第七章 ――「決戦と終焉と」――




 カァンッ! 1mほど離れたアスファルトが抉れた。そちらに目を向けた次の瞬間には、背後わずか数十cmの壁に弾痕が生まれる。だが聖は決して慌てなかった。狙撃手の存在はカレンがすでに察知していたし、腕に問題があるのは承知していることである。カレンの証言から、敵の中でスナイパー・ライフルを持っている人間が一人しかいないことは分かっているし、それならばあの時に平原を撃った人物であると断言できるのだ。故に狙撃に慣れきっていないのは確認済みだ。そして、カレンが近くにいる現在、聖を狙って流れ弾がカレンに当たる可能性も、低くはない。だから狙撃手が聖を直接撃たずに牽制しているだけと判断できるのである。
 立ち止まる。正面から二つの人影が近づいて来ていた。長身のアメリカ人と白髪を撫で付けた初老の男――ウィルバートと遠田。二人がゆっくりとこちらに歩を進めてきている。
 本気なんだな、と思った。二人の威圧的な雰囲気が覚悟を物語っている。
「聖……」
 カレンが不安そうに見上げてきた。
「大丈夫だよ」
 それに微笑みかけてやる。
 数メートルほどの距離を置いて、二人は立ち止まった。
「スナイパーは下がらせた」
 ウィルバートの声。圧力感に満ちた表情で全身に闘気を漲らせている。
「本気で戦え」
 眉を吊り上らせた遠田の、その真剣な表情には、決死の覚悟が表れている。皺が深く刻まれたその顔面に宿した決意は、聖には脅威として映っているのだ。決して大柄ではない、平均程度の背格好である中年男性が、聖にとってはあの大塚よりも巨大な怪物に感じられる。
 下がってな。と隣の少女に、できるだけ優しい微笑を向ける。カレンは心配そうに何かを言いかけて、それでも数瞬迷い、結局は何も言わずに首だけを振る。聖の手から少女の掌が離れる瞬間に、カレンは小さく、力を込めて握ってくれた。それだけで聖の心に勇気が満ちる。自分はやれる、と覚悟が刻める。
「……ひとつ、聞かせてくれないかな?」
 正面の遠田を見据えて、聖は口を開いた。何だ? と遠田が瞳で返事をした。それを確認した上で、
「ウィル少佐は分かったよ。ただ、遠田さんは、なんでこんな大それた事をやろうと思ったのかな?」
「息子だよ」
 間髪入れずに返ってきた答え。
 続く言葉は衝撃的だった。
「――自殺した」
「自殺? なぜ?」
「精霊使いだったからだ。晩年婚で遅くにできた拓也は、当時で僅か七歳だった。七歳で精霊能力を発現させたあの子に、同級生の冷酷ないじめと、薄情な周囲の冷淡な瞳が向けられたんだ。それに耐えられず、苦しんでいたあの子が忍びなかったのは、私とても同じだった。だが妻は、私を置いて、拓也と共に海へと身を投げてしまったんだよ」
 声質はまったく変わった調子もない。しかし遠田は、顔全体に悲哀を滲ませた、酷く切ない表情をしていた。彼は全てを堪えているのだ。聖が思っている以上に、彼の戦う理由は、重い。
「だからこそ私は、復讐がしたかった。その為ならば手段を選ぶつもりはない」
 そうか……と、聖は頷くことしかできなかった。彼を否定することは出来ない。自分の中で、彼に対する同情が芽生えてしまった以上、聖は遠田を憎むことが出来なくなってしまったのだ。
 彼の憎悪。その根源的な部分は、優を失ったときの聖と、非常に共通している。
 その無力感を聖は知っているのだ。
 共感できてしまう。それ故に、聖もまた、心に痛みを覚えてしまう。
 だから俯いた。そして、静かに口を開くのみ。
「――あなたの、以前の肩書きは?」
 ふっ、と遠田は笑んだ。
「警部だった。県警の……」
 スッ、と細められた視線が怖い。二人の闘志に刺激される。聖は身体を横に構え、自らも裂帛の意思を奮起させた。
「――行くぞ!」
「来い、全力でな!」
 目前の二人が構えた。がんばって――、カレンの祈りが心に響く。それに小さく頷くと、目前のウィルバートの唇が笑みを形作り、その迫力に全身の筋肉が緊張を引き出す。
 チャッ、とM9を正面に構えた。フォアグリップを持たないで、トリガー・ガードに左手の人差し指を当てる、完全な狙撃ポーズ。引き金を引ききる。重力操作でセレクターをセミ・オートに変更。パァン、と九ミリ弾が射出され、真っ直ぐに遠田へと向かっていく。
 弾道から遠田が腰を屈めた。その時には既に、ウィルバートが聖の右手側へと回り込み、M1911A1ガバメントをポイントしている。視界の隅でそれを追いつつ、もう一方で遠田のシグ・ザウエルにも注意する。
 二つの銃声。身体を右に反らして足を踏ん張る。正面の九ミリ弾が顔面の先を掠め、45ACP弾が左足に擦過した。
(痛っ……!)
