第三章 「何やってんだろうな、俺……」


 翌日の昼休み、遼司は深く溜め息をついていた。
 結局、状況は何一つとして変わっていない。恵子が自ら動くくらいだから直ぐに解決できるとも思っていなかったが、何も進展がないと落ち込んでしまう。遼司に皺寄せが来るのではないかと思うと気が重い。
 朝、登校してから直ぐに保健室で恵子に昨夜のことを尋ねたが、何も無かった、という返事しか貰えなかった。アウターとの繋がりの手掛かりだけでもあれば良いのだが、見事にハズレだったらしい。
 恵子の推論では、ビジターではなくキャリアの可能性が高い、というものだった。
「夜になっても校内にそれらしい痕跡が無いなら、帰宅する人間しかいないじゃない?」
 心配や不安といったものを全く感じさせない表情で、恵子はさらっと言ってのけた。
 高校の中にアウターへ繋がるゲートが開いてしまったのであれば、少なからず痕跡が残る。一般人では見分けられないだろうが、ベテランのキャリアである恵子ならまず見落とすことは無い。標準的な感覚として、キャリアにはアウターの存在を察知する勘が備わっている。使用できる特殊能力がこの世界のものとは違い、アウターに存在するような力であるせいか、ビジターに対してある種の勘が働くのだ。
 もしかしたら、ビジターが持つ固有の力にキャリアの能力が反応しているのかもしれない。
 校内は一通り調べたようだが、恵子はビジターの存在もアウターとの関係を示す手掛かりも見つけることはできなかった。
 となると、今度は校舎などの地理以外で調査をしなければならない。
 即ち、対象が生徒に移るということだ。千人を超える生徒を一人ひとり調べて行くのもまた難しい。余裕の表情を崩さなかった恵子を見ると、何か策はあるようだが。
 遼司は机に身体を投げ出してぐったりしていた。
 恵子との会話を思い返して、溜め息をつく。
 見れば、香奈はまた呼び出されてどこかへ行ってしまっている。
 幸太は授業が終わると同時に教室を飛び出して行った。情報収集のために違いない。既に何かしら気になる情報を掴んでいるらしいが、不確実なものだからと遼司には伝えられていない。確実な情報だけを提供するというのが幸太の信条らしく、不明瞭なものでも良いと言った遼司が何故か逆に説教を喰らってしまったこともある。
 話し相手がいない遼司はやる気のない表情で上半身を机に横たわらせていた。
「ねぇ、御守君……」
 不意にかけられた声に、遼司は視線だけを向けた。
 眼鏡をかけたショートヘアの少女、奈津子が遼司を見つめている。
「ん、なに?」
 気だるげに身を起こして、遼司はどこか心配そうな目をしている奈津子を見た。
「えと、その……香奈ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「んぁ?」
 予想外の質問に、間抜けな声が出た。
「いや、あの、その、えっと……」
 遼司の反応に驚いたのか、奈津子は話し難そうにもじもじしている。
「意味が解らないんだけど、とりあえず落ち着いてくれる?」
 とりあえず、遼司は目の前の席にある椅子を勧めた。
 まだ食べていなかった昼食用の菓子パンを取り出しながら、遼司は向き合うように座った奈津子を見た。どこか弱々しい印象が拭えない。身体付きは華奢で、運動も不得意なようだった。代わりに、成績の面では香奈に並んでいる。
「ここ二日間、香奈ちゃん色んな人に声かけられてるじゃない?」
 奈津子は膝の間辺りで両手の指先だけをすり合わせながら、上目遣いで話を切り出した。
「うん」
 パンを齧りながら、遼司は相槌を打った。
 香奈が幾度となく呼び出されている現状は幸太に調査を頼んでいるが、奈津子の話を聞いてから伝えても遅くはないだろう。パンを咀嚼しつつ、遼司は奈津子の話に耳を傾ける。
「御守君、香奈ちゃんの許嫁なんでしょ?」
「まぁ、そうだね」
「そうだね、って……」
 曖昧な遼司の返事に奈津子は少し不満そうな顔をした。
「御守君は香奈ちゃんのこと何とも思ってないの?」
 やや強い口調で奈津子が問い質す。
 何となく、奈津子の言いたいことが解った。
 香奈が他の誰かに取られてしまうかもしれない状況を見ていながら、何も行動を起こさない遼司に苛立っているのだろう。香奈が呼び出しを断るように言い聞かせたり、言い寄る生徒をブロックすることもしていない。
