第四章 「許さないからな」


 また昼休みに呼び出されていた香奈が教室に戻って来た時には、既に遼司の姿は無かった。奈津子の話では、階段で転んで気絶した、とのことだった。
 まさか、と思った。
 遼司の身体能力は並外れている。人間の限界に近い領域まで足を踏み入れるレベルにあるはずだ。平衡感覚に関しても、遼司は凄まじいセンスを持っている。足を踏み外した程度では、階段から転げ落ちたとしても、掠り傷一つ負うことはないだろうとさえ思えるほどに。
 ビジターから身を守るために、遼司の父、匠から香奈もある程度の手解きを受けている。普通の人間やそこそこの格闘家を凌ぐ身体能力はあるつもりだ。だが、遼司は香奈を凌駕する身体能力を持っているのは間違いない。
 転ぶなど、ましてや気絶などまずありえない。
 恐らくは恵子の仕業だろうと、香奈は直ぐにピンときた。
 何かしらの理由で、恵子が遼司を連れ出したのだろう。もしくは、刃向かった遼司が返り討ちに遭ったのか。
 どちらにせよ、遼司を心配する必要はない。何だかんだ言って、いざとなれば恵子も遼司を助けに入る。ビジターが出たのならもっと大事になっているだろうし、香奈にも恵子から声がかかるはずだ。
 遼司も大変だなぁ、と思う。
 恵子も匠も、決して悪い人ではない。良い人だのだが。
「先に帰ったのかな……?」
 結局、下校前の清掃時間になっても遼司は戻って来なかった。
「遼司ならさっき戻って来て帰るって言ってたぞ」
 掃除を済ませて教室へ戻った香奈へ、秀人が教えてくれた。香奈は秀人に一言礼を言ってから、奈津子と一緒に教室を出た。
「最近良く呼び出されてるけど、何なの?」
 階段を下りている最中、奈津子が尋ねてきた。
「良く解んない」
 香奈は眉根を寄せて、困ったような表情で答えた。
 自分でも何かおかしいとは思っているのだが、本当に何一つ解らないのだ。毎回毎回色んな人に呼び出されているが、意図が掴めなかった。どう切り出すべきか悩んでいる者ばかりで、香奈の方から推測で質問をしても違うと言う。
 告白でもない、部活への勧誘でもない、ましてや決闘の申し込みでもない。慌てて首を振って、違う、と言うばかりだ。
 もしやミアを召喚しているところや、ビジターと戦っている姿を見られたのかとも思ったが、これもハズレだろう。少しぼかして、ミアを見たのか、とだけ聞いてみたが手応えは無し。ビジターを目にしていれば食い付いてくるだろうと思ったが、違っていたようだった。
「……それ、多分告白なんだと思うよ?」
 奈津子が少し控え目に呟いた。
「でも、みんな違うって言ってたよ?」
「気が削がれちゃったんじゃない?」
 首を傾げる香奈を見て、奈津子が苦笑する。
「そうかなぁ……?」
 うーん、と唸る香奈を見て、奈津子は小さく溜め息をついた。
「脈無しだと思ったんだろうなぁ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 考え込んでいて、奈津子の言葉を香奈は聞き逃していた。
 階段を下り切ったところで、奈津子が意を決したように口を開いた。
「……香奈ちゃんは御守君のことどう思ってるの?」
「遼司のこと?」
 奈津子の言葉に目をぱちくりさせながら、香奈は首を傾げる。
「許嫁だよ?」
 当然の答えだ。
 遼司と香奈は許嫁だ。幼い頃から一緒にいて、お互いのことを一番知っている。親同士も仲が良い。これ以上の組み合わせは傍から見ても無いのではないだろうか。
 それに、遼司はキャリアでこそ無いものの、アウターやビジターに関しても知っている。キャリアである香奈にとっては数少ない、何も隠す必要の無い相手だ。
 ミアも懐いている。香奈の両親にですら、ミアはあれほどまでに積極的な行動は見せない。鏡子や大智、恵子や匠たちの前でも大人しくしているが、あまり近寄ろうとはしていない。何もせずにミアの方から擦り寄って行くのは香奈の他には遼司だけだった。遼司は面倒臭がりではあるが、優しい人でもある。