 痺れにも似た火傷の痛感。熱い、と思って、しかし直ぐに思考を切り離す。
 M9を振り回した。無駄弾が使えないからこその狙撃姿勢だ、両腕も同時に銃身と同じ方向を向く。体重を入れ替えての、片足立ちでの不安定な射撃。しかし直前に、下面から力場を発生させ、空中で自らを静止させた。タン、タン、タン、リズムを刻んでトリガーすると、苦りきったような表情でウィルバートが側転した。
 チッ、と舌打ち。直後に力場を爆発させるようにして上空へと舞い上がる。空中で体を入れ替え、下方への射撃。遠田への牽制だったはずだが、予測以上に彼は速かった。聖の着地点に遠田が現れる、同時に右頬へ向けての拳打、屈んで躱すと膝が飛んでくる。左手でブロックすると、突っ込むようにして懐へ。しかし突進むなしく、右の袖と左やや後ろ目の襟を掴まれてしまった。
 その次には景色が回転している。軸となっていた左足を、内から払われたのだ。そう思ったときには、遠田の左手が腰のベルトに伸びていて、バランスを崩したままの聖を抱え上げるようにして投げ飛ばす。
「くっ……!」
 呻く。遠田の手が完全に離れたところで、逆さまのまま、聖は自らを制止させた。空中でブレーキをかけたと同時に、チャッ、とM9を遠田に突きつける。
 その瞬間に、ダメ、と頭の中で声が響いて、聖は反射的に能力を解いて背中から地面に落ちる。カレンの忠告に、視線を横に逸らすと、コルト・ガバメントをポイントしているウィルバートが目に入った。
 背中を地面につけたまま足を畳んで、膝を顔の前まで引き付ける。次にはそれを上方へ思いっきり伸ばし、その反動で宙に浮き上がる身体を、弓形に反らした。足の裏が地面に設置すると、今度は腹筋に思いっきり力を入れて上体を起き上がらせる。ジャック・ナイフと言われる方法で身体を素早く起こして、聖は即座に二人に向き直った。
 聖とウィルバート達の位置が反転していた。男たちの背後に、顔を強張らせたカレンの姿が見える。彼女の、あの瞬間の注意が無ければ、聖はウィルバートの弾丸に貫かれていたのだ。反射的に生唾を飲んだ。同時に背に小さく寒気が走り、足に微弱な震えが起こってしまう。
 しかしそれでも、聖は弱さを見せてはいけない。カレンと正面で顔を合わせた状態で、彼女に表面的にでも不安を見せてはいけないのだ。確かに彼女の能力にはそれは無駄なことなのかもしれない。しかしそれでも、闘志を、少しでもカレンに闘志を見せることこそが、聖にとっては最も重要なことだった。
 だから、頷いた。額に浮いた脂汗を隠すように、聖は静かに、しかし明確に、カレンへの信頼のメッセージを、感謝の意思を示す。
 それに対してカレンは、静かに微笑んでくれた。顔は依然として緊張したままである。しかし彼女は、聖を勇気付けようと、精一杯の優しさを見せてくれる。
 ふうっ、と緊張を吐き出す音が聞こえた。遠田とウィルバート、両方が肩の力を抜いている。二人が銃をホルスターに納めているのだ。その様子に聖が怪訝顔をするも、彼らの不敵な笑みは、闘志を漲らせた兵士のものであることに気付いている。
 遠田の顔つきが変化する。自信に満ち溢れたような、聖に対する嘲りのような、唇の端だけを上げる笑みが浮かんだのだ。右手を中途半端に上昇させ、彼の瞳が裂帛の気合に見開かれる。
(何かが来る――)
 直感。それと同時に遠田の腕が俄かに光った。
 光った――?
 違う! 聖は反射的に銃口を上げていた。中途半端な、サイトを覗けてもいないようなシューティング・スタンスでトリガーを引いてしまう。回数は、三。慣れ親しんだ数で指が動いた。
 カチン、と二回目の時点でボルトが開き切り、撃針が空撃ちしてから、閉まった。
 二人の遥か後方で、弾丸がコンクリートに銃痕を穿つ。同時に遠田の両手に赤々と灯る幻想的な炎が、その余りの高温ゆえに、背後の景色をユラユラと歪めていた。しかも規模が大きい。まだ陽が落ちていない時間帯にもかかわらず、その炎は聖の目にはっきりと、赤を映し出している。
 強力なパワーを感じた。
 これが彼の精霊力か――
 コクリ、と喉が上下に動く。カラカラに渇いているのは、果たして恐怖か緊張か。遠田の強大な器量に聖は畏れを抱いている。
「行くぞ」
 遠田の顔つきも変化していた。無感動な声と同様に、感情の篭らぬ鉄の表情。ただ、その中にぽっかりと、皺の増えた奥深い瞳だけが、悲哀の光を滲ませている。
 聖にはそれが何を意味するのかは分からない。しかし遠田は確実に、何かを哀れみ、何かに苦悩しているように映るのだ。
 宣言が現実として去来する。年齢による肉体の衰えは感じさせない、それほど力強い踏み込みで聖のもとへと近づいてくる。大股での接近に、五歩程度で距離と間合いが重なった。拳が振るわれ、付いて回って炎が揺らめく。熱量が聖を竦ませ、寸前で何とか躱した彼の表面を撫でていった。
 中途半端に右手を上げていた。撃てば当たる、しかし引き金を引いても、何も起こることはない。ボルトが完全に閉まりきった機関拳銃は沈黙を守る。
 炎が迷彩服を熱していた。服の内側でも感じる熱が痛い。そして、手袋もなしに突き出した右手の甲が、距離ある炎に焼かれて爛れた。
「うあっ!?」
 火傷の激痛に掌が開く。飛びのき、着地し、銃が接地した。ガチン、と硬い音を上げ、M9サブマシンガンは遠田の足元に転がり止る。
「っ、つぅ……」
 焼けた皮膚が痛みを発した。ジンジンと、脈動にあわせるようにして響く、痛覚の悲鳴。それを我慢して、聖は腕に力を込める。二度、三度と拳を作り、まだまだ動くことに安堵を覚えた。
「避けたか」
 遠田が言った。その声が余りにも近かった。それを疑問に思う。
(っ、……!)