「まぁ、好きか嫌いかの二択だったら好きだけど……」
 どう答えるか、遼司は考えていた。
 恋愛対象であるなら、間に割って入って欲しいのかもしれない。
「んー……」
 遼司は唸った。眉根を寄せて、考え込む。
 香奈は遼司にとってどういう存在なのだろうか。香奈はキャリアだ。普通の人とくっつくことはまず無いだろう。キャリアである両親を持つ遼司は、親の繋がりで香奈と家族ぐるみの付き合いをしている。 
 気にならないと言えば嘘だ。だから幸太に依頼もした。とは言え、それが恋愛感情から来るものなのか、遼司には判別できない。家族ぐるみで、幼いころから一緒にいるのが当たり前だった。だからなのかもしれない。もしかしたら、恋愛の対象ではなく、弟や妹、従姉妹のような存在として捉えている可能性もある。
 香奈はああ見えて、案外危なっかしい面もある。
「向こうは、どうなんだろうな……」
 小さく呟いて、遼司は椅子にもたれかかるように重心を後ろに引いた。
 天井を見上げるように上へ顔を向けて、パンを齧る。
 なら、香奈は遼司のことをどう思っているのだろう。もし、恋仲であるとするなら、遼司が香奈を引き止めるべきだと思っているのだろうか。香奈の方だって誘いを断るという手もある。
 結局、遼司には断言できるだけの言葉は無かった。
「恋人として考えた方がいいのかな?」
 考えた挙句、遼司は奈津子へ苦笑と共に問いかけた。
 奈津子は驚いているようだった。曖昧な返事でもなければ、はっきりと明言する訳でもない。本当に良く解らないまま、今に至ることを悟ったらしい。
 困ったような表情で考え込むのは、今度は奈津子の番だった。
「え? でも……?」
 一度視線を床に落としてから遼司に戻し、何か言おうとして口を閉ざす。考えが纏まらないのか、奈津子は口をもごもごさせて俯いた。
「実感、無いんだ、俺」
 小さく呟いて、遼司は困ったような笑顔を浮かべて頬を掻いた。
 親しくはあるが、昔から一緒に遊んだりしていたというのが一番大きい部分だ。両親がキャリアへの覚醒を促そうと無茶をやらされる遼司を見て、香奈は手を差し伸べてくれた。香奈がキャリアに目覚めてからは、遼司を助けるのはいつも彼女の役目だった。
 もしかしたら、異性や許嫁である前に、戦友という意識の方が強いのかもしれない。
 遼司が生まれる前から、親同士は許嫁にすることを考えていたらしい。どこかで別の人を好きになったらどうするつもりだったのだろうか。
「もう何度考えても答えが纏まらないんだよ」
 つまり、遼司は香奈が好きなのかもしれない。
 何とも思っていない相手に堂々巡りをするような疑問が浮かんだりはしないだろうから。ただ、遼司自身が納得し切っていない、はっきり意識できていないだけなのかもしれない。
 身近過ぎて、考えても答えが出ない。そのうち面倒になって、答えを出すことを投げ出してしまっていた。
「やっぱり、そろそろ考えなきゃいけないんかな……」
 両手を頭の後ろで組んで呟き、遼司は窓の外に視線を向ける。
 ずっとこのままの関係が続くとは思っていない。いつか、お互いを結婚相手として意識しなければならない時が来る。頭の片隅にはいつも答えを出せと急かす自分がいる。まだそんな時じゃない、まだ結婚できる年齢にも達していないから、と自分自身に言い聞かせて考えないようにしていた部分もある。
 奈津子は言葉を忘れているようだった。窓の外を見つめる遼司の顔をぼけーっと見つめている。
 遼司はそれに気付いて、苦笑した。
「まぁ、直ぐにってのは無理だと思う」
「あ、う、うん……!」
 遼司の言葉に奈津子は我に返り、慌てて頷いた。
 納得して貰えたのかは少し不安だったが、遼司は何も言わなかった。
「ちょっと飲み物買ってくる」
 話が一段落したところで、遼司は席を立って歩き出した。
「……で、そこで何してんの?」
 開きっぱなしのドアを過ぎたところで、遼司は立ち止まり、溜め息と共に呟く。横目で隣を見れば、ドアに寄りかかるように背を預けている恵子の姿がある。
 昨日はかなり目立っていたが、恵子はあっという間に高校の中に溶け込んでいた。気配を消して周りに気付かせていないか、もしくはキャリアとしての力を使っているのか。遼司には判断し兼ねるが、周りの視線は気にしなくてもいい程度になっている。
