第六章 「ごめん、遅くなった……」


 突然現れた遼司たちに、全ての視線が集中する。武人が人の多さと状況に腰を抜かして尻餅をつく。
 その瞬間、戦場の動きが停止に近い状態になっていた。
 目を白黒させている武人を他所に、遼司は戦いが止まった隙を見逃さず周囲に視線を走らせる。匠が遼司を戦場の中に放り込むのはいつものことだ。もう半ば慣れてしまっている。こういう時に緊張や急激な変化に戸惑わないようになった点だけは親に感謝したいところだった。
 だが、今は何よりも香奈を確認する方が先だ。
 戦場の中央からエノシス側、遠く離れた後方に、遼司は求める存在を見つけた。
「見つけた……!」
 遼司は無意識のうちに両手を握り締めていた。
 長い黒髪は結われたままで、香奈は焦点の合わない瞳でぼんやりと戦場を見つめている。力なく垂れ下がった両手に、いまにも倒れてしまいそうなほど不安定な両脚が、遼司には見えた。
 彼女の身体の至るところに光で幾何学文様が刻まれている。同時に、幾何学文様の光で照らされた香奈の表情に彼女の自我は見えなかった。虚ろな目線と、薄っすらと開いたままの唇に、少しやつれたような頬が見えて。
 周りには香奈が召喚したであろうビジターがエノシスの者たちとは別に布陣を敷いていた。
 鳥のような頭と翼を持った風を操る四足歩行獣グリフォンと、頭部に一本の角を生やし雷を司る翼を持った白馬ユニコーンが香奈の左右に立っている。恐らくは香奈の護衛なのだろう。他のビジターはタイオス側にも半数以上が食い込んでいた。
 翡翠色の翼を生やした巨大な蛇ケツァルコアトルと二体の小型飛竜種であるワイバーンが空からタイオスを見下ろしている。地上では炎で身体が形作られた大男のようなイフリートや、土の巨人ゴーレムがいた。ケルベロスのガルフも、戦列の中に加わっているのが見えた。
 その目が、遼司の存在を認識して表情を苦痛に歪めている。
 この戦いは自分の意思ではないと、何とかしてくれと訴えかけているかのように。
 無性に腹が立って仕方がなかった。遼司の中で、何かが軋むような感じがする。怒りで折れそうになる心を、理性が押し留める。
 ダメだ、違う。
 胸の奥で、自分自身に呟いた。何が違うのかも解らないまま。
「ィィィ――――!」
 細く高い、とても澄んだ音が直ぐ隣から聞こえる。
 全身の毛を逆立てて、ミアが怒りに咆えていた。香奈の異常を悟ったのだ。主であり、友達でもある香奈を傷付けられたことに、ミアが本気で怒っている。
「な、何だ、お前ら!」
 タイオス側のキャリアの誰かがようやく声を放った。
「ミア、今だけは武人に力を貸してくれ……」
 遼司はタイオスの男を無視して、ミアにそう囁きかけた。
 今、この状況を打開するためには全てのものを利用しなければならない。
「香奈のために……!」
 ミアがいつもとは違う目を遼司に向けてくる。
 武人にミアは懐いていない。それでも、武人の力も必要だ。このまま武人を放っておけば標的になることは間違いない。一週間程度とはいえ、匠による特訓を受けた武人なら一人でもそれなりに立ち回ることはできるだろう。
 だが、この場にいる者たちの九割以上は確実にキャリアだ。ビジターを憑依させなければ本領を発揮できない武人一人では危ない。
 ミアの目は、遼司にそれでいいのかと尋ねているかのようだった。
 本当はキャリアとして覚醒し切っていない遼司こそ、危ないのだ。最悪でも、武人は香奈が召喚したビジターを憑依させれば戦力になる。だが、遼司は未だにただの人間に過ぎない。
「最初だけでいいんだ……! 注意を引き付けてくれれば、その間に……!」
 香奈をこの場から助け出せば、状況は変わる。彼女を正気に戻すことができれば、今、この場にいるビジター全てが味方になる。
 逃げ出すことも容易くなるはずだ。
