第四章 「迷走、抗う時」


 考えていなかった。
 VANが、光の保護者の孝二と結婚しようとする事を。
 もし、孝二がその申し出を承諾すれば、光は常にVANに監視される事になる。それだけではない。事実上、VANの人間が家族になってしまう。
「え……?」
 香織の上擦った声が聞こえてくる。
 光は、どうにか足元に取り落とした歯ブラシを拾い上げた。
(落ち着け!)
 光は、胸を右手で掴んだ。極度の緊張で息が上がってしまっている。喉も渇いていた。
(落ち着くんだ!)
 今すぐにでも、克美を叩き出したい。
 ありったけの罵声を浴びせて、一思いに殺してしまいたい。
 胸を掴んだ手の指が、爪が、肌に食い込んで痛んだ。その痛みで、自分を思い止まらせる。
 ここで感情的になってはいけない。今、感情のままに具現力を振るえば、孝二や香織も巻き込んでしまう。揺らいだ精神状態で自分の力を制御し切る事ができるかも判らない。感情や精神と特に密接な関係にある閃光型だ。周囲にも攻撃の余波を振りまきかねない。
(冷静になれ!)
 歯を食い縛り、目を閉じ、大きく息を吐き出していく。
 ゆっくりと胸から手を離し、水道の蛇口から水を出して右手で掬う。そのまま、掬った微量の水を自分の顔に叩き付けるように浴びせた。
(頭を冷やせ!)
 ここで光が孝二の結婚に反対するのはまずい。
 ただ反対するのならばまだ良い。だが、今の時点では克美には何の問題もない。反対する理由がほとんど無いのだ。
 もし、光だけが強く反対すれば克美にも感付かれるだろう。同時に、反対者が光だけならば、丸め込まれるのは光の方だ。それに、孝二自身の事なのだから、光に口出しできるはずがない。
 様子を見るのが懸命だ。
 孝二が克美と結婚すると返事をしたわけでもない。返事を聞いてから動く方が良い。
「……孝、二……?」
 香織が孝二の名を呼んだ。
「……少し、考え、させてくれ」
 やっと搾り出したといった声で、孝二が答えた。
「いいわよ」
 克美が笑みを含んだ声を返す。
「でも、余り待たせないでね」
 そう付け加える克美に、孝二と香織は黙り込んだ。
 光は、ゆっくりと歯を磨き始めていた。どうにか、平静を保つ事ができた。
 ただ、孝二が克美のプロポーズを承諾すると言っていた時はどうしていたか解らない。もしかしたら、全力で襲い掛かっていたかもしれない。
 孝二が時間をくれと言った事で、光はようやく歯を磨けるまでに落ち着けたといっても過言ではないだろう。
「ちょっと顔洗ってくる」
 そう行って、孝二は台所にやってきた。
 歯を磨いたまま、光はできる限り自然に、孝二の顔を見上げた。
「……結婚、するの?」
 光は問う。内心の動揺を押し殺して。
「聞いていたのか……。いや、聞こえるよな」
 孝二は呟いて、光を見る。
「……光はどう思う?」
「叔父さんの事なんだから、叔父さんの答えでいいんじゃない?」
 光は言った。
 自分に口出す権利はないと、その言葉で孝二の問いに答えた。
 本当は、克美は駄目だと言いたかった。克美とだけは結婚しないでくれと、叫びたかった。
 ただ、ここでの会話は克美や香織にも聞こえている。理由を話せない反対はできない。それに、光が反対した後で、克美がVANの人間として動く可能性もある。
 下手な事は言えない。
 肯定とも、否定とも着かない言葉を返して、この場は切り抜けるしかなかった。
「……そうだな」
 微かに、光を見る孝二の目が細められる。
 笑みにも見えたが、哀しみを含んでいるようにも見えた。光の錯覚だろうか。
 孝二はそのまま顔を洗い、香織達の方へと戻っていった。
 光はそのまま歯を磨き、二階へと戻った。
 TVゲームのある部屋の中を覗けば、晃がゲームをしている。
「兄貴、下での会話、聞こえてた?」
 言うべきか否か、一瞬迷った。
「いや? 何で?」
 晃はゲーム画面から視線を逸らさずに聞き返す。
「……克美さんが叔父さんにプロポーズしたんだ」
「ふぅん、良かったんじゃないの?」
 晃の言葉に、光は無意識のうちに一歩後退っていた。
 何も知らない晃にとっても、孝二と克美の結婚は悪い話ではない。料理が上手く、面倒見も悪くないのが、今の克美だ。孝二と香織の二人とも面識があり、話も合う。
 ただ、光はそんな克美の本質に触れる真実を知っているだけだ。
 VANという存在を知っている光にとって、克美は自らを取り繕っているようにも見えてしまう。目に見える克美は全て演技で、着々と光の周囲へ手を伸ばしていると考えてしまうのだ。
「良かったと思う、か……?」
 できる限り平静を装い、光は言葉を返す。
「まぁ、叔父さんもそろそろ結婚したっていいと思うしさ」
 ゲームをしている晃が本気で言っているのか、光には判断できない。
