第六章 「牙(ファング)」


 セトの腕から力が抜けた。フィアの胸倉を掴んでいた手が離れる。
「多量の魔力を浴びた生物は魔物化すると言われている。けれど、ヴィアライル・ウルフは人としての原型を留めながら、魔物に近い身体能力を得たわ。そこに、ある研究機関が目をつけた」
 セトとヴィアに構わずに、フィアは語り出した。目を閉じて、感情を抑え込んでいるようにも見える。
「名目は、最強の万能兵士を作るというもの。研究の第一段階は、ヴィアライル・ウルフと同等の人間を作り出す事から始まった。即ち、人間に魔力を浴びせて、身体能力の上昇を図ったのよ。実験はその大半が失敗に終わった。集められた人間は全て死刑囚だったから、限りもあったしね。唯一、その実験に耐えられたのが――」
「ファストか」
 フィアの言葉を、無表情にヴィアが繋いだ。
 死刑が決まった者達なら、生き延びられる可能性にはしがみついてくる。同時に、死刑囚という既に存在が破棄されていく人間ならば、研究機関としての秘密も守る事ができる。
「生き延びた者は機関直属のエージェントとして生かす、という条件があったから、皆進んで被検体になったわ。ただ、失敗とは言っても有益なデータが得られた。それが、特異な能力の発現」
「空間跳躍、だな?」
 ヴィアの推測にフィアが頷いた。
「多量の魔力によって遺伝子の変質が確認され、それがファストに空間跳躍という特異な能力をもたらした。研究機関は、それにも目をつけた。そこから先は、特異能力を持ちながら、身体能力の高い人間を創る方法が模索された」
 人間を創る、という表現に、セトはぞっとした。背中に刃を押し付けられたかのような恐怖感が込み上げてくる。
「最終的に行われたのは、現状で残されているデータから、多量の魔力を浴びた状態の人間を作り出す事。医療機関が研究機関と対立していた事で、ヴィアライル・ウルフ本人を確保する事ができなかった。けれど、それから直ぐに、収容していた患者が一斉に魔物化するという事故が起きたわ。ヴィアライル・ウルフが一時的にでも行方不明になった事で、研究機関は病院内に残されていた細胞の一部とデータ、リュンヌ・レトワールの死体を回収した。そして、ヴィアライル・ウルフとリュンヌ・レトワールの体細胞から、クローンを作り出した。勿論、クローン技術は禁止されているから、実行も極秘裏に」
 かつて、クローン技術については、関係者達の間で議論が繰り広げられた事あった。やがて、魔工学の登場と共にクローン技術の議論は終結し、禁止とされた。クローンよりも魔工学の方が様々な面で勝っていたためだ。しかし、魔工学を用いる事でクローン技術も飛躍的に発展できた事は間違いない。
「人としての原型を留めたまま、どれだけ身体能力が上昇させられるのか。リュンヌ・レトワールの細胞とデータから作り出されたのが、私達」
 昏睡状態から目覚めなかったとはいえ、リュンヌの身体は最終的に魔物化しなかった。ヴィアよりもリュンヌの方が魔力を多く浴びているという事は、残された情報から判明していた。より多くの魔力を浴びたリュンヌから作り出した人間ならば、ヴィア以上の身体能力を得られると考えたのだ。
「身体能力だけなら、セトよりも、私の方が上。特異な能力を加えれば、あなたの方が上」
 一度だけ俯き、フィアが言葉を紡ぐ。
「ファストのように特異な能力を持たせるため、遺伝子の配列が組み替えられた。外見が人間と同じなのは、人間であるためのDNA配列以外の部分を組み替えたから」
 ファストの例から、遺伝子のどの部分を改変すれば特殊能力が得られるのか、研究したのだろう。その研究から、ヴィアの遺伝子の一部を組み替えた強化クローンとしてセトが生み出されたのだ。
「機関の誤算は、遺伝子を組み替えた事で、下手に私達の思考をいじる事ができなかった事でしょうね」
 自嘲的な笑みを浮かべ、フィアはまた俯いた。自身の生い立ちにまだ動揺している部分があるのだろう。
「本当なら、完璧な兵士を作るためには私達を、命令に従うだけの駒にする必要がある。そのためには、脳の一部に手を加えればいい。けれど、特異な能力を持たせた事で、それが無闇にできなくなった。能力を制御する部位がどこか、特定できなかったから」
 脳のどの部分で能力の制御が行われているのかが判らない状態では、下手に手を加える事ができない。脳に手を加えた事で、能力が使えなくなったり、能力が暴走したりしては、意味が無いのだから。
 魔力は科学で制御できるようになったが、存在自体を完全に解明できているわけではない。魔力という不確定な因子が特異な能力に関わっている事は突き止めたが、得た能力を損なうことなく脳に手を加えるには、どの遺伝子を改変するべきなのかが解明できなかった。
 特異な能力の発生は偶然の産物でしかない。科学技術での解明でも、人間が理解している範疇でも、創り出せない現象を起こす特異な能力。それが魔力と密接に関わっている事は容易に想像できる。
「特異な力を持たせたままでは脳に手を加える事はできず、純粋な兵士を作るとすれば特異な力を持たせる事はできない」
 どちらか一方しか得られない事に気付いた機関は、最終的に前者を選んだのだ。兵士としての面を教育によって植え付ける事を選んだのである。機関としては自我を極力抑えるように教育したかったのだろう。
「そのために、ゼロ・ツーが明確な自我を持つ事を止められなかった」
 研究機関にとって、それは不本意な事であったに違いない。止める手立てがなかったのだ。
「多量に魔力を含んだ培養液の中で、成長を促進され、二ヶ月程度で十代後半の身体、知能を持った状態にさせられる。だから、セトは十五、六ぐらいに見えるでしょうけど、本当は二歳にも満たない。私なんか、生まれて一年も経っていない」
 フィアの目が潤んでいた。セトには涙を堪えているようにも見えた。
「なら、セトやフィアのような者達は、これからも生み出され続けるという事か」
「それはないわ」
 ヴィアの言葉を、フィアは即座に否定した。その時のフィアは、力強い眼をしていた。
