第一章




 キキィ、と古ぼけた後輪ブレーキが金きり音を響かせた。
 慎重に、慎重に、と思いながら握ったパッドの感触が鈍くて、このチャリも古いよなぁ、と半ば呆れながら。聖司は徐々に速度を緩めつつ、柔らかい温もりが背中に密着する現状にやや照れながらも、しがみ付く花織に気を使う。
「そろそろ着くぞ〜」
「うん、知ってるー」
 花織の応答にちょっとショックを受ける聖司。しかしながら、花織も同じ学校に通っているのだから、そんな事は知ってて当たり前で、自分の気遣いがマヌケ過ぎたのだと気付いた。
 どうにもさっきから、花織が自分に抱きついている事を意識しすぎているようだ。だから頭が良く働いていないらしい。秋も半ばの風が心地良いと感じることで、自分の頬が火照っている事実に気付かされたのは、つい今しがたであった。
(うぅ、やーらかい……)
 女の子の温かさを感じている、それが緊張の原因ではあるが、幼児体系な花織は一部が突出しているという訳ではない。それだけに余計に、腰に回された腕や密着している頬など、彼女の全身の柔らかさを実感して、気恥ずかしさが増幅されるのだ。
 聖司はそんな邪な考えを何とか頭から追い出しつつも、まだまだ人の入りが激しい秋鷹高校の校門を眺めた。
「ん〜……まだ大丈夫、かな?」
 と呟きながら、キツ目のカーブを抜けた車体を立て直した。
「遅刻は免れたねー。しょーちゃんのお蔭だよ」
 花織が、ほぅ、と安心したように息を吐いて、そんな事を言ってくれる。それに聖司は、だろーう、と鼻高々に笑って見せた。
「んじゃ間に合ったことだし、そろそろ降りるか」
 はーい、という花織の声。聖司はスピードを緩めながら、キィキィうるさい自転車のバランスを保つのに集中した。二人乗りは低速状態が不安定だ。
 ぴょん、と花織が地面に降り立つのが分かった。それで、今まで感じていた少女の柔らかさが無くなって、聖司は思わず寂しい顔をしてしまう。だがすぐに気分を立て直すと、ゆっくり地面に足をつけて、自分も自転車から降りるのだ。
「えっへへー」
 花織が笑いながら聖司の隣に立つ。それで彼は、背中に残る彼女の温もりを意識して、少しだけ頬を赤くした。
 校門をくぐって右隣に駐輪場。そこに目を移して、思わず聖司は嫌な顔をする。入り口に近い方は軒並み自転車に占拠され、空いてる場所は遥か遠くのフェンス際だ。
 正門から遠いなぁ、ヤだなぁ、と思いながらそちらに歩を進める聖司。その後ろを、ひよこの様に付いて来る少女が一人。
 ……ん?
「ねほ、先に行ってて良いんだぞ?」
 と聖司が花織に話しかけると、
「うん。でも、乗せて貰ったんだから、置く所まで一緒に行くよ」
 彼女は笑顔でそう返した。とても真面目な態度である。
 あ、そう。と聖司は半ば呆れながら、空いてる場所に自転車を置いた。そして籠の中のチェーンキーを取り出して後輪に取り付け、四桁の数字をバラバラに崩す。暗証番号式だ。
 花織は、そんな聖司の行動をニコニコしながら眺めていたが、不意に響いた大音量に少し驚く。
 キーンコーンカーンコーン。オーソドックスな鐘の音だ。
「あ、鳴っちゃった!」
「ねほ、いま何分だ?」
 すかさずそう聞くと、少女は慌てた視線を腕時計に転じて、そしてホッと息を吐く。
「よかったぁ、まだ予鈴だよ」
「んじゃ、あと五分はあるな。余裕だで」
「うん。余裕だで」
 花織が聖司の口真似をして、ブイサイン。聖司は座布団を籠に押し込んでからちょっと苦笑し、
「行こかね」
 と促す。
 正面玄関に入ると、それなりの人数がノンビリしながら靴を履き替えていた。そんなに学力の高くない秋鷹高校、予鈴くらいで慌てる生徒はほとんど居ない。ホームルーム程度は遅れても良いと腹を括った強心臓たちに混じって、二人も上履きを取りに下駄箱へ行くのである。
「それじゃな、ねほ。転ぶなよ」
「それじゃあね、しょーちゃん。――って、転ばないよぉ!」
 やや遅れた抗議の声を背中に聞きながら、聖司は靴箱へと進んでいった。ちなみに彼は2年生、花織は1年生なので、二人はここでお別れなのだ。
 聖司は、花織の反応の良さに、クククッと小さく笑いながら上履きを取り出す。その直後に、1年生玄関の方でガン、と言う音と共に、キャー、という花織の叫び声が聞こえてきた。
「……コケた?」
 顔を覗かせてニヤニヤしてみると、
「転んでない! ……躓いただけだもん」
 ふくれっ面の花織が顔を出して、うん、良いお顔、と聖司も笑う。
 そんな、やや喧騒が少なくなった下駄箱の風景。そうして今度こそ、聖司と花織は自分の教室に向けて、別々の廊下を歩くのだ。



 と、そんな朝の微笑ましい1コマから数時間。
 キーンコーンカーンコーン、と鳴り響くチャイムの下、ふうっ、と一息ついて、花織はゆっくりと教科書類をまとめる。
 机の上に広がった束をひとまとめに立てて、トン、と軽く揃えてから、机の中へ。そんな簡単な動作もウキウキ気分で楽しく出来るのは、次がお昼のお弁当タイムだからである。
 なので、花織は自然と、鼻歌なんかを鼻ずさんでしまうのだ。
「えー、びー、しー――。フフンフンフンフフ♪」
 リズムに合わせて頭を揺らす小さな少女。普通の高校一年生なら、例え女子でも常識外のやや引く光景でも、彼女がやると何故か微笑ましいから不思議だ。
 と言う訳で、花織の周囲に集まってきた友人たちも、ついつい保護欲をくすぐる小動物的な女の子の姿を、ゆっくり眺めてしまうのである。
「あ〜、可愛いわねぇ、花織ちゃん」