 腕を組んで、口元をにやにやさせて、恵子は遼司を見ていた。こうしていると本当に十代後半の女の子のようだ。
「遼司もちゃんと大人に向かってるのねぇ〜」
 くふふ、と笑いを漏らしながら、遼司を見る。
 話を聞かれていたのだと、直ぐに悟った。あまり大きな声で話していた訳ではない。普通に会話をしていれば周りの雑音に流されて聞こえないぐらいの声で話をしていた。それでも、恵子は聞き取ったらしい。
「遼司に思春期が無かったらどうしようかと思ってたのよ」
 にやにやしながら、おかしそうに遼司を見る恵子に段々腹が立ってくる。
「何も言わないし、何も進展無いみたいだからちょっと心配だったけど大丈夫そうね」
「待て、進展って何だ!」
 笑いを堪えているのか、口元に手を当てて喋る恵子に遼司は言葉を返した。
「やぁねぇ、鏡子から聞いてるだけよ」
 香奈ちゃん本人に聞く訳ないじゃない、と笑いながら手をぱたぱた振る恵子に遼司は両肩を落とした。この母親はもう遼司のことを知り尽くしている。聞きたいことが的確に返ってくる。
「……ビジターの件は?」
 苛立ちを押さえつつ、遼司は尋ねる。こめかみに青筋が浮いて来ているかもしれないと思いながら、喧嘩を挑んだところで勝ち目はない。吹っ掛けたら負けだと言い聞かせて、遼司は話題を変えようとした。
「偶然通りがかっただけだから伝えることなんて無いわよ?」
 笑みを浮かべたまま、恵子はさらりとそう告げた。
「んな……」
 遼司の頬が引き攣った。
「それに伝えなくてもいいって言ったじゃない?」
 恵子がからからと笑う。
 遼司は溜め込んだ感情を大きな溜め息と共に吐き出して、恵子に背を向けて歩き出した。確かに情報はいらないと遼司は言った。
 本当に遼司をからかっているだけのようだ。なら、相手をする必要は無い。遼司は恵子を無視することに決めた。
「まぁ、無いことも無いんだけどねぇ」
 後ろから掛かる声に、遼司の怒りは限界点を超えた。
「……三十路越えが……」
 ほんの僅かな小声で、ぼそっと呟く。
 刹那、衝撃。
「――――っ!」
 遼司は後頭部を襲った激痛に悶絶して廊下に倒れ込み、後頭部を両手で押さえてのたうち回る。声も出ない。瞬きすら忘れて、廊下の片隅に蹲る。
 廊下を行き交う生徒が驚いて思い切り避けて行く。何だ何だと野次馬が集まってくるのが解る。
 どうしてここまで痛みだけを最大限まで増幅する拳の打ち方ができるのか、遼司には理解できない。
「うら若き十七歳を捕まえて何を言うのかしら?」
 両手で頬を挟むようにして溜め息を漏らす恵子を、遼司はようやく出てきた涙を浮かべながら見上げる。まだ立てないのが情けなくもあり、悔しい。拳を打ち込まれた場所から両手を離すことすらままならない。頭蓋骨が粉砕骨折していてもおかしくない痛みのような気がする。
「嘘こけぇーっ!」
 もはや理性で押し留められず、遼司は言い返してしまっていた。
 次の瞬間、遼司の視界はぐるりと回り、一気に暗転。
 何が何だか解らぬまま、遼司は気絶していた。
「あらやだ、私ったら!」
 恵子が恥ずかしそうに頬を赤らめる。
 周りで見ていた者たちは目の前で起きた光景に息を呑み、青褪め、顔を引き攣らせていた。恵子の足が蹲る遼司の鳩尾に触れたと思った直後、遼司の身体は錐揉みに一回転しながらその場で跳ね、動かなくなった。
「全くもう、世話かけさせるんだから」
 小さく溜め息をついて、恵子は白目を剥いて伸びている遼司を引き摺って行った。

 *

「珠樹香奈は呼び出せるんだろうな?」
 どこか苛立った声が展望室の中に響く。
 中にいる総勢三十名の生徒たちは固唾を呑んで見守っている。皆一様にビクビクしながら、声の主に目を向け、戻って来たばかりの仲間へ視線を移す。夕日の逆行で部屋の主の顔は見えない。ただ、その体格はがっしりしていて大柄、この場にいる生徒の誰一人として、いや、全員で掛かったとしても敵わない強さの持ち主だった。
 窓枠に腰掛けるようにして、声の主は返事を待つ。膝の上に乗せた指先が刻むリズムは少しずつ早まりつつあった。
「……今までよりは、確実かと」
 戻って来た仲間は顎に伝う汗を手の甲で拭って答えた。
 主の雰囲気が少しだけ和らいだ。使いに出された仲間は安堵の息を漏らし、周囲の生徒たちの中へと引っ込んで行く。
「あんたらか、香奈を引っ張り回してたのは……」
 誰のものでもない声が、展望室内に響いた。