「人間の遺伝子は元々、変質し易いもの。ゼロ・ツーとゼロ・スリー、そして私のような形になる事自体が、稀だから。ヴィアライル・ウルフの細胞サンプルもクローン作成のために底を突いて、同じクローンを創るには、ゼロ・スリーが必要になる」
 人工的に遺伝子を構築する技術は、魔工学を用いてもまだ確立されていない。人間を創るためには、どうしても人間の遺伝子サンプルが必要になる。改変した遺伝子サンプルを用いて生成した受精卵を培養するのだ。そのために、細胞のサンプルは減っていく。元々、病院に残されたヴィアのデータもほとんどが事故で失われ、多くのクローンを作り出すだけのサンプルにはなりえなかったのだ。
「それに、研究施設は私が破壊した。私の力で、跡形も無く、破壊した」
 吐き捨てるかのように、フィアは告げる。一言一言を噛み締めるように。
「あんなに、強い衝撃波が出せるとは思わなかったわ」
 一転して、フィアは自嘲的な笑みを浮かべた。それが虚勢だという事にはセトも直ぐに気付けた。
「あなたと戦う事で得られるデータが、今後の研究に役立つとされた。そのために、機関はあなたを殺そうとしなかった。私を送り込んだのも、データを増やすため」
 フィアの言葉でセトが抱いていた多くの謎が解けた。
 ファストにとっては、セトの生死は関係がなかったのだ。殺気がなかったのも、殺す必要性をファストが感じなかったためだろう。
「ゼロ・ツーが殺されたのも、換えが利くから」
「何だと!」
 フィアの言葉に、セトは怒りを覚えた。掴みかかろうとしたセトだったが、フィアの表情を見て手が止まった。
 哀しみに満ちた表情で、フィアは視線を床に落としていた。
 特異な能力がどういったメカニズムで発動しているのか、どれだけの力が出せるのか、それはファストやフィアに測定器具でも仕込んでおけば研究資料になる。換えの利くフィアならば、セトに返り討ちにされても問題は少ないという事だ。つまり、シェラが殺されたのは、リュンヌの身体というサンプルがまだ残っていたためだ。
 データを集めて、特異な能力を持ちながら、感情を持たないように遺伝子を組み替える。それが最終目標だったに違いない。
「私は、セトを殺す事ができたら自由な生活を与えられると約束されたわ。けれど、実際は不可能な事だった。私には、セトを殺せるだけの力なんて元から無かったんだから。私がセトを殺す事なんて、在り得ない事」
「お前が反抗した理由は、それか」
「私の存在価値は、セトに殺されるためだけにあった。セトに出来る限りの能力を引き出させる事だけが、私が生み出された理由」
 ヴィアの言葉に答えず、フィアは続けた。セトには強く握り締められた拳が震えているのが見えた。
「そんなの、耐えられない……!」
 床に、水の雫が落ちた。俯いたフィアの下の床に、水滴が零れ落ちて弾ける。
「私は兵士じゃない! 人間よ! そんな理由で、生きたくも死にたくもないの!」
 涙を流し、フィアが言う。大きな声というわけではなかったが、強い口調だった。
 創られ、運命を定められた道具としてフィアとセトは生み出された。彼女にとっては、自分自身の存在を否定に等しかったのだ。存在価値が無くなれば取り換えればいい。その事実は彼女を絶望に突き落とした。
「私は、私の意思で生きる!」
「俺も同じ事言ったっけな……」
 フィアに、十六夜が声をかけた。どこか物淋しげな声でありながら、包み込むような、穏やかな口調だった。
「なら、俺は……」
 自分の両手に視線を落として、セトは呟いた。声が震えている事に自分でも気がついた。それでも、どうしようもない。
 全ての疑問が解けた代わりに、全てを失った気分であった。
 今まで生き続けてきた事は、全てファストと機関の思惑通りだったという事だ。セトが死ぬ事は、元から想定されていなかった。いや、最後に殺される事になっていたとしても、セトが自身の潜在能力の全てを解放するまでは生き続ける事ができたという事だ。殺されるという危険を与えられ続け、力をつけていくセトこそが、敵の目論見だったのである。
 生きる事は、シェラに応える事だと思っていた。だが、それは同時に敵が望む事でもあった。
 失ったと思っていた記憶は、元から存在しないものだった。シェラの言った通り、セトはただの実験材料の一つに過ぎなかったのだ。それだけではない。
 遺伝子に手を加えられたセトは、厳密には人間ではないのだから。
「セト」
「ヴィア、俺は……」
 セトはすがるような視線を向けた。
 自分が誰なのか、何のために生きてきたのか。理由が、足場が、消えた。
 目が眩みそうだった。音が遠ざかっていくように感じられる。自分一人が暗闇の中に取り残されたかのように。
 寒い。全身に寒気が走る。足を踏み外して落下する不安感にも似た悪寒に、セトは震えた。
 重苦しい沈黙が流れる。埃っぽい淀んだ廃工場の空気が、全てを拘束しているかのように感じられた。セトやフィア、存在全てがここで廃棄されるのだと主張しているかのようにすら、感じられる。
「お前は、誰でもない。セト・ラトランスだ。そうだろう?」
 ヴィアは、静かに告げた。
 優しく、力強い光を秘めた眼差しがセトに向けられる。
「俺でも、兵士でもない。お前自身の意思を持ち、お前だけの感情がある。二年にも満たない記憶でも、それは確かにお前のものだ。見た事、聞いた事、感じてきた事、それら全てが、お前を形作るものだろう」
 閉ざされていた視界が開かれていくようにも、セトは感じられた。
「たとえ造られた命だろうと、お前自身はここにいる。お前自身の意思で生きているはずだ。それ以外に確かなものが、どこにある?」
 ゆっくりと、言い聞かせるように、ヴィアは言葉を紡ぐ。
 微かに笑みを浮かべたヴィアの言葉が、温かい。
「ヴィア……」
 身体の芯が熱くなる。
「意思がある限り、お前は、お前でしかないんだ。他の誰でもない、一人の人間だ」
 ヴィアの言葉は、セトにだけ向けられたものではない。
 フィアや、十六夜にも向けられているのだと、セトは気付いた。もしかしたら、ヴィア自身にも向けられているのかもしれない。自分自身を見失う程の衝撃を、誰もが受けているのだから。
「悩む事など、ないだろう。お前は、そのままでいいんだ」
 いつの間にか、セトの頬を涙が伝っていた。