 顔を上げて。
 顎が頭を突き抜けた。
 ゴッ! 耳元で轟音が響き、遅れて頭の奥で金切り音が巨大化する。キーン、と頭が痛くなる高音に目の前が白く染まった。
「……、か、あ」
 視界が回復すると同時に背中に衝撃が来た。仰向けに倒れたのだ。何がなんだか分からないその状況で、唐突に下顎が激痛を訴えた。次々と溢れる情報量がさらに聖を混乱させる。
(痛、つ、……)
 そんなことを思いながらも、そんなことに構っている余裕が、聖にはなかった。ほぼ反射的に上半身を起こし、遠田が拳を振り上げていたが為に、即座に身体を丸めて後ろへと転がる。その小学校のマット運動で習ったような後転の次に、腕を伸ばして、ハンドスプリングの要領で自身を跳ね上げ、立ち上がる。地に足つけて背筋を伸ばし、そこで初めて、相手に蹴られたことを認識できた。パニック状態から抜け出せたのだ。
 蹴られた箇所は痛い。しかし触ってみたところ、骨に異常はないようだ。そこに大きな安心を得た。ただし大きく腫れて熱を帯びてしまっている。
 遠田は深追いしてこなかった。迎撃体制を整えたことに警戒しているのだろう。
 改めて、聖は右手の指を少しずつ動かしてみた。痛い。だが、動く。力も入る。銃把を握れるくらいには。
 レッグ・ホルスターのシグ・ザウエルP220A1を抜いた。その右手が痛みに震える。左手を添えてブレを小さくするよう抑えた。
 その小型自動拳銃のサイトの先。気を抜いたかのように両手をダランと下げた遠田の、その汗に塗れた顔を見る。明らかに疲弊しているその様なのに、彼の瞳は未だ、強い輝きを放っていた。
 ゾクリと小さく、何かが背筋を上って来た。
 そこで今まで後ろに控えていたウィルバートが遠田に近づく。肩を並べて、二言三言、会話を交わすと、直ぐにこちらに顔を戻してくる。
 ふと、遠田の瞳に、一瞬だけ優しい光が灯ったような気がした。
「おおおぉお――――!」
 直後に遠田が、裂帛の気勢を上げた。大きなものではない、より圧縮された声音。絞り込まれた気合が起爆剤となり、彼の全身が赤く光った。
「なにっ!?」
『危ない!』
 聖が驚き、カレンが悲鳴した。警告とも絶叫とも取れるような思考の波が、彼女が感じた脅威の大きさを物語っている。
 先とは全く質の違う怖気が、聖の全身を粟立たせた。
 大きな違和感があるのだ。
 周囲の空気を巻き込んだ強大な圧力、精霊力による空間の歪みとでも呼ぶべき異質感が、一つではないのである。遠田の直線的な圧力に、それに巻き付くもう一つの力が満ちているのだ。
「……この気配は!」
 正体は一人しかいない。遠田の横で不適な笑みを漏らすその人物――ウィルバート・ギア!
『ウィルバート少佐の力が遠田さんの能力に侵食している……、こんなの、――どういうこと!?』
 カレンが困惑していた。彼女には、より具体的にこの流れが見えるのだ。聖よりも敏感に状況を察しているが為に、その不可解さにパニックを起こしかけている。
 聖は、ちくしょう、と思った。
「落ち着いて……。まだ全てが見えたわけじゃない」
 その言葉はカレンに投げかけたものだったが、発してみて、自分自身に言い聞かせている割合の方が多いことに気付いた。
 視線の先の二人には、いまだに未知数の笑みが刻まれている。
 そして、遠田の周囲には、炎が踊っているのだ。
 先程までとは質が違うような――纏わり付くような、濃密な「赤」を持った、その炎が遠田を中心に息吹いている。まるで太陽が発生させるプロミネンスのように、爆ぜ、うねり、存在を誇示する。
 深紅の炎を鎧に飾りつけた男の表情。それは凄絶な笑みと、緊迫した強張りの、二つの狂気が内在していた。
 恐ろしいほどの気迫に、思わず生唾を飲み込む。頭の中では、カレンの錯乱にも似た警鐘の思惟が駆け回り、そこに自らの畏怖が混じり合い、混乱を極めているのだ。
 だが。
 異変はそれだけに止まらなかった。
 いや、違う。異変、と言う意味では、これからが本当の変化であろう。
 聖の目の前で、炎が変質して行ったのだ。
 遠田の周囲を爆ぜていた紅蓮の熱波。それが姿を変えて行く。次第に炎が寄り集まり、塊と化し、そして固形化していくのだ。一つだけではなく、その現象は遠田の周囲、数十箇所で引き起こっている。
(な、なんだ――!?)
『分からない……。でも、遠田さんの炎が、ウィルバート少佐の思惟に侵食されて、違う性質になって行ってる!』
 ウィルバートの思惟に侵食される――
 奥歯が鳴る。ギリッ、と軋んだその音を聞いて、聖は自らの強張りが増していることを理解した。
「少佐の力か……!」
 口の中がカラカラに渇く。
 聖は、その得体の知れないプレッシャーに、自分の脚が震えているということを自覚した。視線を合わせた長身の白人が刻む、その不敵な自信に、大きな脅威を感じているのだ。
 だからこそ、頭の中で自分が訴えていることを、実行できずにいた。
 撃て、と。
 いまトリガーを引け、と。
 手の中の拳銃はなんなのか、と。
 必死に自分が言っているのだ。しかしそれができない。筋肉が硬直したように動かない。視線は、今も急速な変貌を続ける彼らの力の発現へと向けられている。
 恐怖では、ない。
 好奇心、だ。
 知りたいのだ、これがどの様な結果を生み出すのか。変質する精霊力は、どの様な形で帰結するのか、そこに大きな関心があったのだ。
 凝縮された炎の塊。もはや物質的な存在感すら感じさせるような濃密なそれが、丸、と言う形で静止した。こくっ、と喉が小さく鳴る。その緊張は聖だけでなく、カレンもまた、シンクロしていた。
 数秒間の沈黙が場を支配する。その間が何よりも恐ろしく、聖の全身をジリジリと焼いていた。
 ウィルバートが笑んだ。
 その笑顔は醜悪で、聖の背筋が強烈な悪寒に侵される。来る、と肌がピリピリして、カレンから、逃げて! と悲鳴が飛んだ。
「行け」
 ウィルバートが発した言葉。
 炎が消えた。
「っ……ぅぁ!」
 視界の中に影が走る。複数。そして、聖が、補足出来ない。
 速い!