 ハフゥ、と溜息を吐きながらウットリするのが、長身に綺麗な黒髪が特徴の、川島 真由(かわしま まゆ)である。
「何なんだろうねぇ、この癒し系あかべこ風味な光景は」
 呆れ声で腕を組むのが、ショートボブにやや切れ長な瞳の、本田 芳子(ほんだ よしこ)
「横に揺れてるから、あかべことは違うんじゃないかな?」
 と冷静なツッコミを見せるのが、眼鏡にまとめ髪の巻 三波(まき みなみ)である。
「で? そろそろ声かけた方がいい?」
 と芳子が聞くと、
「いいえ、もう少しこの風景を目に焼き付けていたいわ」
 と、真由が力強く静止してしまう為、彼女たちはその場に留まるのであった。
「ていうか真由ちゃん、目だけじゃないよね、焼き付けてるの」
 確かに三波の言うとおり、真由は携帯電話のムービー撮影で花織の様子を撮影しているのだが、そんな事は当人は気にしないので、ツッコミはスルーである。
 それから数秒後。
「…………、はわっ!?」
 花織はがふと顔を上げると、何やらニコニコニヤニヤしながらこっちを見ている友人たちの姿を発見したので、やたら驚いた声を出してしまった。
「な、何してるの、3人とも!? 早くご飯、食べようよー」
 一曲歌い終わっちゃったよー、と情け無い声を上げるキューティー花織ちゃんの姿に、真由が満足そうな笑顔でケータイを畳んだが、他の二人はあえて無視である。
「悪いね、花織があまりにも楽しそうだからさ、声をかけ辛くってさー」
「歌詞の分からないところを鼻歌で誤魔化す作業が面白かったよ」
 芳子と三波のからかい半分な言葉に、聞いてたの!? と頬を赤くさせながらも、
「あうぅ〜……。良いからご飯にしようよー」
 花織は誤魔化すように、机をバンバンと叩くのだった。
「よしよし、いい子ねー。私たちが来るまで我慢してたなんて、花織ちゃんはとっても、偉い子よー」
 まるで子供をあやすかのように、花織の頭をナデナデしながら椅子に座る真由の表情は、なんとも締まりの無いほど蕩けているのだ。
「何ていうか、話題の挿げ替え、上手いわねぇ」
「ホントに」
 二人が呆れたように椅子を持ってくる中、当の花織は、真由の優しい手の感触に、嬉しいような照れたような笑みを浮かべて、はにかんでいるのだ。要するにもう、先の問題は忘れているのである。
 こうして何だかんだで、ちょっと遅くなった昼食に、どやどやとお弁当を広げる4人の女の子たち。その、ちょっと甘酸っぱい香りが漂っていそうな光景を、周囲の男子たちも、良いなぁ、て瞳で遠巻きに見ているのだ。つまりそれだけ粒揃いな少女たちなのだ。
 そして今まさに、楽しくお喋りしながらの麗しいランチタイムが始まろうとした時である。
 教室の前の扉が開いて、上級生の声が響き渡った。
「おーい、ねほー! ちょっと来ーい」
 ふあっ? とフォークに刺した卵焼きを口に運ぼうとしていた花織は、自らを呼ぶ聖司の声に動きを止めると、律儀にそれを弁当箱に戻してから、
「ちょっと行って来るね」
 と友人たちに断りを入れるのである。
「んー」
「はいよー」
「どうぞ」
 と返事を返してくれる三人の少女。しかし、振り返った瞬間の、真由の聖司を睨む物凄い眼つきには、花織は気付かないのである。
 そんな殺気にも似た視線を感じ取ったのか、聖司はちょっと身を震わせて周囲をキョロキョロしていたが、気付いていない花織は、彼の挙動不審な態度に疑問符を浮かべながらも、
「どーしたの?」
 と尋ねるのだった。
「ん? んー、ああ、うん」
 まだちょっとキョロキョロしながら、聖司は花織を見詰め、
「ほい」
 とおもむろに、国語辞典を差し出してきた。
「ふえ?」
 その唐突な行動に、花織が惚けた様な声を出したので、お前なぁ、と聖司がジト目である。
「6限で使うんだろ?」
 その言葉を聞いて、ようやく花織は思い出したのである。今日の朝、登校途中に自転車の上で、唐突に辞書を忘れたことを思い出した花織は、遅刻寸前だった にも拘らず荷台から飛び降りようとしたのだ。その余りに突飛な行動に驚愕した聖司が必死に彼女を止めて、辞書なら貸してやるから、と宥めていたのである。
「あ、あー! そうだった!」
 ようやくそこに思い至った花織の様子に、聖司は頭を抱えながらも、
「つーわけで、ホラ、持って来たから。受け取れ」
 と再び差し出してくるのだった。
「うん、ありがとー。しょーちゃんには感謝だよ」
 ニッコリと辞書を手に取る花織ちゃん。そんな素直な少女に、よしよし、と好々爺の如く相好を崩した聖司が花織の頭をナデナデすると、ん〜、と花織も恥ずかし嬉しそうに首を引っ込めながらも、目を細めるのであった。
 そんな儀式がひとしきり終わったあと。
「ほんじゃ、俺ぁ帰るから」
 と後ろを向く聖司くん。そんな彼に花織は、ちゃんと返すからねー、と声をかける。聖司は笑いながら、いつでも良いぞー、と応答しつつ手を振り、階段の奥へと消えていった。
 花織は彼の後姿に、ありがと、ともう一度だけ呟いて、やっぱりしょーちゃんはステキだなぁ、と少しポエっとしてしまうのである。
 その後で花織は教室内に戻り、友人たちの輪の中へと座るのだが、その最中に先程まで物凄い剣幕で聖司を睨んでいた真由は、表情を元に戻しているのだ。
「ただいまー」
『おかえり〜』
 なんて会話を交わしながら、再びお弁当に向き直る花織。そしてお待ちかねの卵焼きをパクつきながら他の面々を見回すと、なんと彼女たちは既にほとんど食べ終えているではないか!
