プロローグ 「変態の鳴き声」


 罰ゲーム、である。
 部活連中での宴会で、一番に酔い潰れたのが原因で、上井 聖哉(かみい せいや)の後輩である里辺 利一(さとべ としかず)が罰ゲームを受けることになったのだ。その罰ゲームと言うのが、余りにも屈辱的で、余りにも羞恥的な物なのであった。まして、初めてそれを行う者には精神的に厳しすぎるのである。可哀想過ぎるのである。恥を捨てることがどれほど難しいか、聖哉にはよくよく了解できることなのである。
 なのでここは、聖哉がお手本を示すのである。
「準備はいいか、リベリー」
 と聖哉が話しかけると、当の利一は、
「フランク・リベリーじゃあ無いです……」
 といつもの掛け合いを披露してくれる。
 なんだ、意外と緊張してないじゃないか、と聖哉は思った。
 勘違いである。
 ここは渋谷、109前の大通り。若者がこれでもかと密集しながら歩き、おいおいちょっと待てよと言いたい位の混雑ぶりであった。
 そんな中でこれから大恥をかかねばならないのである。普段から元気にはしゃぐタイプではない利一も、いつも以上に覇気無く落ち込んで今日と言う日を迎えているのだ。
 だからドンヨリ、憂鬱気分。
 しかしそんな事には全く気付かない聖哉の方は、
「こういう事は割り切るのが大切だ。こいつらは全く知らない奴ら、ここにいるのは金輪際、自分には全く関係の無い奴ら。そういうことを心に刻み付けて、自分の理性をシュレッダーにかけてから、自意識を封じ込めるんだぞ」
 などと偉そうに説教しているのである。
 緊張した様子など一つもなかった。
「まぁ要は、何も考えずに馬鹿になれ、てことだ」
 聖哉はそう言ってウィンクまでして見せるのだ。
 利一は、はぁそうですか、と頷くだけ。なんだか顔色が悪い。しかし聖哉は気にしなかった。
「んじゃお手本見せるからな」
 と言って、ニコニコ笑いながら通りを歩き出したではないか。
 利一はその後ろに着いていきながら、
(なんでこの人は疑問も抱かずにこんなことができるんだろう……)
 と思っていた。元来、罰ゲームは自分だけのはずで、聖哉は関係ないはずだからである。
 しかも自然体の、なんの気負いも嫌気も無い、さっぱり爽やかな笑顔を浮かべているのである。この人は本気で頭がオカシイのではないか、とそう考えてしまいそうな勢いであった。
 大通りの中程まで来て、聖哉は立ち止まった。グルリと周囲を見回して、その後で利一の肩を叩く。
「あの子に狙いを定めよう」
 聖哉が指で示した先に、一人の女の子が居た。
 スラリとした長身、短い髪の毛、切れ長の双眸。どこか冷たいような雰囲気を纏った美少女だ。どこかのモデルかと思うほどに整ったスタイルが、春先の決して薄くはない服飾からでも窺い知ることができるのである。まだ顔立ちが幼さを残すところから、自分たちと同年代、つまり高校生くらいであると了解できるが、その年齢にしては余りにも大人の雰囲気を醸す、一種近づき難いほどの空気があった。
 その少女を見て利一は、あれ? と思った。知っている顔だ。
「ねぇ先輩、あの子って……」
 と聖哉に注意を促そうと首を巡らして、
 …………。
 せ、先輩!?
 と驚愕した。
 聖哉はすでに、人ごみを掻き分けながら、問題の少女に近づいていっているのだ。
 あっちゃー、と利一は頭を抱えた。
 その後で、しょうがなく聖哉を追っていく。ただし近づき過ぎないように。姿が見え、声が届くくらいの距離だ。人ごみの中で、少女に自分の姿を悟られないようにする為である。何故ならこの後、聖哉はとてつもない事をしでかすからだ。尚且つ知り合いなのである。仲間だと思われたら、利一はもしかしたらこれから生きていく術を失うかもしれないのだ。
 などと利一が、完全に逃げの態勢を整えているなどとは露知らず。聖哉は少女の目前に迫っていた。
 そんなに接近して、やっぱり美人だなぁ、と再確認した。クールな感じのする美しさだ、と頷いてしまうのである。こんな当たりクジは珍しい。
 同時に、そんな美人に不快感を与えることに、罪悪感を感じる。チクリと胸が痛みはするが、そんなことはここ数回ですっかり気にならなくなっている聖哉である。すぐに、でもまぁ俺には関係ないな、と割り切って接触を試みた。
 と言うことでレッツ・ファーストコンタクト!