 身体を傾けた。不十分だ、と直感が告げる。重力制御。身体を背後に落下させ、高速でその場を離脱する。
 頬を熱風が掠った。
 同時に、先程の位置に大量の何かが出現する。赤熱した炎を纏った、犬のような何か。四本の脚と尻尾、突き出た顔と二等辺三角形の二つ耳。大きさとしてはかなり小型だが、そいつはイヌ科動物の姿をした、異形の生物に見えた。
「なんだ!? こいつらは……!」
 聖は呻いた。有機的な動作で幾つもの顔が、一斉にこちらを睨みつけている。しかしその顔に表情は無かった。いや、そもそも顔として成り立っていないのだ。尖った鼻先には何も無い、目も口も、筋肉すら存在しないのではないかと思えるほどに、そこには必要なものが見当たらないのである。
『あれは生き物じゃない……生命が感じられない、ただの炎の塊だわ! 意思も感じられない、精霊力で形をつけられただけの、憐れで歪んだ現象よ!』
 頭に響くカレンの思惟。それは怒気を孕んだ強い訴えであった。
 生き物ではない――
 その言葉は、目の前の『犬』たちには全く似つかわしくないものだ。余りにも有機的な動作、本物の小型犬をも凌ぐ俊敏さは、聖には生きた動きにしか思えないのである。
 ククッ、と小さく笑いが聞こえた。直後に、ハハハッ! と大きな哄笑が弾けた。
 ウィルバートだった。先程までの余裕の笑みでも、緊張したような締まった表情でもない、心底の笑顔。相好を崩し、大きく口を開け、まるで天を仰ぐかのように顎を反らして笑っているのだ。何がそんなにおかしいのか――そう思って、彼が聖のほうに身体を向けていたことを思い出した。つまり自分が笑われているのだ、とそう理解して、聖の心に苛立ちが芽生える。
 しかしウィルバートは、ピタリ、と笑みを止めた。直後にゆっくりと顎を下ろすと、そこには大きく歪んだ、今まで見たことも無いような凄絶な笑みが張り付いていた。
 ゾクリと背筋が粟立った。
 歪な三日月。輝く双眸。そして、漲る迫力。それらすべてを大きなプレッシャーとして聖に向けた男が、その醜悪とも呼べる本性を剥き出しに、言葉を紡ぐ。
「ふは……! そうだ、これが私の能力だ! 遠田の炎を吸収して形作る、我が忠実なる灼熱の僕――地獄の猟犬たちだよ……!」
 ニヤリ。そんな擬音が似合うほどに、ウィルバートの頬が大きく歪む。
「私はこいつらを、『ガルム』、と呼んでいる。凶悪で、従順で、そして……差別を知らないんだ」
 ウィルバートには珍しいほどの興奮した言葉。その端々に、力を解放したことへの悦びと、起こりうる殺しへの、貪欲なまでの焦がれが感じられた。
 その様子に聖は、一つの単語を思い出す。噂に聞くことしかなかった、ウィルバート・ギアの過去の汚点を。
(湾岸戦争症候群――!)
 殺しに快楽を見出してしまう、現代兵士の悪しき精神病。1991年の湾岸戦争でウィルバートが発症し、その後の彼の運命を狂わせたとすら言われるその事象。悲しき精神異常者の成れの果てが、いま目の前で、その矛先を自らに向けている。
 たまらない位に怖くなる。
 逃げ出したいくらいに身体が震える。
 狂気が支配する彼の瞳に、聖は自分の程度を見せ付けられているのだ。『自衛官』とは名ばかりのアマチュアであった、と。通常訓練も、火力演習も、レンジャー試験も、それら全てが小さな箱庭の中の出来事であったと、認めざるを得ない。厳しいと思ってきたそれらの経験が、ウィルバートと言う老練の兵士の本性とは比べ物にならないほどに矮小な事象でしかなかったのだと、そう思い知らされたのだ。
 ウィルバートの現在を見て、自分が如何に平凡に生きてきたかを突き付けられたのである。
(くっ……!)
 迫力負けしているのだ、自分は。
 そう思ったら、脚が震えて、どうしようもなく恐くなった。
「『ガルム』を解き放つとね、何故か昂揚感が私を支配するんだ。モルヒネのトリップ感にも似てはいるが、……ふふ、あれよりも現実的で、生々しくて、だからこそ堪らない気分になる。いまからこの子達の真性を見せてあげよう」
 ふふっ、とウィルバートが嗤った。
 ――さぁ、死んでくれ。
 彼は確かにそう言ったのだ。
「――――――――――――っ!」
 『ガルム』が、跳ねた。
 犬の形をした異形が視界から消えたのだ。なにも居なくなったその空間に視線を合わせていた聖は、ほとんど背景として映っていた遠田の顔が見えて、ゾッ、とした。
 ウィルバートと同じ表情をしている。
 どうしようもない恐怖感が全身を包む。コンマ数秒という時間に、全身の汗腺が開き、脂汗が身体を濡らした。
 一歩も動けない。
 心で負けた。
 無力を感じるのだ。
 だから、聖の思考は完全に空白で、ただ何かを待つかのように突っ立っていることしか出来なかった。
 刹那、だけ。
(あっ……?)
