第二章




 摩天楼。
 林立する巨大なビルから発せられる、夜でも衰えない煌びやかな照明、その昼とも見紛う明かりに群がったかのように、人々はこの街を歩き続ける。
 この巨大な川の洲に造られた世界最大の都市に。アメリカ合衆国ニューヨーク州マンハッタン島。そこに存在する、ニューヨークという街は、あまりにも人が入り乱れすぎているのだろう。
「だからリンゴは腐ってくんだな、虫が寄り付き過ぎるんだ」
 聖司は誰に言うでもなく、そう呟いていた。傍目には一人ごちているように見えただろうが、生憎、この結論には答えてくれる声がある。
『その通り! そしてそれが、俺たちの仕事をやりやすくしてくれるってもんだぜ』
 感謝感謝、と上機嫌で笑ってくるのが、ウィリアム・コンチェスキー。彼はどうやら、順調に作業を進めているようだ。
『ただ、だからこそもう少しセキュリティが万全だと思っていたがな。期待外れも甚だしいだろ?』
 言葉とは裏腹に、憎々しそうに言葉を吐いているのは、ダニエル・キーガンである。こっちはどうやら、あまりいい状態ではないようだ。
「なんだ、ダニー。もしかして進んでないのか?」
 茶化したように質問すると、
『ふん、ちょっと手間取っただけだ。いま取り付いた』
 やはり不機嫌そうに返してくるのだから、聖司は思わず噴き出してしまう。なんだか近野に似ているのだ、この男は。
『笑ってやるなよ、ジョー。ダニーだって一生懸命やってんだからさ』
「ああ、そうだな。悪かった。もう笑わないよ」
 そう答えて尚、ぷくくっ、と笑いを堪えているのは、ダニーが無線の中で悔しそうにギリギリと奥歯を噛んでいるからであった。
『ジョー、お前の方はどうなんだよ』
 暫くの沈黙の後に、ダニーが聖司に聞き返してくる。それで聖司は、広げた新聞を少し下げて、この豪華ではあるが一流とは言い難い、中途半端な格付けのエ ントランスを見回す。ただ、世界的な街でのサービス業を生業としているだけに、スタッフの上品な対応といい、落ち着いた調度品の見栄えといい、悪くはない と思わせてくれる物だった。
「中々だよ、諸君。今は食後のコーヒーブレイクと洒落込んでいるところさ。このままバーにでも行って、素敵なお嬢さんでも一杯、引っ掛けてきたい気分だな」
『ふざけんな、クソッタレ!』
『良いご身分だよ小僧』
 聖司――仲間の二人は発音し難いというから「ジョー」と呼んでいる――は、悪いね二人とも、とまるで悪びれた様子もなく胸元に仕込んだ小型無線に話しかけた。確かに自分だけ良い思いをさせてもらっているのだが、それは配役の関係であり、仕方がない事なのである。
「でもよ、そういうビリーはどうなんだよ。さっきからムシャムシャ言ってるんだから、何か食ってんだろ?」
『あぁ、俺か? 俺はそこのファストフードでホットドックとコーラを買っただけだぜ。お前のほうが何倍も贅沢だ』
 ビリーは恐らく、マイクの奥で顔を顰めてコーラを啜っている事だろう。だが、こんな時間に一人、飯も食えずに暗がりに潜入しなきゃならないダニーからすれば、それすらも羨ましいことだろう。それは、
『俺はお前ら両方とも羨ましいよ』
 という呟きからも読み取れるのであった。
「だとよ、後でダニーになんか奢ってやれよ、ウィリアム?」
 茶化すように話しかけると、『本名で呼ぶなよ!』と怒鳴ってくる。このイングランド系の青年は、自身が憧れる元イタリア代表のサッカー選手と同じ愛称で 呼ばれることを好むが、当のアレッサンドロ・コスタクルタとは違ってバスケットボールには興味を持っていないのだから、それはチグハグだろう、と聖司は考 えてしまうのであった。
『おい、準備できたぞ』
 そんな簡単な雑談で時間を潰している間に、ダニーが仕事をやり遂げてくれる。無線の奥でビリーが、了解、と言って仕事を始めたのが分かった。聖司には分 からない専門用語が二人の間で交わされて、ビリーが猛烈な勢いでキーボードを叩いている様子が、音だけで分かるのだ。この時ばかりは、当人の集中力を乱さ ないためにも、聖司は一言も発さずに英字紙に目を落とすことになる。
『よし、ハッキング完了。やっぱロクな防犯システムじゃねぇな、こんな簡単に乗っ取れるんだからよ』
『了解だ。いいかジョー、よく聞けよ。ターゲットは17階のスウィート。この時間、その階層には他に客が居ない手筈になってる。ただボディーガードが2、 3人ほど配置されてるって情報だから、タイミングには気をつけろ。仕事は速くても遅くてもダメ。なるべく時間まで稼いで、その後で――』
「ああ、計画通りに逃げおおせる、だろ? 頭の中に叩き込んでる、お前らのナビだってあるんだし、心配するこた無いよ」
 気だるげに、聖司。この期に及んでまだ慎重なダニーの性格は、決して悪いことではないだろうが、この三人はこれまで多くの仕事を共にやり遂げてきたのである。もうノウハウは分かってる、毎回、注意を促されたんじゃ、いい加減に面倒だった。
『ああ、悪かったよ。これより通信司令はビリーに一任する』
 聖司にこれ以上を言ってもムダだ、そう分かっているのだろう、ダニーは溜息混じりに指揮権の受け渡しをする。そんな彼に、聖司たちは思わず苦笑だ。
『オーケー、これより任務の為の時計合わせだ。その1分後に全監視カメラを乗っ取るから、あとは手筈どおりに、よろしく頼むぜ。それじゃ用意……』
 全員が身構える、それが無線越しの雰囲気で理解できる。聖司も腕時計に手をやるが、ロビーのカメラから死角になっているとは言え、新聞片手に自然な動作を心掛けなければならないのは少し苦かった。
『3…2…1……スタート!』
 ピッ。時計のデジタルが動き出す。その後で、ロビー中央の大時計にて実際の時刻を確かめた。
(日本はもう日曜か……)
 そんな事を考えて、思わず顔を顰めてしまうのは、ここ数週間はまともに休みを取れていないからである。月曜日の失態をまた繰り返すわけにもいかんよな、と溜息一つ、聖司は新聞を畳んで鞄に入れた。時間を気にしながら立ち上がると、エレベーターホールへと歩を進める。
 その視線の先、四つあるエレベーターの内、手前の物が到着して人々が乗り込んでいく。その直後に2番目の扉が開いて、残りの客が安心したようにその中へと入って行った。聖司はそれを悠々と眺めながら、ゆっくりとした歩調で一番奥の上昇ボタンを押した。
 チン、と音がして到着したのは、隣のエレベーターだ。そこから現れた初老の男性が、どうぞ、というようにお辞儀をしてきて、聖司は少し焦った。だがその目の前で、またもやベルと共に扉が開くと、聖司は男性に笑いながらその空間を指差すのだ。
