エピローグ 「Will Bird」


 目の前でノアが人の命を奪った時、アルシアは彼に恐怖を抱いた。今まで、惹かれていた事には気付いていた。だが、その思いよりも恐怖が上回ったのだ。
 自分は殺人者と笑い合っていたのかと、眩暈がするようだった。
 しかし、ノアはアルシアのその思いも含めて全てを包んでくれた。たとえアルシアがノアを嫌いになったとしても構わないと、彼は言ったのだ。
 アルシアが死んでしまいたいと言った時、ノアは怒りを露わにした。表情一つ変える事なく人を殺していた人物とは思えないほどに激しい感情を表に出した。
 彼の殺人を認める事はできない。
 ただ、彼と生き延びる事ができたという事実は、確かにアルシアに安堵感を与えていた。
 ノアとアルシアはヘヴンを脱出し、陸地に降り立った。今の時代に陸地は極めて珍しい。ヘヴンが辺境と呼べる空域にまで追放されていた事が幸運だったと言える。
 空母都市よりも小さな面積しか持たない陸地にも、人類は街を作っていた。
 一般の人達には公表されてはいないが、空母都市間との交流もあるようだった。文明の程度が空母都市と比べてもそれほど遜色がない。違うのは、地面に土がある事と建築物に木材などが使われているぐらいだ。
 陸地があるという事実が一般人に知られれば、人々はその土地を欲するだろう。かつて、人間の生活圏だった陸地へと戻ろうとするのは当然だ。
 空母都市ヘヴンは墜落した。地上へもその情報は入ってきている。
 住人達の行方は判らない。ただ、近隣の空母都市が収容したという情報もある。その収容者リストの中にアルシアの名前は無かった。勿論、ノアやディエル、フィーゼシアの名前も無かった。
 もっとも、死亡者リストも膨大な数に上り、ノア達の名を気に留める者は少ないだろう。
「ただいま」
 ノアが扉を開け、アルシアのいる家へと帰って来た。
 その額にバンダナはなく、長めの前髪が下ろされている。両腕にリストバンドもしていない。
「おかえりなさい」
 微笑んで、アルシアはノアを迎えた。
 地上に下りた後、二人は陸地の人々の中に紛れ込んだ。今では、ノアは真っ当な労働に従事している。
 リストバンド、武器を外した事を、ノア自身も喜んでいた。彼自身、戦闘を好まない性格だった。軍を抜け切る事ができず、半ば仕方なく戦闘もこなしていたのだ。
 地上へ来て、戦闘をせずに生きていけるという事が純粋に嬉しかったのだろう。
「夕食、できてる?」
「もう少しです」
 地上へ下りて約二ヶ月、二人の生活も安定してきた。
「こっちは平和で良いな」
 ノアが呟いた。
「はい」
 アルシアの口元にも微笑が浮かぶ。
 最初から地上に逃げてりゃ良かったぜ、と呟く声を背に受けながら、アルシアは鍋の中身を確認する。もう十分と経たないうちに夕食ができるだろう。
「それにしても、こちらは暑いですね」
「まぁ、空母みたいに空調は効いてないからな」
 ノアもアルシアも空母にいた時よりも薄着で生活している。生活環境としては、空母の方が過ごしやすいかもしれない。だが、地上は平和だ。
 自治政府のようなものもあるが、ノア達二人が縛られる事がない。
「気に入ってるな、それ」
「ええ」
 ノアの言葉に、アルシアは笑顔で答えた。
 スカートの裾から、紺色のバンダナが覗いている。バンダナの下には、ヘヴンで負った傷跡が残っている。それを隠すためだけではなく、一つのアクセサリーとして、アルシアはノアのバンダナを気に入っていた。
「返してって、言ったらどうする?」
「困ります」
 言って、アルシアは笑った。鍋の中身を器へと装う。
「まぁ、いいけどさ」
 ノアが溜め息混じりに笑う。
「はい、ノアさん」
「ん、サンキュ」
 シチューの盛られた器をノアがアルシアから受け取った。
「じゃ、飯にするか」
「はい」
 互いに向かい合うようにテーブルに座りアルシアは笑顔で答えた。
 アルシアの右腿にはノアが身に着けていたバンダナが巻かれている。ノアのトレードマークだと勝手に思っていたバンダナを、アルシアは脚に巻いていた。
 ノアに出会って、アルシアは自由になる事ができた。
 いや、人間は皆、自由なものなのだろう。自分達自身で不自由を作り出しているに過ぎない。
 心を縛るのは自分自身だ。
 そして、解き放つのも本人にしかできない。
 だから、二人は今、幸せだと思えるのだろう。

 ―終―
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