 唐突に、感じた。大気の鼓動を。周囲の全てを。自分を中心にした現在の事柄を。
 まるで自分がレーダー塔にでもなったかのような錯覚。リアルタイムで動く『ガルム』の位置が正確に把握できている。視界にも映っていないその存在が、聖には皮膚感覚で理解できていた。
 思考が戻った。瞬時に頭が回り、即座に何をすべきかを決めている。
 『ガルム』は全員が、ほとんど一直線に聖めがけて駆けているのだ。その進路上に、タイミングを合わせて過重力を発生させる。横一線に、ガバァ! と土煙が立ち、アスファルトが大きく削れた。
 立ち上る埃の中を幾つかの影が突き抜けた。タイミングが合わずに相殺し損ねた炎犬が、聖を照準としてダイブしてくる。
 左肩に大きな圧力を掛けた。横に吹っ飛びつつも、下から同程度の重力を発生させて身体を浮かせる。脇を灼熱の塊が通過して、その余熱にウッドランド・カモのジャケットが煤けた。
 即座に能力を解いて地に足をつける。がら空きになった背後、ウィルバートがポイントしているのが理解できた。小さく軸をずらしてコルト・ガバメントの銃撃を避ける。さらに追撃してくる『ガルム』を巧みなステップで躱して、その間にP220で二人を威嚇した。
 ただ聖は、トリガーを引いた瞬間に眉を顰めてしまった。ほとんど忘れていた、右手甲の火傷が疼く。動かすだけでそこが、痒みにも似た異常な感覚を訴えてくるのだ。
 集中力が鈍った、その瞬間。目前に影が現れた。
 即座にガードする。重いハイキックが右腕をミシリと軋ませた。その痛みを知覚する前に、腰を基点にした鋭い拳打が襲い掛かる。それを左手で上手く凪ぐも、次には顔面に向けて頭突きが来ていた。
 思わず引いてしまい、しまった、と後悔する。額に衝撃。後ろのめりに重心が移動したその隙に、遠田は足で聖の右手を蹴りつけていた。
 火傷の傷口だった。爛れた皮膚を大きな衝撃が襲い、激痛に掌を開いてしまう。シグ・ザウエルが吹き飛んでアスファルトに転がって、カシャン、と金属音が響き渡るが、聖はそれが聞こえなかった。
 悲鳴が耳朶に満ちていたからだ。
「ぐあがあああ――――っ!」
 喉から痛々しいまでの声量がほとばしる。衝撃によろめいて、傷口を左手で覆う為に屈み、そこで拳が目前にきている事に気付いた。
 聖の鼻梁を抉るアッパーカット。瞬間にベクトルを操作して眼前で静止させる。
「くっ!?」
 顔を上げて遠田の焦った表情を見つめた直後、聖は遠田の身体に圧力をかけて吹き飛ばした。
「うおおおおおおっ!?」
 重力が物理的な衝撃となって、大の男を強制的に移動させる。影の排除によって心理的に余裕を吐いて、即座に手の甲を思いっきり押さえつけた。そうでもしなければ、火傷の鋭い痛みは、耐えられそうもない。痺れたように動かない右手に脂汗を浮かべ、顔を大きく顰めながら、聖はその場に蹲ろうとする。
 それは許されなかった。
 背後の空間に動きがあったのだ。遠田との肉弾戦では距離をとっていた『ガルム』が、今度は死角を突くようにして襲い掛かる。回避――は、間に合わない。
 身体を反転させて、左側からの炎犬突撃をスレスレに躱す。同時に反対側からの『ガルム』の攻撃に、反射的に左腕を翳して、無駄だと思い当たった。
 重力制御。
 目前に迫った三体の異形。翳した左腕から重力を発生させて、炎犬の、実体の無い身体を受け止めた。重力発生は、ほとんど斥力のような形で聖の腕から作用し、三体全ての炎の体躯を宙に浮かせていた。
 決して防熱力が低くはないはずの軍用ジャケット素材が溶けた。
 離れていても余熱で穴の開いた袖。素肌が焼けて熱さが込み上げる。そんな痛みに堪えながら、聖は腕を薙ぎ、『ガルム』を放り投げるように離した。
 はっはっ、と息が上がって、脚が――特に膝が、ガクガクと限界を訴えている。それでも息つく暇は与えてはくれない。
 さらにまた『ガルム』が追撃を仕掛けてくる。その合間の、遠田とウィルバートの狙撃が聖を休ませてはくれないのだ。全身に重たく圧し掛かる疲労に視界も霞む。それでも全身を叱咤して、聖は懸命に攻撃を避けていた。
 回避進路が次から次へと頭の中に浮かんでくるのだ。死角からの攻撃も理解して、その上で大丈夫な道筋を選んで、動いている。不思議な感覚だ、こんなことは今までの人生で一度もない。それに、現在の、まさに極限の集中力と、冴え渡る身体感覚が融合して、ガタガタの肉体に流麗な動作を可能とさせている。
 その広がった感性が、一つの道を見出した。連続した隙の無い攻撃の中から、最高のタイミングを探り出し、一気に反撃へと転じる為に必要なこと。
 一瞬だけ、視界が開けた。
 視線の先に男が見える。
 標的は、一人。
「ウィルバート・ギア!」
 聖はその瞬間に地を蹴った。同時に、自身にかかる重力の向きを前面に変更する。前方に落下する形で加速度を得、一瞬にも近い速さで距離を詰めた。
 ウィルバートは拳銃を突きつけた。
 その親指に向けて圧力をかける。銃把を握る為に重要な役目を果たす指が潰され、コルト・ガバメントが男の手から落下した。即座にそれを弾き飛ばすと、正拳突きを顔面に入れる。
 防がれていた。次に左のフック。叩き落とされる。チッ、と聖が舌打ち一つ。その瞬間に反撃が来た。鼻っ柱に向けた右ストレートを、首を反らすことで避ける。それでも距離は、離さない。
 ピッタリ張り付いての肉弾戦。しかも足運びによって微妙に位置を入れ替えていくのだ。そうすることで遠田の射撃援護はもちろん、ウィルバートが直接、操作している『ガルム』も迂闊に突撃してくることが出来なくなる。そう踏んだ上で、聖はほとんど身体をくっつけた白兵戦に挑んだのだ。
 それは決して、失敗ではなかった。力量・経験的に勝るウィルバートに、ダメージを与えるような攻撃を叩き込めては居ないが、感覚が開いた状態の聖は戦局をリードできている。
 あのウィルバート・ギアを振り回しているのだ。
 その事が聖に大きな昂揚をもたらし、同時に頭の中が冴え渡るような、冷静な感性をも呼び出した。
 ただ――
(苦しい、な……)
 このまま行けば、疲労度の濃い聖のほうが、先に追い詰められてしまうだろう。今は機先を制したということで優位に戦えてはいるが、経験則が高い年長者のウィルバートのほうが、展開を逆転できるだけの巧者ぶりを発揮する。