 だが、晃がそう感じていたというのは嘘ではないだろう。
 光自身、孝二がまだ独身だというのが不思議だった。いつも傍にいる香織と何故結婚しなかったのか、疑問ではある。口に出せぬまま、今に至るだけだ。
「俺達だって、もう高校生なんだし、遠慮する必要はないと思うけどな」
 晃が言う。
 光も感じていた事だ。
 孝二が結婚しなかったのは、光や晃の面倒を見てるためだったのかもしれない。香織と結婚してしまえば、孝二は夫婦の生活を中心に考えるようになるかもしれない。その時、光や晃との関係が疎遠になってしまうのを恐れて結婚をしていなかった、という見方もできる。
「もしかしたら、誰か待ってたりするのかもな」
 逆に、結婚したい相手が他にいて、その人物を待っているという見方もある。
 香織でもなく、克美でもない誰かを、孝二が待っているというものだ。流石に空想が行き過ぎていると思う部分もあるが、可能性がゼロだとは言い切れない。
「ま、結婚自体は反対じゃないな、俺は」
 それは光も同じだった。
 結婚する事自体は、反対ではない。ただ、相手がVANの人間だという事に問題がある。もっとも、それを知っているのは光だけだ。
「俺だって反対じゃない」
 けれど、と続きそうになる言葉を呑み込んだ。
 迂闊な事を言うべきではない。克美が一階にいるとはいえ、相手はVANの人間だ。
 それも、第二特殊特務部隊長だ。
 目先のごたごたや結婚話のせいで見落としていたが、克美は特殊部隊の長だった。それも、特務部隊という、裏工作などを主な活動とする部隊だ。
 機動部隊や突撃部隊でないところを見ると、克美の目的は何らかの裏工作という事になる。光の殲滅ではない。
 だとすれば、考えられる可能性が高いものは、光と修の無条件降伏だ。
 もしくは、光と修のVANへの強制加入。
 そのために家族を人質にしようとしていると考えるのが自然だ。身内への攻撃に弱いというのは、修や美咲の一件で知られてしまっている。
 簡単に手は出さないだろうが、光の態度次第では家族の命が危ない。
(俺が守らなきゃ……!)
 光は拳を握り締めた。
(俺しか、皆を守れないんだ……!)
 仲間はいる。だが、敵に比べれば圧倒的な数の差がある。
 その差を埋められるのは、光の力だけだ。
 修の力はまだ、制御して無事でいられる時間が短い。定期的に二人で訓練は繰り返しているが、修の精神消耗は光の倍以上だ。体力回復に要する時間に至っては三倍近くあるかもしれない。
 まだ身体に馴染みきっていない修の力は、それに見合う強大な応用力を持っている。
 光と肩を並べて戦うためには、訓練の時間が足りない。
 同時に、修には必ず守り通さねばならない存在が傍にある。有希だ。
 光にとって家族が大切なように、修にとっては有希が最優先なのだ。彼女だけは、修が守り通さなければらなない。光が力を貸す事はできても、有希は修の傍にいる。光の傍にいるわけではないのだ。
 だから、光は家族を、修は有希を守らなければならない。
 そして、自分の命も。
「急に黙り込んで、何だよ?」
 晃の言葉に、光は我に返った。
「あ、いや……香織さんは、どうなのかなって……」
 咄嗟に出た言葉がそれだった。
「事実婚みたいなもんだとは思ってたけど、やっぱり何かあるんだろうな」
 晃が言う。
 克美が孝二にプロポーズした時、香織の声は上擦っていた。少なからず動揺していたという事になる。
 香織は孝二の事をどう思っているのだろうか。そして、孝二は香織の事をどう思っているのだろう。
 二人とも独身のまま、今まで過ごしてきた。
 その二人の間には何があるのだろう。
「……俺は、香織さんの方がいいな」
 光は小さく呟いた。
 今まで、数多く光の面倒を見て来てくれた香織の方が、VANである事を差し引いても克美より印象が良い。孝二が結婚するなら、香織の方が今までとも変わりなく過ごせるような気がした。
「決めるのは叔父さんだけどな」
「判ってる」
 晃の言葉に、光は小さく答えた。
 微かに棘のある言い方になってしまったが、ゲームをしているためか、晃は気付いていないようだった。その事に安堵しつつ、光は自分の部屋に入った。
 明日の終業式が終われば、夏休みになる。
 もし、克美の狙いが光の考えた通りであれば、家族にはまだ攻撃を加えないはずだ。やるとすれば、光の目の前で、脅しとして攻撃の構えを見せるぐらいだろう。
 無論、光の判断が間違っている可能性もある。ただ、克美が孝二との縁談を持ちかけた事から察するにも、家族に直接手を下すとは思えなかった。
 どこまで光の推測が正しいかは判らない。
 動揺させておいて、決心が着くまでの間に家族を皆殺しにされる可能性だってある。
(くそっ、読めない……!)
