第一章 ――「邂逅の瞬間」――




妹が死んだ。
その知らせを受けた宮枇 聖(みやび ひじり)は、その実感が無いままに自宅に戻った。
彼がようやく涙を流す事が出来たのは、全てが片付いた後の事だ。
通夜に北海道から駆け付け、告別式を終えて、灰となった愛しき少女の亡骸を土に埋めた後。忌引きに入った初日に、ようやく彼は冷静になれる時を見付けたのである。
昔に比べて随分と寂しくなった自室の中、簡素なベットに身を横たえて、彼は始めてその寂しさに気がついた。
たった一人――
そういう感覚だった。昔は、良くこの部屋に妹が入ってきていたのだ。少し騒々しいくらいに勢い良くじゃれ付いて来る少女を、聖はふざけながらも大切にしてきていた。
ほとんど呆然と、時を見る。こんなにゆっくりとした時間の流れを感じるのは、一体どれくらいぶりだろうか。聖は考える。三流とは行かないまでも、まぁ二流くらいだろうという大学を卒業し、陸上自衛隊に入隊した。新米三尉としてのペーペー小隊長も板についてきた矢先の訃報に、彼自身、戸惑いを感じているのだ。
妹の優(ゆう)は、特に体が弱かった訳ではない。五体満足に生まれ、健全な女の子として育った少女だ。聖の入隊に伴って、合宿への参加や北部方面隊への異動で家を空けたのはおよそ二年前。その時、優は高校に入学したばかりだった。特に困っている風でもなかったし、住居を変えても手紙や電話でのやり取りは頻繁だった。彼女の声は明るく、無理をしている様には思えなかったし、毎日を楽しく過ごしている印象さえ抱いたのだ。母に聞いても、安心していいといわれたばかりだった。
何でだ、と思う。
優の死因は出血多量に伴うショック死。鋭利な刃で左胸を貫かれて死亡していたと言う。
少女の死顔は、酷く安らかだった。昔見た、祖母の死顔と同じ。眠っているかのように瞼を閉じ、血の気の無い白い肌が美しい。
見た瞬間に、鳥肌が立った。死装束に身を包み、整った美しい顔で微動だにしない妹の姿。その場の空気が重苦しかったにも関らず、優の顔は変わらぬ様子でそこにあり、変わらぬ様子でそこに居る。
一瞬、疑問が湧いた。おかしいだろう、と思ったのだ。この子は本当に居ないのか。この子は本当に居なくなってしまったのか――
だが、その疑問は掻き消されたのだ。一種、狂気に捕らわれたかのように乱れた心も、忙しさの為に無くなって行った。
否――無くして、行ったのだ。
まるで、そうする事で全てが平穏に戻るかのように。
「馬鹿だよな、俺は……」
虚空に呟く。
そして、虚空に、問い掛ける。
馬鹿だよな、俺は……。
――なぁ、優
馬鹿、だよ、なぁ……、

