何度か戦った。それができるように教育したのは上層部だった。
 最終的に、軍の目が届く場所に置かれ、殺人の仕事が極力少ない部署に単独で配属される事になり、今に至る。
「さっきの奴は、昔の同僚だ。俺のヘマで生き延びた数少ない一人だ」
 リーガは、ノアがヘマをした事を根に持っている。ノアと同じように孤児院の出身だというのに、リーガは部隊という居場所がある事を嬉しく感じていた。昔は仲が良かったが、ノアが部隊を離れてからというもの、彼の態度は当然のように一変した。
「数年間、狙われる事が無かったから甘い考えを持ってたんだろうな」
 笑い飛ばしてしまいたかったが、ノアは笑みを浮かべる事もできなかった。
 アルシアは唖然と、ノアを見上げていた。
「このヘヴンの襲撃で、中枢区域は俺も叩くつもりだったらしい」
 ノアは言って、窓から外を眺めた。
「私、ここで死んでしまった方がいいかもしれませんね」
 眉根を寄せ、ノアはアルシアに視線を戻す。
「何だって?」
「私のせいで、中枢区域からも追い出され、今、ヘヴンが襲われています」
 アルシアは視線を落とし、呟いた。
「戦争のせいで、私は全てを失いました。自由も……」
 身体だけではなく、心の自由も奪われた。言外に、滲んだ本音を、ノアは推測する事ができる。
「私があの時死んでいれば、ヘヴンは中枢区域から離れる事もありませんでした」
「本気で言ってるのか?」
「もう、こんな思いはしたくないんです」
 ノアの問いに、アルシアの目から涙が零れ落ちた。
「本気で死にたいなんて言ってるのか?」
「だって……!」
 縋るように、涙で濡れた顔を上げたアルシアが言葉を詰まらせた。
 ノアの顔には怒りの表情が浮かんでいる。ゆっくりとアルシアに歩み寄ると、乱暴に彼女の襟首を捕まえて引き寄せた。
「死んじまえばそりゃあ楽だろうさ! でもな、死んだらそこで終わりなんだよ! 人間なんて死んじまえばただの肉の塊なんだ!」
 思い切り怒声を浴びせるノアに、アルシアが目を丸くする。
「少なくとも、あんたが生きて、テレビに映る事で救われた人だっているんだ! そりゃあ、中枢区域からしてみればアルシアは邪魔だったかもしれないけど、あんたが悪いわけじゃねぇだろ!」
 アルシアが一命を取り留めた事に非は無い。平和を訴える事も間違いだとは言えない。アルシアの歌によって、救われた人間は少なからずいるはずだ。でなければ、励まされたりはしないだろう。
「俺は、あんたに生きていて欲しいんだ! たとえあんたが嫌がっても、俺はどんな手を使ってもあんたを死なせやしねぇからな!」
 一方的に捲くし立て、ノアは乱暴に手を話した。
 アルシアが背後の壁に背をぶつけ、ずるずると座り込む。彼女が目を瞬かせている間に、ノアは視線を窓の外へ廻らせた。
「あいつが追って来ないという事は……急いだ方がいいな」
 ノアは小さく呟いた。
 かつて共に戦った事があるから、ノアには判る。あの程度でノアを殺す事ができるとはリーガも思っていないはずだ。恐らく、別の目的を優先させているのだろう。リーガが別働隊だとすれば、目的は恐らく、ヘヴンの陥落だ。戦闘している者達を足止めに利用し、リーガが空母に致命的なダメージを与えれば、中枢区域の目的は完了するのだから。
 空母が致命的なダメージを受けるとすれば、それは機関部を破壊された時だ。恐らく、リーガはヘヴンの機関部へ向かったに違いない。
 時間を考えれば、今、ノアがリーガを追ったとしても間に合わない。リーガを止める事よりも、空母を脱出する事を考えるべきだ。
「行くぞ、アルシア」
 振り返り、ノアは声をかけた。
「どうして、そこまでするんですか……?」
「あんたに惚れたからに決まってるだろ」