 紙片を握り締めた少年が入り口に立っていた。ボサボサの黒髪に、少し眠そうな目を迷惑そうに細めた、ただの少年が。
「な……!」
「誰だてめぇは!」
 どよめきが走る。想定していないイレギュラーの登場に、誰もがうろたえた。
「こんな大勢で、何が目的だ?」
 周りを見回して、少年は怯えるでもなく平然としている。ただ、少しだけ不愉快そうに眉根を寄せて。
 突然、部屋の雰囲気が一変した。窓枠に座る部屋の主が、怒気を孕んだ視線を少年に向ける。苛立った空気に、周りの者たちが少年に敵意を向けた。まるで合図したかのように、油断なく身構えている。
 少年を除く全員が、殺気立っていた。
「……用があるのはお前一人だろ? 何で自分で出向かないんだ?」
 小さく溜め息をつく少年に、主を除く誰もが目を見開いた。
 主に刃向かえる者などいなかった。誰も彼には敵わない。気性の荒い彼に逆らったら、どれほど酷い目に遭うか判らなかった。だから、少年の無知さに驚いたのだった。
 部屋の主は、少年の言葉には答えず、窓から外を見下ろした。
 その視線の先に、一人の少女が映る。周りを見回しながら、帰途に着く香奈の姿だった。
 何故か、香奈が気になってしょうがない。頭の奥底で何かに急かされているようで、落ち着かない。だが、自分から出向こうとしても足が動かない。恐らく、面と向き合った時にも会話など成り立たないだろう。何を伝えればいいのか、どうすればいいのか、まるで解らない。ただ苛立ちだけが募る。
 ようやく、彼女を自分のモノにしようと決心したところで、このザマだ。これまでに配下に置いた者たちに指示を出しても尽く失敗した。そして、今回は邪魔が入ったせいで、香奈は展望室への呼び出しに気付くことすらなかった。
 ギリッ、と青年が噛み締めた歯が音を立てた。こめかみに青筋が浮かぶ。このままでは理性が保てない。
「そいつぶち殺せやぁーっ!」
 青年は、咆えた。
 怒りを隠さず、周りの者たちを威すような勢いで叫び、焚き付ける。三十名の生徒たちは主に答えるかのように雄叫びを上げ、少年に雪崩れ込んで行く。
「逆ギレかよ……!」
 少年が、舌打ちした。

 *

 遼司が気付いた時、既に日は傾いていた。
 保健室のベッドで目を覚まし、まだ残っている痛みに顔を顰める。後頭部と、鳩尾に。痛みが強烈過ぎて即気絶したせいか、今になって少し吐き気がある。
 壁に掛かっている時計を見れば、清掃時間がそろそろ終わるかという時間だった。一階にある保健室の窓からは、夕日の赤さと校舎によってできる黒い影に染まった景色が見える。
 部屋には遼司以外には誰もいなかった。恵子の姿も見当たらない。
 恵子のことを考えた瞬間、自然と遼司の表情が歪む。怒るにしてももっと穏便な方法があるだろう。何故ここまでされなければならないのか解らない。
 痛みのせいで寝覚めもあまり良くは無い。
「ったく……」
 溜め息をついて、遼司はベッドから這い出した。
 上履きに足を突っ込み、恵子が使っているであろう机に歩み寄る。何か書き置きでもあるかと思ったが、無かった。
 仕方なく保健室を出る。掃除をしている生徒がいる中、遼司は教室に戻る。
「遼司が倒れるなんて珍しいな? もう大丈夫なのか?」
「ああ、これから帰るわ……」
 心配そうな表情の秀人に苦笑を返し、遼司は自分の荷物を纏めてバッグに詰め込んだ。
 秀人は一連の流れを見ていたのだろうか。少なくとも、遼司が保健室に運び込まれたことは伝わっているらしい。どんな噂が流れるかは解らないが、今は一刻も早く学校から去りたい。
 言うまでもなく、自宅ではなく香奈の家に向かうつもりだった。
 鞄を手に、遼司は教室を出て昇降口へと向かう。
 カサ、という物音が聞こえた。掃除をしている者はもういない。誰か残っているのだろうか。どうせ生徒なら構わないだろう、と遼司は気に留めずに自分のクラスが割り当てられている靴置きのロッカーへと向かった。
 角を曲がるのと、誰かの後姿が遠ざかって行くのを見るのはほとんど同時だった。
 自分の靴が入っているロッカーを開けようとして、気付く。
「ん、何だ?」
 誰かのロッカーの隙間から、紙片が飛び出している。良く見れば、香奈のロッカーだった。
 遼司は眉根を寄せる。
 間違いなく、去っていった生徒が入れたものだろう。だが、見る限りではラブレターの類には見えない。そういったものを入れるなら、こんな雑な突っ込み方はしないだろうから。