聖は漸く涙が出せた事に、どこかで安堵していたのかもしれない――



自分が薄情などとは、思わない。聖はただ、自分がやらねばならぬだろうと思った事を遂行するだけであり、それは、今までの人生で幾度も彼を救ってきたのだから。
忌引きの最終日だった。立ち直ろう、そう考えてから一日を過ごし、普通を取り戻す。切り換える事に重点を置いた結果、聖は不安定を安定に変えた。
朝。静かに運動靴を履き、ドアを開ける。新聞を取り出して玄関の中に放り投げると、ドアを閉めた。
秋の、冷たくなった風が頬を撫でた。髪の毛を揺らすそれに苦笑する。向かい風か、と。
道路に出た。パーカーのポケットに入れていた掌を取り出す。握る。その場で軽く跳ねてみて、調子を確かめた。
(大丈夫、かな?)
大丈夫だ、と言い聞かせ、聖は走り出した。
昔はこれも、いつもの日課だった。大学は一人で暮らしてたから、高校の時だ。毎朝、頑張って起きた。体力を付ける為に走る。しかし、バスケットボール部には入っていたが、特に注目などはされなかった選手だ。レギュラーだったが県予選落ちの学校で、頑張れと言う方も無理だ。それでも走っていたのは、ただ使命感に駆られてのことだったのかもしれない。あの頃は理由なんて無かった。ただ、始めると言った時からずっと、優が起しに来てくれていたのを思い出す。それで、なんで自分はこんなことをやっているのかに思い至った。
――感傷に浸りたいだけなんだ。
成長してないな、と思った。しかしその反射的な行動に、彼は気分転換を求めていた。真逆の矛盾に、聖は少し暗い気分を味わう。
しょうがないのだろうか。ようやく自分を取り戻せたと言うのに、また戻ってしまう。それに甘えて、自分は何もしないでただ悲嘆に暮れていれば良いのだろうか。
(駄目だろうな、やっぱ)
聖は思う。それに甘んじれば、自分は駄目になってしまう。優が望まない事を、望まない状態のままにやる。それこそ、死者に対する冒涜だ。何故ならば、聖はその矛先を優に向けてしまう事になるのだから。
「頑張ろう……」
小さく、口に出した。気がついたらそれなりの距離を走っている事に思い至る。体が少しだけ温まっているのを感じ、息が上がっているのに気付く。Uターンすべき場所はとっくに通り過ぎていた。
苦笑。
「頑張るんじゃなかったのか?」
ははっ、と声を出して、聖は停止した。後ろを見て、帰ろうと思った。一度だけ空を見上げ、視線を戻す。瞳に焼き付いた青空に、気分のスイッチをやってもらいたかったからだ。
しかし晴れぬ心を引き摺り、聖は走り出そうとした。
だが、覚醒した意識が揺れ動く空気を感じてしまう。
キィ――
小さく扉の開く音。反射的に振り返った。
(えっ――?)
瞬間に見たものを、彼はいつまでも忘れる事ができないだろう。
ふわりと舞う髪の毛が跳ね返す、美しい朝日を。
冷たく冴えた早朝の空気を暖める、金の輝き。始めて肉眼で見た、自然な金色の髪の毛だった。純粋な色素の薄さが見せるのは、この世のものとは思えない神秘さ。長いそれが宙を舞う事で、木目細かく瑞々しい、最高級の絹でできた金糸のような毛髪を神々しく映す。それに魅了されたのは、持ち主の小作りで端正な顔であった。
まるで精巧な人形だ。筋の通った鼻梁。ふっくらとして瑞々しい唇。健康的な白さの頬。長い睫毛に彩られた、輝く蒼の瞳。それを包み込む、少したれ気味の優しそうな目。上についた眉は美しく緩やかなカーブを描き、全体的に小作りな顔の造作は、その全ての雰囲気と相俟って見る者を魅了する。
完璧が、そこにある。今、聖は全ての時空を超えた完全なる存在を突きつけられたような気分となった。
それは甘美な歓びであり、同時に、絶対の絶望でもあったろう。
聖の瞳が取り入れる光が、急速に脳の働きをそこに集中させた。完全にその美しさに取り込まれたのだ。
「てん、し……?」
そう見紛うような美貌が、聖の眼前に現れた。その神々しさにも関らず、聖が『天使』と感じたのは、風に薄く翻る金髪が、まるで翼のように思えたからだ。
呟きが聞こえたのだろうか。少女は瞳をこちらに向けた。その憂いのある瞳に見据えられて、聖は硬直する。影が見える少女の端正な顔が微笑を浮かべると、小さく礼をした。反射的に首を縦に振ると、少女は新聞を手にとって扉の中に消えていった。
数瞬の中に永遠を見た気分だ。――いや、実際にそうだったのだろう。時間が引き延ばされる感覚を初めて味わう。
なんだったんだろう。そう呆然としながら、聖は空を見上げた。先程と変わらない澄んだ青空。見ていて吸い込まれそうになる。
秋の物悲しい空気は彼の感傷を消してはくれなかったのだ。