 言葉に出さず、毒づいた。
 光が考える全てのものに可能性が存在している。どの可能性が最も高いのかすら、判断に苦しむ。
 VANの術中にはまってしまったのかもしれない。
 いや、はまっている事は間違いない。むしろ、光や修はVANの術中にはまらざるをえない。
 具現力を、普段の生活を守るために、火の粉を振り払うためだけに使うと決めた光にとって、先手を打つのは至難の業だ。後手に回り、敵の手を見てから反撃に移る。今までもそうしてきた。
 今回も同じ順序になるはずだ。
 ただ、敵の手が巧妙だったというだけだ。
 ここから挽回する手も必ずある。
(敵は克美だけじゃないんだ……)
 克美に注意を引きつけさせ、死角から攻めてくる可能性もある。
 十分に注意しておかなければならないだろう。

 終業式の間、光は修と小声で話をしていた。
 光が通っていた小学校や中学校と違い、高校の集会は騒がしい。少なくとも、光にはそう感じられた。軽く視線を左右に走らせるだけでも、携帯電話をいじっている者や付近の者と喋っている者が直ぐ目に入る。
 他校に比べれば静かな方らしいが、光にしてみればうるさい事に変わりはない。
 もっとも、そのお陰で修との小声での会話は雑音に掻き消されて他の者には聞こえないのだが。
「厳しいな」
 昨晩の事を話した修の感想がその一言だった。
「どう出ると思う?」
「うーん……妥当なのは、勧誘だろうな」
 修の返答は光の推測とほぼ同じものだった。
「殺すなら、最初から殺すつもりで小細工なんかしないんじゃないか?」
「……そうか?」
 光は聞き返した。
 動揺を誘って光の隙を狙うために家の中にまで上がり込んだ可能性もある。
 ただ、修の言う通りでもあるのだ。
 普通の能力者にとって、力を持たない一般人を殺すのは容易い事だ。組織にしても、小細工をする時間は惜しいはずである。特に、特殊部隊の隊長ならば、その立場から戦闘能力や指揮能力は高いと考えられる。光一人のために小細工の時間を費やすよりも、他の大きな問題を処理するために時間を費やす方が克美個人としても組織全体としても効率的なはずだ。
 だが、それをせずに裏工作をするとなると、単なる排除が目的ではないという事になる。
 そう思わせておいて攻撃を仕掛ける、という光の推測も可能性を考えればゼロではないわけだが、修の理屈も理に適っている。
「家族と自分、捨てるならどっちだ?」
 修が問う。
「……お前なら、どうする?」
 光は修に言葉を返した。
 何度も考えた問題だった。
「俺か?」
「お前か、有希か、いざとなったらどうするつもりだ?」
「決まってるだろ」
 修が口元に笑みを浮かべ、言葉を区切った。
「二つとも、だ」
 少しだけ目を細め、修が光を見つめる。
「俺が死んだら有希が悲しむし、逆は俺が断固拒否する」
「どっちも、ねぇ」
 光は苦笑した。
「両方取れなきゃ後味悪いじゃん」
「ま、そりゃそうだ」
 そう簡単に行くとは思えない。
 それは二人とも十分に理解している。ただ、だからこそ全てが丸く収まる事を望む。
 どちらが失われても、光達が得るものは極僅かなものだ。得られるものが同じ平穏な時間なら、何も失わない方がいい。
 どれほど苦労しようとも、自分を含めた全てを守り切る。そうなるように最善を尽くす。結果的に理想の形に辿り着かなかった時は、それまでの話だ。二度と同じような状況にならぬように選択していくしかない。
 覚悟はしておかなければならない。
 自分か家族か、どちらかが失われても取り乱さぬように。
 最低限それだけの覚悟がなければ、これからの戦いを生き抜いていくのは難しいだろう。
「あ、そうそう、俺、今日自転車だから」
「また有希か?」
 修の言葉に光は聞き返す。
「夏休みの期間とかが色々と違っててな、あっちはもう休みらしいんだ」
「まぁ、ここ進学校だしな……」
「だから今日は早く帰る」
「ここんとこいつもだな」
 溜め息混じりに光が言う。
 最近、修は有希が家に来るとかいるとかの理由でさっさと帰る事が多い。徒歩で登校していた修が、いつのまにか時間短縮のために自転車で登校するようになっていた。
 有希が能力者であるという事はVANも掴んでいるはずだ。だとすれば、いつも一緒にいたい気持ちは判らないわけでもない。
「有希の親父さんが職業柄、あまり家にいられないらしいから、俺ん家に泊まってるんだ」
「ん? 同棲してんのか?」
「んー、そんなもんだな」
「この野郎……」
「ん? 何?」
「いや、何でもない」
 肩を竦めて、光は息をついた。
 終業式が終わる。
 一度、全員がそれぞれのクラスに戻り、長期休業前最後のホームルームを行う。
「じゃあ、これで夏休みだ。しっかり宿題はやってくるように。以上!」
 光達のクラス担任、岡山は配るものだけ生徒に配布すると、さっさとホームルームを終わらせた。
 生徒達がそれぞれ帰り支度をしながら喋り始める中、光と修は教室を出た。
「じゃあ、俺先帰るわ」
「あいよ」
 昇降口で靴を履き替え、光は駐輪場へ向かう修と別れる。
 連絡なら携帯電話でいつでもできる。急用があれば修を呼び寄せれば良い。もしくは、修の力で開いた空間の穴から人気の無い場所へ飛ぶか。
