ファイル4 「リアル」


 教室の中央付近の席に座り、仏頂面で頬杖を突いた一人の少年が授業を受けていた。目に掛かりそうな長めの黒髪はどこにでもいるような適当な髪型だ。身体つきは平均よりも上。体育では上の中といった成績を持っている。他の成績は良くも悪くも無い。苦手なものと得意なもので多少のばらつきはあるものの、追試三昧というほどでもなかった。
 退屈な授業の間、崎谷由宇は『ザ・ワールド』の事を考えていた。
 一年前、『ザ・ワールド』の中では様々な噂が流れていた。ルートタウンを始めとするフィールドやエリアは勿論、ダンジョンに至るまで画像テクスチャにはバグによる亀裂が生じていた時期があったらしい。
 今でもBBSには当時のログが残っている。
 個人的に保存している者もいるようだ。
 そのバグが消えると同時、世界中で起きていたコンピュータのトラブルが無くなった。同時に、原因も分からずに意識不明となっていた者達のほとんどが目を覚ました。
 世間的には何でもなかったかのように報道されている。
 だが、これらの事象を『ザ・ワールド』と絡めて考えている者は多くないが、いた。由宇が見たのは、『ザ・ワールド』に関連したBBSの過去ログだ。
 由宇の正直な感想としては、強引だと思う。
 バグが多発したネットゲームとはいえ、『ザ・ワールド』も単なるゲームに過ぎない。むしろ、世界的トラブルが『ザ・ワールド』という大規模なネットゲームに影響したのだと見る方が論理的なのではないだろうか。コンピュータ・ネットワークに生じたトラブルが、バグという形でネットゲームに現れたという味方もできる。
 ただ、単なる一人の高校生でしかない由宇が考えても無駄な事だ。
 それ以外に『ザ・ワールド』に関係する中で考えられるものがあるとすれば、放浪AIという奴だろう。
 ヴェインとエンス。二人の関連性を推し量るには判断材料となる情報が不足している。
 結局、終わり無く考えを巡らせる事になるだけだ。
「はぁ……」
 昼休みになると、由宇は机に突っ伏して大きく溜め息をついた。
「どうしたのさ、溜め息なんかついて」
「あぁ、ちょっとな……」
 声をかけて来たのは由宇の友人の一人、柚木辰巳だ。ほんの少しだけ茶色がかった黒髪の大人しそうな少年というのがぴったりくる。いつも笑みを浮かべているかのような穏和な表情をしている。雰囲気に見合わず、性格は行動的で外交的だ。運動神経も悪くなく、体育の授業では由宇と辰巳のコンビネーションはクラスでも注目されている。
「早く購買に行かないと昼飯なくなるよ」
 そう言って、辰巳は由宇を促した。
「解ってるって」
 由宇は気を取り直し、辰巳と共に教室を出た。
「それで、何で溜め息ついてたの?」
「大した事じゃないよ」
 辰巳の追究を、由宇は苦笑してかわす。
「ほんとにぃ?」
 怪しそうに視線を細め、辰巳が由宇を横目で見る。
「そんなに知りたいか?」
「無理にとは言わないよ」
 疲れたような表情を返す由宇に、辰巳は一点して笑顔を浮かべる。
「お前なぁ」
 由宇は呆れたように呟いた。
 他者の心の中へ一歩目は大きく踏み込んで来るクセに、辰巳は直ぐに退いてしまう。そうする事で、相手にも自分の心の中へ踏み込ませようとしているのだ。
 彼の人懐っこい性格や表情から、大抵の者は直ぐに辰巳と打ち解けてしまう。
 一見、由宇も他の者達と変わらずに辰巳と接しているように見えるが、実際は違っていた。
 由宇は自分自身の個人的な時間とそれ以外を区別している。親しくなった者だけでなく、家族にすら、自分自身の時間についてほとんど話した事はない。
 何でも話せた本当の親友とは、別々の高校になってしまった。それも、優秀な高校に行ってしまったため、勉強で忙しいらしくあまり連絡が取れない状態にある。
「でもさ、由宇だけだよね」
「何が?」
「ほら、自分の事話さないじゃん。普段何してるーとかさ」
「別にいいだろ、困るわけでもなし」
「まぁねぇ」
 溜め息交じりの由宇の言葉に、辰巳が笑った。
「俺は公私混同しない主義だから」