「いざとなったら守ってくれるしね」
 香奈は小さく呟いていた。
 自然と、顔が綻ぶ。
 今でこそ、遼司は香奈に助けられている時の方が多い。だが、香奈がキャリアに覚醒して、アウターやビジターに関わる前は逆だった。香奈にとっては何かと助けてくれる頼もしい存在でもあった。今でも、心の中では変わらない。勉強を教えて欲しいと頼めば、文句一つ言わずに教えてくれる。たとえ自分が授業中に眠っていたところでも、その場で調べて一緒に考えてくれる。
 奈津子は、そんな香奈を少し唖然とした様子で見つめていた。
 生徒昇降口で靴を履き替える。
 恵子に何かされたのなら、遼司は今日も香奈の家に泊まるだろう。追いつくにしても焦る必要はない。どのみち、遼司は電車で学校に通っているのだ。今の時間なら、まだ電車の時間には間に合う。
 正門のところまで来て、一度周囲を見回した。もしかしたらまだ遼司は近くにいるかもしれない。きっと、早く学校を出るのは恵子から逃げるためだ。
 遼司はいない。やはり、もう駅に着いているのかもしれない。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、またね」
 正門前で別方向に向かう奈津子と別れ、駅の方へ歩き出そうとした時だった。
「香奈ちゃん」
 背後からかけられた声に、香奈は振り返った。
 どこか急いでいる様子の恵子がいる。素早く周囲に視線を走らせ、香奈の方へと白衣を靡かせて駆け寄ってくる。
「あれ? 恵子さん?」
 どうしたんですか、と聞こうとした瞬間、恵子の方が先に口を開いていた。
「ちょっとまずいことになったわ」
 少し真剣な表情で、恵子が告げる。
 いつもの気楽そうな表情は見当たらなかった。
「どうしたんですか?」
 久しぶりに見た真剣みを帯びた表情を見て、香奈は目を丸くした。
「遼司が危ないかもしれない」
 言いながら、恵子は振り返って歩き出した。校舎の中へと向かう背中を、香奈は直ぐに追いかけた。
 靴を履き替え、校舎の中に戻って、中央棟の階段を昇り始める。道中で語られたのは、恵子の調査結果だった。
 一週間ほど前に転入してきた荒城武人という三年生が、ビジターの気配を帯びている。丁度、恵子が学校にビジターの気配があるという情報を得た時期に転入してきたのが彼だった。普段は比較的大人しいが、乱暴な面がある。人間とは思えない強さに、僅か数日で自然と不良グループが集まり、集団のボスになった。
「香奈ちゃん、あなた何度も呼び出されていたらしいわね?」
「え、はい。何だか良く解らないままでしたけど……」
 恵子の言葉に、香奈は頷いていた。
 どうやら、香奈を呼び出していたのは集団で、ボスが武人だったらしい。香奈にはさっぱり意図が解らなかったが、確かに相手が目の前の人でないのなら辻褄の合うこともあった。告白にしても、何かの勧誘にしても、呼び出しをした人ではなく、その上に立つ武人からの申し出だったとしたら、香奈の疑問を相手が否定してもおかしくはない。
「それを知った遼司が、どうやら一人で突っ込んだらしいのよ」
 調べ終わり、武人が目標だと確信した恵子が保健室に戻った時、気絶していたはずの遼司は既にいなくなっていた。
 帰ろうとしているのだと瞬時に判断し、生徒昇降口へ向かったが、遅かった。昇降口では一人立ち尽くす幸太の姿しかなく、恵子は彼の証言で遼司の行動を予測したのだ。
 幸太に尋ねて、恵子は自分の予想に確信を持った。というより、自分の調査結果にかなり近い情報を集めていた幸太に少し感心した。展望室に遼司が向かったという情報は、幸太からもたらされたものらしい。本来なら香奈が呼び出されていたということも、恵子は彼から聞いたようだ。
「遼司が?」