 言葉とは裏腹に冷たく言い放つと、ノアはアルシアに手を差し伸べた。
 アルシアは信じられないものを見るような目で、ノアを見上げる。
「自分から取らないなら、強引にでも連れてくぞ」
 ノアの言葉に、アルシアがおずおずと差し伸べられた手を掴んだ。
 手を握り締め、ノアはアルシアを引いて立ち上がらせると、建物の階段を下りて外へと出た。
「どこへ行くんですか?」
「最下層に、緊急用の脱出艇があるはずだ。それで脱出する」
 空母には非常用に、脱出艇とシェルターの二つが多数備えられている。シェルターは空母外部へ射出する事が可能で、万一空母が陥落した場合にも、逃れられるようになっているのだ。脱出艇は、シェルターと違い、内部にいる人物が操作できる。他の空母への協力要請を取る事や、外部に射出されたシェルターの確認などを目的としたものだ。
「脱出……?」
「ヘヴンのメイン機関部はリーガが破壊しているはずだ。予備動力がやられる前に脱出する」
 空母には必ず、予備の機関部がある。メインの機関部が何らかのトラブルで停止した際にも、最低限のエネルギーを供給できる予備の機関部があるのだ。また、同時に機能が停止しないよう、設置場所も変えられている。
 見たところ、ヘヴンのメイン機関部は下層区と中層区にかけて存在しているようだ。上層区と最上層区には予備機関部らしいものはなかった。以前、ノアが見たヘヴンの地図には、下層区に予備機関部が設けられていると記されていた。
「そんな、ヘヴンが、沈むっていうんですか……?」
「俺一人じゃ、生き延びるために動くだけで精一杯だ。時間的な余裕もない。エンジェルズ達が上手くやってくれてればいいけれど、数じゃ中枢区域の方が多い」
 ノアはアルシアを抱きかかえると、走り出した。
「私、やっぱり、あなたを認める事はできません……」
 アルシアはノアから目を逸らして呟いた。
 平和を掲げ、人を殺す事に酷く抵抗のあるアルシアはノアを許す事はできないだろう。ノアは今まで、何人もの人間を手にかけてきたのだから。それも、罪悪感を抱く事もなく。
「別にいいさ。俺は、惚れたから死なせたくないんだ。後で振ってくれたっていい」
 人を殺す事に、ノアはほとんど抵抗がない。理性がそれを拒む事もあるが、相手が殺すつもりで向かってきた時には自衛のために反撃する。殺さない方が良いと思ってはいても、身体に染み付いた戦闘技術がそれを許さない。一般人が相手なら加減できても、軍や組織的な訓練を受けたものと対峙した時は加減はできない。
「但し、俺はあんたが死ぬなんてのは認めないからな」
 平和が一番だと、ノアも思う。ただ、ノアには自分自身の平穏を得る事しかできなかった。中枢区域の目の届く場所に置かれ、仕事をこなす。何度、連合国家軍を潰してやろうと思ったか知れない。しかし、ノア一人では何千何万といる兵力を相手にするのは無謀過ぎる。
 アルシアのように、死んだ方が楽なのかもしれないとも思った。だが、それでは何のためにアルテミスから抜けたのか分からなくなってしまう。自力で生きたいから、部隊から身を退いたのだ。死んでしまっては、今までノアが殺めてきた人達に申し訳ない。それに、バンダナをくれた人が死んだ意味が無くなってしまう。
 だから、アルシアに激怒したのかもしれない。アルシアは他の人に一時でも平穏を与える事ができる。そういった面では、ノアよりもアルシアの方が力があるのだから。
 たとえ、理想論だとしても、現実を諦めてしまうよりはずっと良い。
「ただ、俺は、アルシアの歌う理想、好きなんだぜ」
 微かに笑みを浮かべ、ノアは中層区を駆け抜けて行った。
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