「ふぁ、みんな早い!」
 と焦って食べようとして、プチトマトを床に転がしてションボリと項垂れる花織の姿に、思わず皆が慰めにかかってしまう。そんな寂しいお昼時。
「あー、もう、そんなに急ぐから〜」
「大丈夫よ花織ちゃん。ゆっくり食べてても、私たちはここにいるからね」
 そんなふうに、真由と芳子が花織をよしよし撫でている横で、三波がポツッと聞いてくる。
「ねー、ハナちゃん」
 呼ばれた花織が振り向くと、三波は真剣な瞳を向けてきている。ちなみにハナちゃんとは、三波だけが使う花織のニックネームだ。
「なに?」
 と返すと、三波はゆっくり口を開き、
「なんであの先輩に、『ねほ』って呼ばれてるの?」
 そんな質問が飛んできたのである。
 他の二人も、ハッとしたように花織の方へと注目した。前々から気になっていた、そんな感じの表情だ。
 ただ、当の本人はキョトンとしたような瞳で彼女たちを見返していたが、聞きたい? と尋ねると、全員が真剣に頷いたので、ちょっと頭の中を整理する。
「ん〜、と。あのね……」
 その、顎に人差し指を当てて上を向く表情に、真由が「萌え!」と小さく呟いた事には気付かずに、花織はゆっくりと話し始めるのであった。



「あ〜?」
 と、思わず聞き返してしまったのは聖司である。
 ここは聖司のクラスの教室の中、時は花織に辞書を渡した後のこと。帰ってきて、よし飯だ、と気合い充分に買ってきた菓子パンの袋を開ける最中、友人たちの唐突な質問に拍子抜けした瞬間であった。
「いや、だからな? なんでお前は、花織ちゃんのことを妙なニックネームで呼んでるのかと、そう聞いてるわけなんだ」
 回りくどい芝居がかり口調な岡崎の後ろで、国見と吉崎が、そうだー、教えろー、と騒いでいる。そんな珍妙な光景に、聖司はやや呆け顔である。
「んなこと聞いてどーすんだよ」
 そんな当たり前の疑問を口にする聖司に、友人たちは揃って顔を近づけて、
『府に落ちないからだ!』
 と凄んで来る。
 その妙な迫力には、聖司くんも思わずタジタジだ。
「ああ、思い返せば半年も昔、この春に入学してきた可憐なる少女! あの純粋無垢な瞳と、保護欲をくすぐられる素敵な容姿に、この校内のどれ程の男子が魅了されたことか!」
 引いていた聖司の隙を付き、大仰な口調で虚空を見詰める岡崎の、その悦に入ったような妙なポーズ。流石は演劇部のナレーション担当、声出しに関しては完璧である。事情を知らなきゃ不審者である。
「ところがどっこい、実際にその子が高校生活を始めると、何故だか付いて回る不審な影があるじゃねぇか。可憐なる少女と親しげに話しこむファッキン野郎のその姿、如何ほどの男子が殺意の瞳を向けたことか……!」
 クッ、と心底から悔しそうに拳を握り締める吉崎。こちらは詩吟部の一般部員、声だけはやたら大きいが、時代がかった口調をわざと選択している辺り、相変わらずの勘違いぶりを発揮しているようである。何故にべらんめぇ調なのか。
「俺たちは諦めかけた。その可憐なる少女には、すでに特定の男子が居たと言うことか、と項垂れたんだ。その、良く知るマヌケ面のノッポ野郎への友情の為、学校のマスコットである女の子をそっと見守ろうと言う結論に達しかけていた、その時だ……」
 一人、慣れない芝居文句に四苦八苦しながら言葉を連ねる国見は、サッカー部らしい普通の男子加減で逆に上記の二人とは差別化が図れていたのだが、残念な がらその恥ずかしそうな表情は、この三文芝居が打ち合わせ済みの茶番劇だと言うことを証明してしまっているのだった。というか一人だけ台本を棒読みだ。
 ちょっと間を置いて空気を沈める三人衆。わざわざそれに付き合ってやる聖司は、オレって良い奴だなぁ、とクリームコロネに手を出しつつ思うのであった。
『聖司、お前が「付き合ってない」なんて言うもんだからー!』
 一斉に指差し睨みつけてくる男供に、聖司はオーッ、とまばらな拍手。
「で、なに?」
 冷静な言葉を返してしまうと、せっかく盛り上がっていた空気も興醒めしてしまうのが自明の理で。
「……あー、うん」
 特にテンションで生きている様な岡崎なんか、ホントに声の調子を落としてしまったのであるが、これはいつもの事なので放っておこう。
「いやな、つまりだ。最近ようやく、お前と花織ちゃんが付き合っていない、てのに納得してきた頃なんだよ」
 代わりに言葉を継いだ国見の、良くも悪くも普通な性格が今はありがたい訳でして。
「あー、『可憐な少女』、てねほの事か」
「うをぃ、今そこかよ!?」
 聖司の小ボケにツッコんでくれる優しい吉崎であった。
 話を戻すぞ、と国見がジト目。頷くしかない聖司である。
「つー訳で、良い感じに俺らの頭も冷めてきた今日この頃だ。ようやく俺たちは、冷静に疑問に気付くことができたんだよ」
「……ふーん、それがつまり?」
 聖司は、頭が冷えるの遅くないか? という至極一般的な疑問を口にしかけて、それを何とか飲み込んでから他の質問へと切り替える、そんな難易度の高い事 をせねばならなかったせいで、唇の端が引き攣ってしまった。こいつらメンドくせぇ、という呟きを口の中で濁すことに成功したのは、もはや奇跡だ。
「まぁつまり、それが最初の質問な訳だ」
 吉崎がまとめに入る。
「お前、相変わらず口調が戻んの早ぇな」
 べらんめぇから普通の調子に戻った吉崎は、実はべらんめぇ調というのが良く分かってないからすぐ諦めているのだ、というのは誰もが知るところであった。しかしそれでも毎日毎日、同じ挑戦をするのだから、彼の頭の悪さは群を抜いているのである。