「まったく、いざって時に後先考えないのは誰に似たのかしらねぇ……」
 恵子が小さく溜め息をついた。
 階段を昇っていくにつれて、上の階から降りてくる人が増えている。誰もが逃げるように階段を駆け下りていく。服装の乱れや呼吸の荒れ具合から見て、喧嘩に巻き込まれたというところか。
 香奈は恵子と顔を見合わせて、階段を昇る足を速めた。
 武人に手下がいるなら、遼司はまず彼らを薙ぎ払う。邪魔がいなくなってから、武人が動くに違いない。だとしたら、武人と戦い始めた時点で遼司に勝ち目はない。
 武人の力が解らない現時点では、迂闊な戦闘は危険だ。本当なら、恵子が先に突いて敵の実力を計り、遼司をぶつけるかどうかを考えるつもりだったのだ。
 展望室に辿り着いた時、既に戦いは終わりつつあった。
 押されている遼司の表情は、切羽詰まっていた。呼吸は乱れ、歯を食い縛って、それでも退くことは考えていない。
 武人の瞳が紅い光を発していた。全身から放出されている殺気に、鳥肌が立つ。ただの人間には発することのできないおぞましさを含む、化け物じみた気迫に、香奈は一歩後退っていた。禍々しさすら感じられる。
 確かに、これほどの存在感の中にはビジターの気配も混じっていた。いや、ビジターの存在感が無ければこれほどまでの気迫は出せないだろう。
 そんな相手に対して一歩も退こうとはせず、立ち向かう遼司の背中に、香奈は息を呑んだ。
 裏拳を屈んでかわした遼司の脚払いが決まる。だが、武人は全く動じることなく、遼司を膝で蹴り上げる。両手で顔を庇った遼司の身体が跳ね上がり、次の瞬間には遼司の身体が吹き飛んでいた。
 長机の列に突っ込んで派手に薙ぎ倒す。
 倒れてきた机を受け止めながらも押し留めきれずに遼司が頭をぶつける。顔の右半分を覆うかのように血が流れ落ちるのを見て、口元を覆った。
 負傷した遼司へと、武人が突っ込んで行くのを、香奈は見ていた。もはや、本気で殺そうとしているようにしか見えない。血走った眼を遼司へ向けて、牙を剥き出しにした獣のように唸りを挙げて突っ込んでいく。
「遼――!」
 名前を呼ぼうとして。
 白衣が、香奈の隣から飛び出していた。
 翻った白衣を、恵子の身体を、武人の拳が貫く。
 飛び散った血が、遼司の顔に跳ねた。
 遼司が目を見開く。
 ひっ、と、香奈には情けない声しか出せなかった。
「――母さんっ!」
 絶叫にも似た、遼司の叫びだけが、香奈の耳の奥に反響して聞こえた。

 *

 恵子の身体が貫かれていた。白衣が赤く染まり、飛び散った血が遼司の顔を濡らす。恵子の血は、自分の流した血よりも暖かい気がした。
 ゆっくりと顔だけで振り返る恵子の横顔は、微笑みを湛えていた。
 驚愕に目を見開いたままの遼司に優しく微笑んで、恵子の身体が傾いだ。
 様々な感覚が遠退いていくような気がした。目の前で起きたことが、信じられない。
 声が出なかった。
 倒れる恵子の身体に手を伸ばしたが、届かなかった。背中や腕、頭に負った傷が痛みで脳を焼く。受け止めてやるだけのことさえできない。床に倒れ、跳ねた恵子の身体が横たわる。
 流れ出した血が床を染め、遼司の足元にまで辿り着く。
「どうして……!」
 遼司の視界が滲む。右目を覆いかけていた赤が薄くなり、押し戻されていく。
 頬を、血とは違う熱いものが伝い落ちていった。
 向けられた疑問は、遼司自身への怒りだった。
 何故、自分はキャリアではないのだろう。
 キャリアであったなら、窮地に陥ることも、恵子が庇うことも無かったかもしれない。自分の力だけで、武人を抑え込めたかもしれない。
 無力さが悔しかった。
 遼司は初めて、心の底から力が欲しいと思った。
 せめて、力があれば、結末は違ったかもしれない。
 全ては遼司のミスだ。恵子に話そうとしなかった。香奈に応援を頼もうともしなかった。たった一人で、勢いだけで動いた遼司が招いた結果だ。