 セトはただ、ヴィアに頷いた。頷く事しかできなかった。胸の奥に広がっていく温かさが、心地良く、離したくなくて胸を押さえた。胸の前、ヴィアのくれた服を掴んで握り締める。流れ落ちる涙に、セトの肩は震えた。
 感謝の言葉は、心の中だけで告げた。恐らく、フィアも、十六夜も、そうしているのだろうから。
 穏やかな沈黙がその場を支配する。破ったのは、フィアだった。
「研究機関がなくなって、存在意義を失ったファストは、あなたを殺しにくるわ」
「だろうな。軍が動いてる」
「まさか、もう来たの……!」
 ヴィアの言葉に、フィアが驚愕する。
 一気に緊張感が駆け抜けた。
「包囲されつつある。正面突破は難しいな」
「どうするんだ、ヴィア?」
 窓から外を窺うヴィアへ、十六夜が声をかける。敵が来た、という情報が意識を明確にしているようにセトは思えた。
「二手に分かれよう。一つ考えがある」
 真っ直ぐにセトを見つめ、ヴィアが言った。


 ラセルはセトとヴィアの関係を知っていた。元々、セトが脱走するまではヴィアの監視と情報収集をしていたのだから。
 魔力という存在は科学によって解明されてはいるが、その全てが把握できているわけではない。都市外に存在する魔物の発生の過程や、魔力の人体への影響などはまだ研究段階だ。魔動炉の事故は、多大な被害をもたらした。だが、同時に、魔力を人が浴びた際にどうなるかを研究するには丁度良い状況でもあった。そんな中だったからこそ、ヴィアの存在は注目を浴びてしまったのだろう。
「私達の出番は無さそうね」
 ラセルは周囲を見回して溜め息交じりに呟いた。
 廃工場を包囲するように、軍が部隊を展開し始めている。脇腹に傷を負っているラセルは後方で見物しかできない。
「全くだ。流石に呆れちまうぜ」
 ラセルの隣、瓦礫に腰を下ろしているギュレー・アルバスが膝の上で頬杖をついて呟いた。
 ヴィアとセトが去った後、ラセルはなんとか自力で応急処置を施すと、二人の後を追った。その途中でギュレーを見つけ、共に廃工場前まで来たのである。だが、既に軍が到着しており、動き始めていた。仕方なく、ラセルとギュレーは見物に回っている。
「ま、あいつらなら突破しちまいそうだけどな」
 つまらなさそうにギュレーが呟く。
「あなたも魔力を浴びてるものね」
「お前、知ってたんか?」
 魔動炉の事故で魔力を浴びた者は多い。違うのはその量だ。入院するに至らなかったギュレーとは、ヴィアは違う。故に、二人の身体能力は対等ではない。ただ、ヴィアの方は相当な精神力を持っているようだが。
「セトがウルフの強化クローンである事もね」
 ギュレーの表情が変わった。
「それ、本当か?」
「嘘を言ってどうするのよ」
「なるほど、それでレジウムの奴は俺をあいつの代わりにしようとしたのか」
 魔力を浴び、身体能力の高まったヴィアがセト側に着いた場合、ギュレーを代わりにしようとしたのだ。同じ魔力を浴びたギュレーならば、他の便利屋よりもヴィアに近い身体能力が出せると考えたのだろう。
 ギュレーという便利屋が短期間で中級者レベルにのし上がってこられたのは、ヴィアと似たようなものなのだから。
「レジウム?」
「ん? どうした?」
 眉根を寄せたラセルに、ギュレーが不思議そうな顔をした。
「レジウムなんて人、いたかしら……。私は別の人が動いてるって聞いてたけど」
「どうせ偽名なんだろ」
 ギュレーは事も無げに言う。
「でしょうね」
 政府はヴィアに目を着けたが、ヴィア自身を確保する事はできなかった。昏睡状態だったヴィアに身体能力の変化が検出できなかった事と、病院内も他の患者への対応に忙しかった事で、当時はヴィアに価値を見出せなかったのである。ヴィアが目を覚ましてから、身体能力の変化に気付いた政府が動こうとした時には既に遅かった。
 患者達が魔物化した際にヴィアは失踪し、行方が掴めなくなった。それから暫くして、ラセルは運良く情報を掴む。
「まぁ、彼らも可哀想と言えば可哀想よね」
 セトだけでなく、ヴィアも不幸な生い立ちだ。情報源を考えれば、余計に。
「いいのか? そんな機密みたいな事喋っちまって」
 ギュレーが口を挟んだ。
「私の気紛れね。誰も聞いていないし、聞かなかった事にしておいて」
「一方的に喋っておいてそれかよ」
「もっとも、クローンのモデルになっていたのはあなたかもしれないわけだしね。知っておいて損はないと思うわよ」
 呆れたように肩を竦めるギュレーに、ラセルは笑みを浮かべてみせた。
「確かにな。そう考えると怖くなってくるぜ」
 溜め息をついて、ギュレーは視線を廃工場の方へ向けた。
 ラセルとギュレーにはできる事がない。それでも、去ろうとは思っていなかった。ただ、見つめる事しかできなくても。


 ぼろきれに近くなった外套を身に纏い、ボサボサの髪の青年が廃工場の裏手から抜け出した。瓦礫が溢れた道を疾駆する。どのような都市にも、朽ち果てた区画が一つはあるものだ。
 月は相変わらず細く、暗い空に浮かんで辺りをぼんやりと照らしている。崩れ落ちた廃屋や、朽ち果てたビルに挟まれた道を、青年は進んで行った。
 まだ軍は回り込んでいないらしく、人気はない。だが、さほど時間を置かずに軍の包囲は廃工場の裏手まで回るはずだ。
 不意に、前方から人の気配を感じた。
「待ってたぞ、セト・ラトランス」
「お前……!」
 現れた人物を見て、セトは絶句した。
 スプレンディ・ネウエストが、そこに立っている。右手には柄が身長ほどもある薙刀を、左手には大きく湾曲した刀を持っている。
「悪いな、お前自身に恨みはないが、俺はお前を殺さなきゃならん」
 冗談を言っているようには見えなかった。
 月の微かな明かりの中で、レンディは無表情に、ただセトへと視線を向けていた。
「ヴィアがいないのが好都合か。あいつには俺がこの依頼を受諾した事を知られたくなかったからな」
 セトが言葉を失っている間に、レンディは独り言を呟いた。
 レンディが地を蹴った。反射的に、セトは後方へと跳び退さる。
 普通の人間ならば追いつけないだろうセトの瞬発力に、レンディは食いついてきていた。
