第三章 「背負ったもの」


 語り終えた二人は、黙り込んだ。
 互いの顔を見ようともせず、セトとヴィアは背中を向け合うようにしてそれぞれのベッド上に腰を下ろしていた。
「俺がここまで生きて来られたのは、こいつのお陰だ」
 ヴィアの投げた言葉が指し示すのは、紛れも無く十六夜だ。
 彼自身が語った過去から、今に至るまで、ヴィアは十六夜を振るい続けて来たのだ。依頼を達成するためだけでなく、自らが生き残るためにも。
 それだけではない。魔動炉の事故の際にヴィアが重症にならなかったのも、リュンヌが盾となったためだ。人の姿を失ったというのに、彼女は十六夜としてヴィアを守り続けている。
「こんな姿になった上に、研究所関係者に聞かれたらまずいからな、元の名前から十六夜に改名した」
 リュンヌの名前の由来はルーン、月から来ている。昔、彼女がヴィアに語ったそうだ。
 試作された魔鋼剣となった彼女は、人工のものではない、本物の知能を持っている。開発した研究所の者達にとっては喉から手が出るほど欲しいに違いない。ヴィアは彼女の存在を隠すため、名前を月にちなんだ『十六夜』と名付けたのである。彼女も、その名を気に入ってくれたそうだ。
「最初は色々大変だったけどな」
 十六夜が笑った。
 魔力によりリュンヌの記憶・知識などの頭脳の全ては吸い出され、十六夜の刀身に植え付けられている。人間としての身体を失った当初は、人間としての生活ができない事が最も辛い事だったと、ヴィアは語った。人間としての生活リズムを刻む事ができないのだ。空腹も疲労も感じず、自力で動く事はほとんどできない。
 今では、失われた視覚や聴覚も、周囲に存在する魔力を把握する事で補える。食事という感覚が無くなった事にも慣れたらしく、魔鋼剣として必要なだけの魔力を保ちつつ生活する事もできるようになっているのだ。
 魔鋼剣はそのほとんどが高純度の魔石を用いて造られている。その刀身に蓄えられた魔力を扱うためにはスイッチが必要となるのだが、一般的な機械式のスイッチでは魔力を解放するか否かの選択しかできない。それに比べ、擬似知能を用いる場合はある程度、魔石の持つ魔力を制御して扱う事が可能だ。刀身に纏わせる魔力を制御、調節する事ができるため、擬似知能を用いる方が戦略的にも有用なものとなる。
 十六夜として、魔鋼剣の知能となったリュンヌは刀自体の魔力制御も完全に行えるようになっているようだ。
「今じゃ相棒だ」
 自慢げに、ヴィアはそう言った。
「お前の方はどうなったんだ? その夜の後は」
 静かに、ヴィアはその問いを投げた。
「俺は、あの日、アンスールからラドに来た。それから、今までずっと逃げ続けてきた」
 セトは呟く。
 シェラが言い残した言葉に、セトは今まで応え続けて来た。どんな状況下であろうとも、ただひたすらに生き延びる事に集中していた。大怪我を負った事もある。それすらも自力で手当てをし、利用できる全てを利用して、今までを生きてきたのだ。
 彼女を失った日に、セトは列車を使わずにラドまで走った。自分の力を使う事で、距離を跳躍し、線路を道標にここまで辿り着いたのだ。身体を動かす事で気を紛らわしたかったのかもしれない。
 沈黙がその場を支配した。
 セトも、ヴィアも、過去の話は自分の心の傷と同義である。それを他者に曝け出す事には痛みを伴う。互いに、感傷に浸っていたのかもしれない。
「一つ、聞かせてくれ」
 背後から掛けられた言葉に、セトは無言を返した。
 答えられるかどうかは内容次第なのだから。
「お前が、研究所で目を覚ましたのは、いつだ?」
「今から二年前」
 セトが目覚めたのはおよそ二年前だ。それから二ヶ月間は訓練を受けていたが、シェラと共に脱走している。
 一年と八ヶ月間の間、セトは逃げ続けて来たのだ。脱走してから三ヶ月が経ったところでセトは指名手配がなされ、賞金首となった。丁度、シェラが死んだ直後の事だ。ラドに渡った事が指名手配の要因とみてまず間違いはない。
「俺が事故に遭ったのは、三年前だ」
「それが、何なんだ?」
 セトの過去と、ヴィアの過去の差は一年間だ。ヴィアの言葉の真意が読み取れず、セトは訊き返していた。
「俺の弟は行方不明だと言ったな?」
「まさか、俺がそうだと言いたいのか?」
「可能性が無い訳ではない」
 ヴィアの弟は、事故の時から現在に至るまで行方不明という判定がなされているのだと、彼自身は語っていた。
「記憶も無いんだろ?」