 そのためには、最初の行動が肝心だと遼司は判断した。武人にミアを憑依させて、全員とはいかないまでも可能な限りの注意を逸らす。遼司は隙を突いて香奈の下まで行き、彼女の正気に戻す。
 ミスリルの防御力に半ば頼ることになるが、今はそれしかないように思えた。
 ミアの視線が武人に向く。話を聞いていた武人が喉を鳴らして息を呑み、遼司とミアを見上げる。少しだけ冷ややかな目で武人を見下ろし、ミアは意思を確認するかのように瞳を見据えていた。遼司は、武人には目もくれずに香奈を見つめている。
 武人が手を伸ばした瞬間、全てが動いた。
 ミアが遼司の肩から飛び降りて武人へと真っ直ぐに向かってくる。
 遼司が弾かれたように飛び出して、武人の手の先に光の円陣が浮かび上がる。
 エノシスとタイオスの者たちが目を見張る中で、武人の円陣にミアが分解され、吸い込まれて行く。
「アプリオリか!」
 誰かが叫んだ。
 エノシスでも、タイオスでも無い者たち。
 その多くは二つの組織に属していた者から成る、第三の勢力。エノシスのような欲望のために異界との繋がりを持つことを嫌い、タイオスのように徹底的な排除も好まない。二つの世界が在るのなら、それでいい。肯定も否定もせず、接点ができたのであればあるがままを受け入れる。
 アプリオリ。
 先験的とも、先天的とも訳されながら、どちらも説明するには足りない難解な言葉の名を冠された。それぞれの者たちが考える異界との接し方を否定はしない。ただ、自分たちには自分たちなりの付き合い方がある。エノシスの目的とも、タイオスの理想とも違う、全く別の考えが。
 異界との共存や協調を望む者もいれば、ただエノシスやタイオスのいがみ合いを嫌うだけの者もいる。
 遼司は、正確に言えばアプリオリではない。だが、匠たちはアプリオリに身を置いている。重役とも言える幹部に名を連ねるほどの実力者として、裏の世界では有名だ。
 もし、キャリアとしていずれかの組織に属さねばならないのなら、遼司もアプリオリを選ぶだろう。
 平穏な生活が続けられるのであれば、アウターとの繋がりがあろうとなかろうと気にはしない。
 遼司は戦場が動き出すよりも一足早く、エノシスの側へと飛び込んでいた。
「香奈……!」
 少しずつ近付いてくる香奈の姿に、噛み締めた奥歯が音を立てる。
 香奈は召喚したビジターに対して使役の力を使おうとはしない。意思の疎通という目的以外で使役の力を使うことは滅多に無かった。初めて召喚したビジターを落ち着かせるぐらいにしか使っていない。ミアに接するように、友達感覚で香奈はビジターと接する。
 だから、香奈に召喚されるビジターは自ら進んで彼女の助けとなろうとしてくれるのだ。
 今の香奈は、ビジターに使役の力を使っている。きっと、香奈の意思でもない。
 香奈の全身に浮かび上がる幾何学文様の光は、キャリアによって発動している力だ。だとしたら、香奈は操られているに違いない。
 ならば、探さなければならないのは、香奈を操っている存在だ。そのキャリアさえ止めることができれば、香奈を救うことにもなる。
「……待ってろよ、必ず!」
 遼司は唇を噛んだ。
 周りには、何人かの死体が転がっている。
 エノシスとタイオスの戦いに手加減はない。キャリアの力は本人の意識がある限り使うことができる。だから、この戦いで敵の力を削ぐためには、相手の息の根を止めなければならない。
 被害者の中には、操られた香奈が使役しているビジターによる攻撃で死亡したものもいるだろう。いや、戦闘能力を考えたらビジターによる被害の方が多いかもしれない。
 自分の意思ではない行動によって、意図せぬ戦いをしているビジターのためにも、香奈を助けださなければならないと思う。香奈自身も悲しむから。
「そいつを止めろ!」
