第六章 「デュアル・ソウル」


 炎でできた翼が左右へと大きく伸び、フェニックスが姿を現す。雄叫びを上げ、爆発的な加速で瞬時に化け物との距離を詰める。身に纏う炎が厚みを増し、迫り来る触手を焼き払った。
 衝撃波がフェニックスの炎を揺らし、追撃の水流が水蒸気爆発を起こした。弾き飛ばされたフェニックスが地面に叩き付けられる。それでも炎は消えず、フェニックスが起き上がる。熱量に、地面が焼け爛れていた。
「あいつ、これだけの力を持っていたのか……」
 イグルが呟いた。
 フェニックスが翼から炎を撒き散らす。滝のように降り注ぐ炎を衝撃波で掻き消し、化け物が水を放出した。フェニックスの身体に触れた瞬間に水は沸騰し、水蒸気爆発を起こす。
 何度吹き飛ばされてもフェニックスはまたリクシアへと突撃する。
 イルゼの咆哮が聞こえた。
 複数個所から放たれた水流がフェニックスの身体で水蒸気爆発を起こす。同時に放たれた衝撃波を浴び、フェニックスが大きく吹き飛ばされた。
 フィオラの目の前の地面に、フェニックスが叩き付けられた。
「どうして……何で、イルゼは……?」
 フィオラの口を突いて出た言葉が、途中で止まる。フェニックスは、また身を起こしていた。
 燃え盛る身体に傷は見えない。だが、本当は傷だらけのはずだ。
「僕は、フィオラを守りたい……。フィオラだけは、どうしても守りたいんだ」
 イルゼが告げた。
 普段からイルゼは誰にでも優しい。生きているもの全てが等しくそのまま在り続けるのを願う。自分自身はどれほど傷付こうとも、イルゼは自ら剣を振りかざしたりしない。
 自分が傷付くよりも、他者が、フィオラに害が及ぶとイルゼは刃を手にする。どんなに理不尽な相手を前にしても、イルゼは全てが丸く収まれば良いと思っている。相手を気遣い、最後の最後で手を抜くのだ。
 だが、相手の力が強大になった時、イルゼは敵を排除する。
 フィオラは何も言えなかった。
 ただ、リクシアに立ち向かって行くイルゼの背中を見守るしかなかった。
 ヴィルノアとグライスが復帰し、イルゼが加わる。
 それでも、化け物を追い詰められない。グライスは触手に阻まれ、ヴィルノアが衝撃波に苦戦する。身体が比較的大きいフェニックスはリクシアの放つ水流をかわし切れずにいた。フェニックスの素早さも尋常なものではない。にも関わらず、フェニックスに的確に攻撃を加えているのは、敵が水を使うからだ。自在に形を操り、流れを操作できる水をかわすのは至難の業だ。ましてや、フェニックスともなれば身体に纏う炎や陽炎を掠めただけでも水は沸騰する。
 かわし難いのだ。
 それでも、三人は戦うのを止めない。フェニックスが翼を大きく広げ、炎の雨を降らせる。水流が傘のように展開して炎を防ぎ、生じた蒸気が視界を悪くしていた。
「ちっ……!」
 ヴィルノアの舌打ちが聞こえた。
 化け物の動きが、少しずつ三人に対応したものになりつつあった。それぞれに効果的な攻撃が多く放たれるようになっている。
 前方から向かってくる触手の合間を縫うように駆けるグライスを、横薙ぎの触手が襲った。弾き飛ばされたグライスの右肩に背後から触手が突き刺さる。
「グライス!」
 フェンリルが地を駆ける。
 風よりも早く空間を駆け抜け、フェンリルがグライスの背後に着地した。遅れてふいた突風が触手を払い、フェンリルの着地点に穴を穿った。
 グライスに刺さっていた触手が一瞬で切断される。グライスが膝を着いた。
「すみません、戦士長……!」
 グライスの声を背に、フェンリルは次々と向かってくる触手を切り払っていく。
「シア・ヴォルガは強い女性だったな」
 ヴィルノアが呟いた。
 もはや、居合いを放つヴィルノアの腕は見えない。彼の前に壁があるかの如く、無数の触手が切断されている。だが、化け物の背中からは絶え間なく触手が生え続け、捨て身で攻撃を続けていた。
「戦士長、俺に構わず、戦って下さい」
「仲間を見捨てられるか」
 グライスの言葉に、ヴィルノアが言い返した。
「ですが、このままでは……」
 グライスが言葉を濁した。