 乗り込んだ扉の奥、先ほどの男性がまだ苦笑をこちらに向けているのに、軽く手を振って答える。と同時に閉めるボタンを押すと、迷わず監視カメラに向かって中指を突き立てた。
『なんだよジョー、行儀悪ぃな』
 からかい半分のビリーの声。
「なんだ、じゃねぇよ。変な遊びすんじゃねぇっての」
 思いっきり眉を顰めて、壁に凭れかかる。危うく隣に乗るとこだった、と悪態を吐くと、フッ、と浮遊感を感じて、エレベーターが上昇を始めた。
『わざとじゃねぇさ。あのジイさんにバレないようには、あそこで降ろすしかなかったんだよ』
「だからって、あのタイミングじゃなくても良いだろ。本気で焦ったんだぜ」
『まぁま、良いじゃねぇか、無事に乗れたんだからさ』
 ビリーの口調は明らかに楽しんでいる風である。それが確信犯なのは分かりきっていたので、聖司は人差し指で眉間の皺を解すようにして、頭に上った血を冷まそうとした。
 外のミニバンからこのホテルの電子制御システムにハッキングしたビリーは、この建物内のエレベーターを全て自由に動かしている。故に聖司が乗っているこの箱は、目的の17階までノンストップで上昇しているのだ。
「……なぁ」
 少しだけの沈黙。自然に瞳を閉じていた少年。鉄の塊が静かに上昇する、その小さな騒音を縫う様にして、聖司は問いかけていた。
『ん……なんだ?』
 一瞬の間は、もしかしたらビリーも聖司の声に、少しだけ気付かなかったのかもしれない。
「今回のターゲットって、それなりに大物なんじゃないのか。なのにこんなホテルに泊まってるのって変な気がする」
『………………』
 そうかもな、とビリーは答えた。
『でもな、罠ってわけじゃあ、ないと思うぜ。下調べは万全だったし、今日も怪しい所なんかなかった、間違いなく奴さんはそこにいる』
「だと思うけどさ、何か不思議だな、て感じだ」
『思い入れでもあるんじゃないか。本人にでも聞いてみろ』
 投げ遣りな応答は、束の間のリラックスを終わらせる為の物だったろう。
 時間だ、と声は言った。それと同時に、閉じた瞼の裏から、漏れた光が無くなった。照明が落ちたのを確認し、エレベーターの減速を肌で感じると、聖司は壁から背を離して、ゆっくりと両腕と足を開く。
 肩幅程度の自然な姿勢。同時に、重力が増えたかのような感覚が、物体の停止を教えてくれる。小さな衝撃を両脚で踏みしめると、チン、と小さく鳴って、扉が開いた。
 その瞬間に、17階のフロア全体が暗闇に包まれる。タイミングは完璧。聖司が暗闇に慣れた瞳で正面を見据えると、その奥で二人の男が、アタフタと怒鳴っているのが見て取れた。
 ニッ、と笑って、一気に足に力を込める。全速力で男たちに近づくと、絨毯敷きの床を蹴る僅かな音だけで判断したのか、二人はこちらに体を向けてきた。
(やるな)
 と思った瞬間、男たちは懐に手を入れている。スッ、と聖司は重心を低くして、ジャケットの右ポケット内からグリップを掴んだ。
「何者だ!」
「名乗らんと撃つぞ!」
 よく訓練されたボディーガードだ。警告とほぼ同時に、一人が発砲。それは威嚇の意味合いもあったのだろうが、命中しても充分だ、とも考えての行動であったろう。
 マズル・フラッシュが暗闇を切り裂く、その一瞬後には、聖司は充分な距離で立ち止まっていたのだ。
 パスッ、小さな音がして、銃口からワイヤーが迸る。その2本が男に取り付いたとき、先についていた電極が、強力な電流を目標の体内に流し込んでいた。
「っ、ああ!?」
 悲鳴は瞬時に途切れて、テイザー・ガンの餌食になった男が倒れこむ。その気配を感じたもう一人が動揺した、その隙を付いて、聖司はそいつの首筋にもう一つの電極を流し込む。
 ビクン、と波打つ、二人の男。その巨体が深い絨毯に寝転がると、聖司はゆっくりと息を吐いて、手持ち式のスタン・ガンをポケットに仕舞う。
「っ、!」
 直後、背後のドアが開いて、もう一人が聖司に銃を構えた。
 いや、構えようとした。顔の前で照門と照星を合わせようとした男の、その足元に深く身を沈ませた聖司が、鋭い足払いで重心を刈ったのだ。うわっ、と悲鳴 をあげてバランスを崩す男の鳩尾に、立ち上がり様に左拳を減り込ませ、前屈みになった所で、体重を乗せた右拳で顎をぶん殴る。
「うがっ!?」
 もんどり打った男が、柔らかな絨毯にフワリと受け止められた時、聖司はそいつにもスタン・ガンの電圧を流し込んでいた。ビリッ、と痙攣して白目を剥いた であろう男を見下ろして、すぐに視線を扉へと向けた。ふうっ、と息を吐いている間に、チカチカとフロアに明かりが戻り始める。
 聖司は目を細めて、眩しい明かりに瞳を慣らそうと、数回だけ瞬きした。
(時間ピッタリだな)
 腕時計に目を落とし、自分の仕事ぶりに、ニヤッと満足気な笑みを浮かべる。その後でゆっくりと身体を正面に向けると、瀟洒な木製の扉に手をかけ、押した。
「……ふーん」
 そこは、スウィートと言うだけあって、確かに広く清潔な部屋であった。キョロキョロと簡単に見回すと、左奥の部屋にルームサービスのカートが置かれ、ソ ファーに囲まれたテーブルに食器とワインのボトルが見える。そこは、ニューヨークの摩天楼を映した眩しい夜景を背景とした、下衆なセレブの満足感を刺激す る為の光景なのだろうな、と思った。
 あいつは、あそこに居るのだろうか。ターゲットの写真を思い出しつつ、ゆっくりと開け放した扉へと歩を進めると、安物の革靴は厚い絨毯に底を沈ませた。足音も何もあったものじゃない、そんな苦笑が浮かんでしまう。
 ひょい、と顔を覗かせて。ぐるりと視線を巡らせると、ゆったりとしたジャズトランペットの独唱が流れる部屋の雰囲気に、ちょっとだけ酔いしれそうになる自分がいる。いい趣味をしているらしいが、肝心の主の姿が、見当たらない。
(逃げたのか)
 停電が起こって、外からボディーガードと交戦する物音がして、誰かが部屋に入ってきた。その全てを認知しているのかどうか知らないが、まぁ一連の状況を 考えれば、身の安全を確保するのは当然か。納得しつつ懐に手を入れ、ホルスターの留め金を外してグリップを引き抜き、静かにスライドを引いて、ゆっくりと 初弾を薬室に装填した。
「んじゃ、探すかなぁ」
 聖司は一人ごちて、人差し指をトリガーガードに引っ掛けながら、手近な収納スペースへと歩き出す。この短時間で大した距離を逃げ切ることはできないだろ うから、どうせ何処かに隠れているのだろう、そんな風に考えているのだ。だから、いつものようにそこら辺を探していれば、適当な場所に男が居るはずであ る。