 エノシスの誰かが叫んだ。
 目の前に男が飛び出し、掌をかざした。浮かび上がった小さな円陣から瞬時に炎が発射され、遼司へと向かってくる。
 遼司は両腕を水平に身体の前へ出して身を守った。熱気に包まれてはいても、火傷を負うほどではない。盾にした両腕は熱さすら感じてはいなかった。籠手を着けていない部分だけが熱を感じていた。炎がミスリルの籠手によって上下左右に切り裂かれ、遼司を避けていく。腕を左右に払えば、炎を掻き消すこともできた。
 そして、炎を払った時には遼司の間合いに敵が入っている。
 左右に払った両手を引き戻しながら加速をかけて両手で掌底を叩き込む。炎を防がれて驚愕に目を見張る男の腹に遼司の掌が減り込み、身体をくの字に曲げて吹き飛んだ。
 足を止めず、遼司は押し倒した男を無視して香奈の下へと真っ直ぐに突き進む。
 横から前方へと回り込むように動いた男がナイフを突き出す。遼司は突き込まれるナイフへ手を伸ばし、人差し指と中指で挟み取った。横に払うようにしてナイフを奪い、その動作で身体を水平に回転させて柄をこめかみに叩き付ける。盛大に吹き飛ばされて昏倒する男の脇をすり抜けて、遼司の真横から攻撃しようと身構える女にナイフを放つ。力を使おうと突き出した右手にナイフが深々と突き刺さり、女が悲鳴をあげる。
 背後からの攻撃は、全て武人に任せていた。
 遼司が真っ直ぐに香奈へ向かっているのを見て取り、周りのビジターたちも動いている。特に、タイオスの陣形に食い込んでいたケルベロスとワイバーンの一体が遼司を止めるべく動き出していた。もちろん、ミスリルの籠手があるからといっても、まともに戦って勝てる相手ではない。
 だから、ビジターは武人に任せる。
「おい遼司! これでいいのか!」
 武人の声に、一瞬だけ背後へ視線を向ける。
 両手を前にかざして、ケルベロスの突撃を武人が受け止めていた。ケルベロスの体格や質量を考えれば直に受け止めるのは無理がある。だが、今の武人にはミアが憑依している。
 ミアの持つ特殊能力は、全てを反射する力だ。完全反射(リフレクション)と呼ばれる力は、有効範囲内に接触してきたあらゆるものを跳ね返す力を持っている。武人はミアの力を前面に押し出すように発動し、ケルベロスの突進を跳ね返していた。運動エネルギーを反射することでケルベロスを押し留めているのだ。
「判らないことはミアに聞け!」
 叫び返した時には、遼司は既に視線を香奈へ戻していた。
 憑依させている間なら、ミアともある程度の意思疎通ができるはずだ。ケルベロスを押さえることも、ミアから提案されたものに違いない。
 キャリアだけなら、遼司の卓越した身体能力とミスリルの籠手を駆使すればどうにかできる。だが、ビジターは別だ。いくら抵抗しているとはいえ、香奈の使役能力を打ち破れるビジターはいない。香奈を通して操られていて、本意でないとしても攻撃の手は緩まないだろう。
 ビジターはミアが憑依した武人に頼むのが最適だと遼司は判断していた。何より、ミアが武人にどう動けばいいか伝えてくれるはずだ。
「何だかミアの態度が冷たいぞ!」
「そういう話は後にしろ!」
 間抜けな質問に遼司は半ば呆れながら返しつつ、向けられる力を籠手で弾きながら進んだ。
 どうにか、ワイバーンとケルベロスは武人に押さえてもらえそうだ。
 エノシスとしても全てのビジターを引き戻す訳にはいかない。タイオスの殲滅も彼らの目的の一つに違いないからだ。それに、まだ香奈の左右にはユニコーンとグリフォンがいる。護衛としては十分過ぎる戦力だった。
「操っている奴はどこだ……!」
 横合いからの拳を下方から手の甲で弾きながら手首を捻り、腕を螺旋状に絡ませて掴む。それを振り向きながら左から右へと放り投げ、反対の側面から向かって来ていた雷撃への盾にする。