 誰もが解っている。このままの戦いを続けていれば、いずれ全滅してしまう。敵に有効打を与えられぬまま、身動きを封じるだけで精一杯になっている。
 イルゼの参戦が現状をどうにか支えていた。だが、いつまでこの状態が持つのが判らない。フィオラを庇って敵の攻撃を凌いだために、イルゼは最初から疲弊した状態で戦っているのだ。
「フィオラ……」
 イクシオがフィオラを呼んだ。
「駄目、動けない……。身体が、動かないの……」
 フィオラの震えはまだ止まっていない。恐怖の感情がフィオラの魂を掴んだまま放さない。いつもなら簡単にできるはずのイクシオとの交代ができなかった。どんな時でも、イクシオはフィオラの意思の下で交代している。やろうと思えば強引にでもイクシオは戦える。だが、彼はそれを望まない。
「戦う意思はあるか?」
 イクシオが問う。
 もしもフィオラが望むなら、イクシオが交代するというのだ。
 フィオラは首を横に振った。今、身体をイクシオに渡してしまえば、得体の知れない恐怖に呑み込まれてしまいそうだった。
「グライス!」
 ヴィルノアの声に、フィオラは顔を上げた。そして、目を見張った。
 グライスが無数の触手に身体を貫かれていた。ヴィルノアを押し退けたような体勢のまま、グライスは立っている。口の端から紅い血が伝い落ちる。
「足手纏いで、すみません……俺も、彼女の下へ行きます」
 寂しげな笑みを浮かべて、グライスは呟いた。
 そして、グライスは咆哮した。残る力の全てを使い、貫かれた身体を強引に前進させる。触手の束を握り締め、引き千切り、切り裂き、身体を貫かれても構わずに、グライスが特攻する。
「グライス、よせ!」
 ヴィルノアの声に、グライスは振り返らない。
 叫び、爪を化け物の胸元に突き入れる。
 次の瞬間、突き込まれたグライスの腕が呑み込まれた。腕を呑み込まれ、グライスの身体がリクシアの中に吸い込まれるように消えていった。まるで、水の中に飛び込んだかのように。
「グライスさん!」
 イルゼの声が震えていた。
 グライスを呑み込んだリクシアの身体に変化が起きる。狼の頭が肩から伸び、爪のついた腕が新たに生えた。同時に、化け物がいくつもの光弾を作り出す。
「危ないっ!」
 ほとんど瞬間移動をしたかのように、フェンリルはフィオラの脇へ移動する。そのままフェンリルはフィオラを抱えて跳び退った。
 直後、紫色の光弾がフィオラのいた場所で炸裂する。フェニックスがいくつか光弾を消し飛ばしていたが、捌き切れなかったものが流れてくる。
「白虎!」
 座り込んだままのレイヴァートを突き飛ばしたイグルの右腕が光弾を浴びた。何もないかのように光弾はイグルの腕をすり抜ける。ただ、そこにあったものを掻き消して。
 イグルの腕が落ちた。
 魂を解放して彼が振り返った瞬間、地中から飛び出した触手がイグルの胸を貫いた。地中から飛び出した触手がレイヴァートにも矛先を向ける。
「させねぇっ!」
 自分の身体が裂けるのも厭わず、イグルはレイヴァートの前に飛び出した。激痛を奥歯で噛み殺し、イグルが触手を引き千切る。レイヴァートを片手で抱え、フィオラを抱えて攻撃を避け続けるフェンリルの下へ駆け寄る。
「白虎を、頼む」
「お前……」
 イグルの言葉に、ヴィルノアが目を見張った。
「ようやく恩を返せたかな……」
 ふっ、と鼻で笑い、イグルは力無くその場に崩れ落ちた。
 力尽きたイグルを触手が貫き、呑み込んだ。
「イグル……」
 レイヴァートが小さく、名を呟いた。
 フィオラが顔をレイヴァートに向けた。放心状態だったレイヴァートの顔に、微かだが表情の変化が見られた。それを見た瞬間、フィオラの震えが小さくなっていくのが判った。
「まずい、イルゼ!」
 ヴィルノアが呟いた。
 化け物の触手の全てがフェニックスに向けられていた。全ての方向から狙われ、水流や衝撃波の集中攻撃を受けていた。新たに生えた爪がかまいたちを起こし、肩から伸びた狼の牙が噛み付こうとする。
 炎を撒き散らすフェニックスが水蒸気爆発で体勢を崩し、衝撃波が炎を揺らす。容赦なく叩き付けられる触手を焼きながらも、打撃のダメージを受け、フェニックスが翻弄されていた。