 レンディが薙刀を大きく振るい、セトはそれを屈んでかわした。振り抜いた薙刀の柄尻をそのまま突き出すレンディに、セトは横へと身を投げ出してかわす。一歩、踏み込んだレンディが左手の湾曲刀を振り下ろした。
 ゆるやかな曲線の刀を、セトは地面を転がるようにして避ける。
 湾曲刀も薙刀も、本来は片手で扱うような武器ではない。それをいとも簡単に振るっているレンディは、只者ではないという事だ。
「何故、お前がここに……!」
 搾り出すように、セトは言葉を投げる。
「それに、その身体能力……」
 レンディの身体能力は明らかに常人を越えていた。武器を持つ腕力もさる事ながら、瞬発力もセトやヴィアと同等とも思える程のものだ。
「俺も、昔の事故で魔力を浴びているんでな。ぶっ倒れる事がなかったから、入院せずに済んだし、変な奴等に狙われる事もなかった」
 口元に笑みを浮かべながら、レンディが答える。
 魔動炉の事故の際、レンディも魔力を浴びていたのだ。ただ、ヴィアやリュンヌのように意識を失って倒れなかった事で病人と判定されなかったのだろう。
「お前を殺す理由は、報酬もあるが、そうだな、八つ当たりかもな」
 自嘲気味に笑い、レンディが付け加えた。
「俺は、お前と戦いたくない」
 小さく、セトは呟いた。
「何言ってんだよ。俺がヴィアの友人だからか?」
「……判らないのか、レンディ……?」
 怪訝そうな顔をするレンディに、セトは問う。目を細め、どこか哀しげな視線を向ける。
「――まさか、ヴィア、なのか……!」
 レンディは大きく目を見開いた。
 セト、いや、ヴィアは静かに頷いた。
「何でそんな格好でいるんだ! 十六夜はどうした?」
 信じられないといった表情で、レンディは一歩、後退った。
「それよりも、八つ当たりとはどういう事だ? 説明しろ、レンディ」
 いつになく強い口調のヴィアに、レンディが視線を逸らした。
 黙り込むレンディを、ヴィアは真っ直ぐに見つめる。
「答えろ、レンディ!」
 叫びにも近いヴィアの声に、レンディが口を開いた。
「いつも、お前は俺の前を歩いてた」
 視線を逸らしたまま、ゆっくりとレンディは語り始めた。
「運動神経も、知力も、お前が上だった。隣にいた俺は、引き立て役にしかならない。思いのほか、それがストレスになってたらしい。まぁ、ひがみだな」
 哀しげに笑うレンディを、ヴィアは初めて見た。
「俺達はほとんど一緒にいたが、リュンヌも、お前を選んだ。一度、あいつに告白した事があったんだ」
 ヴィアには初耳だった。レンディがリュンヌに告白した事を、リュンヌからも聞いた事がなかった。
「魔鋼剣になっても、あいつはお前を選んだ。お前が羨ましいよ、正直」
 溜め息交じりにレンディが言葉を紡ぐ。
 レンディは本来ならばセトと戦うつもりだったのだ。ヴィアに似たセトを倒す事で、溜め込まれてしまったやり場のない感情を吐き出そうとしていたのかもしれない。
「退いてくれ、レンディ」
「自分の位置は確立させたまま他者の行動を促そうとする、その物言いが気に食わねぇ」
 険しい表情のレンディに、ヴィアは口を噤んだ。言葉は挑発的だというのに、レンディ自身は疲れきった表情をしている。
「レジウムとかいう奴が、俺に依頼を持ち掛けてきた。今頃、お前を殺すつもりで、セトを襲ってるだろうな」
「なんだと!」
 それはつまり、レンディはヴィアとセトが死ぬ事に賛同しているという事だ。
「俺は、政府や、接触してきた機関にお前の情報を流した」
「あれ以来、俺の命を狙う奴が増えたのは、それが理由か……」
 ヴィアはレンディを射抜くように目を細めた。
 政府の者以外にも、ヴィアの命を狙う者は多くいた。それを、ヴィアは自力で全て退けて来たのである。
「俺は、何か一つでもお前より上のものがある事を証明したかった」
 レンディが動いた。
 大きく振り被った湾曲刀が振り下ろされる。反射的に身を投げ出したヴィアだったが、纏っている外套の裾が切り裂かれた。
「もう、どうでもいい。俺は、お前を――!」
 レンディが横薙ぎに薙刀を振るう。
「レンディっ!」
 後方へと跳び、ヴィアは外套を脱ぎ捨てた。セトがしていた装備の全てを、ヴィアは身に着けていた。二丁の銃を手に握り締め、ヴィアはレンディへと向ける。
 殺気が、レンディから放たれているのをヴィアは感じた。本気で戦わなければ、ヴィアはレンディに殺される。十六夜を持たないヴィアでは、レンディを殺さずに戦闘不能にする事は難しい。
 彼を殺さなければならないかもしれない。
 ここでレンディを退けるのに時間を取られてしまえば、セトが危ない。ヴィアと互角のセトが、レジウムを倒せるかどうかは際どいところだ。ヴィアが加勢に行かなくてはならない。
 鋭い呼気と共に、レンディが薙刀を突き出した。銃の柄で刃を打ち払い、ヴィアは攻撃を捌く。続けて振り下ろされた湾曲刀を、もう一方の銃の柄で打ち払う。
 レンディの足が跳ね上げられ、ヴィアの腹に直撃した。
「ぐ――!」
 ただの蹴りではなかった。靴にはナイフが仕込まれ、蹴り上げた瞬間に刃が飛び出していたのだ。その刃を、ヴィアはもろに食らってしまった。
 思えば、ヴィアはレンディの戦闘スタイルを知らない。便利屋を始めてから、レンディとは雑談をするか情報を貰うかのどちらかしかなかった。レンディが戦うところを、ヴィアは見た事がなかった。
 刃が引き抜かれ、鮮血が溢れた。
「すまん、ヴィア」
 感情を感じさせない声でレンディは湾曲刀を振り下ろす。
 咄嗟に後ろへと身を退いたヴィアだったが、かわしきれなかった。身体の前面を、右肩から左脇腹へと斜めに切り裂かれる。赤い血がしぶき、体勢を崩したヴィアは尻餅をつくようにして地面に倒れた。
 躊躇う事なく薙刀を振り下ろすレンディに、ヴィアは地面を転がってかわした。
 ヴィアの傷はそれほど深くない。ただ、レンディからその傷を受けたという事が、ヴィアの心には痛かった。
「どうしても、俺と戦うんだな」
 起き上がり、ヴィアは問う。
 レンディは答えず、湾曲刀を横薙ぎに振るった。後退するヴィアへ、レンディが追撃をかける。瞬発力はほぼ同等だった。ヴィアがレンディから逃げる事はできない。
 否、ヴィアはレンディから逃げたくなかった。
