第六章




「そんな馬鹿な!」
 ガタッ、と座っていた椅子を蹴散らして、セバスチャン・シェーファーの呻きを含んだ叫び声が、こだました。
 その声に、ビクリ、と反応した由梨花は、俯けていた視線を上げると、声の方向へと顔を向ける。
(な、なに……? なんなの?)
 キョロキョロと頭を左右に振って、困惑した表情をそこかしこに回した後で、少し離れたテントに群がる人々が見えた。モニターや通信機器が雑多に置かれた その場所は、まるで電磁波に侵されてしまいそうな禍々しい雰囲気を発していたが、中心に居るシェーファーの顔色は怒りと焦りで真っ赤になっているのがここ からでも了解できた。
 どうしたのだろうか、と思う。空トラックの荷台に腰掛けさせられていた由梨花が、不振な目をそこに向けているも、状況はよく分からない。モニターを睨んでいるらしき人だかりだが、先程から彼らが口々に捲くし立てる怒声は全て、異国の言葉。由梨花には内容が掴めないのだ。
 由梨花が彼らを見詰めていると、ふと、右の腕に体温を感じた。右隣に座っていた杏子が、不安そうな顔で、右腕を由梨花のそれに絡ませてきたのだ。心配そうに抱きついてきた少女の、その今にも泣き出しそうな表情を見て、由梨花はフリーズ状態だった頭を再稼動させる。
 そっ、と杏子に微笑むと、素早く目線を左右に振る。彼女たちの見張りに付いていた2人の兵士もが、何事かとシェーファーたちのテントに見入っているのが分かった。
(逃げるなら――今しかない……!)
 そう、直感した。今までも脱走の機会を窺って周囲を警戒していたが、今ほど彼女たちへの注意が逸らされている状況は無い。なにが起こったのか知らないが、このチャンスを活用しない訳にはいかないのだ。
 だから、逃げるよ、と杏子に小さく囁きかけようとした時だ。
 血相を変えたシェーファーが、こちらを振り返った。
「おい、その娘たちを連れて来い!」
 何事かを叫んだ瞬間、兵士たちがハッとしたようにこちらを振り向き、由梨花の腕を掴んでくる。
(あっ……!)
 チャンスが、ポロリ、と手から滑り落ちた。
 もう一人の兵士は杏子の右腕を掴んでいる。2人を左右から拘束して、前に引っ張ってきた。テントまで連れて行こうとしているのだ、と分かった。
「やっ、ちょっと、……離してよ!」
 身体を捻って男の手から逃れようとするも、ガッチリと掴んで離さない。兵士たちにとっては微弱な抵抗を続けつつも、結局はシェーファーの元へと、引っ立てられるように連行されてしまう。
 ギョロリ、と睨むように、シェーファーの血走った瞳がこちらへと向かう。その威圧感に心が竦み、由梨花は言いようの無い不安感に包まれてしまった。
「貴様ら、こいつに見覚えがあるか!?」
 イントネーションに大仰な訛りがあるが、シェーファーが発したのは英語だった。完全ではないが理解のできる言語が出てきたことに驚いて、由梨花の身体は硬直してしまう。
「見覚えはないかと聞いているんだ!」
 シェーファーが指し示したのは、モニター上で静止した画面だった。赤外線式の暗視カメラだろうか、白と黒のみによって彩られたその映像には、公園の日除けが付いたらしいベンチと、一人の少年が明瞭に映し出されている。
 そう――少年、だった。それも、由梨花にとって、とても親しい間柄にある存在。
(お、お兄ちゃん……!?)
 全身が雷に打たれたかのようだ、そんな衝撃が由梨花の中を駆け巡る。鋭利な視線に引き締まった表情は、普段の彼からは想像もできないような冷たく殺気に満ちたものだが、見間違えるはずは無い。映像の中に映っている人物は、紛れもなく中村 聖杜その人である。
「な、なん、で?」
 疑問が口からついて出ていた。右手に握った杏子の掌が、キュッ、と力を込めたのも分からなかった。それほど彼女の思考は混乱しているのだ。
「おい、聞いてるのか! ワシの質問に答えろ!」
 シェーファーの粗野な声すらも、数瞬、頭の中に入ってはこなかった。パンッ、頬を張られた感触がして、視線が曲がって痛みが理解できるようになって、ようやく由梨花の正気が帰ってくる。
 男が、もう一度、同じ質問をぶつけてきた。
「こ、この人が、どうしたって、いうの?」
 どもったが、何とかそう、返していた。拙い英語ながらもシェーファーには通じたらしい。質問に質問が返されたことに青筋を浮かべて怒りを発散した男はしかし、次の瞬間には薄ら笑いを浮かべて、後ろを振り返る。
「再生しろ」
 映像が動き出す。それと同時に、シェーファーが由梨花へと振り向いた。
「教えてやろう。こいつはな、二時間ほど前にこの山に入り込んだネズミだよ! 何のつもりか知らんが、我々の築いた防衛線を突破して、この頂上へと向かってきてるんだ!」
(なっ……?)
 由梨花は言葉を失った。というよりも、男の言葉が理解できなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。内容を聞き間違えたのかとすら思った。
「今さっき映像が届いた! これはつい数分前の画像だぞ、こいつがこの場に居た全員を殺して見せたんだ!」
 その通りだった。映像の中で、聖杜が腕を振るった瞬間、兵士と思しき人影が出血して倒れている。クリアな映像の中で、返り血を浴びた聖杜がさらに他の人間に向かって刃を振り上げる姿が、まだまだ続いていた。
 由梨花の見開かれた瞳に、我知らず、涙が浮かぶ。
(そんな……そんな――っ!?)
 この、現実離れした状況の中で、より現実感の無い映像が、目の前で流されている。その余りにも信じられないような光景に、由梨花の頭は、スパーク寸前だった。
「こいつが何故、我々に楯突くのか? それも一人で、だ! 身形からして子供、こんなのが実力部隊のコマンドーだとは思えん。ならコイツがこんなことをしている理由は、お前たちが絡んでいるとしか思えんのだよ!」
 シェーファーの言葉は続いていたが、由梨花の頭の中には入ってこなかった。ただ、その信じられない――いや、信じたくない映像だけが、視覚を通して由梨花の脳に焼き付いていく。
 自然、由梨花の手が彼女の口を押さえていた。溢れ出る涙が指先から手の甲へと流れ落ち、歪んだ視界はしかし、聖杜の姿を捉え続ける。
 ギュッ、と、由梨花の身体が抱き締められた。杏子が彼女の腰に手を回している。それに視線を向けると、彼女はニッコリと、笑っていた。
「また……聖杜くんが、助けてくれる、よ。あの時と一緒。あの時みたいに、私たちを、助けてくれる」
 無邪気な微笑を湛えた杏子の姿は、由梨花の目に、強烈なインパクトを残す。
(あんず、ちゃん……?)
 解らなかった。もう、何もかもが、解らなかった。ただただ困惑することしかできない由梨花が、凍りついたように杏子の笑顔に魅入られて、シェーファーの表情がさらに怒りを追加させたことも気付かず、ただ映像だけが流れていく。
 モニターの中で――
 唐突にカメラからの受信が途絶え、画面に砂嵐が満ちる。だがその横のモニターが再生されると、空中アングルのそれが、崩れ行く崖と、隅に映り込んだヘリ コプターの映像が流れた。そして、隅に映っていたヘリコプターが左右にぶれ始めると、そちらへと焦点が切り替わる。その直後にヘリから黒い影が飛び出すと 同時に、ヘリが急激に高度を落とし始めると――
 そこで一旦、映像がストップされる。
 ガタン!
 突如、響いたその音に、全員が驚いて首をそちらに向けた。
「冗談じゃねぇぞ!」
 声を張り上げたのは、くすんだブロンドの大柄な白人だった。確か仲間に、シンプリシオ、と呼ばれていた人物だ。
 立ち上がった拍子に椅子を倒したのだろう、パイプが組み合わされたそれが地面に倒れ伏している。シンプリシオの焦ったような蒼白の表情に、その場の誰もが疑問を持った。
「どうしたんだ?」
 ウィルソンの落ち着いた声が掛かる。
「冗談じゃねぇっつったんだ! あんな化け物を相手に戦えって言うのかよ!?」
 シンプリシオの声は恐怖に彩られていた。その余りの焦りように、シェーファーが食いつく。
「知ってるのか、この男を?」
「ああ知ってるよ! こいつは悪魔だ! 『ハインドの悪魔』だよ!」
『なっ……』
 ザワッ、と周囲の男たちにどよめきが走った。呆気にとられている、と言っても過言ではないほど、空気が揺れたのだ。
「お前らも知ってるだろ!? ヤツが出てきたのは一度だけ、2年前の9月14日、ウラジオストクの港だけ! 見てねぇ奴らは知らねぇだろうが、俺はその現場で、アイツの力を見てるんだよ!」
 まるで全員に訴えかけるように、シンプリシオは声を張り上げる。
 ――2年前、ロシア極東のウラジオストク港で深夜に闇取引が行われていたのだ。麻薬やキャビア、希少動物から核関連物質まで、ありとあらゆる違法商品が 港に運び出され、マーケットで値が付いた順から船で各地に移送される。ロシア・マフィアが主催し、世界各地域の裏社会を取り仕切る男たちが参加した闇の見 本市に、主催者側の警護としてシンプリシオも居合わせていたと言うのだ。
「あの日、闇市場が開かれると知ったCIAは、よりにもよって最悪のエージェントを送ってきやがった……『バトレニ』とその仲間2人、たった3人で港を制圧しやがったんだ!」
 ――劣勢を知ったロシア・マフィアが現場に投入したのが、旧ソ連で開発された強襲攻撃ヘリ、Mi−24『ハインドD』。兵員輸送能力と対地攻撃能力の二つを併せ持つ空飛ぶ戦車が投入され、形成は逆転したかに見えた。
「チタン合金に覆われた頑強な装甲で、RPGもスティンガーも耐えてみせるあのハインドDを、あのガキが潰して見せたんだ! 俺たちの目の前で! 墜落して燃え盛る機体を前に、あんな子供が、俺たちの何倍もデカイ本物の悪魔に見えた……!」
 シンプリシオの顔面は青白く、ブルブルと全身が震えていた。その時の衝撃を思い出しているのだろうか、彼の目は何処と無く、焦点が合っていなかった。
「とにかく、これで分かっただろう!? あんな怪物と戦うなんて、分が悪すぎる! ここは諦めて撤退した方が良い!」
 絶叫に近いシンプリシオの訴えかけに、その場の全員が、水を打ったように静まり返っている。その中で額から大粒の汗を流したシンプリシオ本人の、腹の底から声を絞り出したことによる、荒い息遣いだけが響いていた。
 そっと、シェーファーが、口を開く。
「だが……なぜ、映像の中のこいつが『ハインドの悪魔』だと、わかるんだ?」
 カラカラに渇いたような声だった。
「同じ、なんだよ」
 シンプリシオの声は、すでに嗄れてガラガラだった。
「ハインドを落とした時も同じだった……こいつは銃もミサイルも使わずに、空中のヘリに取り付いて、破壊してるんだ! そんな芸当のできるヤツは『ハインドの悪魔』しかいねぇ! それに、俺はヤツの顔を見てる! あどけねぇ顔で人を斬る姿は、アイツそのものだ!」
 シンプリシオの気迫に圧されるようにして、シェーファーの表情に怯えが走った。硬直したその場の空気を見回すようにシンプリシオが首を回し、ふぅ、と息を吐いて振り返る。
「とにかく、俺はこの仕事を下りるぜ。もう悪魔の前に立つのはゴメンだ。お前らも、悪いことはいわねぇから帰ったほうが良い」
 そう言って、彼は歩き出そうと足を出す。誰もが呆然としてシンプリシオの背中を見詰めていた。由梨花もまた、彼の言葉の全てを理解した訳ではないが、その内容に混乱を深めて、事態に付いていけない状態だった。
「待てよ」
 シンプリシオの足が、三歩ほどで停止する。彼の横には、椅子に腰掛けたラテン系の男。マルコが腕を組んで、白人の精悍な顔付きを見詰めていた。
「大層な演説ぶっこんどいて、自分自身はオメオメ退散か? んな事が許されると思ってんのかね」
「ああ、俺は本気だ。マルコ、お前だって命が惜しけりゃ、アイツに戦いを挑むなんて考えはよせ」
「タッハハ。お前、ホントに怖気づいてんのな。心配すんな、アイツも『フープス』だろうが、どんな力を持ってるのか知らんが俺たちにゃ敵わない」
「そうだとしても……もう、俺は『ハインドの悪魔』の前に立つ勇気は無い。もう闘争心が折られてるんだ、悪いが辞退させてもらう」
 ふい、とシンプリシオがマルコから視線を外し。
 マルコの瞳が、鋭利な輝きを帯びた。
 ゴッ!
 瞬間、シンプリシオの巨体が炎に包み込まれる。
「う、ゴォォォォォォオッ!?」
 何が起こったのかわからない、そんな響きを帯びた叫び声が、シンプリシオの口から発せられた。口を開けた拍子に炎が喉の奥に入り込み、悲鳴すらもすぐに聞こえなくなる。身体の中まで熱が入り込んだ男は悶え苦しみ、身体中を振り回しながら、無様にもがいて見せた。
 煌々と照る赤い光が炎から発散し、その様子は凄惨その物であった。由梨花はその光景に息を呑み、自然と走る震えに膝がガクガクとして立っていられない。尻餅をついた時、視線の先でシンプリシオが力尽き、膝からくず折れて、動かなくなった。
 肉の焼ける生々しい匂いが充満し、その胃を締め付ける香りに、何人かが嘔吐する。ウエッ、と吐瀉物が地面に撒き散らされる様に、離れた場所に居る由梨花でさえ、胃液が逆流してくるのを感じた。
「やり過ぎだぞ、マルコ」
 ウィルソンの声。仲間が一瞬で奇妙な殺され方をした、その衝撃で全員が茫然自失している中、平然とした顔で彼はマルコを窘めているのだ。
「うるせぇな、お前だったやる気満々だったじゃねぇか。風がユラユラ動いてたぜ」
「殺すつもりは、なかった」
「あー、そうかい」
 面倒そうにウィルソンにそう返したマルコは、次には棒立ちしている者たちを見据えると、
「ま、シンプリシオのことは気の毒だが、ヤツの言ったことぁ忘れるんだな。これから逃げようとするヤツは同じ末路を辿る。……なぁに、『ハインドの悪魔』は、ベントと俺が殺しといてやるよ。だから心配せずに仕事に励めや」
 どこか楽しむような彼の言葉に、ビクリ、と全員が反応する。チラリとシンプリシオの成れの果てに目を向けて、すぐにコクコクと頷いたのだ。
(なに、これ……一体なんなの、これ、いったい……!?)