 決定打が欲しい、と思った。
 だから、銃剣を。腰部の鞘に手をかけた。親指で留め金を外し、右手で順手に、抜いたのだ。
 危険な賭けだった。刃物の扱いは、豊富な経験があり、しかもより実践的な訓練を積んでいるアメリカ軍のほうが自衛隊よりも圧倒的に優れている。ここで下手に刃を使うことは、流れをウィルバートに渡してしまうことにも繋がりかねない。
 だが、このままズルズルと時間をかけていくことのほうが危ないのだ。聖はそう判断した。だから迷わずに、その切っ先を振りかぶる。
 体重を上手く乗せての刺突。一撃必殺の威力を持った、自信に溢れた動作だった。素早く、綺麗で、鮮やかに。
 しかし、躱される。首を反らして横にずれたウィルバートの喉笛まであと数センチ。薄く皮膚を掠った刃に、小さな傷が血を滲ませるが、ただそれだけだ。
 ちくしょう、と奥歯を噛みながらも、相手の動作を横目に見ている。小ぶりながらも分厚い刃のコンバット・ナイフがウィルバートの手に握られていた。逆手に持ったナイフを薙ぐように、隙だらけの聖の首へと素早く振られる。
 聖は背中に重力を発生させた。自らを背後から押し出して、そのまま前方へと転がって刃の軌道から無理矢理に抜け出す。チッ、とウィルバートの舌打ちが聞こえた。
 すぐさま起き上がって、離れた距離を再び縮めた。その時にはすでに逆手に持ち替えている。
 ボクシングのファイティング・ポーズのように顔の前に両手を持ってきて、二人は相手の隙を窺うように小さく攻撃を繰り返した。右で切りつけるように小さく腕を振ると、それを左で巧く流される。逆にその間隙を突いて浅く刃を振られるが、それは手の甲を叩きつけてブロックする。素早く刃を返して切り上げてきたウィルバートに対し、こちらも巧く銃剣を突き入れて交差させるのだ。キィンッ、と小さく金属が鳴り、その後に三度、攻撃を敢行する。それらを繰り返しながら、敵の集中力が切れるのをひたすらに待つ。
 その間、腕の微かな動きで相手の注意を惹き付け、わざと大振りな動きをすることで敵の攻撃を誘うなどの、フェイントで互いの集中力を反らそうとするような動作が多く見受けられる。
 つまるところ、ナイフによる白兵戦闘とは、熾烈な精神戦の割合が多数を占めるのだ。先に敵の心を読んで、どれだけ相手を騙し、そのチャンスをどの様に活かすのか、殺すのか。そう言った要素が重要なのである。
 そのために、常に神経を尖らせておかねばならない。下手な小技や大胆な動きが死を招く。それを知っているがための緊張感が、その空間を支配していた。
 ひゅっ、と空気が切られる音がする。それは、手首に押し当てられたような形で振り回される刃だけではない。ナイフを補助する意味での徒手空拳による打撃音も含まれている。
 ガッ、ィィンッ、シャリィッ、と様々な動作が入り乱れる。押しては引き、引いては押して、隙を探り合っていくのだ。途中で刃が皮膚を掠り、打撲が骨に衝撃を与える。二人の腕は、浅い裂傷を幾つも抱え、真っ赤に染まっているような状態であった。
 薙ぐ、防ぐ、斬る、掠る、突く、避ける、殴る。これらの動作をふんだんに盛り込んで、相手の集中力を削り、精神的に追い込んでいく。決して長くはないこの攻防の中で、ウィルバートのその術中に嵌まったのだ、と聖が気付いたのはそう遅くは無い。
(圧されている……!)
 焦りを感じる。防戦一方、と言うわけではないが、こちらの攻撃が誘い込まれて打ち出しているように感じているのだ。形勢は不利。先程の肉弾戦といい、白兵戦闘での攻防は経験に富んだウィルバートに軍配が上がっている。
「っ、クソがっ!」
 ウィルバートが上段からナイフを打ち下ろしてくる。聖は自らを叱咤するように叫び、その手首を掴んだ。良し、と思い、がら空きになった喉に銃剣の刃を滑らせようとする。
 ゴッ! と腹に衝撃が来た。ウィルバートが左拳で拳打を入れたのだ。ゼロ距離の打撃とはいえ、鳩尾に入る攻撃に、聖は大きく噎せて、身体を折ってしまう。
「……ッ、かっ、ガハッ!」
 影が差した。高々と腕を掲げたウィルバートが、聖へとその刃を突きたてようとしているのだ。
「――死ね!」
「くっ!」
 ウィルバートが振り下ろしたその腕に、逆方向への重力を働かせる。急速に減速し、頭上で刃が止まったのを見て、聖は一瞬だけ気を抜いていた。
 だから先程と同じ間違いを繰り返したことに気付いていなかったのだ。
 コンバット・ブーツの硬い感触が顎を打つ。すんでで気付いて反らそうとするが、衝撃を多少、和らげることしか出来なかった。視界が揺らぎ、上下が反転する。ただ意識だけは、気力を振り絞って繋ぎ止め、地に背がつくその瞬間にベクトルを加えて空中で回転した。
 スタン、と足をアスファルトにつけて、聖はしゃがんだ姿勢のままウィルバートを睨みつける。すぐに膝を伸ばして反撃に転じようと――
 ……あれ?
 ぐにゃん、と視界が歪んだ。
「うっ――?」
 平衡感覚が麻痺している。自分で体重を支えることが出来ずに、膝を折って地に手を着いてしまう。グワングワンと脳が揺れているような感覚に襲われ、視線が下へと向いてしまった。
 脳震盪だ。先程の蹴りでも顎が砕けなかったその代わりに、頭が揺れて三半規管が機能麻痺したのである。
(くっ、そ!)
 面を上げる。気持ち悪い。それでも気力を振り絞って、焦点の定まらない瞳を、必死に固定しようとした。
 危ない――!
 ぞくり、と背筋が凍りつく。ガクガク震える脚を投げ出して、背後に飛んだ。その瞬間に、『ガルム』がその場を駆け抜けて、揺らめく空気が陽炎に霞んだ。
「くっ……」
 呻いた。左手側に、拳銃を構えた遠田がこちらをポイントしているのが理解できるのだ。さらに、ウィルバートが『ガルム』を反転させ、こちらへの突撃をさせようとしている事も了解した。
 炎犬の顔がこちらを向いている。遠田の指が引き金に掛かっている。ウィルバートの眼が笑うように絞られている。それらを見えない瞳で理解して、聖に、現実に迫った『死』の恐怖が襲い掛かった。
 死、ぬ。
 死ぬのだ。
 死んでしまうのだ、自分は。
(嫌だ……!)
 いやだ――
 イヤダ――!