「なら、俺も、お前に応える」
 力で向かって来るのなら、ヴィアもそれに全力で応える。レンディが抱いてきた感情全てを受け止め、ヴィアも自分の意思を彼に返す。
 ヴィアは、そう決めた。
 拳銃を持ち上げたヴィアへ、レンディが薙刀を振るう。屈んでかわすヴィアに、レンディが刃付きの蹴りを放つ。拳銃の柄で受け止めたヴィアへ、レンディが湾曲刀を振り下ろした。
 屈んだ体勢から横に身体を投げ出し、ヴィアは地面を転がるようにして湾曲刀を避ける。突き出される薙刀をヴィアは身を反らしてかわし、続けて振り下ろされる湾曲刀を拳銃の柄で弾いた。レンディが放つ回し蹴りに、ヴィアの手から拳銃が弾き飛ばされる。袈裟懸けに振り下ろされた湾曲刀を紙一重でかわし、突き出された薙刀の柄をヴィアが掌で受け止める。
 受け止めた柄を横に払ったヴィアへ、レンディが背を向けるようにして身体を回転させる。遠心力を加えて振るわれた薙刀へ、ヴィアは踏み込んで柄の部分を掴んだ。同時に放たれている回し蹴りを、柄を下方へ押しやって受け止め、ヴィアは片手の銃口をレンディへと向けた。
 だが、引き金を引く前にレンディの湾曲刀が拳銃を弾き飛ばした。シェラの形見が地面を跳ねる。
「終わりだ!」
 レンディが薙刀を振り下ろす。
 ヴィアは両腕を交差させ、薙刀の刃を正面から受け止めた。
 赤黒い血が舞う。
 交差させた両腕の中心から、血が滴り落ちる。レンディの刃は骨の半ばにまで達していた。辛うじて腕は切断されていないが、激痛が脳を貫く。
 真っ直ぐに、ヴィアはレンディを見つめた。レンディも、同じように見つめ返してくる。
 十六夜という使い慣れた武器のないヴィアよりも、複数の武器の扱いに長けたレンディの方が戦闘技術は勝っていた。多数の武器に精通したレンディには、勝てない。
「十六夜がないと、弱いな、お前」
「十六夜か……本当は、そろそろお前に預けようと思っていた」
 ぽつりと、ヴィアは言った。何故か、傷口の痛みが和らいでいた。いや、ヴィアは理由を知っている。
「なんだと……?」
「もう、隠す必要もないか」
 レンディが刃を引いた。ヴィアは視線を落とし、呟く。少しずつ、痛みが強くなってきていた。感覚が戻りつつある。
「俺は、あと一年もしないうちに死ぬ」
「な――!」
 レンディが息を呑んだ。
「俺の身体は、今も魔力に侵食されている。いずれ、リュンヌと同じように、俺の身体も限界が来る」
 レンディは目を見張った。
 紛れもない事実だ。ヴィア自身、自覚していた。背中に刻まれた痣が、少しずつその面積を拡大していくのを、ヴィアは知っていた。同時に、全身の感覚が麻痺したように感じた事も、何かに触れただけでその場所を針に貫かれたような激痛が走った事もある。身体の異常知覚は、少しずつ頻度を増していった。
「だから、退けってか?」
「いや、そうじゃない。俺は、お前を倒す。そして、セトを助けに行く」
 レンディの言葉に、ヴィアは首を横に振った。
「セトに、俺は約束した。生かしてやる、と」
 ヴィアは大きく息を吸い込んだ。傷が痛むのも無視して。
「ヴィア……?」
 レンディが気圧されたように一歩、後退った。
「うおおおおおおおお――っ!」
 腹の底から、ヴィアは咆哮した。
 全身の魔力を揺り動かし、意思の力で抑えていた侵食を一気に加速させる。身体が内側から弾け飛ぶような激痛と圧迫感がヴィアを襲った。それに耐え、ヴィアは雄叫びを上げ続ける。
 背中の痣が肥大化し、服を突き破って極彩色の光を放出した。身を反らしたヴィアの全身に痣が紋様のように生じ、極彩色の魔力を放出する。
「ヴィ、ヴィア……!」
 光に包まれていくヴィアの名前を、レンディは意外なほど心配そうに呟いていた。
 極彩色の光が収束し、ヴィアの身体を包み込む。
「がぁぁぁぁぁっ!」
 突如、光の中から黒い影が飛び出した。
 全身を漆黒の体毛で包まれた、狼のような魔物だった。大型犬ほどの大きさの獣の身体は、薄っすらと、闇を陽炎のように揺らめかせていた。
 弾丸のような凄まじい速度で、狼がレンディへと迫る。
 反射的にレンディが振るった薙刀を、狼は前足の爪で砕いた。レンディが振り下ろす湾曲刀をもう一方の爪で打ち砕く。目を見開くレンディへ、狼が前足を突き出した。首を反らしたレンディの左頬を、狼の爪が切り裂く。
 赤い血が弧を描いて舞った。
 狼はそのままレンディを押し倒し、両肩を押さえるように前足を乗せた。レンディを見下ろすように、その視線が向けられる。
「俺の、勝ちだ、レンディ」
 狼が言った。
 ヴィアの声は微かにズレていた。身体が魔物に変化しても、全身に満ち溢れる魔力が声帯の変化をも無視して声を出させている。
「まさか、ヴィアなのか!」
「俺の、全力だ」
 狼となったヴィアが、レンディに答えた。
 魔力は人間の意思にも存在が左右される。感情を抑え込み、常に一定となるよう感情の昂ぶりを押し潰す。そうする事で身体に存在する魔力を制御する事ができるのだ。気配を絶つ技術に近い。
 そうして抑え込み、調整してきた魔力を意図的に感情を爆発させる事で活性化させ、ヴィアは自身の身体を魔物と化した。人間の身体を失う事は初めから理解していた。だが、代償として凄まじいまでの瞬発力と強靭な身体を手に入れている。感覚は冴え渡り、周囲五百メートル以内の空間の存在全てを認知できる。
 攻撃性が身体を突き動かそうとするのを抑え、ヴィアはレンディに視線を向けた。
「……本当は、お前を殺したくもなかったんだ」
 レンディは泣いていた。
 幼い頃、友人の全くいなかったヴィアに積極的に絡んできたのがレンディだ。人付き合いの下手なヴィアにとって、レンディの存在は眩しく思えた。彼に支えられた事も多く、その逆もあった。リュンヌと親しくなれたのも、傍にレンディがいたためだ。両親を目の前で殺された彼女は周りからも浮き、直情的でありながら人と接する事を避けていた。レンディがいなければ、ヴィアは彼女の傍にいる事はなかった。
「レンディ、俺達は親友だよな?」
 ヴィアにしてみれば、レンディが羨ましかった部分も少なくはない。ヴィアにも、レンディに対する敵意は少なからずあった。誰でもそうだろう。どんなに親しい人物でも、反発してしまう部分が存在する。