 背筋を突き抜ける冷たい戦慄。由梨花は怯えきっていた。
 目の前の異常な光景に。
 その異様な現実に。
 ガタガタ、ブルブル、と身体中が震えている。その余りの恐怖に、肩を抱き締めて、泣き濡れた。
(恐いよ……助けて、誰か……! 恐いよ、お兄ちゃん!)
 と――
『だ、れ――?』
 その声は、とても遠く、神秘的ですらあった。
 ハッ、としたように隣を振り仰ぐ。するとそこに、どこか彼方を見た、杏子の姿があったのだ。
「あんず、ちゃん?」
 由梨花の声は届いていない。少女はただ一点を見詰めて、そっと、囁きかける。
『だれ? 私を、呼んでる、の――?』
 淡い光が降り注ぐ。その光の粒子が、杏子の体を包んでいるんだ、と気付いた時に、由梨花は眼を見開いた。発光しているのだ、蒼く、静謐に、弱々しいながらも、杏子は自ら光を放っている。
「ぅおおっ!」
 杏子の異常に気付いたのは由梨花だけではない。歓喜の呻きを響かせて、シェーファーが光る少女を見詰めていた。杏子の視線に笑顔を浮かべ、彼は先程の非常事態を忘れたように、仲間たちを振り返る。
「何してる! 時間だ、行くぞ! 準備するんだ!」
 兵士たちが振り向くと、杏子の神秘的な輝きに皆が目を丸くし、息を呑む。唖然とした表情はしかし、すぐにシェーファーの怒鳴り声で引き戻された。
 慌しく準備をしだした男たちの中で、由梨花だけは、ただ呆然と、杏子の様子を見詰めていた。
 時刻はもう、12時を示していた。



 クーロ・サンチェスが潜んでいるのは、標的が通るであろうルートを睨んだ、およそ100メートルほど距離を置く地点だ。
 朝尾山は麓から中腹にかけてまでは杉林が広がるが、頂上付近には広葉樹が生い茂る濃密な森になっている。頂上付近だけが独自の生態系を持ち、季節によっ てその顔を変えるようになっているのは、ハイキングや登山に来る観光客の目を楽しませる為だ。商業目的に捻じ曲げられた痛々しい自然の姿だが、今はその環 境は、クーロにとって非常に心地いい空間であった。
 茂る下草、広がる木の葉、濃密な緑の匂い。それらが全て、潜伏する者の気配を消してくれる。狙撃手にとって、これ程ありがたい場所は無い。
 アルゼンチン出身のスナイパー、クーロ・サンチェス。裏の世界では名の知れた暗殺者であり、太陽の街ブエノスアイレスの郊外に生まれた彼を、人は『エル・リフレ』と呼ぶ。その名の通り、彼はライフル一挺でこの地位まで上り詰めた男なのだ。
 そんなクーロの今回の標的は、朝尾山に侵入した年端も行かない少年1人。だが連絡班から入った情報によると、その少年が『ハインドの悪魔』の異名を取る凄腕工作員の可能性が高いと分かった。
(ラッキーだ……!)
 クーロはそれを聞いて、ほくそ笑んだ物だ。ハインドの悪魔の噂は、裏社会に生きるものなら誰もが知っている。2年前のウラジオストク、たった一回の襲撃で伝説を残した存在。その男を仕留められるなら、自らもまた、伝説となり得るのである。
「おい、下からの連絡はまだか?」
 クーロは隣の観測兵に尋ねた。長年の部下であり相棒の、フリオだ。
「いえ。この時点で通信が取れないとなると、もう全滅したものと考えられます」
 フリオの言葉に、そうか、と考える。狙撃部隊は3チーム、全員がクーロの部下だが、すでに2チームは任務に失敗したということになる。
「そうか」
 クーロの感想は、それだけだ。歴戦の部下を失ったのは痛いが、それ以上に安心している。ハインドの悪魔はやはり、自分で仕留めておきたいのである。
「隊長、そろそろ目標が来ますよ」
 フリオがモバイル端末の画面に視線を落として、そう呟いた。ロテンから支給されたその端末には、本部の回線を通して、振動探知機や光学探知機の情報が随 時、送られてくるのだ。それによると標的は、一直線に頂上へと向かっている。となると、クーロたちの視線の先を必ず通ることになるのである。
 クーロは銃口付近から伸びる二脚――バイ・ポットで固定してある愛銃のグリップを持ち上げた。オーストリアのステアー社が開発したボルト・アクション・ ライフルSSG69。ぐっ、と肩のポケットにストックを押し当て、左目を軽く閉じて、スコープの視界に全神経を集中させる。
 体勢はうつ伏せ。気配を出さないように注意して、右肘で上半身の体重を支える。
 フリオも自分の単眼鏡を覗き込んだ。スナイパーは1人で行動するわけではない。近代戦争において、狙撃手は観測兵とペアを組み、最高の仕事のために実力を引き出しあう。
「距離……96メートル」
 相棒の声に、スコープのピントを修正した。身長に距離に合わせてメモリを操作し、寸分の狂いも無いことを確認してから、ゆっくりと手を離す。
「風……北西より3メートル弱」
 スコープの視界から、木の葉の揺れや土の舞い方、鳥の飛び立ち。なんでも良いから風の流れを感知し、その強さを計測する。自分の理想とする弾道を決して 逸らしてはならない。例えそよ風であっても、鉛弾の軌道を変化させることはある。想定され得る全ての障害を排除する為に、クーロは左右のメモリも合わせ て、目標地点への狙撃を完璧なものへと変えていく。
「目標と着弾点の距離、50メートル。……40、30、20」
 どんな仕事であろうと、この撃つ直前の緊張感に、胸の早鐘は全身を打つかのように大きくなる。視界が絞れて焦点が凝縮され、グリップを持つ手が汗ばみじっとりと湿る。フォア・ハンドに回された左手をグッと押さえ込み、その集中力をドンドンと高めていく。
「撃て、撃て、撃て――」
 フリオの声が、スゥッ、と頭の中に吸い込まれて、消えた。緊張が次々と昇華されて、昂揚感が徐々に沸き立つのを感じた瞬間、クーロの人差し指がトリガーを引き絞っている。
 ダ――――…ン!
 銃声。焦点が黒い影を捉えた瞬間、7.62×51ミリの308ウィンチェスター弾が空気を焼いて、この空間を飛翔する。発砲の軌跡をゆっくりと目で追いながら、快楽にも似た興奮は、いつも射出後にやって来るのだ。
 が――
 ヒュッ
「っ!」
 消えた。弾丸が虚しく空を切り、何かの木の幹に体を埋める。スコープ内の狭い視界に、飛び散るはずの血液も、倒れるはずの身体さえも無く、ただそこには静寂が戻るだけ。
 くっ……、と呻いて、素早くボルトを手前に引いた。コッキング・レバーを押し込んで再装填。命中精度と頑丈さが売りの単発式ライフル、一発で仕留めねば意味はない。
「どこだ!?」
 激昂が声を押し出していた。答えるべき仲間は、失敗、とだけ呟いて首を左右に回している。こいつも見失っているんだ、と気付いて、焦燥に火が付いた。
 ザッ
 身体を持ち上げようとした時に、耳元で木の葉が揺れて、下草が踏みしめられた。なんだ、と思った瞬間には
もうクーロにはそれ以上、分からなかったのだ。
 痛みも何も、感じなかった。ただ最後に、金属の擦れる甲高い音が空気を裂いて、それで視界が暗転した。


 手前の小銃を持った男は片付けた。聖杜は即座に刃を翻し、もう1人の男へとそれを振り上げる。
「あ、ひゃ……!」
 悲鳴は途中で切れた。首の付け根に食い込んだ刀が男の胸へと下りて、そのまま腋までを斬り裂いている。
 宙に踊った赤い血が、ビシャ、と地に落ちて、葉っぱや草を暗く染めた。倒れ伏した死体を前に、ふぅ、と一つ、息を吐く。
「また、スナイパー、か……」
 ここに来るまでにもう二組、似たような奴らが狙ってきた。全員が一流の狙撃手で、気配を消して確実に目標地点を撃ち抜いてくる。空気に流れる微弱な気が、彼らの殺気を知らせてくれなければ、聖杜は確実に死んでいただろう。
(なんなんだよ、チクショウ!)
 ここまでの人員と、ここまでの装備。ロテンという組織がこんな極東の島国に持ち込んだものは、途方も無いほど強大だ。反政府組織だのテログループだの、そういう範疇を完全に超えている。
 焦りの心。ここまで巨大な存在が、これからどんなことをして行くのか。里の技術を掴んで、それを何に使おうというのか。
 そして、あの大切な2人の女の子は、どんな風に利用されてしまうのだろうか。
「…………っ!」
 ギュッ、と拳を握り締め、奥歯を噛んで、想像に耐える。急がなければ、使命感が聖杜を焦がす。
 額に浮いた大粒の汗を拭い、大きく上下する肩を、無理矢理にでも押さえ込む。キッ、と前方を見据え、聖杜は頂上を目指し、道なき道を走り始めた。
 もう何時間も走り通しで、披露はピークを超えている。だがそれでも向かわねばならない。この身が壊れようと、護らねばならない存在が、そこにいる。
 目的の場所までは、もう、すぐそこなのだ。



 ふらふらと、まるで何かに導かれるようにして。スズキ・アンズが 朝尾山頂上から入り込んでいったのは、小さく細い裏道のような場所だった。
 未整備で土が剥き出しの、人がなんとか2人ほど並んで通れるくらいの道。だが不思議なことに、人の出入りの少なそうなこの道は、下草の茂り方が不自然なほど短い。周囲の木や植物も侵食せず、まるでこの道は神聖な力により形作られているかのような印象さえ受ける。
(こんな怪しい道……なんで気付かなかった?)
 マルコ・シモーネ・チェーザレは、淡い光を放つアンズからシェーファーと護衛の数人分の距離を空けた殿の位置にいながらも、疑問に眼光を鋭くする。
 アンズがこの道を進み始めた時点で、先遣隊の何人かが斥候として先を見てきているはずだ。10人ほどのこの一隊は、保険のためにアンズを前においてゆっ くりと歩んでいるのである。彼の目の前にいる少女はアンズと一緒にいた、ユリカという名の娘だ。彼女は緊張した面持ちで足を進めながら、時々、警戒するよ うに周囲を窺っている。脱出の機会を見定めているのだろう、今までも抵抗の痕跡がある。なかなか見所のある少女だが、アンズと離されたこの状況ではどうし ようもないと考えているのだろう。
 それに先程から様子が変だ。なにか落ち着かないというか、思考に縛られているようでもある。『ハインドの悪魔』の映像を見てからだろうか、その前までの生気が消えているのだ。
(ま、どうでも良いこったけどな)
 マルコは頭を掻きつつも、もうかなりの距離を歩んだ道の、その先を見据える。そこには、狭い通路から見れば多少は開けたようになっている空間が見通せた。
「おおっ!」
 先程から焦れたようにアンズを急かしていたシェーファーが、喜びの声を上げた。その様子に苦笑しつつ、来た道を少しだけ、振り返る。
 緩やかに下った途中から、少しだけ登りの傾斜へと移行した細い通路。ここを戻った朝尾山の頂上には、ライアン・ウィルソンがいるはずだ。彼が侵入者、ハインドの悪魔を仕留める為の最後の砦となるはずである。
 残念ではある。伝説の『悪魔』と戦ってみたい気持ちは、マルコにもあるのだ。だがウィルソンは世界最高峰の暗殺者。その実力は、マルコも一目置いている。心配は無い。
 細道を抜けた。そこは、急勾配の山肌を目の前に望む場所だった。右横には、なにかを祀った祠があるが、その先は崖。左側には勾配を上に登る細い道があり、この坂をまた進むのか、とげんなりした。
 だが実際は、違った。一向は全員、ここで止まっているのだ。光を纏った不思議な少女は、緑の茂るこの坂を見詰めるだけ。
 ここで待っていたであろう先遣隊の人間が駆け寄ってきて、シェーファーに声をかけた。
「報告します。この先の道には二つの進路があり、登りはハイキングコースへと繋がり、下りは麓の村へと合流するようでして……他に何も見当たりません」
 困ったような顔でそう言う兵士に、唖然として口を開けるシェーファーのマヌケ面が、なんだか可笑しかった。だが次の瞬間、言葉を理解した中年の男は、スキンヘッドにした頭皮まで真っ赤にして怒鳴り散らす。
「ふ、ふざけるな! こんな所まで連れて来て、何もありませんでした、だと!? そんな事が許されるか! ――小娘、謀りおったか!」
 怒りの矛先がアンズに向かう。しかし少女はシェーファーの激昂など聞こえていなかった。ただ、じっ、と目の前を見据える。マルコはそこで初めて、山肌の中に、石で組まれた歪な四角の、まるで扉のような何かが埋め込まれていることを知った。
『来た、よ――』
 声が、響いた。美しく澄んだ声音が。唐突に、静かに、しかし確実に聞こえた声は、シェーファーの喚き散らす怒号すらも苦にせず、全員の耳に届いたのだ。
 それがアンズの口から発せられた物だとは――、マルコには数瞬、理解できなかった。
『開け、て――』
 もう一度、その神秘的な音色を口ずさむ。その時には全員が口を閉じていた。シェーファーも神妙な顔で、不思議な少女に見入っていた。
 アンズの身体を包んでいた光が突然、その力を強めた。それと同時に、山肌に浮いた四角いレリーフが輝きを放ち、マルコたちの瞳を焼いた。
 ゴ、ゴゴゴォォ……ン
 四角の中の土砂が崩れる。自生していた木も植物も滑り落ち、中から石組みの壁が現れた。だが次の瞬間には、振動が増したかと思えば地響きのような重い音を響かせて、その石壁すらも開いていく。
(本当に……扉だったのか!)