 何にせよ、やりとりはできる。
 自転車を勢い良く漕ぎ出す修の背中を、光は見送った。

 サイクリングロードに差し掛かった時、光の前方に人影が見えた。
「……シェルリア?」
 光は眉根を寄せた。
「待ってたわ、ヒカル」
 シェルリアが一歩、歩みでる。
 彼女の家はこの方角ではない。
「待ってたって……?」
 シェルリアの言葉に、光は戸惑いを隠せなかった。
 待っていたという事は何かしら光に用があるという事だ。だが、光にはその用事というのが見当もつかない。
「……ふふ」
 シェルリアが微笑んだ。
 その瞳が淡い光を放ち始める。
 色は、全ての色を吸収すると言われる、黒色だった。
「――!」
 光が目を剥く。
 無意識のうちに身構えている。ほとんど条件反射だ。
「まさか、VANか?」
「さぁ?」
 光の問いに、シェルリアはからかうかのような返事を返した。
 恐らくはVANだ。光の前に立ちはだかるのはVANの能力者がほとんどだ。それ以外の能力者に出会った事がないのも事実である。
「……VANだとしたら?」
 シェルリアが目を細め、挑戦的な視線を向ける。
「殺す」
 光は告げた。
 シェルリアの口元に微かに笑みが浮かぶ。
「私を殺せるかしら?」
 光の視界に蒼白い閃光が満ちた。
 能力解放と同時に周囲の気配を探る。どうやら、この場にいるのは光とシェルリアの二人だけのようだ。他には誰もいない。
 戦うとなれば、一対一だ。
「VANでないのなら、退いてくれ」
「そうもいかないのよ」
 シェルリアの言葉に、光は静かに息を吐き出した。
 そして、踏み込む。
 光はシェルリアとの距離を積め、拳に力を纏わせて突き込む。
 シェルリアが横へ、光の背後に回り込むようにステップを踏んだ。光は振り向きざまに掌から光弾を放つ。
「――何っ!」
 彼女は、避けなかった。
 口元に笑みを浮かべ、光の攻撃へと手を伸ばしている。
 その手の先に、力場が生じるのが光には判った。薄膜のような闇色のエネルギーが広がる。
 シェルリアの掌から広がった力場が、光の光弾を受け止める。そして、そのまま光弾を呑み込むかのように掻き消した。
「いただいたわ、あなたの力……」
 シェルリアが微笑んだ。
 その瞳の色が僅かに変化している。黒色から、やや青みがかった黒へと変わっていた。具現力の解放によって拡大された視覚は、その微妙な色の変化を見落とさなかった。
 くすり、とシェルリアが笑う。
 彼女が右手を光へと向けた。
 そして、その掌から光弾を放った。それも、光が放ったものと全く同じものを。
「なっ!」
 光は咄嗟に腕を払うようにして光弾を打ち払った。
 だが、掻き消した感触も自分の扱っている力と全く同じ具現力だった。
 力場の周囲に具現力を生じさせる、極めて珍しいタイプ、閃光型の能力だったのである。それも、光が先程シェルリアへと放った一撃と全く同じだけの破壊力があった。
「私の力、判ったかしら?」
 シェルリアが笑みを深める。
「俺の力を、吸収したのか……!」
 彼女が最初に使っていた力場は、明らかに光とは違うものだった。力場を発生させてその内部に能力を生じさせる、閃光型以外の能力の特徴を持っていた。だが、先程シェルリアが放った攻撃は紛れも無く閃光型の特徴を持っている。
 力場に敏感な光には、良く判った。
 シェルリアの持つ具現力は、他者の具現力を吸収し、自らの攻撃手段にするというものだ。吸収するための力場を発生させ、そこに敵からの攻撃力場を受ける。そうする事で、その力場の特性をコピーできるに違いない。
「そう、私の能力は自然型の吸収適応能力」
 光の推測を、シェルリアは肯定した。
 特殊型ではなく、自然型と分類したのは、自然界において似たような能力を持つ生物がいるためだろう。毒を持つ生物の外見を真似て天敵から身を守ったり、その周囲の景色に溶け込む能力を持つ生物だ。それらに似た能力という事から、あえて自然型に分類したのだろう。
「能力を閉ざすまで、最初に受けた力が私の具現力になる……」
 シェルリアが呟く。
 つまり、光は自分の能力と戦う事になるという事だ。
「あなたみたいな特殊な能力者には厄介でしょう?」
 挑戦的な言葉ではあったが、彼女の表情は優しげなものだった。
 光の能力は、珍しいタイプのものだと聞いた事があった。能力者が持つ具現力は五つに分類されているが、その中でも最も数の少ない希少種が閃光型だ。
 他の具現力は通常型、自然型、空間型、特殊型の四型に別けられた後にも能力名称という形で再度分類がなされている。それに対し、閃光型は『閃光型』という名称しか存在しない。他の能力者は、例えばシェルリアなら『自然型・吸収適応能力』という呼称が正式な分類になる。だが、光の場合は『力場破壊能力を併せ持つ閃光型能力者』とされる。
 特殊型という分類ではなく、閃光型という分類にされているのは能力の発動原理そのものに差異があるためだろう。
「殺してしまっても、怨まないでね」
 シェルリアが地を蹴った。
 防護膜が光のものに近い、青色を含んだ黒色の輝きを帯びる。
(――速い!)