 そして、イグルを呑み込んだ化け物がまた力を増す。背に大きな翼が生え、嘴を持った鳥の頭が脇から伸びた。
 無数に放たれた紫色の光弾がフェニックスを襲う。かわし切れず、フェニックスに光弾が命中する。一発浴びて動きが止まった直後、次々と光弾がフェニックスを打ちのめした。
「隙が、無い……!」
 ヴィルノアの奥歯が音を立てた。
「イクシオ……」
 フィオラが呼びかけるのと、同時だった。
 凄まじい破裂音が聞こえた。
 見れば、フェニックスの胸元にリクシアが掌底を打ち込んでいた。炎が爆ぜる。命中した場所から身体の表面を伝って背中まで、衝撃波が突き抜ける。炎の揺らめきが胸部から背中までを撫でるように吹き抜けていく。見えない光が駆け巡ったかのようだった。
 一瞬にして炎が消失し、イルゼへと姿が戻っていた。
 目を大きく見開いたイルゼの胸に、もう一度衝撃が走った。見えない光が空間の揺らぎとして伝わり、胸から背中まで突き抜ける。たったの一撃で、イルゼは百メートル以上吹き飛ばされていた。
 着地したフェンリルの足元で、イルゼは目を閉じ、動かなくなっていた。
「イルゼ……?」
 フィオラの声は震えていた。
 ゆっくりと、イルゼに歩み寄る。ヴィルノアも駆け寄り、イルゼの胸に手を置いた。
「魂が……!」
 半分以上、崩壊していた。
 今まで近くにあったものが突然無くなってしまったような喪失感がある。イルゼという人間の存在感、気配が希薄になっていた。
「うそ……」
 フィオラは呟いた。
 嘘であって欲しい。心の底からそう思った。
 だが、現実は残酷だった。
 イルゼは、死んだ。ゆっくりと、イルゼの魂が崩壊していくのを感じた。少しずつ、彼の生気が抜けていく。
「リクシア……」
 レイヴァートが呟いた。
 彼女の魂が半壊した時も、同じような状況だったのだろうか。レイヴァートには、イルゼの姿とリクシアが被って見えているのだろうか。
 今まで、何もせずともそこにあったイルゼが失われていく。
 フィオラはまた、震えていた。溢れ出した涙が頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。イルゼの肌の上で、涙は弾けて消えた。
「イルゼ……ねぇ、イルゼ……!」
 もう、親しい誰かが死ぬのは見たくなかった。イルゼの優しい笑顔が、滲んだ視界に浮かんだ。いつも隣にあった笑顔が。
 大きな喪失感に、胸が苦しくなる。締め付けられ、呼吸ができない。呼んでも目を覚まさないイルゼを見るのが、辛く、不安で仕方がなかった。
「フィオラ」
 イクシオが呟いた。
「起きてよ、イルゼ! 目を覚ましてよ! ねぇっ!」
 フィオラはイルゼの肩を掴み、揺すった。顔をくしゃくしゃにして涙を流し、呼びかける。動かないイルゼの胸に顔を埋め、嗚咽に肩を震わせる。
「ヴィルノア、すまない……後始末、付き合ってくれるか?」
 レイヴァートが呟いた。
「イグル、シアが俺を庇って死んで、ようやく気付けた。イクシオが言いたかった事」
「元はと言えば、俺が彼女を殺し切れなかったのに責任がある。言われなくてもそのつもりだ」
 ヴィルノアが答える。
 噎び泣くフィオラから、二人が離れて行く。
「助けたいか?」
 水面に波紋が広がっていくかのように、イクシオの言葉が響いた。フィオラの目が開かれる。
「一つだけ、方法がある」
 静かに、だがはっきりと、イクシオは告げた。

 *

 漆黒の海を、イルゼは漂っていた。
 何も見えず、何も聞こえない。ただ、冷たく、暗い空間だけが見えた。
 これから死ぬのか、それとももう死んでしまったのか。ぼんやりと感じたのは、寒さと孤独感だけだ。
 死にたくないと思うよりも、フィオラの安否を心配していた。
「情けないなぁ……」
 寂しげな笑みを浮かべ、イルゼは呟いた。
 フィオラにはイクシオがいる。イルゼに入り込む余地は無い。ただ、彼女の傍にいるだけに甘んじていた。イクシオには及ばないが、彼女の力になりたいと思った。彼女を守りたいと願った。