 腕で光から目を庇いながら、マルコはそう、驚嘆していた。
 強烈な光が止むと、扉の先はポッカリと空いた洞窟だった。暗闇で先が見通せないその通路を見て、全員が息を呑み、言葉すらも発せられない。
 だが。歓喜に震えたシェーファーが、その激情を爆発させる。
「これが! この先に! 我々の未来があるのか! 素晴らしい、実に素晴らしい秘境じゃないか! ハハハハハハッ!」
 興奮に表情筋の全部を使って笑顔を浮かべるシェーファーに、徐々に周囲も自我を取り戻し始める。しかしその中で一人、アンズだけはフラフラと、何も気にせず扉の中へと入って行ってしまった。
 ハッ、としたシェーファーが慌ててアンズの後を追う。その後ろを兵士たちが続き、マルコも足を踏み入れようとした時だ。
「マルコ! お前はその娘と一緒に、そこで入り口を見張っとれ!」
 シェーファーの怒鳴り声が、エコーを引き連れてこちらに届く。
「なにいっ?」
「万が一の為じゃ。ウィルソンが突破されたら、そこで侵入者を始末しろ!」
「んなこと言っても、ベントに任せときゃ大丈夫だって」
「心配するな、理想郷の中身は後でお前にも見せてやる! だから暫く、娘と一緒にそこにいろ!」
 言いたいことだけ言い終えると、再び足音が遠のいていった。雇い主のそんな態度に頭を掻きつつ、しょうがねぇな、と苦笑を浮かべた。
「だとよ、お嬢ちゃん。俺たちはここでお留守番だ」
 分かり易く日本語で、俯いたままの少女にそう語りかける。彼女は何も答えない。無愛想な様子に、やれやれ、と頭を振ると、2人ほど残った兵士に入り口を警戒するよう命令する。
「よぉ、嬢ちゃん。俺たちゃ居残り組みだ。先公はいねぇから、ゆっくりと休んでようや」
 手近な岩に腰を下ろして、ユリカにそう語りかける。彼女はこちらを見ずに、反対の岩に座り込んだ。隣に来る気はないらしい。
 俯いたままの覇気の無い少女を前にしながらも、マルコは不敵な笑みを崩さぬまま、退屈そうに足を組むだけだ。


 広々とした草原。一本だけ、枝葉を広げた巨木が鎮座するその中で、さわさわと風に揺れる草花が湿気を含んで、元気に輝いている。そう、ここはまるで、広々とした草原のような印象すら受ける場所だった。
 月明かりの中で、雲の近くにある朝尾山の山頂。外縁に生い茂る木々の合間に小さく、街の灯を望む。高所の眺めを楽しむ為にベンチやトイレなどの公園施設 が設置され、快適なハイキングを約束してくれる場所だ。だが今の時刻、この場所にはもう、誰も居ない。先程までデータ処理や通信作業などに追われていたロ テンのメンバーも、今は指令所の機能を一つ下にある休憩所や駐車場に移している。
 だからここにはもう、誰も居ない。――彼を除いて。
 ゆったりとベンチに腰掛けて、じっ、と一点を見詰めたまま動かない。ライアン・ウィルソンだけが、その場所に留まり、ここの空気を吸っている。
 これからここに来るであろう敵、『ハインドの悪魔』と呼ばれる特殊工作員との戦闘に向けて、彼だけがここに残っているのだ。
 くくっ、と喉が鳴った。
(ハインドの悪魔、か……)
 それは苦笑だったろうか。
(皮肉なものだな、和杜。ここに来てお前の信頼する人間と対峙することになろうとは)
 彼は思いを馳せる。中村 和杜――かつて共に戦い、時には刃を交え、また互いに笑い合い、語り合った仲間のことを。ライアンが絶大な信頼を寄せる戦友であり、戦慄を抱く好敵手であり、10以上も年の離れた良き理解者のことを。
 今からもう、十年以上は前だろうか。かつてイギリス諜報部に所属していたライアンが和杜と出会ったのは。彼は現代最高の忍者だった。ともすればライアンをも凌ぐほどの、驚くべき手練であったのだ。
 和杜はライアンが知る限りでは最高峰の『フープス』である。
 フープス――欧米では輪技使いの事をこう呼ぶ。元は違う名称だったというが、日本の『輪技』という思想に感化されて、輪を刻むものという意味からこう名付けられた。
(この忌むべき仕事の中で、和杜の親類と戦わねばならないとは……。不思議な気分だ)
 ロテンからのオファーは、憎むべき依頼であったのだ。一人の少女を誘拐し、その子を利用して、地上のあらゆる軍隊をも凌ぐ強大な軍事力を手に入れる。邪 魔するものは全て、抹殺せよ。――この内容に嫌悪感を抱いていることは、自分の正義を持っているライアンにとっては、当然であった。
(だが、俺は止まれない。この仕事を完遂せねば、そうせねばならない理由がある)
 決意は固い。自分の信念を曲げてでも引き受けた仕事だ。ここで頓挫するわけには行かない。
 迷いはある。だが、それ以上に必要なのは、充分な結果だった。
(遠慮はせん。この迷いを飲み込んででも、倒させてもらう)
 ライアンはスーツの上から左胸に触れた。その下にあるポケットの中には、彼の大切なものがある。彼のかけがえのない、護るべき存在が。
(お前も護るべき者のために戦うのだろう? ならば全力で来い。その果てにはきっと、気持ちの勝負が待っている)
 そっ、と視線を左に向けた。彼の力は感知している。その方向から、物凄い速さでこちらへと近づいてくる、強大な敵を。ライアンの認めるライバルの一人、中村 和杜が実力を押す、その存在を。
(お前は和杜の親類だろう。ならばその屈強な信念をぶつけて来い。私も全力でそれに答えよう。――なぁ、中村 聖杜よ)
 ぎゅっ、と左胸を握り締め。自分の心を奮い立たせて、ライアンは立ち上がった。
 その姿はまさに、悲壮な覚悟を背負った戦士そのものだったのである。



 ザッ
 広葉樹の生い茂る山林の中、最後の急斜面を抜け、柵を乗り越えると、緩やかな傾斜の場所に出る。頂上からここまでが、家族連れやハイキング客なんかが足を伸ばせる範囲と言うことだろう。先程の柵は転落防止用なのだな、と納得した。
 さっ、と視線を左右に投げるが、そこに人の影は無い。頂上に拠点を置いて、防衛線の指揮所機能をそこに集めているのだと思っていた聖杜には、ここに見張りの一人も居ない状況に不信感を抱いた。聖杜の行動は監視装置によって全て把握されているのである、疑問は尚更だ。
 どうなっているのか、と考えながらも、警戒は解かない。だが頂上にあるであろう喧騒が聞こえてこないことから、指令所はここではないのだろうか、と考えてしまった。
(ウダウダと怪しんでもしょうがないよな……。とっとと行くしかない)
 覚悟を決めた。元より、銃火器のない聖杜の武装では、こそこそとしても意味が無いのだから。彼は瞳を細めると、一呼吸で緊張を沈め、その身を頂上へと躍らせる。
 一瞬で開けた視界。近くなった空、漂う雲と星の輝き、煌々とした月明かり。それらが上空に広がる光景は幻想的だが、それを気にする余裕は無かった。
 広々とした朝尾山の山頂、テントも車両も兵士も存在しない、さわさわと風に揺られる寂しい景色。一瞬、誰も居ないのか、と錯覚すらしてしまう。
 気付いた。男が立ち上がったのだ。背の高い、背広を着込んだスマートな白人だった。その男がこちらを振り向き、鋭い眼光を、聖杜に向ける。
 ゴクリ、と生唾を飲み込んだ。
「待っていたぞ。中村 聖杜、だな」
 流暢な日本語が男の口から飛び出した。名前まで言い当てられたことに面食らって、聖杜は思わず眉を顰める。
「あんたは?」
「私は、ライアン・ウィルソン。君の従兄弟と知り合いだ」
「………………っ!」
 ライアン・ウィルソン。
 知っている。その名も、また彼の顔も。
「『ベント』――!」
 聖杜の声は硬かった。
 だがその様子に、ウィルソンは柔和な笑みで答える。
「知ってるのか。和杜から聞いているようだな」
 コクリ。聖杜は頷いた。
 彼の言った通りだ。聖杜は和杜からウィルソンの話を聞いているのだ、しかも写真付きで。和杜をして、「世界最高の諜報員であり、世界最高の暗殺者の一人」と太鼓判を押す、戦友なのだ、と。
 ウィルソンはイギリス情報局の元エージェントだ。和杜が諜報員として始めて参加した、旧ユーゴスラヴィア紛争の時からの付き合いだと聞いている。
「私も君の事を聞いているよ、和杜からな。近接戦闘のスペシャリストで、潜在能力は何者をも寄せ付けない、と言っていた」
 その言葉に嘘は無い様だな、と笑うウィルソン。その様子に聖杜は、喉がカラカラに渇いていくのを感じていた。
「なぜ、貴方が、ここに?」
 思わずついて出た疑問。こんなことを言うのは間抜けなのかもしれない。しかし、人格者としても通っているこの男が、なぜこの様な卑劣な作戦に参加しているのかが、聖杜には理解できなかった。
「ふむ。確かに、理由がある。そして依頼を引き受けることに決めたんだ」
 ウィルソンの瞳の威圧感が増した。
「君は我々を止めたいのだろう? ならば残念だが、私と敵対せねばならない」
 スッ、とウィルソンの肩が力を抜く。自然体で立つその姿に、異様な迫力が宿っていた。
「あの娘たちは君にとって、とても大切な存在なのだろうな。ならば全力で戦おう」
 眼光が細められ、ウィルソンの全身に殺気が漲る。その姿に圧倒されて、聖杜は意識外に、後ろ足を退いてしまう。
 恐い。そう、思った。
(戦う? この男と? 現代最高峰の、暗殺者と?)
 勝てるのか、と自問した。しかし答えは、背中を伝った冷たい汗のみ。
 聖杜の逡巡が、状況判断を鈍らせている。だから攻撃がきた時に、咄嗟に対処ができなかった。
 ゴッ!
 右側から来た、唐突な圧力。物理的な接触が聖杜を弾き飛ばし、驚愕に固まったまま、受身も取れずに草原に転がってしまう。
「っ、!?」
 カ、ハッ、と肺から空気が漏れた。
「集中力が切れているようだな。悪いが先に攻撃させてもらったよ」
 首だけ動かしたウィルソンが、冷徹な瞳で、それだけを口にする。彼は先程の位置から動いていない。聖杜は起き上がりながら、不可視の力が直撃した右脇腹を押さえ、奥歯を噛んだ。
 『ベント』、という通り名。ライアン・ウィルソンへの畏怖を込めて付けられたその言葉の意味は、ポルトガル語で、風。
 風使い。それがライアン・ウィルソンの輪技である。そして、ウィルソンの実力は、世界トップクラスである。それが、和杜から授けられた情報であった。
 クソッ、と思う。
「ちくしょう……!」
 立ち上がる。脇腹を押さえながら、キッ、とウィルソンを睨み付けた。しかし心は折れているのだ、この震える脚がそれを証明している。
 先程の一撃を避けられなかった時点で、自分にはもう、勝ち目が無い。そう、考えてしまったのだ。
(でも……)
 刀の柄に手をかける。腰を軸に斜めに下ろして、聖杜は足に力を込めて、駆け出した。
「負ける訳には、……行かないんだよおぉぉ!」
 咆哮。全速力で距離を詰め、鯉口を切り、刃を晒す。鞘から抜き放った銀線を、精一杯の速度で、ウィルソンへと叩き付けようとした。
 敵の笑みが見えた。
 ゴッ、ゴガゴ!
 見えない殴打が聖杜を襲う。ウィルソンの身体に辿り着く前に、周囲から去来した風に三ヶ所を殴られて、聖杜の勢いが完全に削がれた。
「――――――、!」
 堪える。攻撃は重くない。タン、右に跳躍すると、空間を足場にして、今度は死角から襲おうとする。
 ヒュウ、と風が頬を撫で、次の瞬間には煽られていた。
 うわっ、と発して、崩れたバランスに慌ててしまう。ヤバイと感じて空間を固め、再び跳躍しようとした時、足場まで届かないことに気付いた。
 浮いている。
 風が聖杜を、離さない。
(――動けない!)
 ミシリ、と肋骨が撓んだ。空気圧が一気に増したのだ。空中に磔にされたまま、風が胸を圧迫してくる。肺から空気が搾り出され、カハッ、と苦しげに息を吐き出して、吸う事ができないことにもがいてしまう。
「……、ぐぅ、――あぁっ!」
 ギシギシと骨格を軋ませて、無理矢理、圧力を振り払う。力任せに開放されて、下草に埋もれるように倒れ伏し、それでも気力で顔を上げた。
 ハァ、ハァ、ハァ。激しく背中が上下して、疲労に筋肉が痺れてくる。額の脂汗を腕で拭い、視線の先は、こちらを見下ろすウィルソンの方へ。
「こんな物か?」
 男の視線は、蔑みの感情に彩られ、冷たかった。
「期待外れだな。和杜の評価も、身内贔屓が過ぎるというものだ」
「うるさい!」
 皮肉な笑みがウィルソンの口元に浮く。それが耐えられなくて、聖杜は大声を上げて彼の声を掻き消したが、その時点で心理的に負けていた。
 勝てない、と思ってしまったのだ。
(くそっ……くそ! ちきしょう!)
 よろよろと立ち上がり、再び刀を抜いて、鞘を投げた。柄を両手で保持して、ウィルソンを睨みつけるように、その瞳を細くする。
「まだ負けてない! 俺は、ここで負けてなんか、いられないんだ!」
 胸に去来するものがある。杏子を利用なんかさせない。親友が大事にしてきたあの子を渡すことなどできない。それに聖杜には、大切な女の子を、義妹を護らなければいけないのだ。
 心にしまった想いがある。それは誓いだ。由梨花を護り続けたい。義兄妹になってしまったその時から、彼は大切に秘めた思いを封印し、代わりに誓った思いを刻み込んだのだ。
 それが聖杜を奮い立たせる。気圧された気持ちをむりやり押し出し、誓いを守れと、全身に叫び続けるのだ。
「っだらあぁぁぁぁっ!」
 それは悲鳴に近かっただろう。悲壮な咆哮で自らを鼓舞し、敵への一歩を踏み出そうとして、フッ、と違和感に気付いた。
 息ができない。
 酸素が無いのだ。
 唐突なことにパニック状態に陥った聖杜に、ウィルソンがゆっくり、語りかける。
「いい表情だよ。そういう顔付きができる奴は、やはり殺すのが惜しい」
 スッ、とウィルソンが左腕を胸の前まで持ってきて、それを斜め下に振ると、その瞬間、膨大な危機感が聖杜を襲った。
「ただ……これで死ぬなら、それは運命に負けたものだと考えるのが、妥当だろうな」
 殺気が軌跡を引く。聖杜の全身が総毛立ち、ほぼ混乱した頭で、反射的に横に飛んでいた。足りない、と感じて、思いっきり踏み出して、空中を駆ける。後ろで木が幹ごと倒れた音を聞いて、切れたのか、と戦慄した。
(…………っ!)