 嫌な予感がして、遼司は紙片を抜き取った。宛名も、送り主の名前も記されていない。
「展望室へ来い……?」
 紙片に書かれていたのは、その一言だけだった。
「遼司ぃー!」
 不意に、遠くから声が聞こえた。幸太が大慌てで走り寄ってくる。
「良かった! 間に合った!」
「どうしたんだ?」
 膝に手を着いて安心したように息をつく幸太に、遼司は問い質した。
「いや、秀人に遼司が起きたって教えられてさ、帰る前に調査結果を伝えておこうかと思って」
 どうやら、遼司が気絶している間に確定情報が得られたらしい。遼司が戻ったら伝えるつもりだったようだが、結局今まで気を失ったままで言えなかったのだ。掃除場所が教室ではなかった幸太は、遼司が戻ったことに気付かなかったに違いない。掃除を早めに切り上げて、教室に戻ったところで秀人に遼司が帰ろうとしていることを告げられたのだろう。
「何か解ったのか?」
 幸太の言葉に、遼司は紙片を握り潰していた。
「それ、なに?」
「香奈のとこに突っ込まれてたんだ」
 手に握り潰された紙片に気付いて、幸太が問う。遼司は答えて、誰かが突っ込んで去って行ったことを伝えた。
「やばいね……」
 幸太が真剣な表情で呟いた。
「何が?」
「荒城武人(あらきたけと)」
 遼司の問いに、幸太は名前だけを口にした。
「一週間ほど前に転入してきた三年生なんだけど、こいつがちょっと問題有りなんだ」
 真剣な面持ちで、幸太は語り出した。
 三学年に転入してきた武人は問題児だった。何故、この学校に転入できたのかと思うほどに。確かに成績面では平均より劣るものの、式守高校の水準は満たしている。問題なのは性格だった。授業中は比較的大人しいが、生徒間でいざこざが起きると態度は一変し、誰も武人を止めることができない。
「まぁ、実質的な問題を起こさなきゃ高校としてはいいらしいから、今はとりあえず様子を見てるらしいんだけど……」
 ここから本題、と幸太は一息置いてから話を続ける。
 武人は多くの生徒を配下に置いた。突っ掛かってくる者たちを返り討ちにするなどで自然と増えて行ったらしい。
「判明したのは、武人が部下に香奈ちゃんを仲間に引き込むよう指示してる、ってことなんだ」
「それで呼び出しなのか?」
 どこか釈然としない様子で、幸太は頷いた。
「何で急に縁の無い香奈ちゃんを仲間にするのかは解らなかったけどね」
 幸太にはその情報が得られなかったことが心残りらしい。ただ、武人を中心とするグループが香奈に手を出していたというのは確かな情報のようだ。
「多分、その呼び出しはボス自ら話そうっていう意思表示なんじゃないかな?」
 話を聞いていて、遼司も幸太と同じ結論に達していた。
 香奈を呼び出してどうするつもりなのかは判らない。だが、今、武人は展望室で香奈が来るのを待っているのだろう。香奈に伝えるべきだろうか。
 当事者は香奈なのだから、遼司が口を挟む問題ではないのかもしれない。
「まさか一目惚れ? でも運動神経が良いから決闘とか? 違うよねぇ。う〜ん……」
 幸太が首を捻る。
 遼司は一つの可能性に気付いた。恐らくは、幸太では知ることのできない、考え付きもしないであろう可能性が。
 即ち、香奈がキャリアであると、バレてしまった場合を。
 できるだけ、遼司は動揺を顔に出さぬように心がけた。
 まさか、と思う。香奈はむやみに召喚能力を使ったりはしない。周りの目は遼司よりも気にしている。だが、それでも香奈がキャリアとしての力を使っている姿が見られてしまったとするなら。
 物珍しさか、もしくは彼自身もキャリアである可能性を考慮しても、気になるのは当然だろう。
 確かめる必要がある。
 頭の中で結論が弾き出された瞬間に、遼司は駆け出していた。鍛えられた肉体は幸太が反応する隙を与えない。幸太が口を開くよりも早く、遼司は突き当りを曲がり、階段を駆け上がり始めていた。
「何やってんだろうな、俺……」
 自嘲気味に笑って、小さく呟く。
 面倒ごとが嫌いなはずなのに、遼司は自分から首を突っ込もうとしている。冷静に考えて見ても、バレたとしてどうするというのだろうか。実際にキャリアが力を使っている場面を見なければ、言いふらされたとしても誰も信じはしない。優等生として知られる香奈を妬んだ者のあらぬ噂と笑われるのが関の山だ。