 そう踏んで、手馴れたようにクローゼットを開けた時。右側のドアノブがカチリと回って、聖司はそこに銃を構えていた。
「…………おや」
 その男は、ゆったりと扉を開けて、銃を構える聖司を見つけると、あろうことかマヌケな声と共に笑顔まで向けてきた。聖司はそいつの、全てを分かりきったような表情に一瞬だけ怯んだが、気を取り直して隙なく銃口を向ける。
「やぁ、こんにちは」
 男は、まるで自身に向けられる銃口など目に入らないかのように柔和な笑みを浮かべ続け、気軽な挨拶まで投げて来た。そして歩を進めると、手前のソファーに深く腰かけ、あろう事かワインをサーバーから引き抜き始めたのだ。
「んなっ……」
 パタン、と静かに扉が閉まる、そんな音を背景に、聖司は唖然と男の所作を見送ってしまった。それほどまでに自然で、また完全に無視されている事実に、頭 がついて行っていないのだ。だから目の前で、白髪の混じった金髪を撫で付けた痩身の白人が、ワインのコルクを抜いて、そっ、とグラスに薄紅のブドウ酒を注 ぐ光景にも、眉を顰めることしかできない。
 男がグラスを手にとって傾けながら、視線の先にある大都会の夜景を赤の液体越しに眺めるに至って、ようやく聖司は自我を取り戻す。ハッ、として周囲を探り、拳銃のトリガー・セイフティを軽く押し込んで、充分に身構えた。
「罠なんかないよ」
 聖司の動作が可笑しかったのだろう、彼は口髭に少しだけ隠れた唇を穏やかに歪めると、静かにワイングラスをそこへと近づけた。
「……どういうことだ」
 その、余りにも余裕に満ちた男の態度に、聖司はむしろ疑念を強くする。突然の停電の後に、自分の部屋に拳銃を持った男が入ってきているのを目にしてな お、本人はヌケヌケと姿を晒し、あまつさえ動じる様子すら見せずに嗜好を楽しんでいるのだ。これが何かしらも意味を持たない態度だというのなら、それはも う聖司の想像の範疇を超えている。
「あんた、アダム・パーカー、だよな?」
 その名は今回の聖司たちのターゲットであり、また確認した写真の容姿が目前の男と同じであることを理解しているはずにも関わらず、聖司は疑問符を持って尋ねてしまった。それ程、聖司の経験とアダム・パーカーであるはずの男の行動は違いが大きいのだ。
「そうだよ。正確にはアダム・ジェイリー・パーカー。祖先はスコットランド出身、今はカリブ海を主な販路にした貿易会社のCEOをやってる。妻は2人で、1人は死別、次は離婚。3人の子供は既に自立している」
 スラスラと自分の経歴を述べる男、その内容が自分の持っているデータと符合することを頭の中で確認する。そして聖司が余計に困惑した表情を浮かべると、パーカーは楽しそうに笑った。
「表向きな情報はこんなものだろ? でも君は、もう少し詳しい情報を持ってるんだろうな」
「……あんた、一体――」
 何を考えてるんだ、と続けようとして、しかし言葉を止めた。パーカーが苦笑を浮かべながら、聖司の方にワイングラスを一つ、置いたからだ。
 飲まないか? との問いに、結構だ、とにべも無く答えた。
「付き合いが悪いな」
「証拠は残さないよ」
「ああ、そうか。DNAか」
 パーカーは楽しそうに笑った。それはそうだな、なんて呟きながら。しかもその後に、「銃弾は良いのか?」などと質問しながら、またワインに口をつけるのだ。さも美味しそうに。
「本体の所在が分からなければ、弾だけじゃ犯人は割り切れない」
「ふーん。アメリカに登録されていない拳銃なのか」
 納得した、と言うように頷くパーカーを見て、聖司は確信する。この男は今日のことを知っていた。――いや、覚悟していたのだろう、その上で罠も張らずに、警備も強化せずに、ノンビリと待ち構えていたというのだ!
 軽い屈辱感。聖司は僅かに奥歯を噛んで、何故か、と問い詰めたい衝動に駆られた。いや、実際に詰問しようとしていたのだ、目を細めながらこちらを見るこの初老の男に。
 しかしその時、聖司の腕時計からデジタル音のアラームが鳴り響き、止める手間の間に自分の頭が冷えるのを感じてしまう。
「時間なのか」
 パーカーはそう聞いてきた。まるでこの事もすでに納得ずくのように。
「なんでそう思う?」
「簡単だ。なにかを待ってるんでなけりゃ、私が姿を現したその時に、君はもう撃ってるだろう」
「……そりゃそうだな」
 ククッ、と思わず笑ってしまう。当たり前だよな、と思う反面、この男の洞察力に感心もしてしまうのだ。
 パーカーはもう一度、ワインに口をつけてゆっくりと味わうと、そっ、とグラスを置いた。さぁどうぞ、と言わんばかりに聖司の正面を向いてくる、その動作に、しかし聖司は動かなかった。
「なぁ、一つ聞いていいか?」
 不思議そうな顔をするパーカーに、ポツリ、と漏らす。顔色を伺うと、続けてみろ、と言うように顎をしゃくってきたので、聖司は疑問をぶつけた。
「なんでこんなホテルにしたのかな、て」
 警備が薄すぎる、そう付け足すと、パーカーは意外そうに眉を上げた。
「そうなのか。まぁ確かに、少し古いし、あまり繁盛もしてないらしいしな」
 彼はそんな風に呟いた後で、
「……少し長くなるぞ」
 と言った。
「時間なら気にしなくていい。ある程度、余裕はあるんだ」
「聞いて面白いものかな?」
「やっぱ理由があるんだ。それを、誰かに話したいんだろ」
 聖司は半ば当てずっぽうながら、しかし確信めいた言葉を紡いでいた。その事に自分で小さく驚きながら、しかし、この壮年は人生の終わりを語りたがっている、と思えたのだ。
「他人の思い出話を聞いてくれるのか」
 ふふっ、とパーカーは微笑む。その嬉しそうな表情に、やっぱりな、と聖司も笑った。
「――このホテルはね。最初の妻との思い出の場所なんだよ」
 そっ、と。目を細めて、窓越しの夜景にその思い出を重ねるように、パーカーは正面に直る。
「ここのレストランで彼女に指輪を渡したんだ。当時は会社を立ち上げたばかりで、不安定なのに忙しいばかりだった。そんな頼りない私を、彼女が受け入れて くれた。それは私の人生で最高の瞬間だった、だからここに来てしまったんだ、最後にね。思い出としては、言ってしまえばそれだけだ」
 パーカーは苦笑交じりに話を終えようとする。だが聖司は、まだ言いたい事があるんだろ、と続きを促した。
「もう何十年も前かな。事業が傾きかけた所に、妻の病気が発覚した。子供たちのことも心配しなくちゃいけない中で、大きなストレスが私に圧し掛かった。そして……」
 パーカーは一度、口を噤んだ。ワインで口を湿らせて、当時を思い返すように深く息を吐いて、再び顔を上げる。