 全力疾走だった。空気が保たずに足が震え、空間を蹴った勢いだけで倒れ込んだ瞬間、聖杜の周囲に再び酸素が出現し、その濃厚な味に肺を満たす。
「――っう、ハア!」
 ハ、ハ、ハ、と心臓が早鐘のように動いた。呼吸が苦しい。胸を押さえて自分を落ち着けようと努力しつつ、汗に塗れた血色の悪い顔を上げて、落としていた刀を引っ掴んだ。
 ある一定の範囲だけ酸素を除去したのだ、と気付いたのは、無酸素状態から開放された脳がようやく働きだしてくれたからだ。同時に、そんな大仕事は一瞬で実行できるものではない、とも考えている。罠にはめられた、その事実に歯噛みした。
「よく避けた。やはりお前は、素晴らしい才能だ」
 ウィルソンの口角が上がっている。まるで試されているような、遊ばれているような、そんな印象が拭えないことに、聖杜の焦りは募っていった。握り締めた拳は爪が食い込んで血が滲む。悔しい。それでも、諦めては、いけない。
 震える脚を叱咤して、左手に握った刀を地面に突き立て、それを支えに立ち上がろうとした。足腰がガクガクとしているが、それが疲労から来るものなのか、それとも恐怖がそうさせるのかは、聖杜にも分からなかった。
 パンッ!
 空気が弾ける音がして。
 左肩が血飛沫を上げた。
「う、ぐあっ!?」
 杖代わりの刀から手を離して、足がガックリと力を抜き、地面に膝を突いてしまう。激痛に呻き声を噛み殺し、傷口を必死に押さえて、その場に再び蹲った。
「、うぅぅぅぅぅぅ……!」
 生温かい感触が掌に広がって、零れ落ちた血が二の腕を伝う。その感覚が脳を強烈に焼き、しかしまるで現実感が無いことに、聖杜自身が戸惑ってしまった。しかしそんな彼の様子にお構いなく、ウィルソンの声が、降ってくる。
「『インヴィンシブル・ガナー』という名前を聞いたことがあるか? あまり有名じゃないが、私のもう一つの通り名らしい。『見えない銃手』という意味でね。そのまま、この技の名前にさせてもらったよ」
 空気を極限まで凝縮し、その後ろの圧縮空気を破裂させることで、凝縮した風を撃ち出す技。小さく固めるから巨大な破壊力は生み出せないが、NATO軍の 正式採用する二十二口径のライフル弾と同じくらいの威力で敵を撃ち抜くことが可能だと、ウィルソンは続けた。高速で飛来する風の弾丸は弾体を残さず、しか も支配した大気の範囲ならばどこからでも射撃できる、まさに見えない狙撃手だ。
「私の持っている技は全て見せた。これが、親友の肉親に対する礼儀だと考えている。伸び盛りの、お前のような若者を手にかけるのは忍びないが、残念だがお別れにしよう」
 ウィルソンの声は冷静だった。その声音は、本当に悲哀を含んでいるのだ。彼の心情にあるのは恐らく、同情と、諦観。
 しかし聖杜は、彼のその言葉をも、聞いてはいなかった。自分の中で、焦燥だけが溢れていたその心が、変わっていっているのを感じたのだ。
 諦め、ではない。
 それは、無意識の中にある、理解だっただろう。
 ただ、俯けた視線に、赤く溜まった自分の血の池だけが、映っていた。
「楽しかったよ、聖杜。お前は立派に戦っていた。……安心しろ、2人の少女は私の名誉にかけて、無事に帰すよ」
 ウィルソンの腕が振られる。その軌跡に合わせるように、真空が生み出されたのが、分かった。それは聖杜へと進む過程で空気を取り込み、かまいたちの刃が、肉体を両断するだろう。
 聖杜はその刃を、見た。
 見てみせたのだ。顔を上げた瞬間、紫の淡い光が、一本の線になっている。
 それはウィルソンの気の発する色だった。この大気を支配する輪技、ウィルソンの能力は、紫の色を帯びている。
 高速で飛来する風の刃を、一挙動で避け、接地した時には視線を前へ。躱したことに軽く眼を見開くウィルソンへ、細められた鋭い殺気を、集中させる。
 頭の中が異常にクリアだった。雑念の無い、整然とした、本能の支配するような感覚。生存への欲求とでも言うべきだろう、聖杜の精神は、シンプルな感情が、張り巡らされていた。
 生きる。
 そして、由梨花を、杏子を、助けてみせる。
 先程までのグチャグチャとした不安や恐怖を一掃したのだ。それは皮肉なことに、自らの血を見たことで、ようやく吹っ切ることができたと言うことである。
「ボクは、死なないよ」
 そっ、と呟いて、半身に構える。刀を右手に提げて、引き絞った決意の気合を、静かに纏う。
「ライアン・ウィルソン。貴方がボクを殺そうとするなら、ボクは貴方を、全力で、殺す」
 自分の身体から立ち上るのは、薄い緑の光だろうか。自分の気だ。能力の根源である生命力が、この世界と、完全に同調している、輪を描いている。世界に満ちる気を視ることこそが、輪技使いの究極の奥義だろう、そう思えた。
「ボクは彼女たちを、何があっても護らなきゃ、いけないんだ!」
「――よく言った!」
 聖杜の裂帛に、ウィルソンの目付きが変わった。本気で挑むものを本気で迎え撃つ。同時に聖杜の変化も見抜いたのだろう、彼の放つ気がより洗練されたものに研ぎ澄まされていく。
 駆ける。同時に大気が揺れ動き、前方から複数の風の拳打が降り注ぐのを感じた。ウィルソンの力は大気支配だが、全体を一気に動かすようなことはできない。しかも能力の内容は空気の操作に比重を置いている。大気を刃にするには過程が必要だ。
 そう見抜いたからこそ、聖杜は冷静に、空間を凝結させた。風を空間で受け止め、自らはその間隙を通ってウィルソンへと肉薄する。
 ウィルソンが目の前に来た。彼も輪技が見えている。だから聖杜の先手を取っていたのだろう。
 刀を振るう。だが腕を左手でガードされ、刃は敵に届かない。懐に飛び込まれて、肘が顎へと強襲してきた。首を反らして避け、体重移動の過程で右膝を叩き込もうとする。
 トッ、掌で弾かれた。強烈な拳打を左手で逸らすと、左肩が激痛を発し、痛覚神経が悲鳴を上げた。
 耐えて、蹴る。避けられる。殴る。ガード、そして逆襲。肩の傷口に掌低を打ち込まれるも、奥歯を食いしばって痛みを切り離し、身体の表面を滑らせるようにして、刃を薙いだ。
 ヒュッ、と風切り音がして、ウィルソンが密着状態から後退した。彼のスーツを切れ目が走ったが、それだけだ。皮膚には達していない。
 一瞬だけ、お互いの瞳が合致し、その眼光を交換し合った。
 切り裂かれたネクタイの先が、ハラリ、と地面に落ちた時。
 再び2人は接近している。
 左下から右上に刀を斬り上げるも、ウィルソンの右腕で止められる。彼の腕に沿って濃密な風が展開されているのを見て、即席のトンファーを創りあげたのだ、と分かった。
 刃を退いて、身を沈みこませると、頭の上を左拳が通過していく。ヒュッ、と擦過音に続いて、遅れて風の拳打が聖杜の顔面に向かってきた。左回りに身体を 回転させることで風を沿わせ、低い軌道での回し蹴りを放つ。左足の踵がウィルソンの脇腹に減り込むも、当たりが浅く、硬い腹筋にダメージは見られない。
 ちっ、と舌打ちを一つ。ローキックの反撃を視界に入れつつも地を蹴り、瞬時に後退して間合いを取った。
 細く長く、息を吐き出す。汗と血に塗れた自分の身体は異常に重い。疲労に眉を顰めつつ、ウィルソンもまた、顔中を汗だくにして肩で息しているのを見て、戦闘の終盤を知った。
 あの短い攻防での、極端な疲労は、互いの精神が極度に研ぎ澄まされた状態であることを指すのだ。それは長くは続かない。否、長引かせてはならない。
 タンッ。聖杜が動いた。骨格から悲鳴を上げる全身を抑え込み、全速力で、突撃していく。
 高速移動の狭まった視界の中、いくつもの紫色が、聖杜を取り囲むように凝縮していく。
 ――インヴィンシブル・ガナー!
 風の弾丸が自分を狙っている、それも大量に。複数の場所から複数の圧縮空気を生み出すこの力が、この技の本質なのだと悟った。
(仕掛けてきた!)
 これで決めるつもりだ。だが、聖杜はここで死ぬつもりなどない。
(いや、――死ねない、死ぬことは、許さない!)
 目視できる範囲の全ての弾丸の背後、圧縮空気との僅かな隙間の空間を凝結させる。紫の間に緑色が割って入り、聖杜はそこに向けて、さらに加速した。
 圧縮空気の炸裂とほぼ同時に、弾丸の壁に身体をぶつける。弾けた衝撃を空間によって阻害された弾丸が身体に当たり、それが散らばって、消えた。
「っ!」
 ウィルソンの表情が緊張した。苦虫を噛み潰したような顔で、半身になって迎撃姿勢を取る。構わず突き進む中、背後の弾丸が襲い掛かり、右足を掠って皮膚が裂け、流れ弾が脇腹に突き刺さって出血する。一瞬だけ体勢を崩すも、まだ致命傷ではない、再び脚に力を込めた。
 オッ――――――!
 気合の裂帛。聖杜の口から叫び声が飛び出した。無意識の内に腹から飛び出した発声を聞かず、下段に構えた刀の柄を握り締め、目前の敵へと突進する。
 ヒュッ!
 研ぎ澄まされた一撃。ウィルソンの渾身の貫手が超高速で放たれる。腰を落として体重を乗せた、最小限の振りで破壊力を凝縮させる殺意の一撃。左側から心臓へと正確に突き出された攻撃に、肩の激痛を無視して、左腕を割り込ませた。
 弾いたのだ。貫手の軌道、接触直前にウィルソンの右腕を、下から突き上げた聖杜の腕が。そのままベクトルを逸らせて躱すと、ウィルソンの瞳が驚愕に見開かれる。聖杜は、無理に動かした左肩に走る激痛が脳を焼くのを無視し、流れる熱い血液の感触を忘れた。
 だが、ウィルソンは異常な速度で重心を入れ替えていた。攻撃を外した瞬間に体重を移動させ、左足の鋭い蹴りが脇下から飛んで来たのを、軌道の空間を固めてガードしようとする。
 聖杜は刀を振り上げた。と同時に、能力にかかる信じられない圧力が、凝結空間を破壊する。
「オオォッ!」
「あぁっ!」
 咆哮が重なった。聖杜の身体が宙を舞い、刀の切っ先を天に向ける姿は、まるで飛翔しているかのようですらあった。刃先は紅蓮の軌跡を引き、月明かりに照らされた銀線は美しい赤を散らせる。
 着地。膝に力が入らず、地面へと倒れ伏す。負傷した肩を打ち、痛みに奥歯を食いしばるが、悲鳴を上げる余裕は無かった。っ、はぁ! と止めていた息を吐き出して、見上げた先に、男はいた。
 彼の瞳は優しかった。柔らかい眼光を湛えたまま、笑んで、ふっ、と息を吐き出す。
 立ち尽くすライアン・ウィルソンの身体に走る一筋の線。左の脇腹から右肩にかけて引かれた刀傷は、とても鋭利で、とても残酷だった。
 聖杜がゆっくりと身を起こした時。
 ウィルソンの身体は、ゆらり、と傾いで倒れ込んだ。


 聖杜がウィルソンの身体を起こして、ベンチへと凭せ掛けたのは、それが彼の望みだったからだ。
「すまないな」
「いや……」
 息も絶え絶えに言葉を搾り出す男性に、もう助からないんだな、と言うことだけは確信できた。
 細身といえども、鍛え上げられた肉体と背の高さから、体重はかなり有る。担ぎ上げる時に、聖杜の脇腹からは血が噴き出したが、痛覚が麻痺しているのか余り気にならなかった。
 木製のベンチに座ったウィルソンは、天を仰ぐように首を逸らすと、背凭れに体重を乗せ、ゆっくりと息を吐いた。細く、長い、その呼気。傷口から下を真っ赤に染めて、彼は血の気の無い顔で笑った。
「行かないのか?」
 急いでいるんだろう、と続いた言葉。それが向けられてもなお、聖杜はそこを動けなかったのだ。
 疑問だった。ウィルソンの瞳が、未だに優しい輝きを放っていることに。聖杜は彼を斬った。そしてもう、生きることはできないと、言うのに。
 自分の唇が震えているのを意識しつつ、聖杜は口を開いた。
「……手加減したのか?」
 ウィルソンの笑顔を説明するには、これぐらいしか、思いつかない。
 しかし当人は苦笑に似た笑みと共に、首を左右に振るだけ。閉じていた瞼を開き、真っ直ぐに聖杜を見詰めたと思ったら、また笑った。
「殺し合いで手を抜いてどうする? 私だって生きたいんだ、こんな仕事を請けるくらいなんだ、必死だったよ」
「じゃあ、なんで笑ってられるんだよ? わかんないよ、俺……ボクは、貴方を越えられる実力を、持っていなかった」
「そんな事は無い。私は本気で戦った。最後の猛攻を凌ぎきれず、完全な敗北を喫したのだ。君は強かった、私の信念以上に、君の執念が強靭だったのだ」
「そんなこと、ないよ」
 悲しい気持ちが湧き出てくる。聖杜は弱々しく首を振り、俯いて、黙ってしまう。
 そんな少年に、ウィルソンは変わらず笑みを湛えたまま、言った。
「聖杜よ。お前は、家族のために、私を斬ったのだろう?」
 唐突だった。だから言葉が飲み込めず、聖杜は困惑した顔をしたのだ。
「あの二人の少女は、それだけ大切な存在だと、そういうことだろう。だからこんな無茶をして、傷だらけになって、それでもまだ、もがいている」
「そう、だね……」
「私も家族のために戦った。二人の子供がいることは……和杜なら話しているかもな」
「ん、聞いてる」
 聖杜が頷いたのを見て、苦笑のような幸せな表情が、ウィルソンの顔に浮かんだ。
「妻は病気で逝ってしまった。――そして、娘もまた、同じ病を発症したんだよ」
「なっ!?」
 その言葉は衝撃的だった。
「治療法は存在しない。延命措置にも、相当量の資金が要る。……あの子の苦しみは分かっていた。でも、それでも私は、もっと生きて欲しいと、願ったんだ」
「だから、こんな、仕事に……?」
 こくり、と頷きが返ってくる。聖杜の身体が震えた。
 その様子を見て、フフッ、とウィルソンが笑う。
「気にしなくていい。これは私のワガママだよ。あの子は助からないと分かってて、自分の運命を受け入れているんだから。それを引き留めようとしている私が、浅ましいのだ」
「そんな! ……そんなの、ワガママじゃないよ! あんたが生きて欲しいと望んだんだろ? きっと娘さんも、生きたいって、思ってるはずなんだ!」
 だから。
 だから、と聖杜は言った。
「ウィルソンがそんなこと言うなんて、悲しいよ。あんたの思いは自然で、純粋じゃないか……」
 涙が溢れたのは何故だろう。同情か、憐憫か。いや、これは悲哀だ。聖杜は彼に、彼らに、ごめんなさいと、言わねばならない。そう思った。
 しかしその言葉は、ウィルソン本人が、言わせなかったのだ。
「ありがとう、聖杜。その言葉だけで充分だよ。私にはもう、どうしようもないんだからな」
「そんな……!」
 諦めてしまっているのか、彼は。それは悲しいことだ、でもそれこそが彼の表情の、悲しい笑顔の真実なのかもしれない。
「ライアンと、呼んでくれ、聖杜。私はお前を友と思っている。人生で最後に出会った、友人だ」
 聖杜はもう、頷くことしかできなかった。
「ライアン……ありがとう」
 戦ってくれて、ありがとう。そう言った。
 彼はただただ、微笑を深くしただけだ。
「さようならだ、聖杜。お前は大切な女の子を護るんだろう。二人を取り返しに行くんだろう。なら、もう時間はない」
「うん……さようなら、ライアン」
 聖杜は深々と頭を下げた。尊敬すべき男への、感謝の念を振り払うかのように。
「行け。行って、そして、生きるんだ。三人で、これからの人生を、大切に過ごせよ……」
 もう掠れてしまったウィルソンの声。目が見えないのか、彼の瞳はすでに焦点が合っていなかった。弱々しい姿だが、それでも誇りに満ちた彼に、聖杜は背を向ける。頭を切り替えて、地を蹴った。
 月に近いこの山頂で、息絶えようとするライアン・ウィルソンを手にかけたことへの罪悪感は、聖杜に傷の疼きとは別の涙を誘う。



 分からない。
 何もかもが、分からない。
 由梨花は今の状況を何一つ飲み込めず、混乱し続ける思考の中で、その複雑すぎる問題に、呆然としていた。
 考えることが多すぎて、逆に何も考えられない状態に陥ってしまったのだ。
(どうして? なんで? こんな、こんな事になっちゃったの?)