 力を扱い切れず、戦いを好まないイルゼが、ただ一つ誓っていたのは、フィオラの支えになる事だ。いつもフィオラの傍で、彼女と全てを共有する。それだけで支えになっているかどうか、イルゼには判らない。ただ、フィオラの笑顔を見ていたかった。彼女がいつも笑っていられるよう、願った。
 イクシオの代わりにはなれない。
 解っていても、イルゼはフィオラといたかった。
 意識ははっきりしているのに、少しずつ身体が重くなっていく。胸を錘で縛り付けられているかのように、苦しい。ゆっくりと、沈んでいくような感覚があった。
「結局、何もできなかったな」
 自嘲気味に笑った。
 哀しかった。
「そうでもないさ」
 不意に、光の粒が降り注いだ。
 暗い闇の中に、光の粒子を纏った青年が降り立つ。漆黒の長髪に切れ長の双眸を持つ、長身の青年だ。
「イクシオ、さん……」
「お前は、死ぬな」
 イクシオが言った。
「お前は、フィオラを守りたいんだろ?」
「でも、僕には何もできない……」
「フィオラは、お前と一緒に笑っている時間を楽しんでいる。確かに、俺もあいつが好きだ」
 だからこそ身体を捨ててまで、フィオラを助けた。イクシオはそう言った。
「けれど、もう俺はあいつに応えてやれない」
 肉体を失ったイクシオは、既に人間ではなくなっている。例え、フィオラとイクシオが恋仲であったとしても、イクシオの存在は魂だけしかない。魂と身体が揃っていて、初めて生命体だと言えるのだから。
 イクシオは、フィオラの中に存在しているに過ぎない。生きていると言い難い存在だ。
 フィオラの愛に、イクシオは応えられない。彼女が触れられない場所に、イクシオはいる。とても近く、それでいて果てしなく遠い場所に。
「あいつに応えてやれるのは、お前ぐらいだ」
 穏やかな表情を浮かべていた。
「結局、俺は、あいつを縛っていた」
 一度目を閉じ、イクシオは息を吐いた。
 イクシオが存在する限り、フィオラは彼に好意を寄せ続ける。手が届かなくとも、存在しているが故に、フィオラはイクシオを忘れられない。イクシオを諦め切れない。
「いいか、イルゼ」
 目を開いたイクシオは、真っ直ぐにイルゼを見据えた。
「力を恐れるな。お前を信じて魂を託した者を裏切るな」
 イルゼを信頼して、フェニックスは自らの魂を差し出した。だが、イルゼはフェニックスの力を信じてやれなかった。今なら、それが解る。
 信頼されていないと知ったフェニックスは、イルゼに応えたいが為に自らの力を強く示した。皮肉な事に、それがイルゼを恐れさせた原因でもある。力を暴れさせて存在を誇示するフェニックスに気付かず、イルゼはただ力だけを恐れた。自分が戦えば周りに被害が出る。そう思い込んでしまった。
 フェニックスを信頼していれば、炎の量も強さもイルゼの意思で指示できたのだ。イルゼが力を恐れ、フェニックスが不信感を払拭するために更に力を示す。悪循環の中で、イルゼはフェニックスの主張を自らの精神力で強引に抑え込んでいたのだ。
「イクシオさん……」
「だが、お前の優しさは、剣にもなる」
 イクシオが口元に笑みを浮かべた。
「お前の心に足りないものは、俺が補ってやる」
 だから、そう言って、イクシオはイルゼへと手を差し伸べる。
「フィオラを、頼む」
 動かせなかった身体が、動いた。ゆっくりと、イルゼは手を持ち上げていく。
 固まっていたかのように、腕が重い。それでも、イルゼは歯を食い縛って腕を伸ばす。
「僕は、フィオラと、生きたい……!」
 必死で、イルゼは腕を動かした。震えながら、ゆっくりと、着実に、腕はイクシオの差し出す手に近付いていく。
 伸ばした手が、イクシオの手を掴む。
 瞬間、イクシオの身体が強い光を放った。一際大きく輝き、光の粒子が辺りに降り注いだ。
 イクシオの身体が形を失い、光の球となる。
「イクシオ、さん……?」
 その時、イルゼは全てを悟った気がした。
 光が渦を巻き、四散する。飛び散った光の全てがイルゼへ向けて集約した。
 イルゼは光に包まれていた。暖かな、力強い光に。
 確かに、フィオラが惹かれるわけだ、とイルゼは溜め息を吐いた。全てを包み込んでくれるかのような優しい暖かさを持ちながら、真っ直ぐな刃のように鋭く強い心がある。
「敵わないな、やっぱり」