「破産寸前の状況で持ち掛けられた話がある。金儲けのために、自ら法を犯し、社会に悪を撒く方法だった。私は喜んで仕事を引き受け、莫大な富を手に入れると同時に、家族に平穏をもたらしたんだ」
 ニコリ。彼は笑った。ただ、それは自嘲の笑みだった。
「……そう、思ってた」
「違うのか?」
「妻は結局、助からなかったんだよ。彼女は延命治療を拒否したんだ。それが何故か、私には分からなかった。だが、鮮明に覚えているのは、最後にエマに会っ た時、あいつは穏やかに笑んでいた、ということだ。それは慈しみであり――また、諦観でもあったのだろう。その視線が、何故か私に向けられていた。自分で はなく、な」
 パーカーがゆっくりと瞳を閉じる。その所作で、聖司は勘付いた。
「今なら分かる、のか?」
 コクリ。頷く彼の、再び開けられた瞳は、とても穏やかだった。
「きっと彼女は分かっていたんだろうな、私が悪事に手を染めてしまったことを。そして、そんな方法で得られた財で、生き長らえるのが嫌だったんだろう」
 エマはとても信心深かったから。パーカーはそんな風に続けた。
「妻が逝ってしまった後も、私は金に執着し続けた。むしろエマの死を振り切るように、自分の行為をエスカレートさせていったんだろうな、と思う」
 そう言う彼の微笑みこそが、まさしく諦観に彩られていただろう。後悔と罪悪感に責められて、ついに諦める決心をした。それが今のパーカーの、不思議な態度の理由なのだろう、聖司にはそう思えた。
「だから……今頃になって、已めたんだ」
 パーカーはワインを一気に煽り、グラスを置いた。そしてゆっくりと聖司に向き直る。その穏やかな眼差しに、むしろ聖司は気圧されて、身体をビクンと震わせてしまった。
「君は良い男だな」
「……はっ?」
 唐突に発せられたその言葉に、理解が追いつかずに固まってしまう。何を言ってるのかと思ったが、パーカーの瞳は真摯だった。
「こんな年寄りの最期に、思い出に浸らせてくれる時間をくれるなんて、君は良い奴だ」
「な、なに言ってんだよ」
「本当にそう思ってるんだ。私の終わりに立ち会ってくれたのが君で、良かったと思ってる」
 意外な発言に戸惑っていた聖司だが、パーカー本人が覚悟を決めている、その瞬間が来ていることを理解して――真っ直ぐに向けられる彼の視線に対抗するように、ゆっくりと深く、息を吸い込んだ。
「今更だが、ボディガードの奴らは生きてるのか?」
「……ああ」
「そうか」
 使えない警備だな、とパーカーが笑った。
 聖司は、フッ、と息を吐き出して、銃を構えた。両手でしっかりグリップをホールドし、射撃スタンスを取り、素早く3回、トリガーを引き絞る。
 乾いた炸薬音が木霊する。前後に動いたスライドから弾き出された三つの薬莢が、絨毯に埋もれて鎮座して、その中に収まっていた9ミリ口径のホローポイント弾が寸分違わず、パーカーの体内を貫いていた。
「――なにが良い奴だよ」
 どんな嫌味だ、と奥歯を噛み締めながら、後味の悪さを、力の抜けた目前の男に抱いている。
 くそったれ、と呟いて、聖司は身を翻した。
『終わったか』
「ああ、今から脱出するよ。時間かけて悪かったな」
『ん。まぁ、予定通りだ』
 無線の奥で、ビリーがやけに神妙な声を出している。聞いてたんだろうな、と思いながら、聖司は薬莢を拾い上げると、脱出経路を頭の中で再確認した。
 部屋から出る直前、チラと後ろを振り向いて、ソファーに凭れる白髪混じりの頭を見たが、それはほぼ無意識だったろう。
 聖司は、少しだけ抱いた苦い気分を振り払うと、従業員用のエレベーターへと足を向けた。



 フランシス・マクリーシュが現場に着いた時、ホテルの前は大量のマスコミと野次馬が入り乱れ、テープの内側でそれら観衆を必死の形相で押さえる若い黒人警官には、少しだけ声をかけるのを躊躇してしまうほどだった。
 だから、ロビーの内部がそれほど騒がしくもなく、むしろ表の喧騒に辟易しているような宿泊客の様子には、内心、安堵したものである。
「やあ、イザベラ」
 フランシスは、エレベーターから降りて、見張りの警官に返礼した後で、問題の部屋へと足を踏み入れた。そこで、部下の女性刑事に声をかけると、彼女は苦笑いを浮かべながら、「ハイ、フランク」と肩を竦める。
「わざわざ規制を建物外まで広めるなんて、大掛かりなんだな」
「性質の悪い放送局が、警察無線を傍受してたらしいのよ。それで騒ぎが大きくなったから、現場は二重に封鎖されることになったわけ」
 イザベラが疲れたように首を振るので、一番に駆けつけた彼女がその措置を指揮したのだろう、と思い至った。だから、お疲れ様、と言ったのだが、イザベラは何だか仏頂面になってしまう。
 しかし、そんなことばかりに気を取られてもいられない。フランシスはすぐさま視線を変えると、奥の部屋か? と聞いている。
「ええ、そうよ。被害者はアダム・パーカー、53歳、男性。財布の中にIDがあったし、宿泊名簿も本人がサインしてる。病院にいった彼のボディーガード3人も証言してるし、それに何より――」
 イザベラは途中で言葉を切った。フランシスの焦点が既に、検死官が触っている、すでに息絶えた男の姿を捉えているからだ。
「何より、こいつの顔を間違えるわけはない、か」
 フランシスの言葉にイザベラは頷き、検死官は驚いたように顔を上げた。
「マット、どんな状況か教えてくれ」
「ああ、はい、分かりました!」
 検死官のマットは、フランシスの鋭さを増した眼光に気圧されたように焦りながら、もう一度、死体に向き直った。
「えー、死体の目立った外傷は、銃創が3つ。うち1つは貫通してます。他には特に……。防御創もないし、抵抗らしい抵抗はしてなかったようです」
「続けて」
「はい。えと、恐らく死因は失血死。三発のうち一発は胸に当たり、血の量から、大動脈を突き破ったものと推測されます。詳しくは解剖してみなくちゃ言い切れませんけど、ほぼ間違いないでしょう」
「分かった。検死解剖を急いでくれ」
 フランシスはそれだけ言うと、マットの返事も聞かずに、次の場所へと歩き出していた。そして、鑑識のギド・ヴェーサー主任を見つけると、すかさず声をかけるのである。
「ギド! なにか分かったか」
 フランシスの呼びかけに、この真面目そうなドイツ系の男はクローゼットの指紋をとりながら、
「いま監視カメラを押収したところだ。ラボでチェックするし、弾道検査だってちゃんとやるよ。それに、すぐに死因の凶器も発掘されるよ――」