 信じられないのだ、全てが。武装集団に拉致されたことも、こんな所に連れて来られたことも、人が目の前で死んだことも、山道を歩かされたことも、ここに座らされていることも、目の前にラテン系の男がいることも。
 それに――
(お兄ちゃん……あれは、お兄ちゃんなの? 本当に、お兄ちゃんが、たくさんの人を手にかけていたの?)
 先程から、渦巻く疑問は同じだった。映像に映った聖杜の姿がフラッシュバックされる。色は無いが鮮明だったその画面は、まるで現実感が無くて、造られた物にしか見えなかった。冗談としか思えなかったのだ。
(お兄ちゃんが人殺し……。平気で誰かの命を奪って、た)
 視界が歪む。頭が痛む。喉がひりつきそうで、涙を堪え、嗚咽を必死に抑えて、ただ地面だけを見詰め続けていた。
「あいつら、そろそろ奥についたかね?」
 目の前の男、マルコが口を開いた。日本語を使っていることから、それは由梨花に対しての問いかけなのだろうが、彼女には答えるつもりは無い。
 そうだ。と、思った。
 由梨花の心配事は聖杜だけではない。山肌に空いた石造りの入り口、この中へと入って行ってしまった義理の妹の存在。不思議な光に導かれ、まるで熱に浮かされたような足取りで、暗黒の先へと歩いていってしまった杏子のことも気がかりだった。
(杏子ちゃん……、せめて、無事でいて!)
 これは由梨花の心底からの願いだが、ここから動けない彼女には、祈ることしかできないという歯痒さがある。
 しかし、もう由梨花の心は折れているのだ。聖杜のことでショックを受け、杏子の行動で混乱し、神経が疲れ果ててしまっている。もう男たちに反抗する気力は残っていない。
 黙りこくる由梨花を見て、マルコは別の話題を振ってきた。
「侵入者――あのガキは、何者だ?」
 ビクリ、と肩が震えた。その様子を見て、マルコがさらに言葉を紡いでくる。
「やっぱ知り合いだったか。お前らを助けようとしてるんだろ? よっぽど大切な誰かなんだな」
 揶揄するような言葉。皮肉な嘲りを含んで、由梨花の反応を楽しんでいる。
 背中に浮く汗の冷たさを堪えて、由梨花はグッ、と瞼を閉じた。
 ふん、とマルコが息を吐く。
「お前、さっきのやり取りを完全には理解して無いだろ? いい機会だから教えてやるよ。あの侵入者はな、『ハインドの悪魔』って呼ばれてる、裏の世界では有名な工作員だよ」
「………………」
「そいつが出てきたのは2年前の一回だけだがな、その時にかなりの事をやらかして、すっかり伝説になっちまった。これまで全く姿を見せなかった悪魔がこんな所に現れたって、皆が大騒ぎしてたわけさ」
「…………いたの?」
 饒舌に、愉快そうな笑みを湛えて話すマルコとは裏腹に、由梨花の心はどんどんと冷めていく。呟くような小さな声を出した時、マルコが言葉を止めて、眉根を寄せた。
「なに?」
「その人は、これまでも人を、殺していたの?」
 顔を上げた。悲しみに揺れる瞳、震える唇。しかし毅然と力を込めて、その疑問を、男にぶつけた。
 面食らったようなマルコの表情が、不気味に歪み、唇が吊りあがった。
「ハハ……、いいね! いい表情だ、お嬢ちゃん。そんな顔されると俺、テンション上がっちまうぜ!」
 興奮した様子で立ち上がり、早足で由梨花へと近づいてくる異邦人。由梨花が身を避けようとするよりも早く、その男は少女の黒髪を掴み、グイッ、と赤みのさした顔を近づけてきた。
 痛い、と思ったが、眉根を寄せるだけで耐えてみせる。ギラギラとした怪しい輝きを放つマルコの瞳を、精一杯に睨み返すと、男はブルリと背筋を震わせて、歓喜に似た表情を浮かべてくる。
「ああ、殺してきたよ。あのガキはな、極東のブラック・マーケットを潰した三人のうちの一人だ。主催者も出席者もその護衛も、一回の仕事で山ほどの人間を殺してみせたのさ」
(ああ、やっぱり……)
 由梨花の悲しい気持ちが膨れ上がった。しかしそれはもう、理解していたことなのだ。確認であり、諦めであった。だが、その事実を確認してしまったことが、もっと大きな悲しみをもたらしてしまった。それは心の痛みだ。
 気落ちして視線を伏せた時、マルコがつまらなそうにフンッ、と鼻息を吐いて、由梨花の髪から手を離した。数本が千切れた感覚が痛覚を刺激するが、それよりも精神を支配する諦観のほうが、大きい。
「ハッ、なんだよ。嬢ちゃん、『ハインドの悪魔』のこと、ホントに何も知らなかったんだな。この平和な国でどれだけ甘い生活をしてきたのか知らないが、そ んなことでショック受けるとはね。あんたにとって悪魔がどれだけ大切な人間なのかは分からんが、裏切られた、なんて思ってるんじゃないだろな?」
 信じられない、とでも言うような大仰な仕草で肩を竦めるマルコの、呆れたような言葉が胸に刺さる。確かに、その時に由梨花の頭の中に浮かんだのは、『裏切り』という言葉だったのだから。
 続くマルコの言葉には、皮肉の色が濃く反映されていた。
「本当に、そんな風に思ってるんだったら、まぁ安心しなよ。今、ライアン・ウィルソンが山の頂上で当人と戦ってるはずだ。ライアンはトップ・クラスの暗殺者だ、あんたのその気持ち、しっかりとカタキを取ってくれるはずさ」
 言って、ハハハッ、と可笑しそうにお腹を抱えたマルコに、キッ、と視線を向けた。聖杜が死ぬ――そんな言葉、どんな状況に陥っても、聞きたくは無い。許せない。
 憎しみを込めて睨む由梨花の、その視線にマルコが笑い声を引っ込めた。そしてゆっくりと由梨花との距離を詰めると、睥睨するように彼女を見下ろし、嘲笑を浮かべる。
「いいねぇ。そういう顔もソソるよ。堪んなくなる、今すぐお前を壊したくなってくるよ」
 舌なめずり。異常な雰囲気を身に纏ったその男の、その不気味な気配。だが由梨花はそれに気圧されず、一歩も退かず、立ち向かおうとする。
(許せない、私の大切な人を、大切なものを馬鹿にしようとするこの人を、私は許せない!)
 その時の彼女に、果たして何ができたのか。それは分からない。
 だが、その一触即発の空気は、ハッ、と振り向いたマルコの視線で、終わりを告げた。
 この場所に入る時に通った細い山道から、歩哨にいた兵士の悲鳴が聞こえたのだ。続いて銃声が響き、二人目の兵士の断末魔も響いて、一瞬の沈黙が降りる。
「まさか、……ベントが突破されたのか!?」
 マルコが呻いた、その直後に山道から影が飛び出してきて、その小柄な少年が、由梨花へと視線を向けた。
 由梨花が息を呑んだのは、その少年がやはり、紛れもなく彼女の想像通りの人物だったからだ。


 細く未整備のその道を望みつつ、聖杜はその左手側、木々が生い茂る斜面の方を、木の葉の間を縫う様にして駆けた。
 足音を最小限に抑えるために空中を疾駆し、出口が見えた付近で、見張りであろう兵士へと直角に進路を変える。相手がこちらを見つける前に、上空から接近した聖杜は、そいつを横合いから刺し貫いていた。
 ほぼ落下するような勢いで男を絶命させ、刃を引き抜くと同時に地に足をつける。ぐらりと傾いだ死体の向こうで、もう一人の兵士の呆気にとられたような表 情を見たが、その時には聖杜はすでに身を屈めていた。数歩で距離を縮めて刀を振りかぶるのと、男が引き金を絞り込んだのは同時だっただろう。セミ・オート の射撃音が木霊するも、その弾丸は聖杜の遥か後方で土煙を上げ、下段に構えた刀が振り上げられて男の腕を切り裂いた。
「あ、……うわあああああああああああああっ!?」
 断末魔。反す刃で胴を裂かれ、声は無残に途切れて消えた。身体を捻った慣性で左腕が大きく振られ、布で無理に塞いだ肩と腹の傷口からは赤が滲む。だが聖杜はそれを無視して、細道を飛び出し、開けた場所へと身を躍らせる。
 視界が開けた瞬間に目に入ったのは、こちらに驚いた瞳を向ける、彼の愛しい女の子の姿だったのだ。
(由梨花っ!)