 光が後ろへと飛び退る。
 シェルリアの踏み込む速度は、光の後退するスピードと同じだった。一歩、光は後退し、シェルリアは前進する。その距離は全く変わらず、着地は同時だ。
 単純な身体能力はシェルリアの方が上だ。運動の苦手な光が今まで戦ってこれたのは具現力の身体能力の上昇効果があったためと言っても過言ではない。
 光と同じ力をシェルリアが手に入れたと言うのなら、それは彼女が有利である事を意味する。
 基礎身体能力が高い者の方が、具現力による身体能力上昇の効果は高い。実際の上昇値は同じになるのであれば、基本値が高いシェルリアの方が光よりも戦闘力は上になるのだ。
 だが、光がシェルリアを越える事は不可能ではない。
 具現力は精神と結び付いている力だ。精神力を高めれば高めるほど、具現力は力を増す。運動能力の低い光は、具現力の身体能力上昇効果を限界まで引き出す事で今まで勝ち抜いてきたのだ。
 シェルリアが光弾を三発、連続で放つ。
 光はその間を縫うようにしてシェルリアへと踏み込んだ。同時に、至近距離からシェルリアへと右手で光弾を叩き付ける。シェルリアが後方へ飛び退くを見て、光は光弾を拡散させた。
 音も無く拡散する閃光に、シェルリアが身体の前面に防壁を作り出す。蒼白い閃光の盾で光の攻撃を受け止め、相殺する。
「伊達に今まで生き残っているわけじゃないわね」
 シェルリアにはまだ余裕があるようだった。
 それは光の方も同様だ。
 シェルリアが全力で挑んで来ていないと直ぐに判った。光の攻撃力の高さは、光自身が一番良く知っている。光の持つ力を確かめているかのようにすら思えた。
 恐らく、シェルリアが全力を出せば光は苦戦する。互いの攻撃と防御の密度は高くなり、その破壊力も上昇していく。
(オーバー・ロードせずに、勝てるか……?)
 光の懸念はそこだ。
 オーバー・ロードは寿命を縮める。可能な限り使用は避けねばならない。
 だが、光が生き延びるために使わなければならない場面は必ず出てくる。その時までに、光がどれだけオーバー・ロードせずに自分の力を使えるようになっているのかが重要だ。
 もっとも、自分の意思でオーバー・ロードが可能かどうかも問題ではあるのだが。
 同時に、シェルリアの意図が解らない。
 VANならば直ぐに光を始末したいはずだ。VANでないのならば光を惑わす理由が判らない。
 恐らくはVANなのだと思う。他に、能力者が理由も言わずに襲ってくるとは思えない。
 能力者の存在が公に知られていない現在では、力を持つ者は少なからずVANと接触している。ROVと接触し、情報を得てから判断している者も少ないながらいるはずだ。そして、光の存在を知る能力者はVANかROVの者がほとんどだ。例外なのは修と聖一だが、修は光と一緒にいる時間の多い親友であり、聖一はVANにもROVにも関わっている。結局のところ、ROVが光と争う理由はほとんどない。ROVはVANを敵と見做しており、光はVANではないのだから。
 消去法で考えれば、シェルリアはVANの人間という事になる。百パーセントVANだと言い切る事はできないが。
「じゃあ、そろそろ本気でいきましょうか?」
「やっぱり、VANなんだな……」
 シェルリアの言葉に、光は溜め息混じりに呟いた。
「その洞察力は味方に欲しいわ」
「俺はVANには入らない」
 光は目を鋭く細め、踏み込んだ。
 距離を詰め、シェルリアの顔目掛けて右の拳を突き出す。シェルリアが首を横へ逸らしてかわすのを見て、光は左の拳を彼女の脇腹目掛けて打ち込んだ。シェルリアは光の左手を手で受け止め、掴むとそのまま光を強引に引き寄せる。
 シェルリアの膝蹴りに、光も膝蹴りで対抗する。かち合った膝に纏わせた光を互いに炸裂させ、弾き飛ばし合った。
 距離を取ったシェルリアが光弾を連射する。踏み込み、距離を詰めながら、光の逃げる先を消していくように光弾を飛ばしていく。
(――数が多い……!)