 イルゼは笑った。
「いや、お前なら俺も超えられるさ」
 イクシオの声が響いた。
「うん、超えたいよ」
 イルゼは光の降り注ぐ天を仰いで答えた。
 身体を縛る重さと苦しさは消えていた。今は、気分が良かった。清々しいほどに、身体が軽い。心も軽い。自分の存在そのものが引き締まっていくのを感じた。
「後は、頼んだ」
「うん」
 漆黒の空間が砕け散った。光に包まれた空間の中で、イルゼは心地良い浮遊感を感じていた。降り注ぐ光がイルゼの存在をより強く形作っていく。
 イルゼはゆっくりと目を閉じた。身体の内側から、暖かな感覚が広がっていく。
「さよなら、イクシオさん」
 目を開くと同時に、イルゼの全ての感覚は光に多い尽くされた。

 イルゼはゆっくりと目を開けた。
 雨が降る空を見て、ゆっくりと身を起こす。
 隣に、フィオラが倒れていた。気を失っているだけだ。
 立ち上がったイルゼは、戦場に視線を向けた。
 リクシアを相手に、ヴィルノアとレイヴァートの二人が戦っている。フェンリルと白虎は、しかし苦戦を強いられていた。触手に捕らわれた白虎が、ゆっくりと化け物に呑み込まれていく。白虎は抵抗し、フェンリルの爪や牙がそれを援護しようとしていた。
 だが、衝撃波を浴びたフェンリルがイルゼの隣まで吹き飛ばされる。白虎は、呑み込まれた。
「い、イルゼ……!」
 隣に立つイルゼを見て、ヴィルノアが驚愕に目を見張った。
 イルゼの髪はアッシュブロンドから黒髪に変わっていた。イクシオと同じ、漆黒の髪に。
「ヴィルノアさん、フィオラを安全な場所へ移動してもらえますか?」
 視線をリクシアに向けたまま、イルゼは尋ねた。
 数瞬の逡巡の後、ヴィルノアはフィオラを抱えて、距離を取った。
「後は、『俺』がやります」
 告げ、イルゼはゆっくりと息を吸い込んだ。それを吐き出し、目を閉じる。
 胸の奥、心と表裏一体に存在する、イルゼではないものの魂へ、呼び掛ける。
「ファフニィィィ―――ル!」
 名を叫び、イルゼは魂を解放させた。
 イルゼの足元から、渦を巻くように炎が吹き上がる。
 空の雨雲すらも突き抜け、炎が空へと火柱を舞い上げる。渦を巻いて立ち昇る火流が、周囲の大気を荒らす。熱気を帯びた暴風が吹き荒れ、炎が更に燃え上がる。
 莫大な熱量が雲を蒸発させ、巻き起こす風が新たに発生しようとする雲を吹き飛ばす。
 天候が変わっていた。暗い雨から、明るい晴れの空に。
 炎の中で、イルゼは自分の力を感じていた。
 魂が欠けたイルゼを、イクシオは自らの魂で補った。フィオラと同じように。ただ一つ違うのは、イクシオが既に完全な状態ではなかったという事だ。魂だけの、不完全な存在だった。
 最初は肉体を失った。次に失うものがあるとすれば、それは彼自身だ。
 イクシオは、完全にイルゼの一部となった。胸の中に感じるのは、力を持った魂だけだ。イクシオの存在は感じられない。あるとすれば、自分自身の存在の中に、微かに彼の名残を感じるぐらいだ。
 だが、イクシオはイルゼに新たな力を残して行った。
 イクシオが持っていたドラグーンの魂が、イルゼの持つフェニックスと融合したのだ。イクシオの魂がイルゼと同化したために、彼が持っていたドラグーンの魂もフェニックスと混ざり合っていた。
 即ち、炎の龍に。
 炎で形作られた二対の翼を左右に広げ、火柱を自らの中へと呑み込む。龍の鎧を纏っていたイクシオを、そのまま炎に包み込んだかのような姿だった。
 炎で形成された龍を、イルゼは身に纏っている。
 心の奥底にあった、力への恐怖は消えていた。心の底から、イルゼは力を望んだ。守るための力を。
 焔龍ファフニールは、イルゼに応じた。力を示し、その全てをイルゼに委ねた。
 力を抑え込んでいた今までと比べて、精神的な圧迫感はない。むしろ、開放感すら抱いていた。自然体で、イルゼは力を纏っている。
「守るために、力、借りるよ」
 小さく呟いて、イルゼは敵を見据えた。

 *

 イルゼは地を蹴った。踏み込んだ足元が爆発を起こし、イルゼを加速させる。
 身に纏う陽炎が大気を揺らめかせ、炎の龍が駆ける。