 恵子は動かない。
 無意識のうちに、右手を握り締めていた。
 噛み締めた奥歯が音を立てる。
 脳裏に、憎たらしかった恵子の笑みが浮かんで、砕け散った。
 瞬間、握り締めた右手に、燐光が散った。幾何学文様を描くように、光が遼司の右腕を包み込んでいく。手首から肩口へ向かって、熱を帯びた光が伸びる。
「うあああぁぁぁぁぁ――――!」
 光の文様に覆われた右手を、武人へ伸ばす。
 その遼司の手を延長するかのように光が迸り、武人の頭を捉えた。まるで指のように広がった光が遼司の手と連動して武人の頭を掴む。
「あ……俺、は……」
 この事態を引き起こした張本人である武人は、しかし驚愕に目を剥いていた。まるで殺すつもりは無かったとでも言うかのように。
 遼司には、視えていた。
 武人の中にある、別の存在を。
 弾かれたように飛び出して、遼司は右手を引いた。混乱している武人の頭が僅かに遼司へと向かって引き寄せられる。その武人の腹に、遼司は思い切り左の掌を突き込んでいた。
 突き込まれた掌底に、武人の身体がくの字に折れ曲がる。打ち込まれた衝撃に耐え切れずに吹き飛ぶ武人の中から、遼司はビジターを引き摺り出していた。
 武人の精神を乱し、この事態を引き起こした全ての元凶がそのビジターだったのだと、直ぐに気付いた。遼司の目覚めた力は、武人の上からビジターを掴み、その異分子だけを正確に引き寄せていた。
 悪魔のような姿だった。人間よりもやや小さな身体は黒い皮膚に覆われ、骨格しかないのかと思わせるほどに細い。背中には蝙蝠のような翼を持ち、のっぺりした顔には楕円形を半分にしたような赤い眼がある。悪魔は、武人に取り憑ついて彼の精神を乱していた。意のまま、というほどではないにしても、武人に人を超える力を与え、精神を不安定にさせたのは間違いなくこいつだ。
 強引に引き摺り出された悪魔は僅かに赤い眼を大きくしていた。驚きと恐怖の入り混じった気配が伝わって来る。
 遼司の腕は悪魔には触れていない。だが、遼司の右腕を包む光が腕を延長するかのように伸びていた。悪魔を捕まえた光の手は、いつの間にか散っていた。悪魔の全身を拘束するかのように、燐光を発する幾何学文様の帯が巻き付いている。
 光の腕は、まるで自分の身体の一部であるかのように感覚を返していた。触れた感触、反発、質感、相手の持つ力の強さがぼんやりとではあるが伝わってくる。同時に、相手の悪意をも遼司には感じることができた。力を込めようと思えば燐光の帯は悪魔を締め上げる。
「グギッ!」
 耳障りな悲鳴が聞こえた。
「消えろ!」
 遼司は、右手を思い切り握り締めた。
 ゴキン、と凄まじい音を響かせて悪魔が拉げた。原型を留めないほどに握り潰された悪魔が床に転がる。
 遼司の腕から燐光が粒子となって溶けて行く。今まで右腕を包んでいた熱が消えて、遼司は両膝を着いた。強引に動かした体中が痛んだ。
 振り返って、倒れたままの恵子を見る。目は閉じて、口の端からは血が垂れている。貫かれた身体は正視に堪えるものではなかった。
 遼司は両手をついて涙を流した。溢れ出す涙が頬を伝い、頬に張り付いた血を洗い流していく。
「お、俺は……」
 掌底で吹き飛ばされ、尻餅をついた格好のまま、武人が震える声で言葉を紡いだ。
「なんてことを……」
 操られていた時も意識はあったのだろう。恵子に致命傷を与えた時、武人が動揺していたのはそのためか。
 もう、戦う意思はお互いに残っていなかった。武人を責めたところで恵子が生き返るわけではない。武人もある意味では被害者だ。
「遼司……」
 香奈の声が聞こえた。
 展望室の入り口で座り込んで、香奈が涙を流している。
 遼司は俯いて唇を噛み締めた。また溢れ出した涙が床に滴り落ちる。
「あら、私のために泣いてくれるなんて嬉しいわねぇ」
 不意に、恵子の声が聞こえた。