「んで、えーっ、と。なんで『ねほ』って呼んでるか、だっけ?」
 聖司がそう聞くと、うんうんそうそう、と三人が頷く。その後ろで数人のクラスメイトも、興味深そうに聞き耳を立てている様子が見えるのだから、これは皆が抱いていた疑問なのだろう。
(ねほってそんなに人気あったんだなぁ。ってか、なんであんな童顔幼児体系の未成熟少女が受けるのか、疑問で仕方が無いな)
 この学校の男子は皆ロリコンなんじゃなかろうか、と冷や汗をかきつつ、んむ、と聖司は記憶の彼方へと意識を飛ばす。メロンパンを一口、咀嚼するのは、糖分が脳みその回転を助けてくれるからだ。多分。
「なぁ、ハビエル・サビオラの愛称って覚えてるか?」
 聖司は、某アルゼンチン人サッカー選手の名前を口にした。
 それに、はっ? て顔をしつつ、岡崎が答える。
「サビオラ? エル・コネッホ、だろ?」
「そう、コネホ。つまり、うさぎちゃん、だ」
「おいおい、サビオラと花織ちゃんに、なんの関係が……」
 と呆れていた全員が、同じタイミングで眉根を寄せる。
 エル・コネッホ、コネッホ、コネホ、ネホ――つまり。
 言っただろ、うさぎちゃんだよ。聖司は不敵に笑うのだ。
『なっ、……』
「ねほと会ったのは、小学校に上がって少ししたら、だったな。当時のあいつは可愛かったぞぉ。今より激しく内気で人見知りでな、ひょんな事から俺と遊ぶようになったんだけど、泣き虫でいっつも目を赤くしててな、んで落ち着き無く俺の後ろをチョコチョコと付いてくる訳よ」
 絶句する友人たちの前で、自慢話のようにペラペラと由来を説明する聖司くん。その口はいつも以上に饒舌だ。
「そんな様子が小さなウサギを連想させるもんだからさ、俺がスペイン語でうさぎを意味するコネホから、ねほって呼び始めたんだ。最初はねほも、何かしっく り来ないってグズッてたんだけど、気が付いたら慣れてたようで、今ではこれじゃなきゃ反応しなくなってんの。笑けるだろ?」
 にっしっしっ、と無邪気に悪どい笑みを浮かべる聖司だが、なんだか目の前にいる3人が無反応+外野の視線が妙に冷た目なので、空気を感じ取って頬っぺを引き攣らせてしまう。
「言いたいことはそれだけか?」
 なんだか程よく冷めた感じの音声で、岡崎。
「は、ハイ……」
 思わず聖司も敬語である。
「本当に、そんな下らない理由で、花織ちゃんにつまらないニックネーム付けたのか?」
「そう、そうです……」
 吉崎は眉間に大層な皺を寄せていた。
「ふむ……」
 国見の嘆息と同時に、一斉に背後を振り返る三人組。聖司は、その訳の分からない殺気が自分とは違う方向を向いたので、ふぅ、と一息ついた。
 その瞬間!
『トリプルてやんでぇナックルー!』
 神速で振り向いた三人が、ぴったり息の合ったタイミングで繰り出す拳に、力を抜いていた聖司は無防備である。
 ボグッ
「おぶぅあっ……!?」
 呻き声もままならないまま、顔面を強襲した三色の鉄拳に、どばーんと吹き飛ばされる182センチの長身。ビターン、とスゴイ音と共に椅子がひっくり返り、聖司が地へと這い蹲る。げふぅ、と吐き出す物は血ではない事を祈りたい。
「おのれ聖司! そんな、幼なじみの特権的に、変なあだ名を花織ちゃんに付けるとは羨まし……ゲフンゲフン、許すまじ! しかもそれを自慢げに披露するとは、万死に続いて億死をしても足りぬほどの大罪である!」
「しかもエル・コネホとは……花織ちゃんはサビオラの様に前歯は出ていない!」
「そーだそーだー」
 グッ、と拳を天にかざす、勇者の如き3人衆。その足元で倒れ伏す聖司は、別に前歯の件で決めたわけではない事を、「そうじゃねぇだろ」、の呟きの中で抗議するしかなかったのである。
「ていうか、お前らが聞いてきたことなのに、なんで俺が殴られてんの……?」
 と弱々しく言葉にした瞬間に、
「えーい、まだ息があるぞ、野郎ども! やっちめーい!」
『ブルット! スウェット! トラ〜ネ〜ン!!』
 号令一下、何故かクラスの大半の男子が「血と汗と涙!」と叫びながら押し寄せてきて、聖司はフクロにされてしまうのであった。
 後に残されるのは、何で大勢でー!? という聖司の悲鳴の中で、ただただ消費されていくお昼休みの時間のみ。
 まったくもって、意味不明である。



 時刻はもう6時を回り。
 秋の匂いを本格的に感じるようになってきたこの時期、もう太陽は山の奥に沈み行き、この世界を照らす茜はもはや残像のみとなってしまった。そこに一抹の寂しさと、深まる季節への少しの期待が綯い交ぜになって、思わず溜息を吐いてしまうのは花織だけではないはずだ。
 だから、窓の外から漏れる明かりに、ちょっとだけ立ち止まって西の山影を見詰めた時、それで時間経過を忘れてしまった花織は、完全に当初の目的を忘れていたのである。
「花織ちゃん?」
 ハッ、と気付いたのは、ドアの外で真由が呼びかけてくれたお陰である。それで現実に戻ってきた花織が、「わっ、たっ、たぁ!?」と慌てふためいた。
「あ、あれ?」
「んふふ。どうしたの花織ちゃん」
 ニコニコしながら近づいてくる真由に、花織はようやく、自分が教室の中でボケッと立ちっぱなしだった事に思い至り、そうだった、と反省した。
「ご、ごめんね真由ちゃん! わざわざ待ってもらってたのに!」
「良いのよ、だいじょうぶ。だから慌てずゆっくり、見つけてちょうだい」