「うん、そう見える」
 購買に辿り着き、生徒達の間に割り込んで昼食を選んで購入する。素早く食料を調達し、人ごみから抜ける。
「お待たせ」
 一足遅れて辰巳が戻って来た。
「何か多くないか?」
 普段は購買の菓子パンを三つ食べる辰巳が、今日は五つ購入していた。
「ああ、ちょっと理由があってね」
 辰巳の言葉に首を傾げつつ、由宇は教室へと来た道を引き返した。
 教室へ戻り、由宇が席に座る。辰巳は一度由宇から離れ、二人だけで談話している女子の方へ向かっていく。
「藍川……?」
 辰巳が二人のうちの一方にパンを手渡していた。余分に買った二つだ。
 由宇のクラスの女子は大抵、二つのグループを作っている。食事時には、その二グループがそれぞれ固まって談笑しながら昼休みを過ごしていた。
 辰巳がパンを渡しに行った二人は、二つのグループのどちらともつるんでいない。大人しく、引っ込み思案な藍川雪とその友人である鈴木奈緒の二人だ。
 雪はセミロングの黒髪に、いつも僅かに目を細めて柔和な表情を浮かべている。運動神経はさほど高くないが、他の成績は平均よりも上だ。物腰は丁寧だが、見たところ臆病らしい。奈緒は眼鏡をかけた女子で、雪とは中学からの付き合いのようで、一緒にいる事が多い。髪はセミロングというよりはショートに近い。ショートにしていた髪が伸びて来た、といったところだろう。雪とは対照的に、運動神経が平均よりも上で、成績が平均か、それをやや下回るぐらいだ。雪に比べると外交的に見える。
 いつも二人でいるためか、目立っている。本人達もそれに気付いているようだが、二つある女子グループのどちらにも入るに入れないようで、そのままになっていた。
「何だ? 頼まれてたのか?」
 二人から離れ、戻ってきた辰巳に由宇は尋ねた。
「まぁ、似たようなもんかな」
「違うって事か?」
「俺から言い出したんだよ。あの二人、人ごみに中々入っていけないだろ?」
「ああ」
 辰巳の言葉に、由宇は相槌をうつ。
 雪と奈緒は人ごみを掻き分けて進む、というのができない性格をしている。それは傍から見ていても判った。女子のグループにも中々混ざれず、いつも二人でいるのだから。
「だから、購買でパン買うにしても余りものの味気ないやつばっかり食ってんだよな」
「それで気を利かした、と?」
「ま、ね」
 辰巳は由宇の言葉に頷き、歯を見せて笑った。
「つーか、良く見てるな、お前」
 そう言って、由宇はパンを齧った。
「細かい部分に気付けないようじゃイイ男にはなれないぜ?」
「別にならなくていいよ、俺は」
 由宇は溜め息混じりに苦笑を返す。
「……なぁ、由宇」
「ん?」
 パンを口にしつつ、辰巳が由宇を見る。その表情は、いつになく真剣なものだった。
「一つ、聞いてもいいか?」
「答えられるかはわからないけどな」
 由宇の確認の言葉に一つ頷いて、辰巳は口を開く。
「AIって、自我を持つと思うか?」
 由宇はその問いに、眉根を寄せた。
「さぁな、判らない」
 数瞬考えた後に出した答えがそれだった。
「たとえば、相手の存在が見えない状態で会話したとする。もし、その状態で会話が成立するなら、相手は自我を持ってるとも言えるんじゃないか?」
 由宇は言った。
 インターネット上で知った情報ではあるが、事実として存在する理論でもある。機械と人間を会話させ、実際に言葉を交わした人物が相手を人か機械か判断できないのであれば、それは人と同等の存在だ、と定義する理論だ。
 たとえプログラムであっても、人間と日常会話ができたのならば、そのAIは人間に極めて近い存在と言えなくもない。
「ただ、たとえ人間と会話が成立しても、全てがプログラム通りに応答されていると考えるなら、自我を持っていないとも言えると思う」
 由宇の言葉に、辰巳は顎に手を当てて頷いた。
 日常会話のための幾千幾万、幾億通りもの返答や言葉のプログラムを組み、人間とまともに会話できるとしても、果たしてそれが自我だと言えるのだろうか。臨機応変に対応しているように見えても、突き詰めてしまえば全てプログラムによって判断・選択されているに過ぎないのではないか。