 左胸が熱を帯びる。トク、トクン、と早鐘のように鼓動し続ける心臓の、上。光が集約したかのような熱さに震えて、聖は全身の汗腺が一斉に開いたのを感じた。
 喉がひり付いた。
 カコン、と何かが外れる、そんな音が聞こえた気がした。
「うおおおおおおおおおぉぉぉおぉおおお―――――――――――――――――――――――っ!」
 空気がミシリと軋みを上げる。大絶叫のその中で、開放された何かが、その空間を激しく揺らした。ゴガァ! とても言い表せないような大音響で、周囲のビルが崩れ始める。
 鉄筋コンクリートが剥がれ落ちた。両サイドのビルの一部が崩落し、恐ろしいほどの物量が落下する。それらを聖は、意識の外で把握して、完全なコントロール下に置いた。
「うおおっ!?」
「っ、ぐあああ!」
「きゃあああああ!」
 大音響が満ちる中、ウィルバート、遠田、そしてカレンの悲鳴が空気に混じる。それを掻き消してしまうほどの猛烈な衝撃音と共に、大量のコンクリートが目前に衝突していく。
 聖はなにも考えていない。ただ単純に、こちらへと走ってきた『ガルム』の群れの進路を塞ぎ、この圧倒的な物量で埋め、存在を消そうとしただけなのだ。
 他の目的など、空白の頭の中では、考えられなかった。
「おおおおおおおおおおおっ!」
 息の続く限りに叫び続けた。アスファルトに直撃するコンクリート塊の衝撃波で全身が揺さぶられる。地震とすら比較できるほど、強大な迫力がその場を支配していたのだ。
「――――――――っ、あ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
 息をついたその時には、目前に灰色の小山が出来上がっていた。まるでトンネル内の崩落だ。それだけ凄まじい光景が、聖の視覚を支配していた。
 モウモウと立ち込める埃が周囲を満たしている。そんな中で響く音は、細かく砕けたコンクリートが上から崩れる、渇いた無機的な物でしかない。その場の誰もが息を飲み、自分が見ているこの現状に言葉を失っていた。
 聖の呼吸も落ち着いてくる。視界を覆っていた土埃が納まってきた頃に、小山の中で動きがあった。
 コンクリートが溶けるように崩れ始め、小さく開いた穴の中から、のっぺりとした赤い小さな『顔』が姿を現した。三つの場所でも同じように炎犬が顔を覗かせ、一斉に聖に向いて、睨みつける。
 ウィルバートが歓声を上げた。
「――っ、そうだ! 『ガルム』はまだやられてはいない!」
 くっ……! 聖は顔を大きく歪め、遠くのカレンが息を呑むのが、ここからでも分かった。まだ思惟が繋がっているからだ。
「殺せ――!」
 遠田が鋭く叫びを上げて。
 『ガルム』が大きく姿勢を変えて。
 タ、タン!
 と周囲に銃声が木霊した。
「えっ……?」
 呆けたようにウィルバートが声を出した。同時にカレンも、どうしたのか、と言う声にならない疑問を、精神的に繋がっている聖へと送ってきている。
 瓦礫の上で、今まさに飛び掛らんとしていたはずの炎犬の姿が薄れ、火の粉と化して宙に舞った。
 ドザァ、と視線の先で、遠田の身体が倒れて転がる。
「う、あぁ……!」
 彼の呻きがここまで届いた。
 その遠田へ、信じられない、と言うように視線を向けたウィルバート。聖はその無防備な胴体へと、宙に浮かせたシグ・ザウエルP220A1九ミリ自動拳銃の銃口を向けた。
 小さく圧力を掛けてトリガーを引き絞る。ハンマーが落ちて撃針を叩き、それがプライマと接触して銃弾の火薬が発火する。その発射ガスを利用してスライドが後退し、エジェクション・ポートが開いてチェンバーから空薬莢が排出された。
 音速を超えた速度でパラベラム弾が射出され、ウィルバートへと吸い込まれるように向かっていく。しかし、360°全方向から均等の圧力を掛けて宙に浮かしている拳銃は、操作が非常に難しい。鉛弾は立ち尽くす白人男性の脇を通過し、アスファルトに穴を穿つだけであった。
「なに!?」
 ウィルバートが驚愕の声を上げた。くそっ! と聖が毒づいて、再び照準を補正する。その銃口の微妙な動きに気付いたウィルバートが、体重を小さく移動させながら、筒状のものを取り出した。
 手榴弾!?
 反射的に、攻撃よりも回避を優先し、後ろに跳び退る。その後で放り投げられたものが、非殺傷性のスタングレネードであることを確認した。
 パシュウゥッ! 閃光が瞳を焼き付け、音波が聴覚機能を阻害する。一時的に外界の情報が遮断されたことでパニックに陥った聖は、固定させていたシグ・ザウエルの引き金を引いて、ガムシャラに弾丸を当てようとした。
 しかしそれも最初の二発程度で終わりだ。弾丸が切れた拳銃が、ホールド・オープンでスライドを後退させたまま、カチンカチンと虚しい音を奏でるだけ。
 閃光のちらつく瞼を開けて、無理矢理に周囲を見回してみても、既にウィルバートの姿は確認できなかった。仕留めそこなった――その事に苦虫を噛んだように顔を歪めると、背後でシグが落下して、金属音を響かせて分解した。集中力が切れたことで能力の継続が不可能になったのだ。
 そう言えばいつの間にか、あの周辺全てを認識下に置くかのような空間的な感覚は消えてしまっている。ならば周囲に危機は無いのか、と少し気を緩めて、肩の力を抜いた。
 そして、確かめた。身に着けていたはずの三つのスタン・グレネード。
 一つが消えている。
 つまりウィルバートは、聖の身体から、その武器を取っていったのだ。
 悔しい気持ちが胸中に広がった。聖に比べて、ウィルバートのほうが圧倒的に上手であった、と言うことを突きつけられたのだ。
 そんなことを振り払い、直ぐに頭を切り替える。
 まだ力の入りきらない膝を叱咤して立ち上がる。肩で激しく息を乱しながら、聖は瓦礫の山を乗り越えて、その先に佇む少女へと歩み寄った。
 カレンは遠田の傍にいた。
 腹部に二発、九ミリ口径の弾丸を喰らった遠田は、それでも生きて、聖にその弱った眼光を据えてくる。カレンがそうしたのだろう、コンクリートの壁に寄りかかりながら、男は聖の姿を確認し、ふふっ、と小さく唇だけで笑んだ。