 それでも。
 遼司は大事になるかもしれないということも承知の上で、走り出していた。
 二段抜かして階段を駆け上がり、展望室のある階層へ。普通なら息切れをしていてもおかしくはない速度と動きに、しかし遼司は一つだけ大きな息を吐き出しただけだった。
 溜め息で呼吸を整え、展望室の扉を見据える。
 声が聞こえた。誰かの話し声の中に、香奈、という名前が確かに含まれていた。
 扉を開けて、中へ。
「あんたらか、香奈を引っ張り回してたのは……」
 遼司が足を踏み入れた入り口から、丁度部屋の反対側に青年がいた。窓枠に腰掛けるようにして陣取っている。夕日の逆光で顔は良く見えない。
 恐らくは、彼が荒城武人なのだろう。
 周りには三十名近い生徒が集まっており、一様にして遼司を見つめて目を丸くしている。
「こんな大勢で、何が目的だ?」
 ざわめく生徒たちを無視して、遼司は向かいの青年に問いを投げる。
「……用があるのはお前一人だろ? 何で自分で出向かないんだ?」
 誰が何を言おうと、遼司には関係がない。遼司が会話をしたいのはボスの武人であって、周りの雑魚ではない。
 少しずつ、不愉快さが増して行く。
 何が原因なのかと考えて、ああ、と内心で手を叩く。
 きっと、群れを成している周りの者たちと、それを従える青年の構図が気に食わないのだ。ざっと見ただけでも、周りの生徒たちは粋がってはいるが、武人に対して媚びへつらっている印象が拭えない。武人は武人で、集まってきた者がいるのを良いことに、利用しているだけに過ぎない。
 何の目的も無く、ただ自然にできたグループなのだろう。もしも、何かをするために集まったり、志を同じくする者たちが集まってできたグループなら不愉快には思わなかっただろう。
 彼らが、ただ威張り散らすための、自己顕示欲を満たすためだけの集団であることが気に食わないのだ。そういう者たちが、遼司のようにただ安穏と暮らしている人間に対して危害を加えることが多いのが、鼻持ちならない。
 香奈と話がしたいのなら、すればいい。だが、そのために誰かを使いっぱしりにするのは間違っている。
 青年は窓から外を見下ろした。直後、彼の纏う雰囲気が変わった。
 最初から荒れた雰囲気だったがまだ静かな方だった。そんな空気が、唐突に嵐のようなものへ変化する。
 それは一般人からしてみれば背筋が凍り付くような殺気で、遼司にとっては殺す気で掛かってくるビジターの気迫に近い。
「そいつぶち殺せやぁーっ!」
 青年が、咆えた。
 少しだけ身を乗り出した顔が、遼司の目に映る。
 野獣を思わせるような鋭い目付きに、荒々しく逆立った短い茶髪。体格は遼司よりも大柄で、見るからに筋肉質だ。
「逆ギレかよ……!」
 遼司、舌打ちした。
 あまり時間はかからなかった。
 雪崩れ込んでくる不良たちの流れに、遼司は身構えることはなく、自然な一歩を踏み出す。降り掛かる三つの拳のうち二つを右手で左右に打ち払い、左足を軸にして水平に裏拳へと繋いだ。残りの拳を身体の回転でかわし、裏拳が不良少年の首を捉え、容赦なく薙ぎ倒す。声を出す暇も無く吹き飛んで気を失う少年には目もくれず、遼司は横へと身を翻した。
 回し蹴りを左手で下方から打ち上げるように逸らしながら掴み、そのまま背負い投げへ。遼司の背後に迫っていた不良に叩き付けてまとめて処理する。
 投げ放った姿勢から、遼司は滑るように身を屈め周囲に迫る不良たちへ足払いを仕掛けた。足で円を描いた後、遼司の足払いをかわした一人が肘を突き出す。
 遼司は左手で肘を受け止め、掴んで引き寄せる。同時に右手を跳ね上げて鳩尾へ一撃を見舞った。不良の足が床から数センチ浮き上がり、立ち上がる遼司とは逆に蹲るように屑折れる。
 既に背後から迫っていた拳を見もせずに右手を回して手首を掴み、捻り上げながら横薙ぎに振り払う。突っ込んでくる不良たちの集団に放り投げて薙ぎ倒した。予期せぬ攻撃に回避が間に合わず、連携も取れていない彼らは放り投げられた不良に巻き込まれて転倒する。
 誰かがパイプ椅子を掴み、雄叫びを挙げながら遼司へと突撃する。中には、カッターナイフを取り出す者もいた。
 遼司は眉一つ動かさず、振り下ろされるパイプ椅子へと足を蹴り上げた。蹴りで受け止められた椅子が反動で少し浮き上がる。その次の瞬間には、引き戻された足が椅子を掴む不良の下腹部へ減り込んでいる。信じられない光景を見るかのように目を見開く不良の足が床から離れて吹き飛んだ。