 憔悴してこそいるが、見た限りでは傷や痣などが見当たらない、そんな少女の姿に、聖杜は歓喜の叫びを上げそうになった。実際に彼女の名前を口に出さなかったのは、そのすぐ横に立つラテン系の男の存在を警戒したからである。
 聖杜が着地の屈伸から直立状態へと移行した時、驚愕に顔を硬直させていたその男もまた、気を取り直してこちらへと身構える。
 その男の身体から、気のオーラが色となって立ち上ったのが、見えた。
「よう、よく来たな。お前、ハインドの悪魔だろ」
 男の口から発せられたのは、やや訛りがある程度の日本語だった。聖杜が目を細めたのを見て、余裕ある笑みを口角に浮かべる。
 こいつには見覚えがあった。筋肉質の体格、彫りの深い顔立ち、人を小馬鹿にしたような光を持った瞳。昼間、駅の構内で聖杜が気絶した時に、目の前に立っていた人物。そして、かつて和杜が教えてくれた要注意人物の中の、一人。
 マルコ・シモーネ・チェーザレ。残虐な性格をしたイタリア出身の暗殺者。何者にも容赦なき快楽殺人者だと、同業者すらも敬遠する存在だ。人は彼をビッジョーネ、つまり大蛇と呼んで畏怖している。
「変温動物、か」
 吐き捨てるように、聖杜は、そう言った。
 マルコの瞳が愉快そうに輝く。
「知ってんだな、俺のこと。なら俺の能力も知ってんだろ?」
 知っている。彼の輪技は、能力範囲の熱量を自在に操る特殊なもの。昼の聖杜は彼の力によって、極低温状態まで体の熱を奪われ、行動不能になり意識を失ったのだ。そしてマルコの能力は、人を殺傷できるほど強力な威力を持っていると言われている。
 聖杜の眼光が鋭くなったことを受けて、マルコが満足そうな表情を見せた。そして隣の由梨花を顎で示し、
「なら話は早い。この嬢ちゃんは人質だ。お前が俺の言う事を聞いたら、この嬢ちゃんには何もしない。だが少しでも逆らう素振りを見せたら、この嬢ちゃんの顔を焼くぞ。だから下手に動くなよ」
 何でもないような口振りで、マルコは脅し文句をかけてくる。ビクリ、と由梨花が全身を震わせたのを見て、聖杜は奥歯を強く噛んだ。
 フッ、とマルコが侮蔑にも似た鼻息を吐くと、
「この嬢ちゃんはお前にとって大切な存在なんだろ? かけがえのない人間なんだよな、だからここまで追いかけてきたんだ、そうだろ。だったら大人しく言うこと聞けよ。この娘の可愛い顔が、ジワジワと爛れて醜く歪み、見る影もなく変身しちまう姿は、見たくないだろ?」
 マルコの気が増幅した。青く立ち上るそれは、しかしマルコに近づくにつれて色を濃く変え、黒となる。それは彼の本質を表しているのだ。冷たく醒めた心の 奥に、明確な悪意が沈殿しているのである。性根から狂っている、と感じた。マルコの瞳に宿る興奮は、明らかにこの状況を楽しんでいるのだ。
 ガッ、と刀を地面に突き立てる。それは聖杜なりの、降伏のサインだ。だがマルコは一瞬だけ眉根を寄せた。動くなと言ったはずだ! と一喝してくる。
「……すまない」
「次に下手したら、嬢ちゃんから煙が立つぜ。頬が煤けて、香ばしい匂いが辺りに漂うんだ。食欲をソソるステーキの香り。最高だね」
 クハハハハッ、と愉快そうに、マルコが笑った。自分の言葉にすらここまで反応するのだ、その姿は箍の外れた狂人そのものだった。
 チラと由梨花の顔を見ると、マルコの青と黒の気が纏わり付く中で、彼女は蒼白な顔で、血の気を失った唇を堅く結んでいた。全身を小刻みに震わせながらも、恐怖に懸命に耐える少女に、聖杜は心を痛めた。
「ハハッ……。さぁて、と。んじゃそこを動くなよ」
 目尻に浮いた涙を拭う動作をして、マルコが笑いを抑えて背中に手を回す。そしてドイツ製の小型自動拳銃を聖杜に向けて、狙いを定めた。
「安心しろや。お前が死んだら、この嬢ちゃんはまぁ、殺しゃしねぇよ」
「…………!」
 男の歪んだ笑みを見た時、聖杜は、自分の怒りが灼熱に変わったことを知る。
 マルコが人差し指に力を込めた。
 その瞬間に、聖杜は引き金と銃身の間の空間を凝固させる。トリガーが引き切らずに止まったことで、マルコが驚愕に表情を歪めた。
 聖杜は右手を動かしていた。地に突き立てていた刀を抜いて、その円運動で投擲。勢いのついた刃が回転しながら軌跡を描き、その刃先が瞬時にマルコの喉元を貫通する。
「……………………ッ!?」
 スルリ、と滑り込んだ刀に目を見開いて、マルコの肉体が痙攣し、パクパクと数回だけ口が動いて、そして後ろに倒れこんだ。彼の周囲を取り巻いていた気が消失し、その鼓動が完全に活動を停止して、瞳の色がドロリと濁る。
 彼の命が消えたのを確認して、由梨花に取り付くように渦巻いていた青黒の気が晴れていることに安堵し、聖杜は小さく息を吐いた。
(良かった……)
 由梨花に異変は無い、と思えた。だから、少しだけ気を抜いて、素早く視線を走らせながら、マルコの遺体に近づく。
 男の首から生えた白木の刀。その柄を掴み、マルコの身体を踏みつけてから、刃を引き抜く。ズルリ、と抜き出た刀身と共に、生気を失った頭が少しだけ浮いて、抜け落ちてからまた、小さく地面に跳ねた。コトン、と衝撃がして顔が違う方を向く。
「――――――ッ」
 息を呑む音が聞こえた。ハッ、として振り向くと、由梨花が口元を手で覆って、大きく見開いた目でマルコの後頭部を見つめていた。
「由梨花っ!」
 様子がおかしい――そう感じた瞬間、弾かれたように少女へと足を向ける。茫然自失としたような表情に、焦燥感が増したのだ。
 まさか、何かされたのか――?
 不安が全身を貫いて、聖杜は由梨花の肩へと手を伸ばし、掴んだ。その衝撃で、ハッ、と由梨花が聖杜に焦点を合わせ、次の瞬間、
 バシッ
 肩に置いた聖杜の手が、由梨花によって、弾かれていた。
「ゆ、由梨花……?」
 困惑。何が起きたのか分からず、ただ、叩かれた右手が訴える小さな痛みだけ、感知している。
 由梨花は酷く悲しい表情をして、何かを言おうとするかのように数回、口を開いてから、堪えきれないように顔を伏せた。彼女の肩が、背中が、小刻みに震えていたが、それを抑え込むようにギュッ、と身体を抱いて、再び顔が上がった。
 キッ、と聖杜に向けられた瞳は、今まで見たこともないほど鋭く睨みつけられていた。引き結ばれた唇、凛とした雰囲気、彼女の全てが、何かの決意に彩られている。その姿、美しくも厳しい眼光に、聖杜は、怯えた。
「貴方は……っ、だれ?」
 滑り出た言葉。それでも、詰まってしまった、声。震えた声音で響くそれは、悲しみだった。
「あなたは……誰なの?」
 涙を湛えた少女の瞳。真っ赤な目が、その視線が訴えるのは、正しく悲しみだろう。由梨花の言葉は、衝撃であり、悲哀であり、そして、寂しさなのだ。なぜなら、聖杜は、その声に動けないのだから。
(な、に――?)
 だれ、と、由梨花は言った。
 それは、質問、なのだろうか。
 聖杜の視界が歪み、撓み、霞む。分からないから。そして、辛いから。聖杜の世界が衝撃に揺さぶられているから。
 何のことか、分からない、から――
「…………えっ?」
 聖杜の口から出たのは結局、吐息にも似た、そんなマヌケな疑問符だけだった。
 だがその瞬間に、由梨花の瞳は震え、潤んだ涙が更に盛り上がり、彼女の興奮を伝えた。その表情は怒りだ。怒りに突き動かされたことで、静かな口調が、俄かに熱を帯びてくる。
「あなたは、……あなたはお兄ちゃんじゃない。優しくて……頼りなくて、でもすごく安心する、私の大好きなお兄ちゃんじゃ、ない!」
 ハッキリとした口調だった。決然としたその声音には、彼女の意思が詰まっているのだ。だからこそ聖杜は混乱する。由梨花の言葉が受け止めきれない、いま現在のこの状況が理解できない、頭が全く働いていないから。
「なっ――!」
「だって、だってそうだよ! 私の知ってるお兄ちゃんは、私に優しく笑いかけてくれるもん! 私をゆっくり撫でてくれるもん! 私だけじゃなくて、周りの人みんなの幸せを願ってくれる、穏やかな、繊細な、ホントに優しい人だもん!」
 いやいやをするように首を振り、瞼をキュッ、と閉じて、スカートの裾を握り締めた由梨花。零れそうな涙を湛えた瞳が再び聖杜を見据え、クシャ、と歪んだ彼女の表情が、感情が、言葉を吐き出し続けた。
「今の、あなたのような……血に塗れて、人を簡単に殺して、死んだ人をなんとも思ってないような風に――、あの人たちと同じように、そんな険しい顔で、雰囲気で、誰かと戦うような人じゃ、ないよ! お兄ちゃんは。……私の、好きな、人は」
 沈黙が、降りた。聖杜は言葉を発せなかった。由梨花の言葉が滑り込んで、頭の中を駆け巡っていたからだ。由梨花は堪え切れなかったようで、頬に伝う涙を 隠そうと、泣いた顔を伏せて、ただひたすら、嗚咽が漏れるのを我慢している。それでも時折、うあ、あぁっく、と小さく聞こえてくる声は、聖杜には大鐘のよ うな威力を持った衝撃音に感じられた。
(……由梨花?)
 なんで、泣いてるの、と思った。いや声に出そうとした。しかし、カラカラに渇いた喉は、ひり付いて音声を作り出せなかった。だから聖杜は、自分を見下ろして、自分の姿を見詰めなおしたのだ。
 ――血、
 彼の手は、どす黒かった。
 ――血に、塗れて、いる
 由梨花の言ったとおりだ。聖杜の全身には、先程まで手にかけた多くの人間の返り血が、乾いて変色した人間の血液が、所々に付着しているのだ。
(人を……殺、す)
 人を簡単に殺して……殺した人を、なんとも思っていない、と。由梨花は言った。聖杜に向けて、そう言った。聖杜は何も考えずに彼らを殺した。その行為に疑問なんてなかった。
 グラリ。膝から力が抜けて、視界が急激に揺れてしまう。反射的に刀を地に着きたてて、崩れたバランスを補った。身体を支えた刀に目をやって、その頑健で美しい刀身が、人の油と体液で汚れている事にも、気付いた。
「……あっ……」
 短時間に、何十人もの人を斬った、その刃。強靭に鍛えられたはずの刃先はボロボロに零れ、本来の切れ味が損なわれた白銀の刀は、まるで聖杜に人殺しを実 感させようと訴えているかのように映る。聖杜はそれを感じた瞬間、人の命を奪った時の感触を思い出し、おぞましい感覚を掌中に回帰させて、濃密な吐き気が 込み上げてきた。
「…………っ!」
 立ち上った胃液が口腔に押し寄せる。左手で口を押さえると、気持ち悪い塩酸の味が舌を刺激し、思わず吐き出しそうになったのを懸命に堪え、無理矢理に嚥下して身体の中に押し戻した。
 はあ、は、はぁ、と荒い息をついて自分を落ち着けようともがく。脂汗の浮いた顔を手で拭い、眉根を寄せて悪寒に耐えて、瞼を閉じて深呼吸を一つ。
「ねぇ、聖杜くん」
 由梨花の声に、バッ、と顔を上げた。
「私ね、あの人たちに、聞いたんだ。……聖杜くんが、今日よりも前に、沢山の人たちを殺してきた、て」
 彼女は未だ俯いたままだった。だがその声は決然として、冷静さを取り戻しているように見える。表面上は。
「その話を聞いてから……ううん、聖杜くんがこの山に来て、人を殺してしまっているって知った時から、ずっと、考えてたんだ」
 由梨花の声は悲しみに包まれていた。そう感じたとき、由梨花はまだ落ち着いてなんていないんだ、と気付いた。彼女はまだ混乱したままで、それでも一生懸命に、話している。
「私、あなたの笑顔が大好きで、ずっと魅き込まれてた。優しくて、無邪気で、裏表のない……少しはにかんだ、純粋で、綺麗な笑顔だなって、ずっと、思って たんだよ。そんな聖杜くんが大好きで、お兄ちゃんになった後も、ずっと、笑顔を向けられるたびに顔が熱くなって、幸せな気持ちになれるのが、嬉しかっ た……」
 旋律のようだ。由梨花の声は儚く、弱々しく、彼女が今にも消えてなくなってしまいそうな、そんな響きに満たされていた。聖杜に訴えかけるのはその言葉だけではない、か弱い声音すらも、彼の焦燥感を掻き立てる。
「優しいって、そう信じてた……聖杜くんは絶対に、暴力を肯定するような人じゃないって、ずっと、信じてたんだぁ……。でも――っ、でもね。聖杜くんが人 殺しをしてて、それで平気な顔をしているんだって、それを知ったら、ね。私、あなたのこと、分からなくなっちゃった……分からなく、なっちゃった、よぉ」
 また、涙が、溢れたのだろう。彼女の掌に水滴が落ちた。震える肩を懸命に抑えるように、しゃくり上げながら、由梨花は、勝手だよね、と言った。勝手だよね、私、と。
「自分であなたのことを勝手に想像して……それで、本当のあなたを知って、裏切られた、なんて思ってる。ごめんね、聖杜くん。私、すごくイヤな女、だよ」
 でもね――
 沈黙が、一瞬だけ、降りた。由梨花が戸惑ったのだ、その先の言葉を。その瞬間の空気がとても重苦しくて、悲しみに震える由梨花がとても切なくて、聖杜の胸が大きく軋む。
 由梨花が顔を上げた。涙でクシャクシャに汚れた顔、その真っ直ぐな眼差しが聖杜を捉え、射竦められたように、聖杜の身体が固まった。
「聖杜、くん……私、あなたの笑顔を、どう考えていいのか、分かんないよぉ……。あなたの優しさが、純粋さが、本当なのか、それを、……疑って、しまう、よぉ――」
 最後まで言って、その後は、くず折れた。由梨花は両手で顔を覆い、ただただ俯いて、悲嘆にくれていたのだ。
 うぁ、あう、うう……。由梨花が抑えた声で泣く。その喘ぎを聞きながら、聖杜は、自分の世界が歪んでしまったのを意識していた。
 目の前の光景が、まるで数種類の絵の具が混ぜ合わされたかのように、ゴチャゴチャになっていたのだ。平衡感覚なんて分からない、上と下すら判別できな い、左右前後に世界が揺れ動いているかのようだ。自分がいる場所が分からなくなり、立っているかどうかも怪しくなる。ただただ廻る世界が気持ち悪くて、そ れが、自分の今の心の状態なのだ、と思った。
 由梨花の言ったことがショックだった。心がバラバラになりそうなほど、衝撃を受けたのだ。
(ああ、そうか)
 渦巻く思考の中で、ポツン、と考えた事がある。
(ボクは、人殺し、なんだなぁ……)
 そんな事を意識したのはいつ以来だろう。今日まで忘れていた罪悪感であり――今の今まで考えもしなかった、当たり前の事実。だがそれを、明確に思い出してしまったのを、聖杜はとても悲しく感じた。
 ボクは、悪いことをした人間なんだ。その事を再び実感してしまった。あの時のように。
 浮遊感にも似た不快な気持ち、方向感覚が分からなくなってしまった視界の中で、鮮明に映るのは、肩を振るわせた女の子の姿だった。
 由梨花――
 聖杜の一番、大事な人だけが、見えていた。
 由梨花――!