 ただ、ヴィアからレンディへ敵意を向ける事はできなかった。感情を表に出す事が下手だから、ヴィアはいつも身を退いてしまう。
「あ、ああ……」
 この場で敵として戦ったレンディは、それでもヴィアの言葉にしっかりと頷いていた。
 親友とは、正直な思いをぶつけ合える存在でもある。ならば、レンディは確かにヴィアの親友だ。たとえ、裏切るような形に見えたとしても、それがレンディの本音だったのだから。
「なら、一つ頼みがある」
「頼み?」
 レンディがヴィアを見る。
 人間だったとは思えない姿となっているにも関わらず、恐れる事もなく、レンディはヴィアを見ていた。
「これからも、ヴィアライル・ウルフの親友でいてくれ」
 それだけ告げるとヴィアは身を翻し、月の照らす闇の中を駆けて行った。


 ロングコートを着込み、長刀を背負った青年が工場の敷地内を走っていた。少女を一人、連れて。
 セトだ。
 ヴィアが裏口から逃げ、囮になっている間に、セトはヴィアとして工場を脱出する事になっていた。後で落ち合うとして、この場はセトが生き延びる道を優先させるのだと、ヴィアは言った。
「必ず、お前を生かしてやる」
 ヴィアは最後にそう付け加えた。
「十六夜、本当に良かったのか?」
「あいつが決めた事だからな。成功するって」
 セトの問いに、十六夜は笑って答える。信頼しているというのが、強く伝わってくる。
「フィアも、大丈夫か?」
「ええ。流石に、体中痛むけど、走るだけならなんとかなる」
 やはり、フィアも回復力が高い。傷は完全に癒えていないが、既に動くだけならば問題がなさそうだ。もっとも、戦闘は厳しいだろうが。
 二人が大きな広い部屋に出た時、そこには一人の男が立っていた。
「ヴィアライル・ウルフ、依頼の方は破棄という事でよろしいのですね?」
 セトを見て男が呟く。足を止め、セトは驚愕に目を見開いた。てっきり、セトの姿をしたヴィアの方に引きつけられたと思っていた男がそこにいる。
 彼の言葉はセトの耳には入っていなかった。
「――ファスト!」
 セトがその名を呟いた途端、ファストの身体が硬直した。
「まさか、スリーだと……!」
 ファストの表情が変わっていく。
 少しずつ、内側に溜め込んでいたものを外へと溢れさせていくかのように、ファストの表情に敵意が満たされていった。鬼のような形相へと。
「何で、あんたがここに!」
「フォー、貴様もいたか……!」
 凄まじいまでの殺気にフィアが一歩、後退った。
 これまで感じた事のない強烈な殺気に、セトの背筋に寒気が走る。
「よくも、俺の居場所を奪ってくれたな」
「あの研究施設が俺達の居場所を作ってくれたとは思えない」
 唸るようなファストの声に、セトは言葉を返した。
 退いたら負けだと、セトはそう感じていた。
「俺が元死刑囚だって事はもう聞いているんだろう? あの施設はな、俺を優遇してくれていたのさ」
 だがな、とファストは一度俯き、言葉を区切る。
「そんな事よりも、俺は元々貴様等が気に食わなかったんだ。完成型だと機関の奴等は言っていたが、貴様等のどこが完成している? 未熟なだけだろう! 完成された俺を使って、貴様等を成長させるなど、屈辱だ!」
 ファストの声に、少しずつ狂気が溢れてくるのがセトには判った。
 自然と、十六夜の柄にセトは右手を伸ばしていた。
「優遇された環境で我慢してきたが、それが消えたなら、貴様等を生かしておく義理はない」
 セトの潜在能力を引き出していくための存在でいる代わりに、ファストは優遇されていたのだろう。フィアが研究機関を壊滅させた事で、ファストの生活環境は崩壊したのだ。今までの存在価値に不満を持っていたファストにとっては、それが起爆剤になったのだろう。
「フィア、下がってろ」
 セトは小さく呟くと、十六夜の柄を握り締めて駆け出した。
「容赦なく、殺させてもらう!」
 ファストの姿が掻き消える。
 背後からぞっとするような気配を感じ取り、セトは横へと跳んでいた。その直後、ファストの拳がセトのいた地面に叩き付けられる。拳が真上から叩き付けられ、地面に亀裂が走った。破片が飛び散る中、ファストの姿が消える。
 着地した足元から、セトはファストの殺気を感じた。
 セトはすぐさま後方へと跳び退さる。
 空間跳躍の穴から飛び出してくるファストが、後退するセトに目を向ける。殺気と憎悪に満ちた視線に、セトは気圧された。
「何してる! 早く俺を使え!」
 十六夜の言葉で我に返り、セトは十六夜を抜き放つ。同時に、突撃してくるファストへと十六夜を袈裟懸けに振り下ろした。
 刃が命中する寸前に、ファストの身体が掻き消えた。背後にファストの殺気が移動したのを感じ取り、セトは空間跳躍でファストの背後へと転移する。
 振り向き様にファストが繰り出す回し蹴りを、セトは片腕で撃ち払い、十六夜を薙いだ。ファストの上半身が消失し、刃がかわされる。残った下半身が放つ蹴りをセトが後退して回避する。その背後に、ファストの気配が現れた。振り返り様に振るった十六夜に、ファストは自分の頭部を空間跳躍で掻き消し、刃をかわす。直後、突き出されたファストの拳がセトの腹に減り込んだ。
「ぐ――!」
 重い衝撃がセトの身体を突き抜ける。
 吹き飛ばされそうになるのを堪え、セトは十六夜を振り下ろした。ファストの身体が二つに分離し、十六夜を避けた。
「貴様に俺は倒せん! 倒せるものかぁ!」
 半ば叫びとなったファストの声に、セトは歯噛みする。
 殺気を放つファストは確かに感じ取る事ができる。だが、ファストが身体の一部分を転移させて攻撃と回避を行うとは考えていなかった。
 身体を分離させているように見えるが、断面は確認できない。輪郭は存在するのに、ぼやけて霞んでいるようにしか視認できないのだ。
「セト、跳んで!」
 フィアの言葉に、セトは反射的に動いていた。その場からセトは真上へと大きく跳躍する。
 直後、セトの真下で空間が歪んだ。強烈な衝撃波がファストの身体のパーツ全てを含むように部屋の中を通過していく。
「ぎぃいっ、フォオーっ!」