 手放された椅子を掴んで、それを盾に、突き出されるカッターを受け止める。
「これだから、後先考えない馬鹿は……!」
 忌々しげに呟いて、遼司は椅子を蹴飛ばしてカッターごと相手を押し返して弾き飛ばす。
 刃物で傷害事件を起こしたら喧嘩どころの騒ぎではない。カッターを振るった者はともかく、高校の品格が疑われかねない。こんな大勢との揉め事に首を突っ込んだことに後悔しつつ、遼司は襲い来る不良たちを薙ぎ払う。
 ただ、武人という三年生には彼らを扇動するだけの力があるのは間違いない。他人に刃物を振るうことの恐ろしさを上回る恐怖を植え付けるだけの力がある。でなければ、彼らがここまで必死になりはしないだろうから。
 失敗した、と遼司は内心で思った。まずは恵子に教えるべきだったかもしれない。武人を調べてからでも遅くはなかった。
 だが、もし武人がキャリアでなかったとしたら。ビジターに関われる存在ではなかったとしたら。恵子の調査対象は武人ではないということになる。その時は、恵子に頼るのは不可能だ。
 上体を逸らして拳をかわし、振り抜かれた相手の腕に隙が生じる。既に跳ね上がっていた膝が脇腹を捉え、横薙ぎに蹴り倒す。身体を戻しながら今度は前方へと倒し、背面からのハイキックをかわした。後方へ振った足で顎を蹴飛ばし、脳を軽く揺らしてやる。不良の青年が平衡感覚を失って本人の意思とは無関係に倒れる。
 横合いからパイプ椅子が叩き付けられる。伸ばした掌がパイプを掴み、慣性に逆らわず引き寄せながら力の向きを変えた。少しだけ別の方向に加えられたベクトルに軌道が逸れ、遼司はパイプを引いて相手を引き寄せる。バランスを崩す少年から椅子を取り上げ、返す手刀が首筋を捉えた。
 凄まじい勢いで数が減っていく。一人に対しておよそ一撃のカウンターで、遼司は手下たちを沈めていった。
 見た目の細腕からは想像もつかない腕力と素早さに、誰もが息を呑んだ。さほど激しい動きをしていないのにも関わらず、誰も遼司に一撃を加えることができない。表情もあまり変化がない。息切れを起こした様子もなく、汗一つ流していない。
 少しずつ、不良たちが恐怖を抱き始める。まだ立ち上がれるダメージであっても、倒れた者は戦線から離脱していた。気を失っていない者は逃げ出し始めている。
 残ったのは、ボスの青年唯一人だった。
「あいつは、一体何なんだ!」
 武人が叫ぶように言い放った。
 遼司に対しての言葉ではない。あいつ、という言葉に該当する者は、この部屋の中には存在しなかった。
「……あいつが視界に映る度に、イライラするんだよ!」
 武人が大袈裟に腕を横薙ぎに振り払うようにして言い放つ。
「まさか、香奈のことか……?」
 遼司の言葉に、武人は無言を返す。肯定しているのと同じだ。
「確かめようにも、うまくいきゃしねぇ!」
 武人の指先がゴキゴキと音を立てる。拳を握り締め、武人が歩き出す。
 彼が放っていたのは、殺気だった。こめかみに青筋を浮かべ、目を血走らせて、呼吸は荒く、遼司を敵と認識した武人がゆっくりと歩み寄ってくる。その様は、並の人間なら逃げ出してしまうほどの迫力を持っていた。
 それこそ、異形の生物であるビジターに匹敵するほどの。
 強い向かい風を全身に浴びているように、突き刺すような圧力を肌に感じる。
 背筋に寒気が走る。
 他の不良たちとは違うと、はっきり感じた。普通に生きている人間ではこれほどまでの殺気は出せない。
 遼司は僅かに息を呑み、拳を軽く握って身構えていた。
「どうなっても、知らねぇぞぉーっ!」
 咆哮し、武人が走り出す。
 踏み込みの速度はこれまでの遼司を超え、一瞬で距離が縮まる。遼司が気付いた時には、武人の拳が目の前にあった。背面に倒れ込むようにしてかわしながら、足を跳ね上げる。武人は遼司のつま先を掌で受け止め、強引に床へと押し付けた。叩き付けられる勢いで身体が跳ね上がりそうになる。
 目の前で引き戻されそうとしている腕を左手で掴み、遼司は体勢を整えると同時に懐へ飛び込んだ。
「っく!」
 瞬間、武人の膝が跳ね上がる。
 どうにか空いていた右手で膝を受け止めるが。衝撃で掌全体に痺れが走る。受け止め切れなかった衝撃に遼司の身体が浮き上がり、武人の拳が突き込まれる。