 遼司、香奈、武人、三人の視線が声のした方へと一瞬で集中する。
 窓枠に座るようにして、僅かな風に髪と白衣の裾を揺らしながら恵子は笑みを浮かべて佇んでいた。白衣には血の跡一つついていない。
 全員がこれ以上無いほどに目を丸くする。遼司の目を見返して、恵子は歯を見せて笑って見せる。
「でも、確かに、感触が……!」
 信じられないと言った表情で、武人が自分の両手を見つめる。血に塗れていたはずの武人の手は、しかし赤く染まってはいなかった。
「私の幻、リアルでしょう?」
 にっこりと笑って、恵子が告げた。
 遼司は腰が抜けたように座り込んでいた。体中が痛かったが、気が抜けてしまっていた。
 そうだった。恵子なら生きている可能性があったのだ。遼司は忘れていた。
 恵子が持つキャリアとしての能力は、幻惑だった。幻を投影して周囲を欺く。それが彼女の持つ力の全てだ。同時に、能力としての幻はキャリアとしての実力によって大きな差が出る。
 視覚はもちろんのこと、触れた時の質感、質量、発せられる音、あらゆる面で完璧な幻を恵子は創り出し、操ることができる。作り出す幻の構造を熟知していることも必要で、攻撃を受けた時の損傷を反映させたりするタイミングも難しい。だが、恵子は幻を本当に存在しているかのように操るだけの実力を持っていた。
 周囲から自分の存在を隠すように力を使うこともできる。背景に溶け込んだり、周囲の目を欺く術に、恵子は長けていた。自分自身を隠せるという特性を逆に利用して、恵子は普段の生活でもキャリアとしての力を使っていたりする。
 遼司はそれを忘れていた。
「それにしても嬉しいわぁ〜」
 恵子は両手を頬に添えて嬉しそうに笑う。
「私のために泣いてくれるし、ついに覚醒してくれたしぃ〜」
 笑みを浮かべつつ感動している恵子を見て、遼司は呆然としていた。
「今夜はお赤飯ね!」
 ウィンクしながら親指を立てて右手を突き出す恵子に、遼司の中で線が一本、ぶちっと音を立て切れた。
 冗談じゃない。どんな思いをしたと思っているのか。
「ふざけんなぁっ!」
 掴み掛かろうと立ち上がる。
 だが、次の瞬間には膝に力が入らず、遼司は力尽きた。
 恵子が生きていた安堵感と、こんな時でも変わらない母の態度に、どっと疲れが押し寄せて。
 遼司は意識を失った。
 視界が暗転する前に見た恵子の表情は、今まで見たこともないほど柔らかいものに変わっていた。
「お疲れ様、頑張ったわね」
 そっと呟いて、恵子は気を失った遼司に微笑んでいた。
 労いの言葉は、遼司の耳にはもう届いていなかったが。

 *

 次に気がついた時、遼司は自分の部屋のベッドに寝かされていた。
 体中に包帯が巻かれている感触がある。どうやら、手当てはされているらしい。ただ、痛みはまだ残っている。
「……ミア?」
 直ぐ横に顔を向けると、ミアが丸くなって眠っているのが見えた。
 遼司の声に気付いたのか、ミアが目を開いて顔を上げる。大きな目をぱちくりさせてから、遼司の頬に顔を擦り付けてくる。滑らかな触り心地が頬を撫で、遼司はミアの背中に手を伸ばして、撫で返した。
 その向こう側に、香奈がいた。ベッドの端に顔を乗せるようにして寝息を立てている。
 香奈もミアも心配してくれたのだろうか。
 身を起こして時間を見ると、まだ日付は変わっていない。夜の十時を過ぎようとしているところだった。
「んぅ……」
 ミアが尻尾で香奈の顔を撫でる。くすぐったさに声を上げて、香奈が目を覚ました。
「あ、遼司」
「……おう」
 目を擦りながら顔を上げる香奈に、遼司は生返事を返した。
「目は覚めたみたいだな」
 唐突にドアが開いて、笑みを浮かべた匠が現れた。隣には恵子がいて、にこにこ笑っている。
 その後ろには、何故か武人がいた。
 遼司は眉根を寄せた。どうして武人がここにいるのだろうか。時間帯を考えてみても不自然だ。