 絶叫を上げる男にそのまま回し蹴りを打ち込んで突き飛ばし、香奈へ向き直る。
 グリフォンが動き、突風が周囲に吹き荒れた。
「っく!」
 両手で顔を庇ったところへ、濃密な風の刃が襲い掛かる。空間が歪んで見えるほどの大気圧が鋭く集約されて飛来する。
 一瞬の斬撃を、遼司は勘で振り払った。急所を庇っていた腕を下ろして、両膝を掴む。膝から腿をミスリルの籠手で守り、前面から吹き付けた風の刃を弾いた。ミスリルで身を守っている場所へ攻撃するよりも、脚を狙う方が文字通り足止めになる。最初は顔と胸を庇うように見せて脚を狙わせる策だ。
 もちろん、脚を狙われたらまずいとも思っていたが。
「おい、無茶だぞ!」
 武人が叫ぶ。切羽詰った声だ。
「解ってる!」
 叫び返して、遼司は前へと一歩進んだ。
 恐らく、親たちの加勢はまだ期待できないだろう。タイオスの方に話をつける必要があるのなら、加勢できるとしても時間がかかるということだ。遼司を戦場に放り込むことで時間稼ぎにするというのも目的だろう。だが、何よりも香奈がエノシスに連れ去られる、もしくはタイオスに狙われた際の対処という意味合いも強い。
 たとえ香奈がエノシスでなくとも、タイオスからすれば敵に違いはない。香奈はタイオスに属しているわけでもないのだから。
 タイオスが香奈を殺さないとも言い切れない。この状況なら、ビジターの存在を戦場から排除するために香奈を狙う可能性も決して少なくはないのだ。
 無茶なことだとは重々承知している。
 本格的な殲滅戦の中を、遼司と武人だけで乗り切れるはずもない。遼司にその気がなくとも、相手は殺しにかかってくるのだから。
「遼司! そっちに……!」
 武人の声に振り返りながら、右腕を水平にかざして防御の構えを取った。
 ワイバーンの鉤爪が遼司の腕を捉える。爪攻撃を防がれると見るや、ワイバーンは腕を掴んで舞い上がり、勢いのまま遼司を放り投げた。
「解ってる……!」
 ワイバーンの目を見て、遼司は呟く。お前の意思ではないから気にするなと、目で告げて。
 身体を百八十度捻りながら、下方からユニコーンが角から打ち出す雷撃を両腕で受け止めた。左右に振り払って雷を弾いたところへ、グリフォンの放った突風が遼司を再び打ち上げた。
 鉄板を全身に叩き付けたかのような衝撃に、意識が飛びそうになる。
「つぅ……!」
 三階建ての建物の屋上ぐらいの高さから、地上が見下ろせた。タイオスがエノシスの側に食い込み始めている。武人はエノシスの領域に三分の一ほど入り込んだ場所にいた。何体かのビジターが遼司たちの方へ向いたことでタイオスの負担が減っているのだ。
 香奈よりも後方、百メートルほど離れた場所に戦場の中で唯一動いていない人影が見えた。黒いローブに身を包み、フードで顔を隠している。
「あいつか!」
 打ち上げられたことは偶然でも、香奈を操っているキャリアだと思える存在を見つけられたのは収穫だ。ただ、このまま落下するのもまずい。
「うおおおっ!」
 武人の咆哮と共に、ケルベロスが吹き飛ばされた。
 ミアの力でケルベロスを反射させて受け流している。同時に、遼司へ向かう攻撃も逸らしている。グリフォンの向きを強引に反転させ、ユニコーンの雷撃を敵の密集している場所へ反射させていた。
 そして、反射させ続けて運んだケルベロスが、遼司の真下で止まった。
 遼司はケルベロスの背中、毛皮の上に落下したいた。一瞬の柔らかな感触と、ケルベロスの筋肉が持つ弾力が遼司の身体を軽く浮き上がらせる。
 無理矢理ではあったが、助かった。
「頼むっ!」
 毛皮から離れると共に、遼司は香奈の後方を指差して叫んでいた。
 ミアが遼司の意図を汲み取り、武人に伝える。武人は、ミアの指示で力を展開し、遼司を指差された方向へと打ち出すように反射させていた。