 小さく距離を詰めるだけだった歩幅を、大きく前に躍り出るような大胆なスピードに。そんな違和感に気付いたのだろう、女の子は、俯き気味だった顔を上げた。
 そして、唐突に怪しげな男が目の前にいることに驚いたのだろう、少女は大きく瞳を広げた。
 ゾクリ、と来た。
 少女が呆けた瞬間だからだ。その一瞬だけ、人はとてつもない位に無防備になるのである。無防備に、視線を合わせてしまうのである。無用心にも程があるくらいの表情を見た瞬間に、聖哉の背筋にとてつもない悦びが駆け上がるのだ。倒錯した愉悦、それこそが聖哉に「こんな事」をさせる理由であった。聖哉は非常に変態なのである。
 だから聖哉は、更なるアタックを図るのだ。より大きく、より衝撃的な「戸惑い」を、「呆然」を目にするために。
「ね、お嬢さん♪」
 と声をかけた時の聖哉は笑顔だった。爽やかな、紳士的な、そして張り付いた、不自然な笑み。まぁもともとのルックスが、爽やかー、とか紳士的ー、とかそう言うのとは掛け離れたシツコイ感じなので似合わないのもいた仕方なし。なのである。
 それを即座に崩すのだ。
 相好を崩し、イヤらしく、ねちっこく、とびっきり気持ちの悪い感じの笑顔に変貌させる。
「おじさんと気持ち良いことしな〜い!?」
 ゲヘヘヘヘッ、と怪しい笑いを漏らしながら。
 指なんかワキワキさせてみたり。
 とにかく変態チックに、とてつもなく近づきがたいオーラを放ちながら、スンゴイ嫌な空気を醸し出すのである。
「…………! …………? …………!?」
 少女は眼を見開いて、口をあんぐり開けて、理想的なまでに驚愕の表情で固まってくれていた。
 聖哉はニヤリとした。
 いやらしい笑みをより深くしたのである。
 背筋には怖気にも似たくらいの快感が走っているのだ。
 ていうか。
 ヤべえ。こんな予想以上のリアクションは初めてだ。想像以上にいい顔をしてくれている、なんだかとてつもなく嬉しい気分だ。
 喜んじゃいけないところで、恐ろしいほどの愉悦を体感してしまっている。
(ダメだ……)
 感じたことも無い気持ちだ。
(クセになりそう……!)
 こんな感じなのである。
 そして、聖哉は恒久的な変質者への第一歩を踏んでしまったので――
 ………………。
 ………………………。
 ………………………………。
 あれ?
 おかしいな、と思った。
 続くリアクションが無い。
 聖哉は思わず真面目な顔に戻って、少女の表情を窺ってしまった。
 その顔はまだ逡巡、つまり戸惑いの色を大きく含んでいたのだが、不思議なことにあるべき要素が読み取れなかった。それ即ち怒り、そして蔑視と嘲笑。この直後に発されるであろう憤慨と激昂が、表情に表れていない。
(な、なんで?)