「どうなったんだ?」
 遼司は香奈に視線を向ける。
「えーと……」
 香奈はどう話していいか判らないといった様子で、頬を掻いた。
「俺が順を追って説明してやろう」
 匠は腰に右手を当てて語り出す。
「簡単な話、ぶっ倒れたお前を俺が運んで、手当てをした。それで、こいつは俺たちが鍛えることにした」
 匠が左手の親指で背後にいる武人を示す。
 当の武人はどこか居心地が悪そうにしている。本心ではないとはいえ、恵子を殺そうとしたのだから当然ではあるが。
「はぁ?」
 簡単過ぎる説明に、思わず遼司は声を上げていた。
 とりあえず、気を失った遼司を匠が家まで運び出し、傷の手当てを行ったというのは解った。恵子が携帯電話か何かで匠を呼び出したのだろう。
 匠の持つ力は転移だ。空間を跳躍し、あらゆる障害物を無視して瞬間移動を可能にする。それが匠のキャリアとしての力だ。実力によって力の及ぶ範囲と対象は左右される。だが、匠は自分以外の対象を複数、まとめて移動させるだけの実力を持っていた。もちろん、個別に移動もできる。一度の跳躍で移動可能な範囲は匠曰く、地球半周は可能、らしい。
 その匠の力で気絶した遼司を自宅まで転送したのだろう。恐らくは、香奈や恵子、もしかしたら武人も一緒に移動したのかもしれない。
「この子、キャリアだったのよ」
 恵子が笑みを崩さずに言った。
 武人はビジターをその身に憑依させるという力を持ったキャリアだったらしい。本来なら、ビジターの持つ身体能力や特殊能力を自分自身に上乗せするという力だそうだ。だが、武人自身にキャリアとしての自覚が無かったため、何かの拍子に憑依させてしまったビジター側に精神を乗っ取られていたらしい。
「だから、私たちで二度と暴走しないように鍛えてあげるのよ」
 遼司は恵子の笑みに渋い表情をしていた。
 少しだけ武人に同情する。恵子と匠による特訓は言葉で説明されるよりも遥かに厳しいものだ。何度も二人の言う特訓をさせられた遼司からしてみれば、これから武人は酷い目に遭う可能性が非常に高い。
「とりあえず、ご飯食べるでしょ?」
 恵子の言葉に、遼司は返事の代わりに小さく溜め息をついた。
「早く来いよ、お前が起きるまで夕食はおあずけにされてたんだからな」
 腹減ってんだよ、と匠は小さく呟いて部屋を出て行った。
 恵子は匠に続いて武人を引き連れて廊下を歩いて行く。
「もしかして、香奈もまだ食ってないのか?」
「う、うん」
 遼司は香奈と顔を見合わせて、後を追うようにして部屋を出た。
 階段を下りて、ダイニングへと向かう。テーブルには既に料理が並べられている。
「マジで赤飯なのかよ……」
 遼司は盛られた夕食を見て呟いた。
 食卓には遼司の家族に加えて香奈と武人がついていた。遼司が椅子に腰を下ろしたところで、ミアが床からテーブルへと一息に飛び乗る。恵子と匠、遼司と武人が向き合う形になっている。香奈は遼司の隣で、ミアはその間にいる。
「だって、ようやくなんだもの」
 いつになくにこやかな恵子に、遼司は少しだけ引き攣った表情を浮かべた。
 引き攣った表情は一瞬で、遼司は直ぐに真顔で自分の右手を見つめていた。
 思い返してみても、確かに遼司はキャリアしか持ち得ない力を使っていた。熱を帯びた光を腕に纏っていた感覚は、鮮明に憶えている。あの力は、何だったのだろうか。遼司は無我夢中だった。無意識のうちにできることをしていた気がする。何ができる力なのか解らないまま、ただ手を伸ばしていただけだ。
「思うに、封印系の力だな」
 赤飯を口に運びながら、匠が呟いた。
 他者の力を封じるタイプのキャリアではないかと、匠が推察する。相手の力を封じるというのは、珍しい。というよりも、遼司はそんな力を持ったビジターもキャリアも見たことが無い。匠や恵子なら知っているのかもしれないが。