 高速でグリフォンとユニコーンの間、香奈の真上を通過して、遼司は目標まで二十メートルほどの地点へ頭から突っ込んだ。両手を着きながら力に逆らわず前転し、衝撃を受け流しながら勢いを利用して起き上がる。
「香奈に何をしたぁーっ!」
 立ち上がることさえもどかしく、遼司は叫びながら地を蹴った。
 右の拳を固めて、左手で相手を捕らえようとする。
「遼司っ!」
 武人の言葉に振り向いて、遼司は反射的に振るっていた右腕を止めた。
 操られた香奈が目の前まで迫っていた。突き込まれる貫手を、咄嗟に顔を逸らしてかわす。香奈の爪が頬を掠めて、浅く裂けた。僅かに血が舞う。
「ほう、避けるか」
 背後から囁くような感心したような女の声が聞こえた。やはり、操っている人物はこいつに間違いない。
 確信したのはいいが、まず香奈をどうにかしなければ敵に向き合うことすらできない。香奈の身体能力も並の人間より高いレベルにある。下手をしたら、体術だけならこの戦場で遼司並に高い人物だ。
 操られているとはいえ、行動速度を考えたら油断はできない。
 かと言って、香奈に攻撃することも遼司にはできなかった。香奈を助けにここまで来たのだ。彼女に攻撃したとしても、操られている香奈は受けた傷を無視して攻撃してくる可能性もある。
 なら、傷付けたくはない。もとより香奈を攻撃する意思などなかったが。
 香奈の移動に従って、ユニコーンとグリフォンが近付いてくる。武人がどうにか引き止めようとしてくれているものの、ビジターの数が多過ぎた。
 ケツァルコアトルとゴーレム、イフリートはタイオスと交戦を続けているが、残りは武人に対して攻撃を向けている。遼司との合流を防ごうとしているのだ。代わりに、かなりの数のタイオス陣営がエノシスの側に流れ込んで来ている。
「この……っ!」 
 背後にいるキャリアさえ倒せれば香奈を助け出せるはずだ。だが、そのリーダー格に手が届かない。
 周りには操られた香奈と、彼女の持つ力を通して操られたビジターがいる。彼らの存在はこの場では大きな戦力となっていた。タイオスのキャリアたちは身を寄せ合い、一体のビジターに対して複数で対処することで抵抗している。防御に秀でたキャリアは仲間を守る盾となり、他の者たちは攻撃に力を注ぐ。統制の取れたチームプレーでビジターを押しやりながらエノシスの陣営へと食い込んできていた。
 ビジターの受けているダメージも少なくは無い。香奈の召喚したビジターたちを助けるためにも、時間をかけてはいられない。
 それでも、操られた香奈は的確に遼司を追ってくる。
 武人も、少しずつ押されている。ミアを憑依させて力を借りているとしても、防御に特化した力では決定打になりえない。
 昼に見た時よりもやつれた頬と、虚ろな瞳が遼司の心を逆撫でる。
 焦るな、落ち着け。自分自身に言い聞かせても、握り締めた拳が震える。
 無力さが身に沁みる。
 武人にミアを憑依するよう指示を出しておいて、自分は単身切り込んだ。キャリアとはいえ生身の武人より、匠に鍛え上げられた遼司の方がこの場では強い。事実、もし武人がミアを憑依していなかったら、ここまでもたなかっただろう。遼司は無事でも、武人が無傷では済まない。
 何のためにここまで来たのだろうか。
 香奈を助けるためだ。答えは決まっている。
 なのに。
 何もできていないじゃないか。
 両親に、大智や鏡子に任せたとしたら、遼司よりも上手く立ち回れることだろう。彼らはキャリアであると同時に、遼司よりも強いのだから。
 何故、ここまでついてきたのだろう。
 待っているだけでも良かったのではないか。
「違う……!」
 小さく、意図しない呟きが口の端から漏れた。
 自分が行かなければならないと、否、行きたいと思ったのだ。放っておけば自分よりも遥かに安全に香奈を助け出すであろう親たちを押し退けてでも、ここまで来なければならなかった。