 警戒していなかったフィアからの衝撃波を無防備に浴びたファストが叫び声を上げる。
 吹き飛ばされた身体が一瞬で人間に戻り、再び掻き消えた。
 次にセトが殺気を感じたのは、フィアの傍からだった。
「フィア!」
 駆け出すセトの脳裏に、かつての記憶が被る。
 切り裂かれるシェラの姿が。
「ファストぉぉぉぉぉおおおおおっ!」
 腹の底から咆哮し、セトは跳んだ。
 セトは空間を越え、フィアの背後に現れようとするファストの前へと一瞬で移動していた。左下方から右上方へと、セトは十六夜を振り抜く。強く、柄を握り締めて。
 ファストが身体を掻き消す。瞬間、十六夜の刃が揺らめいた。陽炎を立ち昇らせるかのように、一瞬、その存在がブレた。
 空間跳躍の力を十六夜に纏わせ、セトが刃を振り下ろす。
 自身とフィアを除く、部屋の中全ての空間を、セトは一振りで斬る。
 あらゆる場所に、白銀の光が閃いた。
「あがぅぐぃっ……!」
 呻き声と共に血しぶきを上げ、ファストが吹き飛んだ。
「……もう、俺はお前に負けない!」
 十六夜を正眼に構え、セトは言い放った。
「ふ……は、はは、ははは!」
 部屋の中央に倒れたファストが急に笑い声を上げた。
「負けない、か。確かに、一太刀浴びせられたのは驚いた。だが、それだけで勝てると思うな!」
 狂気に満ちた笑みを浮かべ、ファストが起き上がる。
 先程のセトの一撃は、浅い傷ではない。だが、それを気にした様子もなく、ファストは立ち上がった。うなだれるような姿勢になったファストに、セトは油断なく十六夜を握り締める。
 ファストの身体に刻まれた傷から血が滴り、地面に赤い染みを作っていた。
「そうだ、もう、こんな身体など、必要ない」
 独り言を呟き始めたファストの身体から、異様な気配が放たれた。
 身体の芯が冷えるような、それでいて生温い肌触りの奇妙な感覚がセトを襲う。気配は少しずつファストのいた場所へ収束していくように感じられたが、突如、突風となって部屋の中を吹き荒れた。
 黒い、闇がファストの身体を包み込む。
「殺す! 全てだ! 全て引き裂いてやる!」
 ファストの叫び声が、途中から二重に聞こえた。
 声は雄叫びへと変化し、突風と共に殺気が部屋中に撒き散らされる。並の人間なら全身が竦んで動けないだろう。それほどまでの怒りや憎悪が肌で感じられた。
「な、何なんだ……?」
 十六夜が上擦った声を上げた。
 瞬間、部屋の中央に生じた闇が弾け、そこから巨大な影が飛び出してきた。
 腕は人間の胴体程に肥大化し、手にはナイフ並の鋭利な爪が生えている。足も同様に太い。人の形をしているが、全身がいびつに変形している。身体の至るところに膨らみと窪みがあり、皮膚は赤黒い。頭部には大きく裂けた口と、血走った大きな目だけがある。身体全体は人間の容積を遥かに超え、三メートル以上にもなっていた。
「ファスト――!」
 魔物と化したファストがセトに飛び掛る。
 空間跳躍をしたのか、一瞬でセトの目の前まで接近したファストが爪を振るった。十六夜で爪を受け止めたセトを、ファストは強引に吹き飛ばした。
 空中に投げ出されたセトの真横にファストが瞬間移動し、背中に拳を叩き付ける。
「ぅぐぁあっ!」
 列車に激突されたかのような、凄まじい衝撃にセトが吹き飛んだ。地面に全身を打ち付けたセトに、ファストが飛び掛かる。セトは空間跳躍でその場から逃れ、地面に足を着けた。
 背骨が折れなかったのが奇跡に思えた。セトの身体が造られた、強化されたものでなければ、確実に全身の骨を粉砕されていたはずだ。
「スリィィィイイイイイッ!」
 ファストが腕を振るう。
 その腕へ、セトは十六夜を振るった。手首に十六夜が食い込み、ファストの腕が両断される。紫色に変色した血液が周囲にぶちまけられた。
 だが、次の瞬間、ファストの腕が手首から再生していた。身体中にあったいびつな膨らみのいくつかが窪みへと変化し、腕の体積を補っているようにも見えた。
「このぉっ!」
 フィアが弾丸を越える威力の衝撃波を放った。空気を破裂させたような音が周囲に響き、衝撃波が放たれる。
「うがぁあああああっ!」
 咆哮し、ファストが腕を薙いだ。
 瞬間、空間が揺らぎ、フィアが吹き飛ばされた。衝撃波を空間跳躍で返されたらしい。フィアが背中を壁に打ち付け、吐血した。
 ファストの背後へとセトが空間跳躍する。振るわれたファストの腕から逃れるために転移したセトに、凄まじい衝撃が襲う。ファストが空間を跳躍させた巨大な拳が、セトの腹に突き刺さっていた。
「がはっ……!」
 弾き飛ばされ、セトが壁を突き破る。全身の骨が軋む。地面に叩き付けられ、バウンドし、セトはうつ伏せに倒れた。
 身体を起こそうと腕を着いた時、初めてセトは十六夜から手を離していた事に気付いた。
「判ったか、貴様に俺は倒せない」
 ノイズが交じったようなファストの声に、セトは顔を上げた。
 口の端から血が伝う。錆びたような味がセトの口の中に広がる。
 噛み締めた奥歯が、音を立てた。
 崩れ落ちた壁の向こうに、ファストが立っていた。血走った目の中に、見下したような光が交じる。ファストの足元の地面に十六夜が突き刺さっていた。その近くの壁に、フィアが背中を預けるようにして項垂れている。
「レジウム・デュレーイ――ッ!」
 叫び声と共に、壁を突き破って一つの影が突っ込んで来た。
 セトは息を呑んだ。
 突撃してきた影は、漆黒の狼だった。凄まじい速度で、ファストに飛び掛った狼が、鋭利な爪を振るう。爪を突き刺し、狼がファストを突き飛ばす。押し倒されるように背中を地面に激突させたファストが呻き声を上げた。
「貴様、まさか!」
 腕を振り回すファストから、狼が離れた。
 駆け出し、跳躍、壁を蹴って高さを増加させ、起き上がったファストの背中を爪で斬りつけた。紫色の血が大量に噴き出す。
 突き出した自らの腕を、ファストは空間跳躍させて狼へと転移させた。狼は背後から高速で突き出される拳を後ろ足で蹴飛ばして跳躍し、ファストの首筋に爪を立てた。振るわれた腕を蹴飛ばして、狼が距離を取る。
 牙を剥き出しにして、狼が唸る。その目に、セトは見覚えがあった。
『――ヴィア……!』