 炎の残像を残して、イルゼの姿が掻き消えた。一秒に満たぬ間に、イルゼはリクシアの懐に飛び込んでいた。
 二対の翼がはためき、突き出される触手の全てを燃やした。振り下ろされた狼の爪を、イルゼは受け止めた。手首を掴み、握り締める。力を込めると同時に、狼の腕が焼け焦げ、蒸発する。手首から先が解け落ち、化け物が絶叫した。
 狼の頭部がイルゼに噛み付こうとするが、その口腔内へ炎の龍が腕を突き込んだ。狼の頭が内側から炎に焼かれ、一瞬で灰になる。
 リクシアの背中から次々に狼の頭が生え、鳥の爪が伸びて行く。失われた部位を復元するどころか、むしろ増殖させている。
 秘術がもたらした復元力が暴走しているのだ。リクシアの魂と肉体だけでなく、シアやイグル、グライスまでをも呑み込み、化け物は力を増していく。より強い力を取り込み、失ったものを復元しようとしている。ただ、そのベクトルが違う方向に向かっているだけだ。
 本来なら、魂だけが復元できれば良い術だった。だが、秘術は完成しなかった。半分以上が失われた魂を復元するのは、不可能だ。イクシオがフィオラにやってみせたように、自らの魂で他者を補うというのなら可能だ。
 そのためには自らの肉体を失うという代償がある。
 失われた魂を、他者が身を犠牲にして補えば、時間をかけて魂は元の姿を取り戻していく。イクシオがフィオラから離れても、今のフィオラならば死にはしない。だからこそ、イクシオはフィオラから離れたのだとも言える。
 無意識のうちに、イクシオは彼女の心を縛り続けてしまっていた。彼女の意思を解き放つためにも、イクシオはフィオラと一緒にいるべきではない。彼は、暫く前からそう思っていたようだった。
 イクシオがフィオラとイルゼを救った術も、秘術だ。
 魂を他者に預ける術も、原理的には同じ秘術だ。
 極一部の人間、もしくは人間以外の種族に伝わる秘術なのだ。なぜ、このような秘術があるのかは判らない。秘術が生まれた時代に何があったのか、知る者はいない。ただ、秘術の存在が現在の文明の発展を支えてきたのは事実でもある。
 しかし、秘術には大きなリスクが伴う。どれ一つとして例外ではなく、何かを得る代わりに失うものがあった。
 魂を他者に預ける術は、肉体を失う。肉体を失い、他者の中にいた者が同じ秘術を使えば、次に失うのは自我だ。誰一人として二度も魂を他者に移した者はいない。魂を預けても構わないと思えるほどの信頼感を抱いていれば、他の者へ移ろうとは思わないのだから。
 イルゼの中にイクシオはいる。だが、そこに彼の意思や自我はもう感じない。彼はイルゼの一部になっていた。
 今までのイルゼは躊躇いや不安、迷いばかりを抱いていた。だが、イクシオがイルゼの一部となってから、それらの感情は僅かなものになっている。躊躇っていては、決意する前に守りたいものが失われてしまう。不安はイルゼ自身の持つ力を抑え込み、迷いが判断を鈍らせる。時として、躊躇いも迷いも不安も大切な感情だ。だが、誰かを、何かを守りたいと強く思う時、迷いや躊躇いは守りたいものを危険に晒し、不安は守るために振るう力を減殺する。
「フェニックス、今までごめん」
 イルゼは心の中で、謝った。
 もう抑え込む苦しさはない。指先や足の先まで力を感じる。自分の身体の一部であるかのように、力が自在に扱える。
 触手を焼き払い、回し蹴りが狼の頭にめり込んだ。命中した場所で爆発が生じ、狼の頭が消し飛ぶ。
 不意に、イルゼは違和感を抱いた。
 化け物が吸収したのはシア、イグル、グライスにレイヴァートの四人だ。だが、発現している力はセイレーンとガルダ、ウルフの三種類しかない。
 白虎の力を、化け物は放出していなかった。
 同時にレイヴァートの存在が、微かにではあるが感じられた。化け物の強い存在感の中、微かにそれとは違う存在感がある。
「まさか……」
 まだレイヴァートは吸収されていないのかもしれない。
 意識が逸れた一瞬に、リクシアが全身から紫色の光弾を放った。真正面から無数に叩き付けられる光弾を防ぎ、イルゼは距離を取る。
 イルゼは地面に足が触れると同時に拳を地面へと叩き付けた。燃え盛る炎が勢いを増し、地面に火柱を起こす。その火柱が地面を駆け抜け、一直線にリクシアへと向かう。