 という真由の声に、やや呆れた色が混じっているのは、まさに慌てた花織が手近な椅子に足を引っ掛けて、はわはわ言いながら弁慶の泣き所を押さえているからなのである。
「うぅ、重ね重ね、ごめんね……」
 と言いながらも、何とかかんとか自分の机に取り付いて、忘れっぱなしだった国語辞典を手に取った。聖司に借りた大事なものだ。
 つまり花織は、部活終了後に辞書を忘れたことを思い出し、真由に頼んで一緒に取りに行かせて貰っていたのである。たったそれだけの事で、こんなに時間がかかってしまうのが、この少女の特徴なのかもしれない。
「ごめんね真由ちゃん。行こっ」
 と照れ笑いを浮かべながら帰路へと促す花織。
「ええ、行きましょう」
 そうゆったりと答える真由の物腰の柔らかさは、花織にとって憧れである。
 そうして廊下に出ると、「ところで……」と真由が問いかけてくる。
「花織ちゃん、なんであんな所で立ち止まっていたの?」
「はうっ!?」
 忘れかけていた失態を再び突かれてギクッとなる花織。恥ずかしそうに顔を赤くしながら、答えなきゃダメ? と聞いてくる少女に、可愛いわ! と真由が悦に入っていることには気付かずに、花織は観念して口を開いた。
「うん、あのね。その、……太陽が、沈んだから」
「お日さま?」
「そう。お日さまが沈んでて、その方向の山が真っ暗な影になっててね。でもお空は黄色くて、その境目みたいな場所が、なんだかとても不思議に思えたの。それを見ていると、次第に明るい部分が小さくなってくのが分かるから、わぁ、夜になってくんだなぁ、て。そう思って」
「だから、ボーッ、としちゃったの?」
「……うん」
 こくり、と頷く花織。そういう表現を上手く言葉にできないこともまた、少し恥ずかしい。
「……花織ちゃんは、とても感受性が豊かなのねぇ」
 はふぅ、と溜息混じりの真由の感想は、花織にとっては輪をかけた羞恥の言葉である。こんな風に考えてしまう私が可笑しいのかな、と思ってしまって、耳まで真っ赤になったのが分かった。
「も、もう! この話はもうお終い、他の事をお喋りしよ!」
 わー、わー、と両手を挙げながら花織が訴えかけると、ちぇー、と名残惜しそうな顔をしながらも、真由は頷いてくれた。
「じゃあ、そうねぇ……。花織ちゃん、最近は熱心に何を作ってるのかしら?」
 んー、と少し考えた真由が出した話題は、部活の話だった。それにちょっと安心しながらも、
「手袋だよ! ミトンの可愛いのが欲しいな、て思ったから、ガンバってるんだ」
「あらまぁ、そうなのね」
 うふふふふ、と不敵に笑う。その笑顔の真意は分からなかったが、二人が所属している手芸部は現在、冬物準備期間で各々がそれぞれに良さげな冬物アイテム を絶賛製作中なのである。秋も深まろうかと言うこの季節だからこそ、女の子だらけでお喋りに興じてばかりの手芸部だから、今から学期末までの長い製作期間 が必要なのが公然の秘密なのは、蛇足だ。
 それはさておき。
「そう言えば真由ちゃんは何作ってるの? なんかやたら大きな物を持ち込んでたけど」
「ああ、あれはね。そろそろおコタを出すから、コタツカバーを作ってるのよ」
「へ、へぇ……。出すまでに間に合うのかな、大変そうだけど」
「大丈夫よ、もう半分くらいは進んでるもの」
「も、もう!?」
 冬物準備キャンペーンを部長が大々的にぶち上げてからまだ一週間と少し。その短期間、しかも部活中の限られた時間の中でコタツカバーなる大物を半分も仕 上げているとは、やや器用とは言いがたい花織の主観を差し引いても速いペースである。本当に真由ちゃんはスゴイねぇ、と花織はただただ嘆息するだけであ る。
 そんなこんなで話しながら歩いていると、ふと窓越しに、校庭の様子が見えた。
「あっ……」
 思わずそう漏らして立ち止まってしまったのは、そこに聖司の姿を確認したからである。
(しょーちゃん、まだ残ってたんだ……)
 視線の先では、聖司は数人の男子に囲まれながらも、元気に走り回っている様子であった。
 思わず、キュッ、と手の中の国語辞書を胸に抱き締めてしまう。そんな花織の様子を不審がった真由が、どうしたの? と尋ねてきた。
「あ、うん。しょーちゃんがまだ残ってるから、ついでに辞書を返そうか迷ったんだけど……」
 その言葉に一瞬だけ、真由は顔を顰めたのだが、花織が気付く前に表情を戻すと、
「そうね……。どうせ、私は正門でお別れになっちゃうから、待ってるならそれで良いと思うわよ」
 と言ってくれた。
 ちなみに真由は地元の名家のお嬢様で、毎日毎日、雨の日も風の日も雪の日も晴れの日も、お抱え運転手付きの立派な車が送り迎えしてくれて登校している、超セレブなのだ。
「うん……。なんだかゴメンね、真由ちゃん」
「いいのよいいのよ、これから暗くなるんだし、むしろ誰かと一緒に帰った方が花織ちゃんも安全よ」
 と素敵な笑顔をくれる真由に、良い友達を持ったなぁ、と花織は感動してしまう。
 つまり、横で必死に、「そうよこれは、花織ちゃんの護身のためなの、護身のため、警護のため、花織ちゃんを守るため……」とブツブツ繰り返している真由に気付かぬまま、花織は窓の外の聖司を目で追いかけているというシュールな光景が下駄箱まで続くことになるのである。



 ボールが走る、その目的地に待ち構える数人の男子たち。
 彼らが取る行動は様々ではあるが、起こすアクションの行き着く先はほとんど同じであり、その中でも聖司の役割は実に単純なのである。