 ギドがそこまで言ったところで、ソファーの裏で蹲っていた、同じく鑑識のポーラが声を挙げた。
「出た、9ミリよ! ちょっと潰れちゃってるけど、形は正確ね」
「本当か」
「ええ。これで解剖を待つ必要はなくなるわ」
 ポーラはそう言って、横で死体袋を広げているマットに笑みを投げた。彼はそれを、少し肩を竦めてやり過ごすが、心なしかコメカミがひく付いているようだ。
「ルガー弾のホローポイント。体内で減速して、内部組織を掻き回す。殺傷力が非常に高い弾丸だわ」
 ピンセットで抓んだ血塗れの鉛弾をしげしげと眺めながら、ポーラが確認するように声を上げている。それを聞きながら、フランシスは考えを巡らせていた。
「犯人は相当、手馴れてるらしいな」
 苦笑するように、ギド。
 フランシスは、何故だ、という言葉を飲み込んで、別のことを聞いていた。
「薬莢は?」
「見付からなかったよ。持って帰ったんだろう」
「ルガー弾と言うことは自動拳銃のはずだ。わざわざ拾わなきゃ、薬莢なんか持って帰れない……」
「そうだ、慣れた奴だろう。――ポーラ!」
 ギドが叫ぶと、その優秀な部下は証拠を密封しながら、ハイハイと返事をする。
「ラボに持って帰って調べるわ。過去に使われた銃と照合して、犯罪履歴を洗い出せばいいんでしょ」
「うまく登録している銃に当たることを祈ろう」
「そんなマヌケだったら、こんな事件を起こす前にしょっ引いてるわよ」
 ポーラは笑いながら、マットと共に部屋を後にした。
 彼らと一緒に運び出される死体袋を――その中にいる、安らかな顔で眠る男の姿を、フランシスは無意識に目で追っていた。
「……気になるか?」
「えっ?」
 ギドが、呟くようにその言葉を発さなければ、恐らくフランシスはずっと上の空だっただろう。
 何か言ったか、というように振り向いて、ギドの苦笑が自分に向けられていることに気付いて、彼は掌に額を落としてしまった。調子が狂っていることを、ようやく自覚したのだ。
「気になるんだろう。『海賊王』アダム・ジェイリー・パーカーが」
 ギドが向けてくる鋭い視線に根負けして、フランシスは少しだけ目頭を押さえながら、軽く頷いた。
「奴が死ぬなんて思ってなかったからな……」
 そう――
 カリブ海を中心に幅広い貿易を行う『ジェイリー海運』の創業者であり、中南米の闇組織から流れる麻薬の密売ルートを取り仕切る、あのパーカーが死ぬなんて、想像もしていなかった。
 フランシスは頭を振って、もう一度、ギドと視線を合わせる。
「私もだよ、フランク。何度も尻尾を掴んだと思い、何度も挑戦してきたのに、私たちは結局、あいつを捕まえることができなかったんだからな。それがこんな形で終わるなんて、悔しいのか寂しいのか、複雑な気分だ」
「……そうだよな」
 ギドの言葉に、妙な虚脱感を抱く自分の気持ちが言い表されていて、フランシスは変に納得してしまう。そういうことなんだ、という気持ちだ。
 彼は、そんなフランシスの気持ちを見抜いていたのだろう。
「フランク。確かに私は、パーカーに逃げられたような、妙な気持ちになっている。だがな、それと同時に、この事件の面白さも実感しているんだよ」
 ギドの言葉は、まるで窘めるかのような響きを持っていた。
「どういうことだ?」
「あの、飄々として、我々に全く隙を見せなかったパーカーを殺した奴がいるんだ。そいつを調べ、見つけ、掴まえる。仕事として、これ以上の挑戦はあるか? つまり、この事件を解決することで、我々はあのパーカーにようやく勝てるんじゃないかって、そう思ってるんだよ」
 言った後で、ゆっくりと笑みを深くしたギドは、そのまま小さく首を振った。陳腐なことを口にしたと自覚したのだろう、それは苦笑だ。
「………………」
 そんなギドの様子に、フッ、と思わず噴き出してしまう自分がいる。肩の力が抜けたのが分かって、何を構えていたのだろう、と笑みが零れた。
「まんまと逃げ果せたアイツへの、ささやかなリベンジ、と。そういうことか」
「そうだ。スリリングな仕事だろ」
 皮肉めいたギドの言葉は、恐らく真実なのだ。フランシスはそれを実感して、ありがとう、と小さく、この偏屈な友人に礼を言っていた。
 ゆっくりと息を吸って、天を仰ぎ見るように首を反らすと、ふうっ、と吐き出す。頭をリラックスさせると、フランシスの瞳に、いつもの鋭さが戻ってきた。
「さぁ、そうとなれば早く犯人を上げよう。証拠を徹底的に洗い出すんだ」
 気合いを入れるように手を叩いて、フランシス。立ち直った彼の様子に、ギドはニヤリと口角を上げながらも、「あまり期待はできないかもな」と証拠品の少なさを嘆いて見せる。
 そうして、まずは聞き込みかな、とドアを振り向いたフランシスの耳に、表の喧騒が飛び込んできた。
「待って、そんなの急すぎるわ!」
「これは決定事項だ。今さら覆ることはない」
 イザベラと、そして知らない男の声。なにやら揉めているらしいと感じ、フランシスは顔を覗かせる。
「何かあったのか?」
 目に飛び込んできたのは、狼狽した表情でこちらを振り返ったイザベラと、彼女の対面で何かの紙を突き出している二人組みの男たちだ。
「フランク……」
 イザベラが弱々しく口を開く、その横を、男たちは無表情で歩いてくる。「フランシス・マクリーシュ警部?」と問うてくる灰色のスーツに、「そうだ」と答えた。
「あなたがこの現場の責任者ですね?」
「ああ、私がこの事件の指揮を執っている。君たちは……」
「私は連邦捜査局のボウヤーです。こちらはキャンベル捜査官」
 灰色スーツのボウヤー捜査官と、黒スーツのキャンベル捜査官が差し出してきた手を、よろしく、と握り返す。
「それで、FBIが何の用だ?」
 頭に疑問符をつけたまま、フランシスは問うた。
 するとキャンベル捜査官は、イザベラに突きつけていた書類をフランシスに差し出して、同時にボウヤー捜査官が口を開く。
「アダム・パーカーは国際犯罪に関与している可能性のある重要人物でした。よって今回の事件も、国際的な組織が関与していると見て、我々の管轄に入ることになりました」
「…………なるほど」
 フランシスは眉を顰めると、ゆっくりと目頭を押さえ、揉み解す。確かに書面には、ボウヤー捜査官が述べた言葉と同じ意味の内容が記されていた。
「ご理解いただけましたか」
「いいや」
 意外そうな顔をする二人に、持っていた紙切れを突っ返し、フランシスは彼らを睨むように見詰める。
「確かにパーカーは色々と怪しい噂のある男だった。だがそれだけで、なぜ今回の殺しが国際犯罪だと分かるんだ? まだニューヨーク市内のチンピラだって、 容疑者からは外れていないだろう。もっと捜査が進んで、この国以外の人間の仕業だって分かったら、あんたらの方に指揮権を渡す。だがそれまでは、まだ私た ちのヤマだ」