「俺もその辺で止まっちゃうんだよ。どっちも正しいような気がしてさ」
 辰巳が肩を竦める。
「けど、人間と同じ思考力を持ったAIがこの先作られるかもしれない、と思うんだ、俺は」
 人間の脳が電気刺激によって働いているというのは、既に解明されている。複雑に結びついた神経細胞が電気信号によって連絡を取り合う事で人間は考えている。つまりは、人間の脳はデジタルなもの、という事だ。極論を言えば、人間の脳は複雑な原子配列によって成り立っている。全てが原子から成り立っているというのなら、複製は不可能ではない。もっとも、それでは人工的に生み出した人間という事になってしまうのだが。
 ただ、同じ思考能力を持つプログラムを組む事も、不可能だとは断言できない。どれだけ膨大なデータ量になったとしても。
「その時、それがAIだと呼べるかどうかは判らないけどな」
 由宇の言葉を、辰巳は興味深そうに聞いていた。
「確かに、そこまで来たら判断は難しいよな」
 辰巳が呟く。
「考え出すときりがないと思うけど?」
 まぁね、と辰巳が苦笑する。
「にしても、妙な事を聞くな?」
「ちょっと思うところがあってね」
「思うところ、ねぇ……」
 ここ最近、AIが話題に上がるようなニュースはない。もし、思い当たるものがあるとすれば、『ザ・ワールド』だ。度々BBSで報告される放浪AIぐらいしかない。
 だが、由宇はその事に触れようとは思わなかった。
 相手から打ち明けた話ならともかく、由宇の側からプライベートに踏み込もうとはしない。由宇自身、それを禁じていた。由宇が『ザ・ワールド』をプレイしている事を、クラスの誰も知らない。
「『ザ・ワールド』って、知ってるだろ?」
「ああ」
 辰巳の言葉に、由宇は頷くだけだ。
 由宇と違い、辰巳は自分のプライベートを容易く話している。自分が『ザ・ワールド』の上級プレイヤーである事は、恐らくクラスのほとんどの者が知っているはずだ。『ザ・ワールド』に関する知識では、辰巳に敵う者はいなかった。ただし、自分もプレイヤーである事を隠している由宇を除いて。
 余計な事は喋らず、質問にのみ答える。自分がプレイヤーかどうかを疑わせる事はしない。
「よく噂になってるんだけどさ、『ザ・ワールド』の中には放浪AIってのがあるらしいんだ」
「それでAIの話か?」
 そういうこと、と辰巳が笑みを返した。
「最近、自分の目でも放浪AIってのを見ちゃってね」
 由宇は内心、驚いていた。自分も放浪AIに会っていたからだ。だが、それを顔には出さない。
「普通にエディットできるPCじゃなかったし、NPCにしてはしっかり会話してた」
 適当に相槌をうちながら、由宇は辰巳の言葉を聞いていた。
 ヴェインとエンスのどちらかの放浪AIとも違う存在と出会った可能性も十分に在り得る。だが、もしかしたらヴェインとエンスに関わっているのかもしれない。何か、情報が得られるかもしれないと、期待していた。
「辰巳ぃ、いい加減PC教えろよー」
 突然、横から男子が首を突っ込んできた。辰巳の首を脇に挟み、抑え付けて追究している。『ザ・ワールド』の話をしているのを聞いて、口を出したのだ。
 辰巳は自分が『ザ・ワールド』にインしている事は明かしても、PC名を明かしていない。
「教えたら面白くないじゃん」
 彼はいつもそう言ってはぐらかしている。だが、知り合いと『ザ・ワールド』をプレイしたいという気持ちが判らないわけではない。
 ただ、相手のプレイスタイルによっては、反りが合わない事もある。それを考えてか、辰巳は自分のPC名を決して喋らない。
「もしかしたらPKかもしんないよ〜?」
 口の端を持ち上げ、辰巳が脅かす。
 それは相手に対しての言葉かもしれない。辰巳がPKである事も、相手がPKである事も、可能性としては存在する。リアルでの知り合いが『ザ・ワールド』をプレイしている事もある。逆に、『ザ・ワールド』で知り合った者達がリアルで出会う事もある。