 大好きな、愛おしい女の子が泣いている、その光景に胸が締め付けられる思いを抱いたのだ。
「……由梨花」
 声を出してようやく、聖杜は現実に帰ってきた。急速に元に戻る視界の中で、自分がまだ立っていることを意識して、改めて少女の小さな身体を見詰める。
「――ごめん」
 ついて出たのは、そんな言葉だった。そして、自分の弱々しい声を聞いて初めて、全身が震えていることに気付いた。聖杜もまた、泣いていたのだ。
「ごめんね、由梨花……」
 何に対して謝っているのか。人を殺したことか、それを黙っていたことか、それとも由梨花の期待を裏切っていたことなのか。
 いや違う、そうではない。聖杜は、由梨花を泣かせてしまったことが悲しくて、彼女の涙が悔しくて、ただただそれが嫌だから、謝っているのだ。
 由梨花は顔を上げてくれなかった。その様子が悲しくて、聖杜は涙を拭うと、もう一度、口を開いた。
「ボクは確かに、人を大勢、殺してきた。……最初は2年前、ロシアで、和杜兄さんの仕事に協力した時だ」
 言葉が痞えた。涙が声を出させてくれない。落ち着くために深く息を吸い込んで、吐いて、それからまた喋りだす。
「その後は、兄さんの仕事には協力しなかった。出来なかったんだ。父さん達の反対があったのもそうだけど、……ボク自身が、人殺しに耐えられなくて、ずっと引き摺ってたから。ボクにこういうのは向いてないって、皆、諦めたんだ」
 仕事中は、人を斬ることに冷静だった。初めてのこととは言え、それまでの訓練から、形式どおりの動きをこなす事が出来ていたのだ。戦闘の興奮もあるし、死ぬ事への恐怖心だってあった。それが道徳観を鈍らせたのは事実だろう。
 しかし全てが終わって、その惨状を目にした時、聖杜は殺人を実感したのだ。人の命を奪うこと、それを理解し、罪悪感に狂いそうになった。日常を取り戻すまで精神が不安定だったが、克服できたのは周囲のサポートと、学校でのありきたりな日々のお陰だろう。
「ボクはもう、人殺しなんてしたくなかったんだ。でも、重成が死んで、感情を抑えられなかった。そして、今回、杏子と由梨花が攫われて……許せなかったんだ、大切な人に危害を加えようとする奴らを」
 これはもはや、言い訳であった。未だ俯き、嗚咽を我慢し続ける由梨花に許しを請う為の、情けない言い訳なのだ。
 しかし、それでも聖杜は喋らなければならなかった。今のこの自分の姿がどんなに惨めであろうと、どれだけ無様であろうとも、由梨花に自分の言葉を伝えねばならない。大好きな人に、大切な少女に、聖杜の気持ちを分かって欲しいから。
「由梨花、ボクは……君が好きだ。大切なんだ、何者にも代え難いほど! ここに来るまで、君の事を考えると、胸が苦しくて、何もできなかった自分が悔しくて、その思いを振り払う為に、必死になってた。心配で、切なくて、ただただ前へと進んだんだ!」
 ありったけの想いを込めて、まるで叫ぶように、由梨花へと言葉を送る。それに一瞬だけ大きく身震いした由梨花だが、その視線はこちらを向いてはくれな かった。それが悲しくて、聖杜はもう一度、口を開いて、しかし言葉が続けられない。少女の寂しそうな姿に、頭の熱が冷めて、これ以上は無意味だと思えたの だ。
 もう、聖杜の気持ちはぶつけたのだ。あとは由梨花が答えを出すのを待つだけだと、そう思った。だから一つだけ、大きく息を吐くと、自分の成すべき事へと切り替える。
「ボク、行くよ」
 ポツンと、そう言った。
「杏子を迎えに、行って来る。これはボクにとって、今回の事へのケジメだから」
 そう、ケジメだった。杏子の家族が襲われてから、今日までの、様々な出来事。それらを終わらせなければならない。なぜならそれが、重成の親友として、彼に出来る最後の行いだと思えたからだ。
「杏子を助けたらさ、三人で家に帰ろう。由梨花、杏子と仲良しになったんだもん。きっと父さん達も帰ってきてる。そしたら家で、皆でただいまって、お帰りって、言い合おうよ」
 だって――
(だってボクたちは、家族、なんだから)
 最後だけは声に出さなかった。由梨花はきっと分かってくれるから。それだけを信じて、聖杜は義妹に背を向ける。
 ふっ、と視線が届いた。由梨花が顔を上げてくれたのだろう。そのことに少しだけ喜びながら、しかし聖杜は振り向かなかった。
 すでに痛みすら伴う脚、その疲労を無視して、聖杜は里へと駆け出した。そこにいるもう一人の義妹を迎えに行く為に、そして今回の事件の決着をつけるために。



 そこは広い場所だった。
 周囲は山に囲まれて、起伏に富んだ緑豊かなその土地は、完全に外界から遮断された場所だった。空気が薄くて星空に近く、相当の標高にあるのだろうとは想 像できるが、それが先程の山から続いているとは信じられないだろう。事実、ここは陸路でも空中でも、どんなに探索したところで、朝尾山周辺から行き着ける 場所ではないのだ。
 宙水の里。かつて泉軍と呼ばれた忍者集団が生まれた土地であり、その一族が暮らしていた秘境である。今は誰一人として住んではいないこの里も、人々の生活を物語るように、朽ちた家々や荒れた田畑が、濃い緑の中に散見された。
 長く暗いトンネルを抜けて、この里に踏み入れた七人は、入り口の近くで辺りをキョロキョロと見回していた。突如として開けた視界、この幻のような光景に、半ば呆然としているのだろう。
 その中にあって、蒼い光に包まれた少女は、その思考がゆっくりと戻ってくるのを感じていたのだ。
(ここは……)
 杏子は全てを理解していた。この場所に呼ばれたことを、その声が囁いた自分の記憶を。
(懐かしい、場所)
 そっ、と瞳を閉じて、ここの空気を静かに嗅いだ。濃密な緑と、不思議と漂う澄んだ香り。充満するのは気の匂いだ。神聖で、郷愁を誘う、この故郷の力の空気。
(私の、居る場所)
 そう、ここは――
(私の、生まれたところ)
 ここは杏子の、母がいる場所なのだ。
 そっ、と。彼女の頬に水滴が伝う。流れた後に気付く涙、その熱く悲しい感情の発露は、何よりも杏子の心を表していた。
 彼女は全てを、理解したのだ。


 足が重くて。だがそれを止めることは出来なかった。傷が痛くて。重い身体は、気力を振り絞って動かしていた。
 全速力で駆け抜けた里への入り口。気の同調が、このトンネルを短くしてくれることを、聖杜はすでに知っていた。一族だけが許された秘術を使っても、心身ともに傷だらけの彼には、その道のりは途轍もなく長く感じられる。
 だから足元が草に覆われた瞬間、月の光に身をさらした時には、疲労で霞む視界を、頭を振って無理に正常へと戻したのだ。
 息が上がって呼吸が苦しい、バクバクと脈動する心臓が痛いほどで、筋肉は引き攣って全身を痺れさせている。そこかしこの傷口はすでに感覚がなく、ただただ激しい圧迫感に、気を失いそうなほど疲弊していた。
 ハァ、ヒュー、ハァ、と切れた息を整えている聖杜の耳に、一際大きな高笑いが響いてきた。
「ここが! この場所が、夢見た秘境か! ウハハハアハァッ! いいぞ、遂にここまでやって来たんだ!」
 聖杜は顔を上げて、声の主を確認した。この先、数メートル程の距離。6、7人ほどの異邦人たちが固まる場所がある。ロテンの制服に身を包んだ男たちの中で、スキンヘッドの中年男性を確認した。
「よおっし、娘! ワシを花に案内しろ! 夢の薬を、ワシに見せてみるんだ!」
 そいつが、セバスチャン・シェーファーが後ろを向いた少女の肩に手をかけた。それを見た瞬間に、聖杜は全身の筋肉を緊張させて、瞬時に思考を切り替えて見せた。
「おまえぇぇっ!」
 叫ぶ。咆哮と同時に駆け出して、刀を構えて目標を見定める。
 ギョッ、としてこちらを振り向いた男たちだが、シェーファーはレッグ・ホルスターから拳銃を抜くと、焦ったように聖杜ヘ向けて引き金を押し込んだ。ダン、と乾いた音が木霊して、聖杜は射線を見極めながら右へとステップする。
 だが、その直後には足を止めねばならなかった。シェーファーがヘッケラー&コックの銃口を杏子へと向けたからである。
「お前……ハインドの悪魔、か?」
 信じられないものを見るように眼を広げるシェーファーだが、すぐに気を取り直したのか、あの役立たず共め、と毒づいた。
「武器を捨てろ、小僧。この娘はまぁ、もう用無しなんでな。撃つのに躊躇いなんて期待できんぞ」
 脅しの文句は英語だった。内容が理解できるだけに、その言葉が真実であると思えて、聖杜は強く奥歯を噛んだ。
 右手の刀を横に落とす。痛む肩を無視して手を挙げて、自分が無力だということをアピールした。
「よし。こっちに来い」
 シェーファーに促されて、ゆっくりと彼に近づいていった。兵士たちのライフルを一斉に向けられながら、緊張感の中、目の前まで進む。
 下卑た笑いを浮かべたシェーファー、その面を憎悪の瞳で睨みつけてから、聖杜は杏子に視線をやった。
「杏子……」
 大丈夫か? と聞こうとした時、その上からシェーファーの声が降ってくる。
「ここに来たと言うことは、ウィルソンもチェーザレも破られた、という訳か。まったく、高い金を出してまで損をするとは、思わなかったわい」
 彼の言葉は、耳に入ってはいなかった。聖杜はただ、未だ背を見せ続ける少女へと、視線を奪われ続けていたのだ。
「あの二人も口ほどではなかった訳だ。噂なぞ頼りにするもんじゃないってことだな」
 呆れたような毒づきと、兵士たちの嘲るような苦笑の唱和。その中で、ジッと、肩を震わせ続ける杏子の、ただならぬ様子に聖杜は胸騒ぎが大きくなるのを感じていた。
「杏子……?」
 もう一度、少女の名前を呼んだとき、彼女はふっとこちらを向いた。
「聖杜、くん……」
 涙に濡れた杏子の顔。その、大きな悲しみを湛えた瞳が、聖杜を捉えた。
「わたし、の、せいで……お兄ちゃんや、お母さんが……、お祖母ちゃん、お父さんも、みんな、死んじゃった……」
「――――――!」
「家族、みんな……私のせいで、死んじゃったんだ、私がいたから、だから死んじゃったんだ、よ、お……」
 慟哭は、彼女が理解してしまったから、起きたのだ。家族の死を、その理由を理解してしまった時、あの時の悲しみを、杏子はその寂しさを、より大きくして思い出してしまったのだ。
(あっ……)
 瞬間、頭に血が上ったのが、自分でも分かった。だがそれ以上に、杏子の涙が、その訳が、聖杜には重くて、呆然としてしまう。怒りがある。だが杏子がそれを知ってしまったことへのショックも受けてしまって、聖杜の思考が停まってしまったのだ。
 そんな、という思いだけが先行した。
(杏子……!)
 彼女が真実を知って、その心情を思ってしまったから、聖杜は辛いのだ。杏子は自らを責めているのかもしれない、それが悲しくて、嫌で、だから泣いているのかもしれない。そう考えられたから、心が張り裂けんばかりに荒れ狂い、混乱してしまっている。
「ハインドの悪魔を始末しろ! そして、ロテンの名声を世に知らしめい!」
 シェーファーの号令が、頭の中に入り込んだ。だがそれは音声記号でしかなく、意味を解釈することなく、音が響いて霧散する。兵士たちが一斉にG36を持ち上げて、ライフルの照準を聖杜の身体に合わせても、彼はそれに気付く事も出来ずにいたのだ。
 兵士たちが声を上げた。発砲と殺人、そして名声への欲望に対する興奮に彩られた歓喜だろう。それが周囲を満たした時、しかし聖杜が感知したものは、たった一つの気配だった。その人が里の入り口に立っている、だから視線をそちらに向けた。
「中村、聖杜――――っ!」
 それは必死の叫び声。切れた息で、掠れた声で、精一杯の音量を響かせて。しかし彼女の声はどこまでも透き通っていて、美しい響きを持って、聖杜の耳に届いてくる。
 その場にいた全員が、虚を付かれた様に視線を引っ張られていた。その先、岩戸の門のすぐ近くに膝をつけた由梨花が、額に大粒の汗を浮かべながら、必死に声を出していた。
「しっかりしろーっ! 杏子ちゃんを助けて、それで皆で帰るんでしょう!? ならボーッとしたまま停まってないで、早くその子を救ってよ!」
(あっ……)
 由梨花の瞳は、真っ直ぐに聖杜だけを見詰めていた。キッと睨みつけるように、その眉を強く上げて、言葉と同時に訴えかけるその眼光は、聖杜の心に突き刺さる。
「あなたは、重成くんの親友でしょ! その仇を、討つんじゃないの!?」
 重成――
 聖杜の頭に、目の前で命を絶たれた少年の姿が、映し出された。その虚無の瞳が思い起こされて、もう二度とあんな光景は見たくないと、その気持ちに全身が熱を帯びる。
「なら、お兄ちゃん! そんな奴ら、やっつけちゃえ――――っ!」
 ドクン、と脈動した。筋肉に力が入り、頭の中がクリアーになる。視界が晴れて、まるで重力が消えてしまったかのように、その身が驚くほど軽くなるのを、実感した。
「なんじゃあ、あの娘は? ……撃てーいっ!」
 背後の男が身体を変えた。ライフルの銃口を由梨花に向けて、照準を合わせようと目を細めた時、その顔面を踵が捉える。
 聖杜の身体が回転して、右足が男の鼻を押し潰していた。ぎぇっ、と潰れた悲鳴を発しながら、男が背後へ倒れこむ。地面に後頭部を強打して、白目を剥いたのを確認した時に、周囲の兵士たちが色めき立った。
「貴様……!」
 目の前の男の銃身を掴むと、左手をキャリング・ハンドルにかけて、テコの原理で無理矢理に回転させた。銃床部が男の顎を下から突き上げ、仰け反ったとこ ろで腹に拳打を叩き込む。同時にG36ライフルを保持すると、重量約3.8kgの銃身を振り回し、さらに左にいた男を殴り倒していた。
 くっ、と呻き声がする。近い位置での小銃は不利と判断したのだろう、自動拳銃を抜いて発砲してくる。乾いた銃声が横を擦り抜け、裾が小さく焼け焦げた。
 残る兵士は3人だけ。まず拳銃を持った男にライフルを投げつける。そいつが腕でブロックした一瞬に、懐に飛び込んで肘を打ち込んでみせる。強烈な一撃を鳩尾に受けた男が昏倒し、その身体を担ぐようにして盾にしながら、男の腰からナイフを引き抜いた。
「ひっ!」