 縦方向に楔で入れられた、グラウンダーのスルーパス。それを、体勢を構えて受け取ると、カットし損ねたディフェンダーが、今度は保持者である聖司に身体 を寄せてくるのだ。だから今、彼は背中で二人を背負いながらも、長い手足を伸ばして懐深くボールをキープし、味方の上がりを待ってみせる。
「このっ……!」
 体格的には聖司にも決して引けを取らないセンターバックの近野である。彼は振り向かせまいと体を寄せて、もう一人のマークマンがスペースケアと飛び込んでくる中盤に対処する為、聖司から離れていっても大丈夫なように仕向けた。
 仕向けた、はずだったのだろう。しかし聖司は、マークが薄くなったと見るや、リターンを要求した同級生のミッドフィルダーを無視して、近野の体を左腕で思いっきり掴んだ。
「悪ぃなコン、今日も抜くぜ」
「っ、ざけんな聖司!」
 小さく挑発のやり取り。近野が思いっきり体重をかけて聖司を拘束しようとする。それを、ボールを流しながら体を入れ替え、左腕でブロックしながらターン して、完全に振り切ってしまう。瞬発力、テクニック、そしてパワー。全てにおいて、このレギュラーディフェンダーを躱した聖司は、カバーリングで飛び込ん できた敵を素早い切り返しで避けると、悠々とゴール左側のネットを揺らして、飛び出していたキーパーの横を嘲笑うかのように通り過ぎていく。
「はい、ドッピエッタ〜!」
 と言いながら空を仰いで両手人差し指をプラプラする聖司には、そのポーズが意味するべき神への感謝など微塵も感じさせず、ただ失点されたディフェンス陣の顔を紅潮させるだけであった。
 その時、甲高い笛の音が鳴り響き、次いで「深山ぁ!」という怒鳴り声が響き渡った。監督の長谷川先生である。
「な、なに?」
 と振り返った聖司は、ズンズンと近づいてくる長谷川先生が、手に持ったメガホンで自分の頭を殴るのを待たねばならなかったが、その理由がちょっと分からず目を点にしてしまう。
「な、なんすか?」
「何じゃないだろうが! なんであの場面でムリヤリ躱すんだよお前は、ちゃんとリターンしてゲームを作れ!」
 練習通りにやれ、とまたプラスチックの打撃音が頭からする中、不満そうな顔で返事をする聖司に呆れ顔をしながらも、長谷川先生は校庭に散らばっていた部員を大声で呼びつける。
 彼らが集まってくるのを待つ間、今度は近野たちに、
「なんで深山を二人でマークしない? 楔が入ったら、まずはゴールを振り向かせない、その次にポストプレーへの注意。だろ?」
 と文句を言っている。ただ、近野が自分に対して、良い意味での対抗心を燃やしてくれていることを知っている聖司としては、それは些か蛇足だと感じてしまっていた。
「そうですけど……でも、中盤から飛び込んでくるのが見えたので、田辺をそっちに回したかったんです。聖司は抑え込めると思ってました」
「お前、深山に振り切られるの、何回目だ? 止めた方のが少ないだろう、だから確実なように行け」
 そんな二人のやり取りを聞きながらも、近野はこれからも一対一を諦めないだろうことを理解している聖司は、ただ肩を竦めて集合の輪に混ざっていくのみ。ただ、近野のそういう直情的な所には、好感を持っているのだ。
 全員が集まったことを確認した監督が、部員たちに座るよう指示すると、ゴホン、と咳払いを一つ。
「あー。今日はもう、練習は終わりにしよう。で、今の紅白戦の反省点だが、思いつく奴はいるか?」
 先生はそう言って、スコアボードを指差す。30分ハーフのコート全面を使った紅白戦は、「赤2−白4」の数字で終了していた。
「誰もいないのか? じゃあ、指名するから感想いえよ」
 と頭を掻きながら、少しだけ見回す。
「じゃあ控えからな。大山、どうだ?」
 と、赤のビブスを着たサイドハーフに質問を飛ばす。指名された一年生は、無難にレギュラーの突破力に対応できなかった自分を反省し、守備にも力を入れま す、という結論でまとめにかかる。続いて白のビブスのレギュラー組では、国見が出来の悪い頭を振り絞って四苦八苦と考えを述べる姿に、ちょっと笑ってしま うのだった。
 そして最後に指名されたのが、見学していた補欠の一年生である。
「やっぱり深山先輩の決定力がスゴイっていうか……レギュラー組のディフェンスを、全然、苦にしてなかった印象があります」
 と、正直な感想を述べてしまうのは、客観的な立場で見るとそれだけ聖司のインパクトが凄かったということであり、当の本人は「ぬへへ」と照れ笑いを浮かべてしまっていた。
 はぁーっ、と長谷川先生の口から、盛大な溜息が漏れてくる。
「やっぱ、そうだよなぁ」
 頭が痛い、と言う感じで張本人を見てくる監督先生。それに釣られて、部員たちの視線も、赤ビブス組に混じった聖司へと視線を集中してくるのだ。
 だがそれも一瞬で、聖司がキョトンとした表情になる頃には、皆が通常のミーティング状態に戻って、長谷川先生のありがたい訓示が始まるのであった。
 それから暫くして。
 長谷川先生の戦術的な改善点と方向性の指摘、そして諸々の注意事項を終えると、キャプテンである近野が部活の終了を告げ、ありがとうございましたの大合唱でサッカー部は解散だ。
「あー、終わった終わったー」
 と言いつつビブスを脱ぎ捨て、籠の中に入れると、聖司は国見を見つけて、後ろから肩に手を回す。
「うげっ!?」
「おいクニちゃ〜ん。お前、もうちょっとスルーパス警戒しようや。早部にバンバン通されてたじゃねぇか」