 力の大きさによっては特殊能力だけではなく、行動そのものを封じることもできるらしい。
 間違いなく、遼司の力は封印だった。
 でなければ、憑依能力のキャリアである武人からビジターを引き摺り出すなどという真似はできない。憑依能力を打ち消し、憑依していた存在を引き剥がし、同時にそのビジターの動きも封じていたのだ。攻撃への転化は、外側から封じる力で相手を押し潰したと考えるべきか。
「でも、良かったわぁ、私たちの努力が無駄にならなくて」
「そうだな。色々やったからなぁ……」
 遼司は心底嬉しそうな両親の会話から目を逸らした。
 複雑な心境だった。
 キャリアに覚醒したことが嬉しくないと言えば嘘になる。だが、キャリアになりたくなかったのも事実ではある。キャリアになれば親の期待に答えることにもなるし、香奈に助けて貰う必要もない。両親からの無茶苦茶な特訓、もとい覚醒実験に付き合わされることもなくなるかもしれない。
 ただ、遼司はキャリアになりたいと思ったことはなかった。キャリアである必要性がなかったのも理由の一つだったが、何よりキャリアになることが面倒だったからでもある。
 アウターやビジターの存在は公にされていない。それは、キャリアの集団が水面下で動いているからだ。そのいざこざに関わるのが、遼司は嫌だった。
 遼司はぶすっとした表情で黙々と料理を食べていた。香奈はどこか苦笑いのような表情で、武人は相変わらず居心地が悪そうに、それぞれ食事を取っている。
「どう、美味しい?」
「香奈の母さんの方が美味いと思うよ」
 匠とこれまでの苦労話で談笑していた恵子がいきなり言葉を振ってきた。遼司は即答で嫌味を返す。
 恵子の料理の腕はかなりのものだ。その辺の料理店で食べるよりは遥かに美味い。ただ、実際のところ香奈の母、鏡子の方が更に料理上手だった。
「くぅ、鏡子めぇ……!」
 途端に恵子は悔しそうに拳を震わせる。
 恵子自身、鏡子の方が料理の腕前が上だと自覚している。だから、この点に関してだけは恵子も反論ができなかったりする。
「俺は恵子の味も好きだけどな」
 軽く笑って、匠がさらりと呟く。
 遼司は箸を口に挟んだまま、溜め息をついた。
「そうそう、武人君だけど暫くうちで預かることにしたから」
 暫くしてから、恵子がいきなりそんなことを口にした。
「はぁ?」
 遼司は再び声を上げた。
 どうやら、武人は一人暮らしをしているらしい。孤児だったらしく、施設を出て一人暮らしをしていたようだ。そのため、家族への了承を取る必要はないとのこと。
 武人が力を使いこなせるようになるまでは近くで面倒を見るということらしい。確かに、訓練をするのであれば教官役となる二人の傍にいた方がいい。
 物置代わりの空き部屋が一つあるため、そこを武人に使ってもらうつもりのようだ。
「まぁ、そんなに長い期間にするつもりはないし」
 武人の寝場所は来客用の寝具で対応するらしい。
「ぬいぐるみ、じゃあないんだな……」
 今頃になって、武人はミアに気付いたようだった。
 皿に盛られた料理を食べているミアをじっと見つめている。不思議なものを見る目だった。
「ミアもビジターだよ」
 私の友達、と付け加えて香奈がミアを見て微笑む。
「そうなのか?」
 アウターやビジターに関するある程度の事情は恵子が武人に教えたようだ。もっとも、ビジターを憑依させるという能力を持つ武人なら知っていなければいけない知識だ。特訓とやらを開始する前にレクチャーされたと見るべきだろう。
 食事を終えた武人が恐る恐るミアに手を伸ばす。
 ミアは敏感に反応し、武人の手に気付いた瞬間に遼司の肩に飛び乗った。
「警戒心が強いんだ」
 武人に言って、遼司はミアの腹を撫でる。
 やはり、初対面の武人には懐かない。恵子や匠でさえ今までミアに触れたことは数えるほどしかない。思いのほか知性の高いミアに信頼されるというのも中々難しい。