 リアルとネット、二つを知った時、ギャップにショックを受ける者もいるのだ。辰巳はそれを避けて『ザ・ワールド』を楽しんでいた。
「あんましいじわるするとレアアイテムのワード教えてやんないぞー」
 げぇっ、と困った顔をして男子生徒が辰巳の首を話す。
 それを眺めながら、由宇はパンを齧った。他の人が口を挟んできた以上、先程の話は打ち切りだ。どこか達観したような雰囲気や態度を取る由宇は、何かと頼りにされる。辰巳にしても、難解で哲学的な、それも真面目な内容の事で意見を交わしたい時は由宇に話を持ち掛けてくる。放浪AIの話をした先程のように、二人だけで真剣に言葉をやり取りするのだ。そうした時、第三者が割り込んできた時点で話はお終いになる。
 他の生徒に話しても、まともな答えが返ってこない事を辰巳が知っているからだ。以前は辰巳も他の生徒に話を振っていたが、望んだ内容の会話ができたのは由宇一人だけだった。由宇にしても、深い内容の話ができるのは辰巳ぐらいしかいない。そのせいか、由宇と辰巳の信頼度は他の者達よりも若干高い。
 もっとも、そういった濃い内容の話をしようとする辰巳も、どこか達観したような雰囲気を持っている。ただ、その雰囲気は辰巳の性格が上手くカバーしていた。
 後から加わった数人の男子生徒と適当に言葉を交わしながら、由宇は昼を過ごした。

 キュッ、と、シューズと床が擦れる独特の音が体育館に響く。
 細く息を吐き出し、由宇は思い切り踏み込んだ。左後方から、敵の持っていたバスケットボールを掻っ攫う。一歩、踏み込むと同時に制動をかけて動きを止めると、左足を軸にして背後にターン。
 目の前に回り込んで来る二人の敵を見て、由宇はドリブルを始める。背中から相手にぶつかるように、ボールを庇いながらディフェンスをかわす。
 視界の端に、辰巳が見えた。ゴールポスト下へと向かって走る辰巳を意識しつつ、由宇は前方のディフェンスにぶつかっていった。
 右手から左手へドリブルを移し、空いた右手でディフェンスを押し退け、道をあける。他の敵が割り込んでくる中、由宇は左手のボールを右脇の地面に叩き付けた。
 バウンドしたボールがディフェンスを擦り抜け、丁度良く滑り込んできた辰巳がキャッチする。そのまま床を蹴って跳躍し、ボールを構えた。辰巳の目の前で長身の生徒が両手を挙げて跳躍し、ブロックする。
 辰巳は口元に笑みを見せ、ボールを真後ろに落とした。
 背後に滑り込んでいた由宇がボールを空中で受け止め、そのままシュートフォームへ持って行く。ブロックしていた相手が着地し、障害物がなくなる。由宇はボールを放った。
 投げられたボールは放物線を描いてリングの中に吸い込まれる。小気味の良い音を立てて、ボールが網を揺らした。
 同時に、試合終了のブザーがなった。
「ふぅ……」
 ブザーを聞いて、由宇は大きく息をついた。額から流れ落ちる汗を腕で拭い、チーム毎に並んで一礼してからコートの外へ出た。
 由宇達の高校では、今の体育でバスケットボールをやっている。二組合同で行われる体育では、バスケットボールなら各クラスで三チームに分けられる。そのうちの一つのチームは、バスケットボールが得意な者達で構成されていた。一ヶ月ほど後にあるクラスマッチのためのメンバーで組まれているのである。当然、相手クラスも同じようにクラスマッチ用のチームが一つあり、他のチームと比べると強い。
 先程まで、由宇達が戦っていたチームがそれだ。
 クラスマッチ用のチーム同士の試合は、それ以外の組み合わせとはレベルが違ってくる。
「あっつー」
 乱れた呼吸を整えながら、由宇は壁に背中を預けて座り込んだ。
「ほんときっついねー」
 隣では辰巳も息を切らしていた。
 運動着の襟元を掴んで扇ぐように動かし、少しでも風を送り込む。
「授業で本気出さなくたっていいだろうに……」
 由宇がぼやく。
 得点は、それでも由宇達が三点差で勝っていた。
「にしてもお前らすげーな。サッカーにも出てくんね?」
「流石にきついぜ、それ」
 隣に座り込んだクラスメイトに首を横に振る。
「俺らバスケのが得意だしね」