 香奈の手刀を横合いから払うようにして力の向きを逸らす。同時に、手首を掴んで引き寄せた。少しだけ身体を回転させて香奈の位置を、自分を中心に百八十度反対側へと送る。
 香奈を挟んだ向かい側にリーダー格を捉えて、遼司は地面を蹴った。香奈が回し蹴りを放つ。遼司は蹴りの力に逆らわず、両手で受け止めながら脚を突き飛ばすようにして加速を加えて、香奈とすれ違い後方へ抜けた。まるで、蹴りを喰らったかのように見せて。リーダー格には背を向ける形となっていたが、位置は掴んでいる。
 感覚で距離を測り、振り向きざまに裏拳を放った。
「ちっ……!」
 後退するリーダー格のフードに拳が引っ掛かり、裂けた。
 鋭い目付きをした二十代後半の女性だった。フードが裂けて舞い飛び、セミロングの金髪と顔が露わになる。本来なら青であろう瞳に、光で描かれた円陣が刻まれている。
「お前、あの時の……!」
 武人が叫んだ。
「遼司! 俺にビジターを憑依させたのはそいつだ!」
 女性が再び舌打ちする。左腕で顔の下半分を隠すようにして、遼司から距離を取っていた。
「こうも上手くいかないとは……!」
 女性が悔しげに呟くが、まだ瞳は力を失っていない。
 背後から聞こえた足音に振り返り、遼司は香奈の突きをかわした。だが、横へ跳んで回避した遼司を、グリフォンの放った突風が吹き飛ばす。
 十メートル近い距離を吹き飛ばされて、遼司は地面に転がった。どうにか受身を取り、直ぐに横へと飛び込むように転がる。倒れていた場所にユニコーンの放った雷撃が突き刺さり、空気を裂く音を轟かせた。
 ユニコーンとグリフォンの放つ攻撃に、遼司は身動きを封じられていた。立ち上がろうとすれば強風で吹き飛ばされ、一瞬でも気を抜けば雷撃に貫かれる。ユニコーンの攻撃をミスリルの籠手で防がなければ、致命傷になる。代わりに、グリフォンの攻撃を凌ぎ切れない。突風の中に混じる圧縮空気の刃が、遼司の身体を掠めていく。地面を右に左に転がりながら致命傷だけは避けているが、このままでは近付くことすらままならない。
 見れば、リーダー格の口元に勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
 虚ろな香奈の視線と、苦しげに歪められたビジターの目が、遼司を見つめている。
 何がしたかったのだろうか。
 遼司は、自問していた。
 浅く裂けた頬から赤い雫が宙を舞う。砂埃が吹き荒れ、雷撃が爆ぜる。地面を転がりながら、ミスリルでどうにか直撃を防いでいる。
 疑問が浮かんで来るばかりで、答えが見えない。
 唇を噛み締めて、拳をきつく握り締めて、それでも手が届かない。この場にいる、全てのビジターが遼司をあてにしているというのに。香奈の呼び出したビジターたちが、遼司に助けを求めている。
 けれど、香奈と、彼女のビジター複数を相手に遼司が勝てるはずがない。エノシスのリーダー格は良く解っている。遼司が、香奈とビジターを攻撃できないと見抜いて、逆手に取っている。
 遼司にしてみれば、卑劣極まりない戦い方だ。しかし、タイオスの勢力もいる現状を考えれば利用できる要素は利用すべきでもある。決して間違った戦い方ではない。
「くそっ……!」
 どうすればいい、そんな弱音を噛み殺して、遼司は吹き荒ぶ風に逆らって顔を上げる。
 髪が乱れ、服の裾がばたばたと音を立てている。舞い上がった土煙で口の中が砂っぽい。服も汚れに塗れていた。籠手を嵌めている両腕を除いて、体中のあちこちに掠り傷がある。まだ重傷を負っていないのが奇跡的だ。
 疲労の色が見える香奈の顔に、遼司は奥歯を噛み締める。
「俺は……!」
 どうして、ここまで来たかったのだろう。
 一瞬の疑問が、目に飛び込んできた光景に弾けて消えた。