 沈黙が落ちた。しばらく、相手の腹を読むように視線を交し合ったフランシスとボウヤー捜査官。やがて観念したように、この若い捜査官は首を振り、相棒の方へと視線を投げる。
 キャンベル捜査官は黙って頷いただけだった。
「貴方だって知っているでしょう」
 再びフランシスに向き直り、ボウヤー。彼の瞳には、年上の市警が見せる頑固な態度への、呆れのような感情が篭っていた。
「何をだ?」
 フランシスの返事に少しだけ眉を顰め、
「パーカーは麻薬取引の重鎮だ。だが最近、彼の南米コネクションに変化が生じて来ていた。裏組織との仲違いが噂されていたのは、マクリーシュ警部だって、ご存知のはずだ」
 フランシスは黙っている。だが、やはりそうなのか、という諦観が、心の中で渦巻いていた。
「我々は、その麻薬密売組織が殺し屋を雇っていた、という情報を手に入れている。犯人はすでに市内から脱出している可能性すらあるんだ、大人しく現場を譲っていただこう」
 スッ、とキャンベル捜査官が、その岩のような巨体を微動させて、顔を近づけてくる。フランシスも決して小さい訳ではない、しかしそれですら見上げねばならないほど大きなこの男の、凄むような眼を見詰め、悪足掻きもここまで、と悟った。
「全員、撤収だ」
 苦々しく、唇を噛んで、ようやく言葉を口にできた。満足そうな二人の捜査官の脇を通り、悔しそうな顔でノロノロと撤退準備を進めるチームの部下たちを置いて、部屋を出る。
「フランク!」
 イザベラが、走るようにしてフランシスの隣に並ぶと、尚も何か言いたげな表情で覗き込んできた。だが、フランシスがゆっくりと首を振ると、キュッと口を噤み、悔しそうに立ち止まってしまった。
(仕方が無かった。あの時点で我々ができることなど、無かったんだ)
 エレベーターホールから、FBIの捜査チームが慌しくフランシスの横を擦り抜けていく。彼らは先ほどまで自分たちが管理していた現場を引き継ぎ、ラボに 持って行った証拠品を、我が物顔で押収するだろう。そう考えると、例えようもない屈辱感に、奥歯を軋むほど強く噛み締めてしまう。
 喧騒が去った後の廊下を歩き、エレベーターの前に辿り着いていた時、そこにまだ気配があることに気付く。顔を上げ、その人間を確かめた時、今度は疑問に眉を顰めてしまった。
「よう、随分とご立腹のようだな」
 そう、気さくに話しかけてきたのが、久しく会っていない旧友の男だったので、フランシスは訝しげに名前を口にする。
「ニール……か?」
 疑問符が付いたのは、凡そ五年の歳月によって老いた彼の、その少しだけ変わってしまった容姿を判断しかねた為だ。細かい皺と白髪が増えたが、昔と余り変わらない表情で、「そうだよ」と答えた。
 警察学校時代の同期だったニール・デイヴィスは、確かに付き合いの長い友人ではあるが、今は違う道に進んでいる彼がこの事件現場なんかに居ることに、フランシスは少し困惑してしまう。
「どうした? もしかしてお前も、ここに泊まっていたのか?」
 そう問うてくるフランシスの表情が余りにも滑稽だったのだろう、ニールはクシャッと顔を綻ばせると、口元に手をやって、クククッと笑いを抑えようとする。
「違うよフランク。今日は君に用事があったんだ」
「用事? だが、私用で現場に入ってくることなんて、できない筈だが……」
「フランク。これは中央情報局のスカウトなんだ」
「…………っ」
 愕然と、目を見開く。そんなフランシスに、聞く気になったか、とニールが笑って、柱の影へと促した。
「どういうことだ」
「今回の事件、気になってるんだろ? だからお前に手伝ってもらいたいんだよ」
「……つまり、犯人を知っている、ということか」
 ニールは、待ってました、と言わんばかりの笑顔を浮かべる。その憎めない愛想は、学生時代と全く変わっていなかった。
「十中八九、暗殺者は『ソリスト』だ。少人数で手際よく、尻尾をほとんど出さない周到な用意と、少なすぎる情報。過去の犯行と比べれば分かり易い」
 ニールの言葉に、確かにな、とフランシスは頷く。同業者すらその実態を知らない、『ソリスト』と呼ばれる暗殺者は、ここ数年で一気に裏社会で実績を伸ば してきた。多少の援護はあるだろうが、その仕事は、実行犯が単独で遂行しているであろうと見られることから、『独演者』と名付けられた存在だ。
「お前だって、こいつに思い出、あるんじゃないか?」
「ああ……」
 からかう様なニールの声。確かに何度か、各界の重要人物が、『ソリスト』と思しき犯人によって、ニューヨーク市警の管轄内で暗殺されている。フランシスにとっては、パーカーと同じくらいに因縁浅からぬ相手であろう。
「まさか、CIAは『ソリスト』を見付けたのか?」
「フフッ。まぁ、逮捕するとかそう言うんじゃないけどな、別件でそいつに用事があるんだ」
 フランシスはニールの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。笑顔を見せてはいるが、その鋭く隙の無い眼光は、信じるに足る事実を伝えている。
「それで、私に何をさせたいんだ」
「近日中に『ソリスト』と接触する。是非とも協力して欲しいんだ、個人的にな」
 個人的に、か――
 警察ではなく、フランシスも情報局の人間として、『ソリスト』と対峙しろ。そういうことだ。
 フランシスは押し黙る。少しだけ考えを巡らせて、チラとニールを覗き見るが、彼は余裕の笑みを崩さなかった。
 協力を確信しているのだ。
 ふうっ、と一つ、溜息を吐く。
「……いいだろう。その件に協力する」
「そうでなくちゃあ、な!」
 ニールが、嬉しそうにバシバシとフランシスの背中を叩いてくる横で、彼はフと振り返る。
 そして、今は自分と関係のなくなった事件現場を見詰めると、ゆっくりと唇に笑みを刻んだ。
 リベンジを果たす。その機会が訪れたことを、神に感謝して、フランシスはその場を離れた。



 山の中を走る車がある。
 至極一般的な、日本製のセダン。白の車体に、年季を思わせる小さな汚れと傷は、しかし実際に重ねた使用期間を考えると、ずっと綺麗なものだろう。この自動車がどれだけ大切に扱われてきたのかは、持ち主でもある運転者の、その繊細で無理のないドライビングからも伺える。
 しかし、残念ながらその様な高度な運転テクニックも、助手席に座る彼の娘には、全く伝わってはいないのであった。