 辰巳も肩を竦めてみせた。
 他のチームの試合をしている向こうでは、女子が体育の授業をしている。体育館を半分ずつ使っているのだ。今は女子もバスケットボールをしていた。
 雪と奈緒が試合に出ていた。奈緒はともかく、雪はあまり戦力にはなっていない。ただ、ディフェンスに徹している。一人の相手を徹底的にマークし、敵チームのパスの選択肢を減らしていた。
「なぁ、辰巳」
「ん?」
「あいつ、何か調子悪いのか?」
「あいつ……? 藍川か?」
 由宇の視線を追って、辰巳が雪を見る。
「なんつーか、ふらふらしてるからな」
「飯の時に話した様子じゃわかんなかったけどな。まぁ、動いてたわけじゃなかったし」
 辰巳が顎に手を当てる。
「何もなきゃいいけど」
 溜め息混じりに由宇が呟く。
「あー、お前保健委員だったっけ」
 辰巳が苦笑した。
 楽だから、という理由で入った委員会だ。実質、ほとんど仕事がない。ただ、授業中に体調を崩したり怪我をした者を保健室へ連れて行ったり、応急手当をしなければならない。要は、緊急時に仕事をする生徒会の人員なのだ。
 女子の試合が終了した直後、雪が倒れたのが見えた。
「ほら、出番だぞ」
「しゃーねぇなぁ」
 辰巳に背中を押されて、由宇は立ち上がった。
 原則として、授業中に怪我人や病人が出た場合、保健委員が付き添いにならねばならない。他の生徒は授業を続けるのが校則だった。
「保健委員!」
 奈緒が声を上げた時には、由宇は既に駆け出していた。直ぐに駆け寄り、雪の様子を見る。幸い、失神はしていない。意識はあるようだった。
「鈴木、何か知ってるか?」
「私は聞いてないわ……」
 雪の事を最も良く知っているだろう人物に尋ねたが、情報は得られなかった。
「立てるか? とりあえず保健室に連れて行く。先生が戻って来たらそう言っといてくれ」
 今、体育館に担当の教師はいない。用事があって外しているのだ。
「解ったわ。お願いね」
 おう、と一言だけ答えて、雪を立たせる。自力で歩けるようだったので、由宇は雪を連れて体育館を出た。
 そのまま校舎内に戻り、保健室へ直行する。
 保健室にも、担当教師はいなかった。
「授業中に職員会議なんてあったけか?」
 呟きながら、由宇は雪をベッドに誘導した。
 もしかしたら保健の教師が休暇を取っていたのかもしれないが、由宇には判断できない。
「ごめんなさい……。もう、大丈夫だから……」
 授業に戻ってもいい、と雪が由宇を気遣う。
「十分は様子見で付き添ってなきゃいけない規則なんだ」
 そういって、由宇は保健室内にあった椅子に腰を下ろした。
「謝るくらいなら最初から倒れないでくれ」
「ごめんなさい……」
 苦笑交じりの言葉に、雪はまた謝った。
「貧血ってわけでもないだろうし、体調不良か何かか?」
 保健室にあった記録用紙に、由宇は必要事項を記入していく。その中で、雪の症状の欄で手が止まった。
 彼女は健康体だ。貧血や、喘息などといった持病は持っていない。となると、他に考えられるのは単なる体調不良だ。風邪という可能性も十分にある。
「……体調不良、かな……」
 小さく、雪が呟いた。何かを隠しているようにも感じた。
「体調管理ぐらいはしっかりしとけよ」
 だが、由宇は何も追及しない。事情は人それぞれ安易に踏み込んでいいものではない。ならば、相手から話してこない時以外は踏み込むべきではない、というのが由宇の考えだ。自ら話した言葉なら、本人も後悔しないだろうから。
「……どうしても、やりたい事があったから」
「寝不足か」
 うん、という返事が返ってきたのを聞いて、由宇は小さく溜め息をついた。
「睡眠時間は大事だからな、ちゃんと取っておいた方がいい。また今日みたいな事になるぞ」
 どうしてもやりたい事があった。その言葉から想像できるのは、夜更かしをしていたという事情だ。やりたい事のために時間を費やし、睡眠時間が削られた、という理由のが真っ先に考え付く。
 普通なら何をしていたのか尋ねるところなのだろうが、由宇は問わなかった。
「……訊かないんだ……?」