 光は両腕に閃光を纏わせ、光弾を打ち消していく。
 シェルリアが掌の上で光弾を炸裂させた。目くらましだと気付いた瞬間には、光の目の前までシェルリアが迫っていた。
 回し蹴りを、光は後方へ跳んでかわす。シェルリアは光を追ってステップを踏み、今度は逆方向から回し蹴りを放った。光は右腕で蹴りを受け止める。シェルリアが地面を蹴って身体を水平になるように浮かし、受け止められた足を軸にして身体を回転させ、光の腕に更に蹴りを放った。
「ぐぅっ!」
 衝撃に光がよろけ、防御が崩れる。
 地面にうつ伏せに落下するシェルリアは、受身を取ってそのまま着地する。そして、うつ伏せのまま両手で身体を支え、倒立するかのように足を跳ね上げ、光に追い討ちをかけた。
 光はどうにかシェルリアの足の前に腕を押し出して攻撃を防いだ。
 シェルリアは蹴りの勢いのまま身体を一回転させて両足を地面につける。さながら、新体操の選手のようだ。
 蹴飛ばされて跳ね上げられた腕を引き戻して構えようとする光へ、シェルリアが肘打ちを繰り出す。
「はっ!」
 後退する光へ、シェルリアが身体を独楽のように回転させて蹴りを放った。
 軸足を交互に入れ替え、蹴りを連続で放つ。
(もっと……速くっ!)
 光は奥歯を噛み締め、大きく後退した。
 距離を取った光へ、シェルリアがすかさず光弾を乱射する。
 近距離では体術、距離が開くと射撃攻撃と、シェルリアの判断は的確なものだった。
(あいつより、速くっ!)
 大きく息を吸い、意を決して踏み込んだ。
 光弾を放ちながら近付いてくるシェルリアの方へ、光は自ら飛び込んでいく。上体を低くし、光弾の下を抜け、身体を逸らして後続の光弾をかわす。互いに近付いていくために、距離は一瞬で詰まる。
 光が右腕を薙いだ。その掌に剣をイメージし、閃光の剣を作り出す。シェルリアへと振るわれる閃光の剣を、彼女は同じものを作り出して受け止めて見せた。
「互角、かしら?」
 シェルリアが小さく笑った。
「いや、俺が有利だ!」
 光は告げ、左手を伸ばした。 
 左手でシェルリアが作り出した剣を握り締める。その手は、蒼白い閃光を纏っている。ただし、白さの増した防護膜だ。
(消せぇっ!)
 強く念じ、シェルリアの剣を握り潰した。
 シェルリアの作り出した閃光の剣は、光の握り締めた場所から先が消えていた。
「力場破壊……!」
 シェルリアが目を見開いた。
 その一瞬の隙を突いて、光はシェルリアの懐に踏み込む。右手の剣を消し、掌を逸らせて脇腹の辺りに手首を持っていく。そのまま、掌底をシェルリアの腹に打ち込んだ。
「ぐ――ッ!」
 シェルリアが身体をくの字に折り曲げる。
 腕を引き戻した光は、引いた腕の方向へと身体を捻り、回し蹴りへと繋いだ。
 ダメージを受けた直後にもかかわらず、シェルリアは回し蹴りを受け止めて見せた。そのまま、光の攻撃の衝撃を利用して距離を取る。
 先程のシェルリアのように、今度は光が光弾を連射する。
「はっ!」
 シェルリアは手刀で光弾を叩き割り、また距離を詰め始めた。
「やっぱり、力場破壊まではコピーできてないんだな?」
 光は呟き、踏み込んだ。
 シェルリアが繰り出した蹴りを弾き、光が拳を突き出す。
「確かに、力場破壊能力までは吸収できていないわ」
 でも、とシェルリアは言葉を区切る。
「あなたの能力特性は全て私も使えるわ」
 シェルリアの身体が纏う防護膜が厚みを増した。
 光の放った回し蹴りをかわすと同時に、背後に回り込んでいる。光が振り向くよりも早く、シェルリアは蹴りを繰り出した。身体の向きを変える途中の光の腹にシェルリアの蹴りが命中し、大きく吹き飛ばされる。
「ぐぁ……っ!」
 空中に放り出され、サイクリングロードから河原に転げ落ちた。背中から砂利の地面に叩き付けられ、跳ねてうつ伏せに転がった。
 光は起き上がり、ゆっくりと歩いてくるシェルリアへと視線を向ける。
 オーバー・ロードではない。精神を集中させて能力を高めているだけだ。
「私の方が有利みたいに見えるけど?」
 シェルリアがまた笑みを見せた。
 格闘攻撃なら力場破壊はその真価を発揮できないと、解っているのだ。
 射撃攻撃は力場を破壊すれば攻撃は届かない。だが、格闘攻撃の際に具現力を上乗せしていない場合、力場を消すのは困難だ。具現力を意図的に重ねていない限り、格闘攻撃は防護膜の厚みで威力を増していく。力場と防護膜は根本的には同じものだ。ただ、その強固さは段違いだ。