「だー、うっせいな! ちょっとカウンターに戸惑っただけだよ、不可抗力だ!」
「それにしちゃ多すぎだぜ。もっと中盤からプレッシングかけねぇと、せっかくのボランチが意味なしだぜよ」
「しょーがねぇだろ、まだちょっと連携不足だから、寄せのタイミングが分かんないしさ!」
 ニヤニヤ顔の聖司に、ちょっと顔を赤くして怒鳴る国見。ドヤドヤと二人で騒ぎつつも、練習後のクールダウンを兼ねたストレッチをする姿は、やっぱり仲がいい証拠である。
 体を充分に解したところで、ふと聖司は、校舎の脇にちょこんと座る小さな影を見つける。暗がりの中で目を凝らすと、その影は長い髪を揺らしながら立ち上がり、こっちに手を振ってきたのが分かった。あれは花織だ。
 どうやら聖司を待っていた様子の花織に、ちょっと手を振り返す。日が落ちてから一気に冷え込むこの時期に、どれくらい外で待たせていたのか、という事を考えて、ヤバいな、と思ったのだ。
「んじゃクニ、とっとと行こうぜ――」
 と振り向いた聖司は、視界の中で長谷川先生と近野が近づいてきているのを見付けてしまう。国見もそれに気付いたようで、先行ってるな、と言い残して去ってしまった。
(薄情な奴……)
 なんて冷たい視線を投げかけている間に、長谷川先生が、「深山、ちょっといいか?」と呼びかけてきた。
「はい?」
 と返事をしながら寄って行くと、二人は少し言いにくそうに視線を彷徨わせたので、それでもう聖司には大体の察しが付いた。
 少しの沈黙の後で長谷川先生が、
「なあ深山。お前、来月からの新人戦にも出ないつもりか?」
 なんて聞いてくる。予想通りの質問だったので、ちょっと苦笑しながらも、ええ、と素直に頷いた。
「ちょっと用事が入ると思うので……」
「また、いつもの奴、か?」
「はい。それです」
 はぁっ、と盛大な溜息と共に頭を掻く監督。すでに何度も繰り返しているやり取りに、もう先生は用事が何かを尋ねる事すらしない。その内容を頑なに言わないことを、もう心得てしまっているからだ。
 ただ、新しいキャプテンとしての責任感に燃えている近野は少し違うようで、彼はもう少し食いついてくる様子である。
「なぁ聖司。もう先輩たちは居ない、部活は俺たち2年が引っ張ってかなきゃならないんだぞ? その中で、お前くらいの奴が無責任な態度を続けるようじゃ、もう後輩にも示しがつかないだろ」
 そう言って来る彼の瞳は、あくまでストレートであった。
「……確かにそうかもしれないけどさ。どうしても外せないんだって、何度も言ってきてるだろ」
「そんなんじゃ納得できない。もう3年はいないし、変な言い方だけど、俺たちはもう好き勝手できるんだぜ。もう肩身の狭い思いをする事はないんだ、お前がレギュラーにいないなんて、やっぱおかしいんだよ」
 真摯に言って来てくれる近野は、やっぱり良い奴だ。そうは思うが、些か勘違いをしているんだろう、という事も理解してしまって、聖司は思わず苦笑を浮かべてしまう。
「申し訳ない、としか言い様ないけどさ。コンの言ってること、ちょっと的外れだ。別に俺は、先輩たちが居たからボイコットしてたわけじゃないよ」
「じゃ、どうしてだよ」
「それはまぁ、プライベートだからさ」
 そんな風に笑う聖司に、やはり納得をしていない、という表情の近野。ただそんな彼を、先生はやんわりと制しながら、
「まぁ、確認したかっただけなんだ。悪かったな引き止めて」
 と詫びまで入れて来る。この人はホントに、慣れたもんだ。
「いいえ、こっちこそ申し訳ないっす。お疲れ様でした」
 聖司は先生に頭を下げて、急いで着替えるべく、振り向こうとする。だが少し迷ってから振り向いて、近野の耳に顔
を寄せた。
「スマンなコン、今日も俺の完全勝利だ」
「なっ……!」
 からかう様にニカッと笑って、聖司は大急ぎで駆け出すのだ。その逃げるような態度に、頭に血を上らせた近野が叫ぶ、
「っ、ざっけんなー!」
 という声を背にしつつ、もう少し彼と話したい欲求を胸にしまう。
 今の聖司には、それよりももっと大事な存在を待たせているという、重大事があるのだ。



 衣替えを終えたこの時期、昼の日差しは柔らかいながらも、夜の帳が下りようとしているこの時間は流石に寒い。校舎に寄りかかりながら、剥き出しのコンクリートに腰を下ろしている花織は、敷いたハンカチも突き抜ける冷やっこさに何度かお尻をずらしてしまっているのだった。
「はぁーっ……ふ」
 と大きく息を吐き、翳した手の平をコスコスと擦り合わせる。ちょっと指先が冷えてきたので温めているこの行為、待ち時間の10分くらいで、もう何回目くらいになるのだろう。
 花織はその後で、スカートから剥き出しの細い足を擦っている。やっぱり風が冷たいのだ。
(しょーちゃん遅いなぁ)
 なんて考えつつも、明日は手袋を忘れないようにしよう、と心に誓う花織。つまり明日も待っていよう、と無意識に決めているのである。
 そんな微妙な乙女心を醸しながら、北の空にチラホラ見え始めた星の瞬きと、すっかりシルエットと化した山並みを見詰めている少女。そのポケーッとした思考の中では、背後から忍び寄る魔の手から逃れることは出来ないのだ。
「おりゃー」
 ピトッ、と当たるスチール缶の感触。
「ふわたぁっ!?」
 首筋に走った熱気に、思わず悲鳴と共に飛び上がる花織。あっちっち、と混乱しきった頭で後ろを振り向くと、むしろ自分が驚いた、というように目を丸めている聖司の姿。