 香奈の後ろ、あと少しの距離に、タイオス側の男の姿があった。手をかざし、円陣を浮かび上がらせて、香奈を狙っている。
 ユニコーンとグリフォンは香奈の前に出て、遼司に向いている。香奈を操っている女性リーダーも、タイオスの男に気付いていない。
 心臓が、大きく跳ねた。
 遼司の中で、何かが爆ぜた。
 身体の奥底に、隅の方に、昔からずっと押さえ付けられていたような何かが、破裂したような気がした。圧縮され続けた空気が、枷を外されて爆発したときのように。
 誰かが、助けて、と呟いた気がした。遠い記憶の中で。
「やめろぉぉぉぉぉおおおおお――――!」
 腹の底から絶叫が迸る。
 真っ直ぐに伸ばした腕から、光が弾けた。籠手に包まれた遼司の腕に、一瞬で幾何学文様が浮かび上がり、防具の隙間から光を覗かせる。
 弾丸のように、弾き出された光が戦場を突き抜ける。遼司の腕を伸ばすように、光は一直線に香奈へと向かう。
 だが、香奈の脇をすり抜けて、光の腕が掴んだのはタイオスの腕だった。力を放とうとする男の腕を掴んで、その腕に感じる力を断ち切るように、遼司は自分の手を握り締めた。光の手が男の腕を圧し折り、円陣すらも掻き消した。
 男が驚愕に目を見開く。
 既に、遼司は駆け出していた。
 握り締めた拳から、肩に至るまでの肌に、光で描かれた幾何学文様が浮かび上がっている。遼司には、文様がまるで血管のように脈動して感じられた。遼司自身のバイオリズムを刻むかのように、肩から指先へと文様の道筋に従って熱量が走り抜けていく。
 初めて力が使えた時とは違う、確かな感覚を、遼司は掴んでいた。
 伸ばした腕から、光が放たれる。
「香奈ぁーっ!」
 遼司の腕を延長するその光が、香奈へと伸びる。
 ユニコーンとグリフォンが力を振るった。
 跳ね上げた左腕に熱が走り、幾何学文様が脈打つように光を放つ。周囲に散った光の粒子が輝いて、風と雷撃を掻き消した。
「なんだと……!」
 リーダー格の女が驚愕に声を上げる。
 伸ばした腕を延長する光の手が、香奈に触れて、弾け飛んだ。周囲に飛散した光は意思を持つかのように再び集まり、香奈の身体を包み込む。彼女の身体を拘束するように刻み付けられていた幾何学文様が、遼司の光によって掻き消されていった。
 瞬間、全てのビジターが動きを止めた。
 かと思うと、武人と向き合っていたケルベロスやワイバーンが急に反転し、エノシスへと攻撃を始めた。
 香奈の身体が傾いだ。駆けつけた遼司が香奈を抱き止める。
「ごめん、遅くなった……」
 香奈だけではない、彼女が呼び出した全てのビジターに対して遼司は詫びた。香奈は気を失っていた。これだけのビジターを召喚し、絶えず使役させられていたのだ。疲労も限界だったに違いない。
 ユニコーンが遼司の傍に寄り添い、グリフォンが咆える。遼司と武人を避けるように嵐が吹き荒れた。エノシスもタイオスも関係なく、グリフォンの風が敵対する者たちを薙ぎ払う。
 肩に何かが飛び付いた。
「ミア……!」
 武人が憑依を解除したのだろうか。ミアが遼司の肩から香奈に視線を向けている。安心したように目を細めてから、鋭い目付きで敵を睨み付けた。即ち、リーダー格の女性を。
「俺にあの悪魔を憑依させたのはあいつだ……」
 遼司の隣に追いついた武人が苛立ちを隠さずに告げた。
 グリフォンの巻き起こした風に吹き飛ばされ、女性は尻餅をついている。
 状況は一変していた。遼司が香奈にかけられていた力を消したことで、ビジターたちが思いのままに動いている。遼司たちを守るように、エノシスもタイオスも区別無く、敵対しようとする者たちに応戦していた。
「どういうことだ?」
「あいつに出会ってから数日間の記憶が曖昧なんだよ」
 遼司の問いに、武人が答える。