 逆に聖哉に戸惑いが生まれてしまう。思わず、人よりも頭の回転が遅いのか? だなんて失礼な勘繰りをしてしまう位に。
 しかし少女はそれ以上だった。
 そっ、と表情が戻ったのである。この間までに既に十秒近い時間が経っていた。
 ほっ、と思わず安心してしまう。これで漸く怒られる。通常のリアクションが帰ってきて、後は笑いながら逃げるだけだ――
 表情を戻した少女の、その頬に赤みが差した。そして何故か、その首は小さく縦に揺れたように見えて、今度は聖哉が目を見張る。
「へっ?」
 と思わず声に出してしまったのも束の間、目の前の少女が口を開いた。
「っ、い、良いですよ……」
 凛、と響く鈴の音のような声だった。
 緊張しているかのような、艶を含んだ声だった。
 頭に涼しい、耳に心地よく入ってくる雰囲気の声だった。
「…………! …………? …………!?」
 脱兎。
 聖哉は脱兎の如く、駆け出したのである。
 恐ろしいほどの形相で。
 まるで悪魔にでも取り付かれたかのように。
 驚愕と苦悩に顔面を歪めて。
「っ、うわああああああああああああああああああああ―――――――――っ!?」
 などと物凄い絶叫を上げて。
 街中の大量の人間からの、不審で憐れな精神異常者に向けるかのような、そんな白い視線も気付かぬほどに取り乱して。
 混雑する歩道を、人波かき分け時には突き飛ばすことすら厭わずに、必死にその場から離れるのである。
 今の聖哉を的確に表すとしたら、まさに発狂してしまったキ○ガイその物なのである。



「せ、先輩!?」
 猛烈ダッシュで人々を突き倒す聖哉。そんな彼に最も驚愕したのは利一である。
 もっとも、利一とてもあれは驚きを禁じえない。まさかあんな変態アタックに肯定の意を示す女性が居たとは――
 利一はとりあえず、大慌てで聖哉の後を追うことにした。すでに三十メートルは離れてしまった先輩を見て、よくもまぁこの人波の中で突き進めるものだ、と冷静に感想できる自分が居るが、しょーじき微妙な気分である。
 走る際にチラと、問題の女の子へと視線を向けてみた。左右対称の整った顔立ち、綺麗に筋の通った鼻梁、涼しげな瞳や小さな口、サラサラな少し短めの髪の毛、女子としては長身の体躯は、スラリとした均整の取れたスタイルをコートの上からでも知らせてくれる。クールな感じの美少女。ま、今は余りにも突然のことに眼を見開いて硬直してるんですがね。
 そんな、同じクラスのクールな美少女・辺莉 美玖(へんり みく)――ヤローどもの高嶺の花――を横目にチラ見した後、顔を戻して、利一は気狂いしたかのような絶叫が響き渡る辺りを目指して懸命に走ったのである。
 それから約百メートルも離れた電信柱にて。
 電柱に寄りかかるように座り込む聖哉が発見された。
 非常にぐったりしている。
 ………………………。
 なんだか非常に話しかけづらい。そんな重い空気を背負った聖哉に、利一は近づいた。
「せ、先輩……?」
 そう背中に声をかける。
 聖哉は静かにこちらを振り返った。
 彼の唇が小さく動いている。何事かを呟いているようだ。
「ど、どうしたんすか、先輩?」
 余りにも鬼気迫る聖哉の落ち込みように焦りを感じつつ。利一は彼の口に自分の耳を近づけていった。何を言っているのか知りたかったからだ。
 すると、聖哉は、
「な、何故だ……何故、何故……?」
 と繰り返しているようなのである。
 聖哉の頭が少しずつ上がって、焦点が徐々に利一に定まってくると、
「し、正気を取り戻してください! 先輩!」
 と聖哉に叫んでみた。
 すると返答は、
「何で……俺は、肯定されたんだ?」
 静かに、ゆっくりと、顔面蒼白で、聖哉は疑問を投げかけてきた。信じられない、と言った風情である。当たり前だ、利一にも信じられない。自分にも疑問なのである。
 未だに青い顔で唇を震わせている聖哉ではあるが、少しばかり自我を取り戻したようだ。落ち着いたのであろう、そう判断して、利一は言葉を投げる。
「先輩、どうすんですか? これから」
「……これから?」
 言葉を理解していない聖哉。何が? と目で利一に問いかけている。
 だから彼は答えてあげた。
「うちの学校の娘ですよ、あの子」
 …………………………………………。
「な、なんだってー!?」
 そんな馬鹿のことがー! と叫んで、聖哉は再び頭を抱え込んでしまったではないか。
 どうやら相当のショックを受けてしまったようである。
 再度、電信柱に向けてブツブツブツブツ呟き始めた聖哉に哀れみと憐れみと、そして自分じゃなくて良かったー、という少しの安堵を交えつつ、利一は聖哉を暫くは放っておいてあげることにした。
 とりあえず自分たちの来た方向に視線を向ける。もう美玖の姿は見えず、何故か電柱に向けて落ち込んでいる聖哉に対して奇異の視線を向ける人々しか居ない。
「なんで頷いたんだろ……?」
 そんなことを虚空に問いかけてみるも、もちろん答えは返ってこないし、分からぬまま。
 まぁいま判然とすることは、聖哉はしばらく立ち上がれそうにはない、と言うことである。
 あー、あぁぁー、と言う怪しい呻き声が途切れないのだから。
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