 咄嗟に右腕を手首に絡ませて力の向きを逸らす。同時に自分の身体を押しやるようにして床へと戻し、横に転がって追撃の蹴りをかわした。
「なんだ、こいつ……!」
 遼司は思わず呟いていた。
 反応速度と筋力が尋常ではない。見た目からして腕っ節は強そうだったが、実際に拳を受け止めてみて、外観以上の重みがあることに気付く。単なる問題児とは思えない怪力だった。
 人間と戦っている感覚には思えない。
 理性を失っているのか、武人は時折唸り声を発する程度で、言葉らしい言葉を口にはしていない。
「まさか……いや、けど……!」
 恐ろしい推論が思い浮かんで、遼司はぞっとした。
 素早さも、腕力も、武人は遼司を上回っている。経験によって積み重ねられた身体運びでどうにかかわしているに過ぎない。長引けば、恐らく遼司は負けるだろう。
 叩き付けられる腕を受け止めてしまった時には手遅れだった。腕を交差させて受け止めたものの、凄まじい衝撃に肩が外れそうになる。踏み締めた両脚の膝にも衝撃は伝わり、遼司は歯を食い縛る。交差させた腕を右へ流して腕を払った直後、その勢いを使って身体を回転させた武人が回し蹴りを放った。
 避け切れず、遼司は両腕で武人の足を受け止めると同時に床を蹴って身体を浮かせた。蹴飛ばされるであろう方向へあらかじめ身を浮かせ、蹴りの威力を軽減しながら吹き飛ぶ。最低限の衝撃だけに留めて、遼司は床を転がって受身を取る。
 顔を上げた瞬間、遼司は見た。
 武人の瞳が、紅く光を発しているのを。
「マジかよ……」
 乱れた息を吐き出しながら、遼司は歯噛みする。
 武人がキャリアでないとするなら、彼自身がビジターである可能性がある。キャリアといえど、特殊な力を使えるだけのただの人間に過ぎない。単純に身体能力を強化するという類のキャリアは存在しない。何かしら不思議な力を持つのがキャリアの特徴だ。身体能力の高さは人それぞれで、生身での戦闘能力を欲するなら鍛えなければならない。
 怪しく光を帯びた武人の瞳が遼司を見据える。
 人間に化けることのできるビジターなのだろうか。遼司には解らないし、考えている暇も無い。ただ、武人がただの人間ではないのは確かだった。
 どちらにせよ、武人は遼司の手に負える相手ではない。かと言って、逃げ出せる状況でもない。呼び出しのための紙は遼司が持ってきてしまったから、香奈の助けは期待できない。恵子が校舎内を見回っているのなら、まだ少しは希望がある。だが、校舎の内部に手掛かりを見つけられなかった恵子は、生徒の調査に移っているはずだ。だとすれば、校舎内を見回っている可能性は少ない。
 追い詰められているのが判る。
 薙ぎ払われた裏拳を屈んでかわし、遼司は脚払いを仕掛けた。だが、武人の脚はびくともせず、遼司の動きが止まる。
 次の瞬間、跳ね上がった膝が遼司の顔を捉えている。両手で顔を庇い、膝を受け止める。打ち上げられるように遼司の身体が跳ね上がり、がら空きになった腹に拳が突き刺さった。
「ぁぐ……」
 言葉を失う。息が詰まり、視界が白く染まりかける。
 吹き飛んだ身体が部屋の隅に並んでいた折り畳みの長机の列に突っ込み、盛大に薙ぎ倒す。角に背中や腕をぶつけ、痛みが走った。壁によりかかるように倒れた遼司に、傾いた机が倒れてくる。受け止めようと両腕を持ち上げて、痛みに一瞬動きが止まった。
 痛みを堪えて持ち上げた腕が机を受け止める。衝撃が腕を軋ませ、力が入らない。勢いを殺し切れず、倒れてきた机は遼司の頭に激突していた。
 鈍い痛みと、生暖かい感触が顔の右半分を濡らして行く。
 直撃だけは免れたが、防御もできなかった。腕で勢いを押さえていなければ危なかったのは間違いない。
 視界の右半分が赤く濁る。目に血が入ったらしい。顔を顰め、歯を食い縛り、身体を動かそうとして、気付く。
 目の前には、鬼気迫る形相の武人の姿があった。雄叫びを挙げながら、突っ込んでくる。
 避けようにも、今の体勢からでは間に合わない。
 殺される。
 そう思った瞬間、遼司の目の前で白が翻った。
 靡く白衣を、武人の拳が貫いて。
 遼司の顔を、飛び散った血が濡らした。
 目を見開く。
 鈍りかけた意識が一気に覚醒して、遼司は叫んでいた。
「――母さんっ!」
 間に割って入った、母の名を。
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