 武人が式守高校に転入する数日前、彼はエノシスと接触していたのだ。もちろん、キャリアやアウターについてまだ何も知らなかった武人には相手がエノシスだとは判らなかっただろう。判っていたとしても、どうしようもない。
 恐らく、武人が憑依系キャリアであることを調べたエノシスが接触したのだ。
「役に立たないどころか、奴らの側に寝返るとは我々も思ってなかったよ……」
 立ち上がりながら、女性が呟いた。
「まさか……」
 遼司はリーダー格の女性に視線を向ける。
 彼女が武人に接触したのは、香奈を狙ってのことだったのだ。だとすれば、悪魔に憑依された武人の意識が香奈に向けられていたのも頷ける。恐らくは、エノシスの召喚能力を持つキャリアに悪魔を召喚させて指示を与えたのだ。武人の力を利用して、表向きは生徒として高校の中に紛れ込ませ、香奈を攫わせようとしていたに違いない。エノシスが香奈を狙っていると知っている匠たちの目を欺くために、武人の記憶まで操作して。
 もっとも、武人を間接的に操って香奈を奪おうとする作戦も失敗に終わったが。
「あんた、どこで力を使うんだ?」
 香奈をユニコーンの背中に預けてゆっくりと立ち上がり、遼司は問い掛けた。
「目、だよな?」
 静かな口調と酷く冷たい目に、リーダー格の女性が気圧されて一歩後退る。隣にいる武人でさえ、遼司の目に息を呑んでいた。
 遼司は右手を伸ばす。光が迸り、一瞬にして腕を延長して対象を掴む。リーダー格の女性の頭が光の手によって掴まれていた。それは、武人と戦って初めて使った力よりも克明に、遼司の手の形を再現していた。
「な、なにを――!」
 言葉が途切れ、耳を覆いたくなるような悲鳴が辺りに響き渡った。
 光に包まれた女性の頬を、赤い血が伝う。遼司が光る手を放した直後、両目を潰された女性が顔を押さえてその場に蹲った。
「我が子ながら、甘いな」
 溜め息混じりの声が聞こえた刹那、女性の姿が消えていた。
 瞬きした直後には、匠が立っていた。その背後、足元には事切れた女性の亡骸が転がっている。隣で武人が喉を鳴らしていた。
「仕方ないわよ、私に似て優しいんだから」
 匠の隣で、恵子が肩を竦める。
 確かに、遼司は相手の命までは取ろうと思わなかった。だが、賢い選択とは言えない。たとえここで目を潰して力を奪っても、キャリアの中には治療のできる者もいる。回復されてしまったら、同じようなことが起きないとも言えない。少なくとも、遼司に対する恨みは持つだろう。ここぞという時に殺すという選択に躊躇する可能性も踏まえたら、復讐を考える可能性は高い。
 遼司が生まれる前からアウターと関わりがあった匠たちは、考え方がシビアだ。遼司ほど甘くない。覚悟も決まり、心が据わっている。
「お開きにしましょうね〜」
 ふわっとした声と共に、鏡子が微笑む。
 直後、エノシスとタイオスの戦闘の間に光の壁が現れた。壁はあらゆるものを跳ね返し、相手に攻撃しようとしていた者たちへその力を反射させている。どれ一つとして例外なく、自身に跳ね返された力を浴びて次々と戦士が倒れていく。
「遅いよ……」
 遼司は溜め息をついた。
「まぁ、そういうな。一応、話はついたからな」
 苦笑いを浮かべて、匠が言った。
「各員、アプリオリへの攻撃はするな! エノシス殲滅の後は支持を待て!」
 タイオスの勢力の後方から声が上がった。
 最初見た時にはいなかった人物だ。匠が連れて来たということだろう。なら、彼がこの場の指揮官ということか。
 やや面長で厳つい顔をした、堅物そうな男だった。目は細く、えらの張った長方形と呼ぶに相応しい顔をしている。簡単に言うなら、モアイ像だろうか。
 遼司はユニコーンの背中で眠る香奈に目を向けて、息を吐いた。
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