「何でかしらねぇ〜。私も触りたいのになぁ〜」
 食器を洗いながら、羨ましそうに恵子が呟く。
 恵子も匠も何をするか解らないところがある。その辺りが警戒されているのではないかと遼司は思うのだが、後が怖いので口には出さない。
「色々、すまん……」
 武人は目を伏せて、遼司に対して呟いた。
「許さないからな」
 遼司は一言だけ返した。
 武人の暴走はビジターの責任だけとは言い切れない。キャリアとしての自覚があれば、自分の力を使いこなせていたなら、こんな事件は起きなかった。とりあえず無事だったからいいものの、恵子を殺そうとしたのは紛れもない事実だ。いや、恵子は遼司を庇ったのだから、武人が殺そうとしたのは遼司か。
 香奈を巻き込んで、恵子を殺しかけて、遼司にも怪我を負わせた。
 簡単に許そうとは思えないし、思わない。
「そうよ〜、簡単には許しちゃダメよ」
 流し台で洗い物を続けながら、背中を向けたまま恵子が口を挟む。
「仮にも私を殺そうとしたんだから、そこは反省してもらわないとね」
 別段怒っている様子はなかったが、報復とも取れる厳しい修行が与えられるのは間違いなさそうだ。武人は肩身が狭そうに背中を丸めた。
「あ、でも遼司の私への愛も見れたし、許してもいいかな〜」
 急に軽口を叩く恵子に頬が引き攣るが、堪える。
 どうせまた遼司をからかっているのだ。相手にするだけ疲れて損だ。
「で、何で、香奈を呼び出してたんだ?」
「俺にも良く解らん……」
 遼司の言葉に、武人はどこか釈然としない様子で答える。
 何故、香奈が気になっていたのかも武人には解らないようだった。武人に取り憑いていたビジターが、召喚能力を持つ香奈に何かを感じ取ったのかもしれない。いつも家ではミアと一緒にいる香奈だ。ビジターの気配が少しは付いていたとしても不思議はない。
「美人だとは思うが」
 言って、武人が視線をリビングに向ける。
 ソファの上で香奈はミアとじゃれあっている。ミアの背中や腹に顔を埋めてみたり、頬擦りしてみたり、ミアに右手から左手まで走らせてみたりと、色んなことをしていた。遼司には見慣れた光景だが、武人は違うだろう。
 ミアというこの世の存在ではないものと戯れる香奈はどこか神秘的に映る。
「遼司」
 不意に、匠が遼司に声をかけた。
「なに?」
「今、キャリアの力を使えるか?」
 振り返った遼司に、匠が告げる。覚醒した力を見てみたいのだろう。
「どうすりゃいいのか解らないんだけど」
「大体意識すりゃ使える」
 遼司の問いに、匠は適当に答えた。
 とりあえず、力が発揮できた時の感覚を思い出してみる。右手を握り締め、目を閉じて意識を集中させる。掌に熱の感覚を思い浮かべ、光が腕を包む光景を想像する。
 が、何も起こらなかった。
 掌には握り締めて突き立てた指先と爪の感覚しかない。腕を包む光は生じず、視界に燐光が散ることもない。
「……やっぱり、予想した通りか」
 匠は盛大に溜め息をついていた。
 どうやら、遼司はまだ覚醒と言える状態ではないらしい。精神的なショックで一時的にキャリアとしての力を発揮できただけで、任意発動できる状態、本当の意味での覚醒はしていないようだった。
 確かに、あの時は無我夢中で、遼司が自分の意思で力をコントロールしているとは言えない状態だった。制御する感覚を掴むことすらできていない。
「ショックが足りなかったのかしら?」
 う〜ん、と恵子が唸る。
「まさか……」
 遼司は嫌な予感に表情を歪ませた。
「こりゃあ、遼司も訓練に参加した方がいいかもな」
 匠が真剣な表情で呟く。
「まぁ、キャリアだってことは確認できたんだし、大きな収穫よね」
 満面の笑みを浮かべる恵子に、遼司は今直ぐにでも香奈の家に避難したい気分だった。
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