 リクシアの咆哮が衝撃波となって、火柱に直撃する。
 だが、炎は消えない。
 燃え盛る炎が化け物を包んだ。リクシアの絶叫が響き渡る。
「流石に、直ぐに再生するのは厄介だな……」
 呟き、イルゼは考えを巡らせた。
 レイヴァートが生きているとしたら、このままリクシアを葬るわけにはいかない。今のイルゼは化け物以上の力を持っているがそれで彼女を押し切れるかと問われれば、難しい。
「早く気付いただけマシかな」
 薄く、イルゼは笑みを浮かべた。
 まだ自分の力の限界が判らない。思いの限り力をぶつけていたら、レイヴァートをも攻撃に巻き込んでいたかもしれない。
 力が身体に馴染んで来ているのが判る。どれだけの応用ができ、どんな戦略が生み出せるのか、少しずつ理解し始めていた。
「イルゼ!」
 何か力を持ったものが背後から高速で近付いてくるのを感じた。
 ヴィルノアの声に、イルゼは振り返らずに応じた。一歩、横へ身体をずらし、左手で『それ』を掴む。
「俺の代わり役立ててくれ」
「ありがとう!」
 イルゼは笑みを浮かべ、礼を言った。
 炎を纏った手で握り締めても、ヴィルノアの刀『氷牙』は折れなかった。使い手が冷気を操るフェンリルであるが故か、温度変化に強く精錬されているらしい。この刀ならば高い熱量を身に纏うイルゼでも使える。
 柄を握り締め、刀を抜き放つ。
 淡い青色を帯びた刀身が紅い炎の明かりを受けて輝いた。
 鞘をその場に突き刺して、イルゼは左手を刀の柄に添えた。腰を落とし、身構える。
 リクシアが炎を振り払うと同時に、イルゼは地を蹴った。
 爆発を残してイルゼの姿が掻き消える。百メートル近い距離を一秒に満たぬ間に駆け抜け、イルゼが刀を薙いだ。
 リクシアが伸ばす触手が次々に爆発を起こし、吹き飛んでいく。触手に刃が触れた瞬間、刀がイルゼの力に反応して冷気を帯びる。同時に、ファフニールの熱量が凍り付いた部位に水蒸気爆発を起こしたのだ。無論、イルゼの振るう刀の速度も申し分なく、切断力は高い。切断された直後に、傷口で水蒸気爆発が起こる。
 一撃一撃が凄まじい破壊力を持っていた。 
「はぁっ!」
 裂帛の気合いと共に、イルゼが刀をリクシアの胸に突き込んだ。背後から幾重にも触手が巻きつき、イルゼを取り込もうとする。
 イルゼは、刀を上に切り上げて周囲の触手を切り払い、燃やし、吹き飛ばした。刀を空高く放り上げ、自由になった両腕をリクシアの胸に突き込んだ。
 瞬間、視界が弾けた。
 暗転し、何も無い空間にイルゼの意識はあった。イルゼは炎を纏っていなかった。
「イルゼ君……」
 声と共に、イルゼの目の前に小さな光の粒が生じた。
 か細く、しかし美しい声だった。
「リクシア、さん?」
 イルゼの言葉に、光の粒が揺れる。
「兄さんも、一緒にいるのね」
「はい」
 リクシアの言葉に、イルゼは自然と頷いていた。
 目の前にいるのはリクシアの魂の欠片だ。化け物に変貌した中で、唯一残ったリクシアの部分が、イルゼの前にいる。魂同士の共感の時でさえ、人の形を保てないほどに、彼女に残された欠片は少ない。
「もう、私は長く持たない」
 人間の形になれたなら、リクシアは目を伏せていただろう。
「皆に迷惑をかけてしまったわね……」
 すまなさそうに、リクシアは言った。
「もう、過ぎた事です。それに、誰もあなたのせいとは思っていませんよ」
 イルゼは彼女に微笑みかけた。
「一連の出来事に、悪い人なんていません。皆、それぞれに思った事のために動いただけです」
 優しく、イルゼは告げる。
 秘術書でリクシアを蘇らせようとしたレイヴァートが間違っているといえるだろうか。行為自体は多くの人間の反感を招くかもしれない。だが、その想いに嘘や偽りはない。純粋に、リクシアと一緒にいたかっただけなのだから。レイヴァートのようになる可能性は、誰にでもあるのだ。
 レイヴァートを止めようとしたイクシオやヴィルノアも、正しかったと断言はできない。無論、間違っているとも言えない。
 それぞれが、心に抱いた思いのままに行動しただけだ。