 雪が呟いた。
「それが俺の信条だからな」
 一言だけ答えて、由宇は時計に視線を移した。様子見の時間はまだ三、四分残っている。
「変わってるね、崎谷君て……」
「その言葉、反応に困る」
 苦笑し、由宇は言った。
 会話が止まる。元々、雪は人見知りをしがちな性格だ。これだけの会話でも、男子である由宇を相手にしたと考えれば珍しい事なのだ。
「ねぇ……崎谷君は、『ザ・ワールド』って、やってるの?」
「何でそんな事聞くんだ?」
「何でだろ……。私も解らない……」
 雪の声に苦笑いが交じっていた。
「私、『ザ・ワールド』やってるの。最近、少し、やりすぎて、それで……」
「寝不足か」
 うん、と小さな返事が返ってきた。
「ていうか、俺に話したって仕方なくないか?」
「それもそうだけど……」
 気持ちが判らないわけではない。何も話さずに時間が過ぎるのを待つというのは、気まずいものだ。確かに、何か話していた方が気が楽だった。特に、雪は気絶や吐き気、発熱などの症状は無く、普通に会話をする余裕がある状態だ。意識がはっきりしている分、気まずさを感じているのだろう。
「ちょっと、色々あったの」
 由宇は腕を組んで、黙って話を聞く事にした。余計な事を喋らないためにも、相手が伝えたい意図を受け取るためにも。
「だから、早く強くなりたくて……」
 プレイヤーにはよくある衝動だ。
 早く上級者の仲間入りをしたい。PKされた相手を見返してやりたい。PKされた友人の敵討ち。まだ初心者の時に受けた恩を返したくてレベルを上げる者。様々だ。
「ま、俺は何も言わないけどな」
 由宇はそう言って立ち上がった。
 事情があるのだろうから、止めたりしない。由宇は言外にそう滲ませた。
 リアルだろうとネットだろうと、そこに人がいる限り色んな事がある。顔が見えないから、実際に会っているわけではないからと、好き勝手にやる者もいる。人間関係での問題も生じる。
 リアルでも、ネットでも、同じだ。
「あの世界の中でだけ、私はなりたい自分になれる……」
 雪が呟く。
「本当は、その自分自身もあんたの中にいるんだろうけどな」
 由宇はそう告げて、保健室のドアを開けた。雪は何も言わなかった。
「じゃあ、俺は授業に戻るからな」
「うん、ありがとう」
 雪の返事を聞いてから、由宇は保健室を後にした。
 体育館に戻った直後、奈緒に雪の容態を尋ねられた。暫く休めば大丈夫だろうと答え、由宇は授業に復帰した。
「おかえり」
 辰巳の隣に腰を下ろし、由宇は息をついた。
「なぁ、辰巳」
「ん?」
「お前さ、もしかして鈴木に惚れてたりするのか?」
「何を唐突に」
 辰巳の視線に由宇に向かう。突拍子もなく切り出したせいもあってか、辰巳は驚いたようだった。
「いや、ふと思っただけだ」
「なんか、時々お前って鋭いとこ突いて来るよな」
「当たってたのか!?」
 今度は由宇が驚いた。
「まず、何でそう思ったのか言ってみろ」
「昼飯だ」
「やっぱりそれかー」
 辰巳が頭を抱えた。
 昼食の時、辰巳がパンを渡してから言葉を交わしたのはもっぱら奈緒の方だった。手渡したのは雪の方だったが、会話をしていたのは奈緒の方だったのだ。何を喋っていたのかまでは判らないが、辰巳と奈緒のやり取りを見ていて何となくその考えが浮かんだだけだった。
「他の奴には黙っててくれ」
「判ってるよ」
 両手を合わせて懇願する辰巳に、由宇は苦笑した。
「代わりに後でジュースでも奢ってくれ」
「むぅ、妥協しよう」
 交渉が成立したところで、試合が終わった。
 最後のチームがコートに入り、試合が始まる。時間的には、この試合で授業が終わる。
 体育の後は、教室で古典の授業が入っていた。運動した直後の古典は眠くなる。多くの生徒が眠りに落ちる時間だ。そして、古典が終われば下校になる。
 早く帰りたい。帰って『ザ・ワールド』にインしたい。
 由宇は言葉にも表情にも出さず、そう考えながら試合を見ていた。
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