 十六夜の声と、セトの声が、重なった。
「何で、そんな姿に……」
 呆然とするセトの呟きに、狼は答えない。
 咆哮を上げ、狼が地を蹴った。月の光を吸収し、薄く光沢を放つ漆黒の身体を、セトは美しいと思えた。
「ヴィアライル・ウルフゥゥゥゥゥッ!」
 常人には視認できない速度で振るわれた腕を、狼はかわした。漆黒の影となって、狼が、振るわれる左右の腕の間を駆け抜ける。
 狼が振るった爪と、ファストの爪が正面からぶつかり合う。
 瞬間、剣が折れる時のような細く澄んだ音と共に、狼の爪が砕け散った。赤紫色に変色した血が、舞った。
 ファストが振るった腕をまともに食らい、狼が吹き飛ばされる。壁に叩き付けられた狼の牙の間から、赤紫色の血が飛び散った。地面に倒れる狼に、ファストが拳を突き出す。瞬間、狼が目を見開き、跳んだ。
 拳を突き出すファストの腕を駆け上がり、残された片腕の爪でファストの右目を貫いた。ファストが絶叫するよりも早く、狼は後ろ足を引き戻し、その片方の足でファストの左目を潰した。
 ファストが絶叫し、狼の身体を掴む。狼を強く握り締め、ファストはそのまま腕を地面に叩き付ける。
 衝撃に、地面が抉れた。
 狼が血を吐く。ファストは手を握り締めたまま狼を振り回した。狼が握られた拳が何度も地面に叩き付けられる。
「が、ぁぁぁあああああああっ!」
 狼が咆哮を上げる。振り下ろされるファストの拳が内側から開かれる。狼は牙を剥き出して、強く噛み締める。ファストの掌に突き立てられた爪が指を切り裂き、拳が内側から強引に引き裂かれた。振るわれていた拳の慣性に従って狼が地面に叩き付けられる。
 雄叫びを上げ、ファストが爪を振り回す。
 全身を激しく打ち付けられた狼は直ぐに動けず、その周囲にファストの爪が何度も突き刺さる。震える身体を突き動かして、尚も戦おうとする狼の眼に、セトの身体はいつの間にか動いていた。
 身を起こし、崩れ落ちた壁を乗り越えて、地面に突き刺さった十六夜を掴む。
 十六夜を引き抜いた瞬間、狼がセトを見た。優しい眼をしていた。
 一度、眼を閉ざした狼が、ファストへと顔を向ける。眼を開いた時、そこには強い光が宿っていた。
 身を起こした狼が、駆け出した。
 咆哮を上げ、狼が跳躍する。
 ファストが、爪を突き出した。
 狼の身体を、ファストの爪が深く切り裂いた。
 夥しい量の血が舞う。
 狼の牙が、ファストの首筋に深く食い込んだ。
 絶叫するファストに、狼は牙を強く押し込んだ。ファストの血が、狼の顔にぶちまけられた。
 セトが、地を蹴った。その手に握り締められた十六夜の刀身が、白銀の光に包まれる。
 ファストの胸部、中心に、セトは十六夜を突き立てた。
 白銀の光がファストの身体を内側から貫いていく。
 そして、十六夜から放たれた光に、部屋が満ち溢れた。


 セトの視界が回復した時、そこには一糸纏わぬ姿のヴィアが倒れていた。
 ファストは、消滅した。十六夜の放った膨大な量の魔力が、彼の身体を分解したのだ。もう、ファストという人間は存在しない。
「ヴィア! ヴィアっ!」
 駆け寄り、セトは声をかけた。
 左胸から大腿部までを縦に走る大きな傷がある。夥しく出血する傷は、明らかに致命傷だった。
「ああ、セト、か……」
 薄っすらと目を開け、ヴィアが答えた。
「何で、お前――」
「いいんだ。どの道、俺はもう長くはなかった」
 十六夜の言葉を遮るように、ヴィアは告げた。ヴィアは僅かに微笑んでいた。
「何を言って――!」
「そう日を置かずに死ぬよりは、この方がいい」
 ヴィアは十六夜の言葉を聞かずに、喋り続ける。
「あの事故に巻き込まれた時から、こうなる事は決まっていたんだ……。俺の身体も、侵食されていた。今まで、お前にも隠してきて、すまなかった」
 十六夜に向けられた言葉だと、セトにも判った。何も言えず、セトも十六夜も、ただ黙ってヴィアの言葉を聞いていた。
「傷も、深い。それに、身体の侵食を加速させ、トランスした事で、もう、力は残されていない」
 ゆっくりと、区切って紡がれるヴィアの言葉に、彼の命が尽きようとしているのを、セトは感じた。
「大量の魔力を浴びた俺を、調整して生み出されたお前なら、俺よりは長く、生きられるはずだ……」
 ヴィアの言葉は、今度はセトに向けられていた。
 基本的に、クローンは寿命が短いとされている。既に数年生きた人間の細胞から取り出された遺伝子を使うためだ。だが、魔工学も用いて配列に手を加えられたセトならば、少なくともヴィアよりは長生きできるだろう。
「お前は、今日から、俺となって、生きろ」
「ヴィア……」
 セトの視界は霞んでいた。
 命の灯火が消えかかっているというのに、ヴィアの眼には強い光がある。想いを、意思をセトに向けてくる。
「リュンヌ、ヴィアを、頼む……」
「当たり前だ! 俺は、ヴィアの刃だ! あの日から、それは変わらない……!」
 小さくなりつつある声に、十六夜は、力強く答える。
 彼女が涙を流しているのが、セトにも判った。
「先に逝く……。じゃあな、『ヴィア』……」
 力尽き、目を閉じたヴィアに、セトは静かに涙を流した。
 その寝顔は、安心しきった穏やかな微笑を湛えていた。
「セト……」
 背後から掛けられたフィアの声に、セトはゆっくりと立ち上がった。長刀を鞘に戻し、セトはヴィアを肩に担ぎ上げる。
 ゆっくりと歩き出すセトの後を、フィアは一歩離れてついて来る。
 廃工場の外には、軍服を着込んだ大勢の人間が待ち構えていた。その中には、ラセルの姿もあった。
「何が、どうなったんだ……?」
 誰かが呟いた。ざわめく人々の前へ、セトは歩いて行く。
「セト・ラトランスを仕留めた」
 この時、セトは自らの名を捨てた。
 その言葉に、どよめきが広がっていく。
「お前は、一体……」
 誰かの声。
 視線が集中する。
 担ぎ上げた死体に一度視線を向け、セトは小さく息を吸い込んだ。
 想いを、意思を、継ぐために。
「ヴィアライル・ウルフ。便利屋だ――!」
 静かに、だがはっきりと、力強くセトはそう告げた。
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