「イクシオさんだって、本当はあなたにもう一度会いたかったんです。レイヴァートさんを止めようと思っていても、心のどこかでは彼の思った通りになって欲しいとも望んでいました」
 イルゼは語った。
 イクシオと同化した時、イルゼは彼の記憶や思いの全てを感じとっていた。リクシアが目を覚まして欲しいと思っていたのは、レイヴァートだけではない。きっと、ヴィルノアだって同じだろう。
 レイヴァートの行動を阻止しようとしながら、否定するまでには至らなかった。いや、否定できなかったという方が正しい。
「誰だって、愛する人、親しい人がいなくなるのは厭なんですから」
「ありがとう、イルゼ君」
 微笑んで、イルゼは首を横に振った。礼を言われるまでもない。イルゼは当然の事を言ったまでだ。
「レイはまだ生きているわ」
「やっぱり、そうでしたか」
「他の誰一人助けられなかったのに」
 微かに、リクシアは震えていた。
「それだけ、レイヴァートさんが好きだったって事でしょ?」
 イルゼの言葉に、リクシアの震えが止まる。 
 リクシアは、レイヴァートを吸収しようとする自分自身に抗っていたのだ。それ以外に、取り込まれたレイヴァートの存在がまだ残っている説明がつかない。化け物の中に残った、リクシアの部分が、レイヴァートを守っていた。
「レイを、お願いします」
「はい」
 イルゼは頷いた。そのつもりです、とは言わずに。
「それと、私を殺して下さい」
 リクシアが言った。真っ直ぐな言葉だった。
「今のままだと、私も辛いの。凄く、苦しい……」
 中途半端に生きていたくない。小さな自我だけの存在になったリクシアにとっては、化け物として破壊活動を繰り返し続ける自分を見るのが辛いのだ。そして、苦しい。
「ごめんなさい。私、自分の事ばかりお願いして。こんな事、頼める立場じゃないのに……」
「あなたは、精一杯できる事をしてます。レイヴァートさんを守ってるじゃないですか」
 イルゼは微笑んだまま、目を閉じた。
 彼女がレイヴァートを守っているだけでも、奇跡のようなものだ。
「最後に、もう一つだけお願いしてもいいですか?」
 イルゼは頷いた。
「レイに、伝えて下さい。これ以上、私のために苦しまないで、と。それから、ありがとう、って」
「伝えます、必ず」
 光の粒が、崩れ始めていた。細かな粒子に分解されつつある。
 リクシアが笑った気がした。
 イルゼの視界が開けた。
 目の前に、化け物と化したリクシアがいる。その胸に、炎を纏う腕を突き込んでいた。
 大きく息を吸い込み、レイヴァートの存在へと手を伸ばす。そして、掴んだ。
 奥歯を噛み締め、イルゼは思い切り腕を引いた。レイヴァートの存在を掴んだまま。
 リクシアの身体の中から、イルゼはレイヴァートを引きずり出した。両肩を掴んだ状態で、イルゼがレイヴァートをリクシアから引き剥がす。
 群がる触手を二対の翼で焼き払い、勢いに任せてレイヴァートを後方へ放り投げた。
「ヴィルノアさん、頼みます!」
 叫び、イルゼは大きく翼を広げ、リクシアを見据えた。レイヴァートはヴィルノアが受け止めてくれると信じていた。
 空へ放り上げた刀が落ちてくる。自分の目の前にまで高度を落とした刀を、イルゼは横合いから掻っ攫うように掴んだ。そのままの回転方向へと身体を捻り、リクシアに背を向ける。
 そして、遠心力で加速させた『氷牙』を、リクシアへ叩き付けた。
 刀が振り抜かれた刹那、リクシアの身体が内側から吹き飛んだ。
 イルゼは右手を刀から放し、空へと振り上げた。踏み込み、再生しようとするリクシアの足元に掌底を叩き込む。右手に集約した熱量がリクシアを包むように円陣を描く。描かれた円陣から陽炎が立ち昇り、その直後に炎を吹き上げた。螺旋状に渦を巻いて火柱が立ち昇り、リクシアを呑み込んだ。
 炎は全てを燃やし尽くした。
 体組織の復元を上回る速度で、炎はリクシアを焼いていく。
「ありがとう」
 そっと、彼女が呟いた気がした。
 炎はいつまでも空へと立ち昇り続けていた。
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