 一時的に発揮される攻撃用の力場と、常に発揮されている防護膜ではその力の密度が違う。
 力場破壊で消せるのかどうか、判らない。いや、やろうと思えば消せるだろう。ただ、力場破壊能力を使いこなせていない今の光にはまず無理だ。
 光はまだ、力場破壊能力を一点に集中させて使う事しかできない。一瞬しか発動できず、そのためにも精神力を大きく消費する。
 光は目を閉じた。意識を集中させる。
 深く息を吐き出し、身体の中を流れる血液の循環を早めるかのようなイメージを思い描く。身体の奥底から湧き出す力へと思いを集中させ、力を引き出そうとする。
(あいつを超える、力が必要なんだ!)
 シェルリアの気配が素早く動いた。
 光は目を開く。
 身体を覆う防護膜が厚みを増し、光の力を増大させる。拡大した感覚で、シェルリアの動きを追う。身体がその反応に付いて行く。
 シェルリアが更に加速した。厚みを増した防護膜は、しかし光のものよりも僅かに薄い。
「あなた、もしかして……」
 シェルリアが眉根を寄せる。初めて、驚いたような、焦ったような表情を見せた。
 光が地を蹴った。
 足元で力を炸裂させて一気に加速。シェルリアの目の前まで距離を詰める。
 光が放った回し蹴りを腕で押さえるも、防ぎ切れずにシェルリアが吹き飛ばされた。光は直ぐに跳躍し、弾かれたシェルリアへと追いついた。両手を頭上で組んで大きな拳を作り、それをシェルリアの腹に叩き付けた。
「あがぅっ!」
 シェルリアが砂利に叩き付けられる。
 バウンドするシェルリアの首を掴むと、そのまま馬乗りになるような体勢で光は動きを止めた。
「俺の勝ちだ」
 光は告げた。
 シェルリアの表情が強張る。
 だが、光はシェルリアの首を潰さなかった。
「……何で、殺さない?」
 シェルリアは、暫く間を置いて尋ねた。
「……昨日、俺を好きだと言ったのは本当だったのか?」
 光は問い返した。
「半分は、嘘」
 シェルリアは言った。
「けれど、残りの半分は、本当よ」
 光はシェルリアの首から手を放した。彼女の上から退いて、力を閉ざす。
「何で……?」
 シェルリアが驚いた様子で尋ねた。彼女はまだ力を閉ざしていない。攻撃すれば、光を簡単に殺す事ができる。いや、攻撃すれば簡単に殺せるからこそ、尋ねる余裕があるのだ。
「もう、クラスメイトは殺したくないんだ」
「え……?」
「これ以上、高校の人間に犠牲者を出したくない。シェルリアは、クラスメイトだから」
「あなたを殺すかもしれないわよ?」
「この数ヶ月で高校の生徒が二人は死んでるんだ。それも、俺の周囲で」
 光はシェルリアに視線を向けて、言った。
 彼女は、光との関わりがある。それを大勢の生徒に目撃され、皆がいる中で告白もした。そんなシェルリアがいきなり失踪、もしくは殺されたとなれば話題になる。当然、光にも目が向くだろう。
 それが嫌だった。
「俺は自分の生きたいように生きる」
「……たった、それだけのために戦っているの?」
「君だって、自分の考えたままに戦ってるんだろ?」
「そうだけど……」
「同じなんだよ。考えが違うだけで」
 光はシェルリアに背を向けた。
 もう、彼女の具現力を閉ざしていた。
「……でも、良かったよ」
「え?」
 光の呟きに、シェルリアの声が返ってきた。
「全部嘘じゃなくて」
 そして、光は歩き出した。
「もし、告白が全部嘘だったら、俺は君を殺してた」
 全てが嘘だったなら、シェルリアの転校は光を殺すためだけのものだ。
 無論、半分本当だったからといってもシェルリアの登場は光に対しての攻撃である事に変わりは無い。ただ、彼女の気持ちが動いただけだ。それだけで、光は彼女を殺すのを止めた。
 好意を向けてくれる相手を殺すのは心苦しい。それに、彼女の存在は学校で大きく注目されている。殺してしまって話題になれば、近くにいて目立ってしまった光にも周囲の目が向く可能性は高い。今まで通りの生活を望む光にとっては、あまり好ましい事ではないのだ。
 それに、彼女自身、光を本気で殺そうとしていたのか疑問だった。
 戦闘前の曖昧な態度や反応が、もし光に対する感情から来るのであれば納得できなくもない。光に恋愛感情を抱いているかどうかは定かではないが、少なくとも何も感じない相手ではないという事だ。