 苦しそうな微笑だった。先程までの、修羅の如き凄惨さは何処にもない。ただただ、寂しく歳を重ねた、老人のように弱々しいその姿。
「分かって、いたんだ、よ……」
 は、あっ、と吐息を搾り出して、遠田は血の気の失せた唇を動かしていく。
「……私はまだ、捨てきれていないんだ、とね」
 苦しそうに顔を歪めて、それでも言葉の邪魔にならないように痛みに耐える遠田。その手がブレザーのポケットを弄って、一つの小さな、黒い手帳を取り出した。
 弱々しい手つきで、表紙に「警察手帳」と書かれたそれを視界に入れようとする男性。左手も動かして懸命に広げ、中から細かく折り畳んだ紙片を取り出すと、広げる。
 『捨てないで――』、と書かれた紙片。静かな、綺麗な、整然とした横書きの一文。
 『貴方を捨てないで
  希望を捨てないで
  生命を捨てないで
  見送ってください』
 鉛筆書きなのに、筆跡は綺麗なのに、その言葉には何か、とてつもなく強い力が込められているかのようであった。そして、それを見つめる遠田の瞳が、今までとは想像もつかないほどに穏やかで、優しい光を持っていることに、納得した。
 遺書、だ。だから意志が漲っている。だから揺らいだ力を感じる。
 それは多分、奥さんからの最後のお願い。残された彼に対する、最大の謝罪と、後悔と、贖罪の意味を持った言葉。
 最後に記された『知代・拓也より恒昭さんへ』という文字が、亡くなった二人が望んだ、思惟の表れなのだ。
「あぐ、はぁ、っ。……私はまだ縛られているんだ。固執したのは復讐ではなく、罪悪感なんだと、判っていたのに、な」
 ハハッ、と苦笑が彼の口から零れる。
「『捨てないで』――『貴方を捨てないで』、だ。私が築いてきた人生を捨てないでください、と言うことだ。そして私が捨て切れていないのは、まさに自分だよ。今まだ未練がある、自分の誇りこそが、もっとも厄介なものだ……」
 遠田の腕が、強く、手帳を握る。捨て切れていない、つまりまだ、警察と言う職業に誇りを感じているのだ。捨て去って、そこから逃げて、そのための手段としての復讐までしたと言うのに。
「中途半端な私が悪いんだな……。こんなことを起こしてもなにも変わらないんだ、なんて分かってたはずなのに、何かをしなければ罪の意識に潰されそうだった。二人の言葉は、仕事を捨て切れてない私への諦めがあるように、私には思えてしまう。だからこんなことをしたのに、最後にはこんな事になって――結局、自分はただ、仲間を犠牲にし続けただけなのかもしれない……」
 ぱたん、と手帳が地に落ちる。すでに腕に力も入らないのだろう、震える指が下がっていっても、それでも彼は紙片を離さないのだ。どれだけに大切なものなのか。大切な人――優を、失ってしまった聖には、その無力感が自分のことを思い出させる。
「私は逃げ出したかったんだよ、精霊王と若き騎士よ。こんな酷い男の我侭が、現在の惨状を生み出した……。私の腕には何も残さずに――」
「そんなこと、言うなよ……」
 聖は声を発していた。
 震える声音に遠田が首を上げる。しかし焦点の定まらない彼の瞳を見て、聖は余計に悲しくなった。
 もはや眼すら、見えていないか。
「そんな風に言うなよ、これはあんたが望んだことじゃないか……。確かに手段と結果は悪かったけど、でもあんたは何かを、したかったんだろ? 二人の為にどうすれば良いのか、考えたんだろ?」
「……ふふっ。しかし私は、その結果、二人を裏切ってしまったんだよ。それがこの末路なのだから、私は受け入れようと思っている」
「でも……二人のことを考えたから、行動したんだろ? 自分を捨ててまで、過去を否定してまでこんなことやったのに、今の自分も否定するようなこと、言わないでくれよ――!」
「ふは、ははは……!」
 搾り出す空気の、精一杯の笑い声。その後すぐに、かはっ、は、と噎せてしまうが、彼の表情に笑みは消えない。
「優しいのだな、自衛官よ。敵にそんなことを言われるなんて思ってなかった」
 焦点は定まってないけれど――、それでも確かに、遠田は聖を向いて、言った。その表情に柔和な、温情溢れる皺が刻まれているのを見て、遠田 恒昭と言う男の本質が見て取れた気がした。
「しかしな……もう良いんだよ。否定してしまった私を、復権させることはできない。何も無いままに朽ち果てるならば、このまま生きてしまうよりも、ずっと本望が果たせたと言うものだ」
 だから、な。と遠田は言った。お前には感謝している、と。
 殺してくれて、ありがとう、とすら彼は言った。
 聖は奥歯を噛み締めた。無力感が襲い来るのだ。拳を握り締めて、今まさに尽き果てんとする遠田の魂に、何も言えぬままで終わってしまうのか。何も伝えられぬままで終わってしまうのか。
 遠田は首をうなだらせて、ただ、と言った。
「もし許されるなら……。私は死後に、知代に会いたい。拓也に、会いたい――」
 耐え切れなかった。聖は言葉を発しようとした。思いっきり叫んで、思い切り罵倒できたならば、この気持ちも全て、消えるだろうか。
 それをしなかったのは、聖の背に、柔らかな手が触れたからだ。カレンが優しく聖を擦り、その気分を落ち着けてくれたから、感情は落ち着きを取り戻す。
 少女は今まで黙っていた。しかし最も、沈痛な表情をしていたのだ。現状を引き起こしてしまったのが自分である、と言う自責の念を抱え、誰よりも苦しんでいるのが、彼女だから。
 カレンはしゃがんだ。そして、落ちてしまった遠田の手を取り、両手で大切そうに強く握り締める。
「『あなた』――」
 静かな、柔らかな、澄んだ声音。聖が驚き、遠田は弾かれたかのように顔を上げる。
「大丈夫ですよ。私はあなたを待っています。今もここで、待っていますから……」
 そっ、と優しい沈黙が落ちた。
 『知代』――、と遠田は小さく呟き。
 その顔が深く微笑を刻んで。
 彼の身体が力を抜いた。
 遠田 恒昭(とおだ つねあき)元千葉県警警部の命が尽き果てたその瞬間を、カレンと聖は、静かに、確かに、見送ったのだ。
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