「エンジンの音がスゴイねー。なんか環境に悪そうだよ、お父さん」
 無邪気な顔で、今の世相に合ってないよねー、なんて言ってのける花織には、これっぽっちも悪気は無い。しかしそれでも、慎重に、エンジンの負担を最小限 に抑えようとアクセルを踏む父・紗月 健剛(さつき けんごう)にとっては、プライドに大ダメージを与える言葉の凶器なのである。
 だがそれでも、溺愛するカワイイ娘を責める事のできない父は、ヒクつく笑顔を必死に浮かべて弁明するより他は無いのだ。
「良いかい、花織。この車はもう何年も使っている物で、環境性能には優れていないんだよ。それに乗用車だから排気量も大きい。だから山道もスムーズに登っていけるだろう、軽の車は坂道で、もっとスゴイ音を出すんだよ」
「ふーん。でも最近はエコ・ブームなんだし、もっと環境に優しい車を買ったほうが、良いと思うなぁ」
 あくまで穏やかな表情を保つ健気な中年男性の、物に対する愛着を袈裟懸けにバッサリ斬り捨てる、そんな無常な愛娘。健剛は少女の鋭利に過ぎる感想に、湛えた笑みを崩さないまま静かに涙を落とす、とても器用な号泣で感情を発散させるのだった。
 そんな、ちょっと前方不注意状態になっている父親の様子に気付かずに、流れる杉林を口を半開きにして眺める花織。車内にゆったり流れる穏やかなジャズ・トランペットの調べが、ロマンの欠片もない窓からの風景さえ、少し不思議な雰囲気に彩っているのだ。
 しばらく、そんな時間が続いた後で。ゆっくりと登りのコースから外れた車が、峠の頂上を少し越えた、下り坂に差し掛かった辺り。鬱蒼とした杉林に囲まれて、太陽の光から微妙に隠れたその場所に、古ぼけた一軒家と、手を振る男性の姿が現れる。
「あれかな、お父さん?」
「そのようだね」
 すっかり平静を取り戻した様子の父が、チョン、とお茶目にウインクかまして、車を男性へと寄せていった。
「紗月 健剛さん、ですか?」
 車を降りた父に、確かめるように、その小太りな中年男性が尋ねる。健剛は穏やかな笑みを湛えながら頷いた。
「そうです。貴方は、依頼主の、関口さん……ですかな?」
「ああ、はい、そうです。エノワ不動産の関口です、よろしく」
 関口と名乗った男性は、慌てたように名刺を取り出し、差し出してきた。その、やや礼をしながらの前傾姿勢からは、袷に袴の和装には不釣合いな、綺麗に磨 かれた父の革靴が目に入ったのだろう。なんだか毒気を抜かれた表情を浮かべた関口氏に気付いた花織は、思わず口角を上げてしまう。
「こちらこそ、よろしくお願いします、関口さん。飛燕神社の神主、紗月 健剛です」
 巨漢の健剛には彼の表情は見えなかったのだろう、営業用の名刺を自らも差し出し、大人たちは簡単な挨拶を済ませたのだった。
 そんなタイミングで、ゆっくりと車から降りた花織を見て、関口氏の顔がちょっと固まる。白の袷に緋袴、白足袋に草履の巫女さんファッションの少女に、流石に驚きを隠せない様子だ。
「こちらは娘の花織です、関口さん。アシスタントなんですよ」
 気を利かせたように、父は穏やかな声音で、そう言った。相手のこんな表情にもすっかり慣れた当人たちだ、もはや気にも留めないのである。
 ペコリと花織が頭を下げる。関口氏は、はぁそうですか、と呟いた後で、ハッ、と父に向き直った。
「えぇと、今日は遠いところをご足労頂き、本当にありがとうございます……」
「まぁまぁ、そういう面倒な前置きは良いとして、ご依頼を再確認させて頂きたいのですが」
「ああ、はい、それがですね……」
 どうにも気の弱そうな依頼人からイニシアティブを奪って、父は話を進めさせる。関口氏が言うには、いま目の前にある一軒家は、地元では有名な幽霊屋敷だ そうだ。かつてのバブル期にはどこぞの成金が建てた別荘だったが、不況の折に膨大な借金を背負ったその家主が、追い詰められて家族を惨殺し、自らも命を 絶った場所なのだという。以来、関口氏の勤める不動産屋の管理下に置かれたが、曰く付きのまま買い手が見付からず、肝試しに入った地元の若者が幽霊を見た だのと騒ぎ立てて、すっかり心霊スポットとして定着してしまったというのだ。
「暫くはまぁ、不良資産として我が社も放って置いたらしいんですが、事情が変わっちゃいまして。昨今の農業ブームで、麓の棚田なんかでの体験農業が盛んに なって、しかもここは上に行くと高速道路のパーキングエリアもあるでしょう? 山の頂上付近のお蕎麦屋さんは、雑誌に載って人気だし、観光客が注目し始め てるんですよ」
 そんな折に浮かんだのが、この別荘を取り壊して、道の駅を造ろうという計画だった。先も行ったとおり立地が良く、農産物も豊富なこの土地には打ってつけ、しかもお荷物物件だ。行政の認可もスムーズに下りて、いざ取り壊し作業に着手しようとした、その矢先――
「信じられないことに事故続きですよ。作業中に建機は故障するわ、作業員のケガが頻発するわで、てんやわんや。工期が遅れてイライラが募ってる所に、屋内作業をしてた監督さんが、その……見た、て言い出して」
 ほとほと困り顔の関口氏。首の無い大女が奥から近づいてきた、なんて騒ぎ出した現場監督に、薄気味悪くなった作業員が逃げ出して、建設会社も契約を見直す始末。このままでは千載一遇の儲け話も逃してしまうと、不動産会社その物が動き出した訳である。
「有名な御祓い師さんとかも呼んで、何度も何度も除霊の怪しい儀式をやったんですが、効果が無くて……。不況の折に中途入社なんかさせてくれるから怪しいとは思ったけど、まさかこんな物件の担当にさせられるなんて、ホントに嫌になっちゃって――」
「そこで私たちに依頼が来た、と言うわけですね」
 ついぞ説明を放棄して、個人的な愚痴を零し始めた関口氏に、健剛は苦笑を浮かべて、話を収めにかかった。関口氏も我に帰って振り向くと、
「そうなんですよ。そっちの筋には有名だって聞いたので、是非とも頼みたいと思ったんです」
 もはや藁にも縋るような、そんな情けない表情である。でも気持ちは判るなぁ、なんて思いながら、花織は健剛が小さく頷くのを眺めた。
「ふむ、分かりました。さっそく中に入ってみましょう」
「は、はい、よろしくお願いします」
 こちらです、と関口氏が先導して、花織も彼の後ろに付いて行った。
 その土地は、良く見ると建機がちらほら放置され、離れのあったと思われる場所には確かに木材や基礎部分なんかが散見される。まさしく作業中の雰囲気を醸しているのが分かるのであった。
(ちょっとだけ、ピリピリするなぁ)