 サイクリングロードへと戻り、自宅へと向かう。
 その途中、光は自分の身体に異変を感じた。
「――うぐっ!」
 胸が苦しい。
 丁度心臓の辺りを両手で抑える。爪を立て、強く握り締めていた。痛いと言う感覚よりも、苦しいという感覚の方が勝っている。
 息が詰まりそうになる。心臓が大きく、激しく脈動ている感覚が掌から伝わってくる。その鼓動のリズムに合わせて、軽い頭痛がある。呼吸はできるのに、苦しい。
「かっ……はぁ……っ」
 異変が納まるのに、そう時間はかからなかった。十数秒か、数十秒か、一分には満たない時間だ。
 何事もなかったかのように、体調が元に戻る。
「……また寿命、縮めたかな――」
 光は苦笑いを浮かべると、また歩き出した。
 意図的に、光はオーバー・ロードを引き起こしていた。シェルリアの身体能力強化を超える身体能力を得るために、光は力を望んだ。精神を集中させ、一時的にだがオーバー・ロードと同じ事をしたのだ。
 その反動だと考えるのが妥当だ。
 強い感情の動きによって引き起こされるオーバー・ロードと違って、思考だけで強引に引き出した反動だったのかもしれない。もしかしたら、今までに蓄積された分も含めての反動だったのかもしれない。
 自宅につくまで、光はシェルリアの事を考えていた。
 VANの人間として光の前に立つのであれば、いずれ殺さなければならない。先程の戦闘で攻撃を諦めてくれればいいが、そうもいかないだろう。
 彼女がまた転校するなどで高校を去ってからならば、シェルリアを殺す事への抵抗感は減るはずだ。
 ただ、今は殺す気にならなかった。
 自分でも甘い考えだと思う。
 どうかしている。今まで女性の構成員も殺してきた。同年代の女性だからというわけでもない。恋愛感情を抱いてもいない。
「疲れてんのかな、俺……」
 家には克美がいる。ここ四日間、克美への対処の事で頭が一杯だった。
「身近な者に注意を払え、か……。こっちの事もあったのかもしれないな」
 ダスクの言葉を思い出し、光は苦笑した。
 目先の克美の事に意識が向かい過ぎて、学校内の事に意識がほとんど向いていなかった。彼女の事に意識を向けていたのは初日だけだ。
 考えてみれば、シェルリアが転校してきたのと克美がやってきたのは同じ日の出来事だ。シェルリアは克美の部下という事かもしれない。
 吸収適応能力を持つシェルリアが部下だとすれば、克美の力は一体何なのだろうか。二人を同時に相手にするのは厳しい。十中八九、修と協力して戦う事になるだろう。
 自宅が見えてくる。自転車の存在を確認して、晃が既に帰宅している事を確認した。
 自宅の前に辿り着き、光は玄関の引き戸を開けた。
「ただいま」
 いつも通りの光を装って、家に入る。
「お帰り、光」
 孝二の声が聞こえた。
「あれ、叔父さん? えらく早いね?」
 リビングに孝二がいた事に光は驚いていた。
 いつもなら、孝二はまだ帰って来ていない時間だ。何かあったのだろうか。それとも早引けしてきたのか。だが、孝二がそんな事をするとは思えない。風邪などの病気でない限り、孝二はいつも時間きっちり仕事をこなしてくる。
「ああ、今日は仕事を早く済ませて来たんだ」
 孝二が言う。
 香織はいないようだった。靴も光と晃、孝二の三人以外には、克美のものしかない。
 キッチンでは克美が何か料理の下準備をしているようだ。上機嫌に見えるのは気のせいか。
「……珍しいね?」
 光の感想に、孝二は微かに苦笑したようにも見えた。
「孝二君から返事が来たのよ」
 克美が微笑んだ。
 その態度に、まさか、と思う。
 厭な汗が噴き出し、背筋を伝っていく。表面上は平静を装い、視線を孝二に向ける。足が震えそうだった。
「返事、したの?」
 孝二が頷く。
「……何て?」
 尋ねるのに、時間がかかった。
 それは数十秒の出来事だったに違いない。ただ、光にはもっと長く感じられた。息が詰まって声が出せない時のように、言葉が出てこなかった。
 孝二は、静かに、だがはっきりと告げた。
「僕は、克美と結婚するよ」
 その言葉に、光は愕然とした。
 事態は最悪の方向に向かっている。そう思えた。
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