「し、しょーちゃ〜ん」
「いや、うん、まぁ。そんなに驚くなよ」
 ウー、と首筋を押さえながら唸る花織に、張本人は呆れ顔だ。まぁ落ち着け、と差し出すココアに、花織の表情もすぐに変わる。
「くれるの?」
「うん。あげる」
「ぅわーい!」
 喜び勇んで受け取る花織。あったかココアが冷えた手の平を癒してくれる。
 ホニャホニャと暫くカイロ代わりに頬っぺたを温めていると、ほら行くぞ、と聖司が先を促した。それで花織は、うん、と元気よく彼の後についていく。もう先ほどの不意打ちは忘れ去っているのだ。
「単純だぁな」
 思わず聖司もそう呟いてしまうのである。
「んぅ、なぁに?」
「いーや、何でもない。独り言」
「……ふーん」
 聖司が浮かべる苦笑にハテナマークを浮かべつつ、花織はココアのプルトップを開けた。
 カシッ
 小さく空気の抜ける音。次いで聖司も、同じようにレモン紅茶に口をつけている。その温かい甘さを口腔内で充分に味わってから、食道へと下していくと、じんわりと温もりが体の中で線になったような錯覚を覚えて、思わず二人は同じ顔をしてしまうのである。
「ふふぁ〜」
「うへぇ〜」
 と一息ついたところで。
「なぁ。ねほって、こんなに帰り遅かったっけ?」
 という質問が飛んできた。それに花織は、ぬくぬくした顔から脱却しながら、
「ふぇ? あ、うん。いつもこれくらいの時間だよ」
 と答える。腕時計の針は、6時半の少し手前を指していた。聖司を待ってた時間を差し引くと、もう少し早いくらいがいつもの帰宅時刻だ。
「あー? でもこんな暗くなるまで残ってたら危ないよな」
「そっかな。確かに日が短くなったもんねー」
 なんて適当な相槌を打っていると、自転車置き場で自分の(母親の)愛機を探していた聖司の動きが、一瞬だけ止まる。
「あー。そか、日が短くなったのか。そういや練習も短くなってるもんな」
 聖司はそう言って、合点がいった、と言うように数回、頷いた。そんないきなりな納得に、今度は花織が戸惑う番である。
 どういうこと? と聞くと聖司は、
「いやな。ウチの部って暗くなるまで練習だから、日が長ければそれだけ活動時間が長くなるだろ? それで、これからはドンドンと量が短くなってくるから、必然的に、俺の感覚は短縮されていくわけだ」
「うんうん」
「んで、ねほは恐らく、今まで6時くらいを目安に帰ってたと。その時間、俺はまだグラウンドだから、帰宅時間がかち合うことは無かったんだな」
「なるほど、確かにそうだね」
 ほーほーと、思わず神妙な面持ちで頷いてしまう花織。何となく結論も理解したけど、話を遮らない辺りは、花織ちゃんの優しさが窺い知れるという物である。
 そして当の聖司は、話題の最も盛り上がる部分に差し掛かったことで、なんか変なテンションになってしまっている様であった。
「つまり感覚としては、日の入りが早くなったことで俺とねほの帰宅時間がおおよそかち合うようになったけど、今までの感覚的にねほは先に帰っているものと思っていた俺は、この時間にねほがいることに多少の驚きを覚えてしまった、と。こういう事な訳だ!」
 デデン、と自分で効果音を付けながらの論舌のフィニッシュ。決まった、という感じの表情でクールに決める聖司くんに、花織は優しく、歓声と拍手を送ってあげる。
 パチパチ。
 それはともかく。
「ん〜。これから、どんどん暗くなるし、女の子の一人帰りは危ないな」
 聖司が自転車を引き出しながら一人ごちる。
「んむー。そかな?」
 花織は、聖司に促されて自転車の籠に荷物を入れると、彼の顔を伺い見た。聖司はそんな少女の視線を真っ直ぐに受け止め、
「おし。これからはなるべく、一緒に帰るようにしよう」
 と提案してくる。
「ふぇっ! 良いの!?」
 聖司の意外な言葉に、思わず頓狂な声を返してしまう花織。そんな彼女に聖司は、平然と頷いて、
「ねほには帰り、ちょっとだけ待ってもらうことになるかもしれんが、それでも良いか?」
 と尋ねてすら来るのだ。
「うぅ、うんうんうん。むしろしょーちゃんこそ、それでいいの?」
「おうよ。良くなきゃこんな提案せんがや」
 何故か名古屋弁である。
「うわー! ありがとしょーちゃーん!」
 テンションの上がった花織が思わず聖司に抱きついてしまう。自転車越しでちょっと危なかったが、それは上手く聖司が調整して、痛い目を見ずに済んだ。しかしそんな影の苦労を見せることなく聖司は、まるで幹に抱きつくコアラの如き花織の背中にフワリと右腕を回したのだ。
「うははははっ、もっと感謝の念を表すのじゃー!」
 聖司も変なテンションで応じることにしたのだろう、アホみたいな哄笑で花織を抱き返すが、そんな彼の腕は裏腹なほど優しく、また力強い。
(ふわぁぁあっ! 私いま、しょーちゃんに抱き締められてる!)
 聖司の優しい抱擁を意識した瞬間、花織は自分の行動と状態を思い出して、思わず全身が紅潮したのを感じてしまった。それを隠すためにより強く聖司の胸に顔を埋めてしまう。
 そんな花織の恥じらいも、普通なら相手に伝播して妙な空気になってしまう所だが、変なテンションの聖司は気付かず高笑いを続けていたのだった。ただ、今の花織としては、そんな朴念仁な聖司が有難い。
 こうして二人は、ゆっくりと歩きながら、秋の夜気の中で家路へと進んで行くのだった。
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