家に帰ってきて始めて、聖は自分の思考を切り換えることができた。
それまでは、ただただ上の空であり、瞳に焼き付いた『天使』の『絵』がちらつくだけだったのだ。
(なんだったんだろう……?)
もう一度、思う。非日本人的な整った相貌に見惚れた自分を思い出して赤面した。きっと間抜けだったろう。
だが、それは仕方ないのかもしれない。思い出す。あの、美しい少女を。流れるような金髪が朝日を跳ね返す事で、あの娘の周りは正に輝いていた。全体的な雰囲気が神々しく、それでいて表情は人間的な微笑であったのだ。澄ました印象ではなく、自然な、清んだ小川のような安らぎを感じたのだ。その中に居れば自分は絶対に大丈夫ではないか――そんな気分を与えてくれる、優しく澄んだ湖の印象。聖はそこに住む魚のような気持ちになっていたのだ。
「あら、お帰りなさい」
頭上で声がした。それに顔を上げると、疲れたような母の顔がある。無理してるんだな、と思った。
「ただいま」
自分がそんな顔をしていない事を祈り、聖は言う。不思議と気分が落ち着いている事に気付いた。
「珍しいね。母さんが俺の出迎えなんてさ」
「出迎えた訳じゃないわよ。ご飯だからお父さん起してきてくれる?」
「やだよ、親父は俺じゃ起きないんだから」
「そうかしら。じゃああたしが起してくるから、優をお願い――」
そこまで言って、はっとした表情になる。反射で出た言葉なのだろう。その後で気まずい顔になる母に、笑いながら言ってやる。
「御仏壇にご飯上げれば良いんだろう? 用意はしてあるよね」
「え、ええ。ごめんなさいね……」
気を使わせちゃって、と母は言った。微笑すると、聖はリビングに向おうとする。そこでふと思い出したので、聖は聞いた。
「母さん。ここらへんで留学生なんて受け入れてた学校あるの?」
「えっ?」
振り返り、少し考える仕草をする。その後で母は顔を明るくした。
「もしかして、カレンちゃんのこと?」
「カレン……って?」
「フランスからの留学生よ。優のお友達だったんだから」
「そう、か……」
あの光景をもう一度思い浮かべると、あの少女は確かに見た事のある制服を着ていた気がする。私立葵女子大学付属高等学校。それが、優が通っていた学校だ。聖と違って成績の良かった優は、制服が可愛いからとその学校に進学した。嬉しそうに見せびらかしていた妹の細身の体を包み込むのは、ブラウンのワンピースと、上着(と言って良いのかは分からないが)を組合わせた特徴的な制服だった。あの時の少女も同じ服装だった気がする。正直、少女の雰囲気に完全に呑み込まれていた自分は良く憶えていなかった。ドライアドの美しさ――あるいはセイレーンの歌声――に魅了される者の気持ちとは、こういうものなんだろうか。そんな事を漠然と考える。
(綺麗な娘だったな……)
寒気すらしそうな美しさであった。完璧な美を見た時に感じたのは、何よりもまずそれであろうと思う。自分を凌駕する存在を見たと、聖は思うのだ。
その上で思う。もう一度見たいかも、と。
「マホメットがガブリエルに遭遇したような気持ちだな……」
苦笑しながらも、聖はリビングに行った。小皿にご飯を少しだけ盛って、おかずも少量を用意する。それを持って仏間に行くと、仏壇に置いた。
チィンッ、と澄んだ音が仏間に響く。聖は瞳を閉じた。
その瞬間に、聖の思考に今朝の少女が浮かんだ。無心であったと思っただけに少し驚くと、そこに優との思い出が重なる。交じり合わない筈の二人――両方が葵女子高の制服を着ていた――の姿が溶け込んで、聖の胸の中に沈んでいった。
瞼を開けると、自分の頬が濡れて居る事に気付いた。泣いたのか、と自分に呆れながらも、立ち上がる。
――良いでしょ?
自分の頭の中で響いた声は、自慢げな優のそれだった。心地良い気持ちの中に潜むのは、自分の友人を自慢する、少女の純粋な心だったと思う。
ただ、それが幻聴だとは、聖は思いたくなかった。
スイッチを切り換えよう。そう思う。自分の中で、気分を入れ替える事に成功したと思った。それが先程聞いた声の御陰かどうかは分からないが。
「羨ましいよ、優……」
微笑を浮かべながらも聖は、ゆっくりと歩む。
兄ちゃんはこれから、ゆっくりと歩んでいくよ――
それは聖の決意であり、また痩せ我慢でもあっただろう。



五日間の忌引きを終えて千歳陸自基地に着いた時、聖はまず師団長に呼ばれた。何だろうかと思いながらも扉をノックすると、まず彼は師団長から気を使われたのである。
大丈夫か、と言う質問に、聖は思わず苦笑していた。
「ええ。何とか、落ち着けるようになりましたよ……」
ははっ、と頭を掻く。贔屓は良くないですよと少し忠告した。
「すまんな」
陸将はバツが悪そうにするだけだ。第七師団長の樋山陸将は聖の伯父であり、昔から彼と優を知っている。だからこそ心配してくれたのだろう。
「大丈夫です。俺も気分のスイッチはできました」
「そうか……良くやったな」
「ま、それしか言えないですよね」
「すまん。気の利く言葉が思い付かないんだ」
「知ってます。樋山さんは口下手ですから」
その言葉を、からかっているものとでも思ったのだろうか。樋山はすこしムッとした。
「無理はしてほしくないが、大丈夫そうならば通常任務に戻ってくれ」
「はい。今はうかうかしてられません」
「解ってくれて嬉しい。こちらとしてもレンジャー資格保持者を手放すのは惜しいからな」
「でもギリギリでの修了ですよ」
聖の苦笑。
「あんまり期待はしないでください」
ハハハッ、と二人で笑った。自分の精神状態が落ち着いているのを感じて、聖は少しだけ安心する。あまり心配もかけられないからだ。
用件はそれくらいだったようで、聖は一礼して樋山に背を向ける。その彼に、ふとした疑問が降って来た。
「少し逞しくなったか?」
振り返ると聖は笑った。答えはそれだけで、すぐに踵を返す。
答えは言えるような物ではない。理由としては少し気恥ずかしいが、聖は一目惚れをしたからだ。
だから――
今後の目標はとりあえず、あの少女に会う勇気ときっかけを見出す事だろう。
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