 なんて、周囲を見ながら考えていると、立ち止まっていた父の背中に頭をぶつけて、きゃん、と漏らしてしまうのである。前方不注意の恥ずかしさに顔を赤らめ、振り返った父の苦笑に晒される中で、関口氏がドアの鍵を開けた。
「あー、くそっ」
 立て付けの悪くなったドアが発する、ギギギ、と軋んだ音に毒づく関口氏。その後で、どうぞ、と先を促された父が、淀んだ空気の流れ出る屋内へと足を踏み 入れる。花織はその後ろを付いていく手前、ドアを潜る瞬間に、袷の胸元へと右手を当てた。そこにある、安物のネックレスに触れるのは、仕事の前の一種の儀 式だろう。
 旧別荘の中は想像以上に埃っぽかった。昼間とは言え、林の中に位置する建物の中は薄暗く、不気味な雰囲気を醸している。そして、そこに渦巻く強烈な気が、この歪みの様な感覚を増幅しているようだ。
「分かるかい、花織?」
 健剛が静かに問いかける。
「うん、大丈夫」
 こくり、と頷いて、花織は袴に挟んだ祓い串に手を掛けた。スッ、と柄を引き抜いて正眼に構え、歪んだ空気を把握する。
「あ、あの……?」
 背後で、関口氏の戸惑ったような声。見ると彼は、一歩前に進み出た花織に、不思議そうな視線を送っているではないか。
 健剛が気付いたように、
「ああ、今回は娘が仕事を担当するんですよ」
 と付け加える。
「ええ!? だ、大丈夫なんですか?」
「はい。こう見えて娘は、素晴らしい除霊能力を持っています。安心して任せてください」
「そ、そうですか……」
 尚も不安そうな関口氏の表情に、ちょっとムッとした花織。だがその感情を表情に出すよりも、空気が一段、重さを増す方が早かった。
 スッ、と眉尻を上げ、花織は正面に向き直った。視線の先、南側の窓から日が入る明るい階段が、ギッギッ、と軋んだ音を立てている。ピンと空気が張り詰めて、関口氏が息を飲んだ気配の中で、折り返しの踊り場に現れた素足は、想像以上に白く綺麗なものだった。
 ゆっくりと、段を一歩ずつ下ってくる度に、素足が伸びた純白のワンピースが、それより上が露わになる。段数が少なくなっても尚、肩すらも見せぬその巨体は、異常な空気をより増幅させ。
 最後の一段を降りて、天井部に頭がぶつかるだろうと思ったその瞬間、彼女は全貌を露わにしたのだ。
「ヒィッ……アアアァァ!?」
 関口氏の引き攣った悲鳴が小さく木霊する。2メートルを越えるであろう、首の無い巨体の後ろで、踊り場にコロコロと転がった、おそらくその女性のもので あろう頭部が、整った顔立ちに笑みを浮かべた。その心底から愉快そうな、美しい、そして狂気に満ちた凄惨な笑顔に、まともな感情は篭っていない。
 ヒタッ。再び女の身体が歩みを始める。こちらに近づく異様の怪物に、ドサッ、と関口氏が腰を抜かした音が聞こえた。
「花織……?」
「うん、ダイジョブ。おーるらいと、だよ」
 花織はそっと頷いて、瞳を閉じて集中力を高める。可愛らしい顔に眉間の皺が小さく刻まれ、自らの力が周囲に溢れるのを、静かに感じ取っていた。
 あとはそれを行使するだけ。パッ、と瞳を見開いて、大きく祓い串を振り被った花織は、ありったけの力を裂帛の気合いに乗せた。
「やああっ!」
 ブオッ! 空気が流れて、風が過ぎ去る。その一瞬で、歪み、淀んだ周囲の気が、一息に浄化されたのが分かった。まるで手品のように、重かった雰囲気は すっかり消え去り、さっきまで確かに居たはずの女性の霊も、幻であったかのように跡形もなく消滅している。あるのはただ、少し乾いた陽光と、そこを漂う埃 だけ。
「っ、ぷう」
 大仕事を終えた花織が、溜息と同時に、簡単に疲れを吐き出した。それに続いて健剛が、今なお腰を抜かしたまま、狐に抓まれたような表情の関口氏へと、話しかける。
「ここはどうやら、残留思念が集まり易い場所のようですな。それらが強力な力場となって、色々と不都合な悪さを働いていたと、推測できます」
「は、はぁ」
「これでその力場と、干渉を起こしていた思惟力を一掃したので、下手な事故なんかは無くなるでしょう。ただ場所柄、また集まってくる可能性は高いので、これから簡単な封印を施させてもらいます。よろしいですかな?」
「え、ええ、どう、どうぞ……」
 未だ放心状態の関口氏から許可を得て、いそいそと中へと向いた健剛に、しかしハッとしたようにこの男性は質問をぶつけていた。
「あ、あの! さっきの、その、……女性? は、一体?」
 へたり込んだまま、情けない質問をする関口氏に、父は振り返って、
「あれは残留思念の集合体でしょう。意思を持たないマヤカシです、過去の怨念とか、前の主人の怨霊とかの類とは違うと思いますので、ご安心ください」
 にこりと優しく微笑んで、そう答えるのだった。
「ああ、そう、そうですか!」
 そう言って関口氏は、安心したように笑った。この気の小さい男性は、そんな細かいことが、いちいち気がかりだったのだろう。
 彼は晴れやかな表情で、床に座り込みながら、改めてこの旧別荘を見回していた。そして、空気が変わりましたねぇとか、こんなにいい所だったんですねぇ、なんて、心配が収まった途端に饒舌になったのだ。
「いやぁ、それにしても、お嬢さんの御祓いは見事でしたな。何人も高名な御祓い師を呼んだのに全く効果が無かったのに、まさか一瞬で全部を終わらせてしまうなんて」
「はははっ。そうでしょうそうでしょう、この娘はとても才能がある、私の自慢の娘なんですよ」
「ホントに、こんな娘さんがいるなんて、羨ましい限りですよ」
 関口氏が愛娘をベタ褒めするのに、作業を進める父は上機嫌で答えている。当の花織もまた、惜しみない賛辞に、照れ照れしながら、満更でもない気持ちで頭を掻いていたのである、ここまでは。
 しかし。
「こんな小さい子が、こんな凄いことをやってのけるなんて、本当に信じられないですよ。ウチの娘にも見習わせたいくらいだ」
 なんてコメントに、んっ? と疑問符が付くのだ。そして極め付きは、
「いまは何年生だい? もしかしてもう中学生とかなのかな?」
 という核心の言葉を聞くにあたり、花織の笑顔が凍りついたのだった。
「ぷくっく、アーッハッハッハッハー!」
 堪らず笑い出した健剛に、キョトン、とした関口氏の表情が重なる。そんな間の抜けた空気の中で、ブルブルと身体を震わせた花織が面を上げ、キリッ、と結んだ唇を開いた。
「わたしはこう見えて、高校生なんです―――――――――――――――っ!」
 その悲しみに彩られた少女の叫びは、秋の空気の山の中、杉林を通り抜けて盆地の中に山彦するのであった。
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