 引き攣った声で奥の男が銃口を向ける。G36の二十二口径弾は、容易く男を貫通するだろう。舌打ち一つで兵士の身体を横に投げると、フル・オートの銃声が響き渡る。上に逃れた聖杜は、空間を足場に跳躍すると、勢いそのままに敵の頭を蹴りつけた。
 ガッ、と鈍い音がしたが、威力は軽い。ライフルを落としはしたが、ふらついただけで、男がすぐに首をもたげる。ギッ、と聖杜を睨んだそいつは、逆上した目でナイフを抜くと、鋭い出足で刺突を繰り出した。
 ヒュッ、と風切り音が耳元を掠める。聖杜は逆手に握った刃で男の右腕を浅く裂いて、凶器を敵から取り落とさせた。
「っだぁぁぁぁ――――っ!?」
 男が腕を抑えて身悶えた時、聖杜は身体を屈めて力を溜める。ハッ、と気合い一閃、掌打を顎に当てて脳を揺らすと、タフな白人は気を逝って倒れた。
 真後ろに別の気配を感じて飛び上がると、殺気に満ちた最後の兵士がG36を乱射した。ダダダダダッ、と夜闇に火線が引かれ、男の口から裂帛の絶叫が迸る。
「やあああああ――――っ!」
 ガッ、と鈍い音がして、男の身体がうつ伏せに倒れた。その後ろで由梨花が、太い木の枝を持ってへたり込んでいた。その疲れ切った顔がこちらへ向くと、ヘトヘトながら、笑顔を聖杜に向けてくれた。その様子に安心し、着地と同時に最後の敵へと向き直る。
 セバスチャン・シェーファーは顔を青に染めながらも、拳銃を杏子に向けて、聖杜の顔を睨みつけていた。
「もう止めろよ、シェーファー。お前の計画は終わったんだ」
 静かにそう、語りかけると、シェーファーは奥歯を噛み締めながら、苦々しそうに反論した。
「ふざけるな! ワシはまだまだ、負けておらん! 連れて来たクズ共が全滅しても、ワシが花を持ち帰って製薬すれば、最強の軍隊が完成する。そうなれば貴様ごとき、眼中にすらなくなってしまうわ!」
「だから、そんな事はもう無理なんだ。お前はここを出られない。『アカソラ』も『アオソラ』も、持って行くことは叶わないんだ」
「ふん、そいつはどうかな。お前が救おうとした大事な娘はここにいる。ワシの指一つが娘の運命を左右するんだ、この意味が分かるだろう? だから大人しく、ワシを花へと案内するんじゃ」
 ニヤリ、と下卑た笑いを浮かべたシェーファー。その顔は確かに、諦めることを考えていない者の眼光を宿していた。
「お兄ちゃん……」
 由梨花が不安そうに、聖杜を呼んだ。そんな彼女に笑いかけてやると、大丈夫だから、と唇だけ動かす。
「シェーファー、残念だがお前には無理なんだ。引き金も引けないし、ましてや杏子を殺すことは、あんたには出来ないんだよ」
「ぐっ、ぬ……!」
 冷静な言葉で、脅しにも似た迫力を送る聖杜に、シェーファーはたじろぐ様に顔を強張らせる。だがすぐに冷や汗を拭うと、不敵な笑みを取り戻した。
「くくくっ、娘、右手一本は覚悟しろよ。小僧はワシの本気を見たいらしい」
 拳銃を杏子の右腕に照準すると、シェーファーはより深く、その笑みを顔に刻んだ。そして親指で撃鉄をゆっくり下ろすと、人差し指に力を込めて、トリガーを思いっきり引き絞った。
 引き絞った、つもりだろう。だが引き金は動かない。聖杜がその空間を固めたことで、動いてはくれないのだ。
「な、……くっ!?」
 焦って拳銃をコッキングし直すシェーファー。だがその目の前には、すでに聖杜が移動していた。
「あっ……」
 眼を見開いたシェーファーの、呆けた声が耳に届いた。
「重成を……杏子の家族を、あんな目に合わせやがって――お前だけは、許せないんだよ!」
 右手のナイフを振り上げる。思いっきり打ち下ろして、その柄の部分をシェーファーの頭に叩き付けた。衝撃に男がもんどりうって、白目を剥いて吹き飛び倒れる。シェーファーの巨体が地面にうつ伏せ、四肢がピクピクと痙攣した。
 ふうっ、と大きく、息を吐き出す。肩の力を抜くと同時に、隣の杏子へ、視線を向けた。
「………………」
 彼女はその大きな瞳を、聖杜に見入るように、ジッと向けていた。
「……大丈夫か?」
 コクン、と杏子が頷いてくれる。それにホッ、と肩を撫で下ろし、少女の頭をクシャリと撫でた。
 小さく笑顔を浮かべた杏子に、聖杜もまた笑って応じる。その背後から、由梨花が彼らに近づいていた。
「お兄ちゃん……」
 彼女の声に振り向くと、由梨花はシェーファーを不安そうに見ていた。その意味に気付いて、フッ、と笑いかけてやる。
「大丈夫、死んではいないよ、皆ね。気を失ってるだけだから、何かで縛っておこう」
「そうなんだ……うん、そうだよね」
 安心したように顔を綻ばせる由梨花。その後でキョロキョロと、顔を巡らせた。なにか拘束具を探しているのだろう。
 ドッ、と疲れが押し寄せてくる。身体中の傷口、特に肩と脇腹の大きな風の銃痕が、ジクジクと痛んできた。無理に気を巡らせて血を止めている状態だ、下手 をすると気を失いかねない感覚だが、それでもまだまだ、やるべき事は残っている。もう少し頑張ろうか、と気合いを入れたその時、服の裾がクイクイと引っ張 られた。
「……なに?」
 振り向いた先、杏子は遠慮がちに、上目遣いでこちらを見ている。その可愛らしい唇がおずおずと開かれると、
「このあと、行きたい場所があるの。いい?」
 と、言った。
「ここに?」
「うん」
 コクリと頷く少女の顔。その不安そうな表情に苦笑を浮かべながらも、聖杜は、良いよ、と言った。その返事に杏子がニッコリと綻んで、安心したように笑顔を浮かべる。。



 泉があった。周囲に赤と青の花が咲き乱れる小さな泉が、里の集落から少し登った所にある森の奥に、ひっそりと水を湛えた姿で、目の前に出現したのだ。
 ここが、かつてこの里に暮らした人々の聖地であり、戦国の世において一国の軍にも匹敵すると言われた忍者集団が、その象徴と崇めた場所である。
 寿重が語って聞かせた、その伝説どおりに『アカソラ』と『アオソラ』が彩る、この『女神の泉』。空に近いこの場所は、夜の闇に星々と月明かりがコントラストをつけた、静謐な光景を提供してくれた。
 その泉の前に、小さな影が立ち尽くす。ゆっくりと全体を見回した後で、またゆっくりと歩みを進めた。まるで何かを確認するように、いや、まるで誰かと話しているかのように、杏子はその外周を歩み始める。
 少女の様子を離れた所から眺めるのは、木に凭れかかった聖杜と由梨花だ。懐かしむように泉と対話する杏子を、邪魔しないように優しく見守る。あの空間に入っていけるのは、恐らく杏子、ただ一人だけだろう。そう思えたからこそ、二人はどちらともなく、この位置にいるのだ。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
 由梨花が静かに、声をかけてきた。それに、ん? とだけ、続きを促す。
「どうして、杏子ちゃんはここに呼ばれたの?」
「……そうだね」
 当然の疑問だな、と思う。何て言えばいいのかな、と少し考えを整理してから、口を開いた。
「お祖父ちゃんの話してくれた物語、覚えてるかな? この泉の中で眠ってる、女神と青年のお話だけど」
「うん……覚えてるよ」
 そっか、と聖杜は少しだけ笑顔になる。
「実はね、あのお話にはちょっとだけ続きがあるんだ。死んでしまった時、女神は青年の子供を、おなかの中に宿してたんだよ」
「えっ?」
 由梨花が意外そうに目を見開く。
「当然、女神が亡くなった時、赤ん坊も一緒に死んでしまった。でも生まれ出でなかったその子もまた、両親のように地上に芽吹いたんだ。森のもう少し奥に一 本だけ、杏の木が生えているんだよ。遥か昔からずっと生き続けてるその木は、正しく赤ん坊の命の樹だと、そう言い伝えられてるんだ」
「そう、なんだ……。でもじゃあ、それって――」
「うん。恐らくだけど、杏子はその赤ん坊の生まれ変わりなんだろう。だからあの子は、この場所に呼ばれた。杏をここに導いたのは、前世の両親の魂なんだろうね」
「そっか……」
 そうなんだなぁ、と、由梨花は笑った。でもその笑顔は悲しみも含んでいて、きっと死んでしまった杏子の今の家族の事も考えて、だから複雑な気持ちになっているんだろうな、と思った。
「心配ないよ。杏子にとっては、両方とも親であり、両方とも家族なんだ」
「うん……両方とも、とっても大事な、存在なんだよね」
 どちらも大切だから、だからあんなに泣いてたんだもんね、と由梨花は言った。聖杜は、さっき見た杏子の泣き顔を思い出して、少しだけ目を伏せた。
「だから杏子ちゃんは、今、それを確かめてるんだよね」
 由梨花の言葉に、ハッ、として顔を上げる。その視線の先で、杏子が泉の景色を眺めていた。
「ああ、そうだ……。そうだよ、きっと」
 聖杜は、由梨花のその考え方に、救われた思いだった。彼女の言ったことはあの子にとって真実だろう、と感じたのだ。
 また暫く、二人の間に、沈黙が降りた。
 ゆったりとした時間が流れる。女神の泉の前に立ち、聖杜と由梨花は優しい瞳で、掛け替えのない新しい家族を、杏子の姿を見守っている。きっとこの構図、この関係は、これからもずっと続いていくボクたちの形なんだろう。聖杜はふとそう考えて、微笑んだ。
 そっ、と。掌に温かさが広がった。由梨花が手を握ったのだと分かって、えっ、と思いながら振り向くと、彼女の大きな瞳が聖杜を捉えていた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
「えっ?」
 突然の謝罪に、聖杜はマヌケな声を出してしまった。
「さっきのこと……お兄ちゃんは私たちを助けに来てくれたのに、私、ヒドイことを言っちゃったから」
「あ、ああ、そのことか」
 里に入る前に、由梨花に言われた言葉が過ぎる。ズキンと胸が痛んだが、あの内容は事実なのだ、由梨花が気にすることはない。
 そんな心を見透かされたのだろう、由梨花は口の端を小さく持ち上げて、聖杜の緊張をほぐす様に笑ってくれた。
「私、ね。お兄ちゃんが助けに来てくれて、嬉しかったよ。でもそれ以上に、やっぱり、ショックだった。お兄ちゃんが沢山の人を殺めたんだって知った時は、 そんなの嘘だって、信じられない気持ちでいっぱいだったんだ。……その事をずっと考えてて、混乱して、それで……お兄ちゃんを信じる気持ちも、疑っちゃっ た」
 えへへっ、と声を出す由梨花の表情は、何故かとても寂しそうに映った。
「うん、由梨花……ごめんね」
「あははっ、それはいいの。今はお兄ちゃんが謝っちゃいけないんだよ」
 由梨花がそう言ってくれたことは、ありがたかった。さっきから彼女の言葉に救われてばかりで、聖杜は少しだけ、情けなくなる。
「お兄ちゃんが里の入り口に入って行った後に……私、考えたんだ。お兄ちゃんがあの時に言った事を、精一杯に、考えたんだよ。それで、お兄ちゃんの言葉が真実なら、私が今まで見てきた、一緒に過ごしてきたお兄ちゃんの優しさは、嘘なんかじゃないんだって、そう、思えたの」
 ここで由梨花が、一旦、言葉を切った。緊張した様子で、一息だけ、深呼吸。その後でスッ、と澄んだ瞳を、聖杜のそれと重ね合わせる。
「私、お兄ちゃんを信じるよ。私の知ってる、気弱だけど真摯で、誰よりも素敵なお兄ちゃんを信じ続ける。だって私は、ずっとお兄ちゃんと、一緒に過ごしていたいから」
 スルリと入り込んできたのは、由梨花の心。真っ直ぐな瞳の輝きが、聖杜の心に溶けて広がる。彼女の決意は力強くて、聖杜はその言葉に大きな安心を得た。
「ありがとう……ありがとう、由梨花」
 ギュッ、と。握った手に力を込めた。嬉しい。こんなに純粋な喜びを感じることが出来る、由梨花の純真さが、その信頼が本当に嬉しかった。
「でもね、お兄ちゃん。これからは、誰かを傷つけるようなことは、しないでね」
「うん、わかった。約束するよ」
 聖杜は心から、そう誓った。彼の性分からして戦うことは苦手だが、何よりも由梨花の悲しむ顔は二度と見たくないし、この信頼関係を崩すことが嫌だったのだ。
 良かった、と由梨花は笑顔を浮かべた。その表情が可愛くて、愛おしくて、聖杜は彼女を抱き締めたい衝動に駆られる。だがそれよりも一足早く、由梨花は聖杜に顔を近づけたのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん。やっぱり大好きだよ」
 チュッ、と小さな音がして、聖杜の頬に柔らかくて気持ちのいい感触が走る。由梨花が顔を離すと、その可愛らしい桜色の唇が触れたのだと理解して、聖杜の全身に、凄い勢いで血流が駆け巡ったのだ。
「これからも……よろしくね、聖杜お兄ちゃん!」
 えへへ、と照れたように笑う由梨花。はにかんだ表情に、聖杜は全身の灼熱の如き体温を意識して、ようやく自我を取り戻したのである。
「な、今、キっ――だぁっ!」
 瞬間、ビクン、と右足に激痛。堪らず聖杜は飛び上がって、その勢いのままで、尻餅をついた。
「だ、だぁー! 痛だだだだ!」
 聖杜は大急ぎでふくらはぎを押さえにかかるが、ビクビクと痙攣した筋肉が、次々と鋭い痛みを訴えてくる。足首が垂れ下がって震える姿は、物悲しくもマヌケな、とても情けない状況なのだ。
「ちょっ、お兄ちゃん!? どうしたの!」
「あ、あ、足、足が……つ、攣ったぁ」
 元もとの疲労に加えて、キスの衝撃に肉体が驚いたのだ。そのせいで唇の心地よい感触も吹っ飛んでしまった。それはとても悲しいことだが、今はこのイヤな痛みをどうにかする方が先決だった。
「い、痛い痛いぃぃー! 由梨花、あ、足首、引っ張ってー!」
「あ、わ、分かった! 大丈夫、お兄ちゃん?」
「いたた! たー! だー! あーっ!」
 由梨花が、なかなか上がらない足首に四苦八苦しながら、聖杜は痛みに半泣きで、必死に足を伸ばそうとする。そんな騒がしい二人に気付いた杏子が、どうしたのかと寄って来る。宙水の里の森の中、三人の喧騒は夜闇に響いた。
 その姿を見詰めるものは、星々の瞬きと銀色の月、闇の帳と深遠な木々たち。そして何より、月の光を水面に映した、暗くも静かな泉の視線だけなのだ。
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