 セトの記憶が無い事で、その仮説は成り立つ。
 魔動炉の事故で重症を負ったヴィアの弟が政府の人間に偶然助けられたと考えれば、セトの語った過去と繋げる事ができる。確かに、セトの記憶が失われている理由も、研究所の所長からは事故だと教えられていた。何の事故か、という事は知らないが、それがヴィアの語った魔動炉の事故だとすれば、セトはヴィアの弟である、という可能性は少なからず存在する。
「俺は、お前を知らない」
 静かに、セトは告げた。
 記憶が失われたとはいえ、家族に出会えばそれがきっかけとなって断片的だとしても思い出す可能性はある。だが、そんな兆しはセトには感じられなかった。ヴィアはただの他人にしか見えない。
 完全に記憶がリセットされてしまう事もあるだろう。そうでなくとも、思い出せないという事だってあるはずだ。
「お前がフィヴニスかどうか確かめるのが、目的の一つだ」
 フィヴニスというのがヴィアの弟の名前なのだろう。その名を聞いてもセトは何も感じなかった。
「今の所、判断できないがな」
 ヴィアが溜め息ついた。落胆している、というようなものには感じられない。
 たとえセトがヴィアの弟、フィヴニスだとしても、今のセトはフィヴニスがどんな人間だったのか分からない。いくら説明されても、それだけは何も変わらない。フィヴニス自身の意識が無い限り、フィヴニスにはなれないのだから。
 今のセトは、セト・ラトランスという賞金首の少年でしかない。記憶をなくし、卓越した戦闘技術を持ち、特異な力を持つ、セトという一人の人間なのだ。セトにとっての過去は、目覚めてから今までの約二年間であり、それだけがセトにとっての現実だ。
 ヴィアがセトを弟だと判断するには、彼自身もセトを知らなさ過ぎる。
「暫くはお前を見させてもらう」
 背を向けたまま、ヴィアは告げた。
 記憶をなくしているとはいえ、生まれてから今までの生活で身についた癖はそう簡単には消えないものだ。ヴィアはセトと行動を共にする事で、セトが弟と同一人物であるかどうか見極めようというのである。
「いいのか? 俺は賞金首なんだぞ?」
 セトはヴィアへ視線を向け、問う。
 ヴィアに同行する事で、このホテルのような場所に身を隠せるのなら、セトには願ってもない事だ。外に出る事ができない、という事を除けば、セトに不利益はない。
 だが、いくらプライベートが守られたホテルとはいえ、完璧な存在ではない。いつ、セトの居場所を聞きつけて賞金稼ぎや便利屋が現れるか分からない。そこにヴィアがいれば、セトの仲間と見られたとしてもおかしくはない。それを承知の上で、という事なのだろうが。
「お前、ヴィアの職業を覚えてんのか?」
「便利屋だろ?」
 十六夜の声に、セトは答えた。
 最初に、ヴィアはそう言っていたはずだ。
「お前はここに身を隠していたいんだよな?」
「あ、ああ……」
 溜め息交じりの十六夜に、セトは言い淀んだ。
「だったら、解るよな?」
 何かを含んだような十六夜の台詞に、セトははっとした。
「なるほど。解った」
 セトは小さく笑う。
「ヴィア、あんたを俺のボディガードとして雇う」
 振り向いたヴィアが、セトの言葉に口の端を吊り上げた。
 ヴィアは便利屋だ。賞金稼ぎと違って、ただ賞金首を狩るだけが仕事ではない。依頼は、便利屋自身が了承しさえすれば、どんなものでも引き受ける。たとえ、指名手配された賞金首が依頼者であったとしても。
 それが便利屋というものだ。
「報酬は?」
「別れる時に持っている俺の所持金全て」
「引き受けた」
 交渉成立の瞬間、二人は互いに笑みを浮かべていた。全く同じ笑みを。


 夜空の月も傾き初めた頃、ヴィアは人通りの無くなった街道を歩いていた。ロングコートを着込んだヴィアは十六夜を背負い、一人で歩いている。
 これから暫くの間、セトと行動を共にする。そのための荷物を用意しなければならない。
 無論、夜更けにする必要もない上に、深夜という事で店はほとんどが閉まっている。出歩くにはメリットよりもデメリットが多い時間帯だ。それでも、ヴィアは明日の昼に行う事を選ばなかった。
 何故なら、セトがいるからだ。
 そのセトは、ホテルに残っている。
 セトの力になるという依頼を承諾したヴィアは、セトがそのホテルにいると知られる前に必要になるであろう荷物を揃えたかったのである。勿論、プライバシー保護の高いホテルを選んだのだから、知られるとしてもはまだ先だろう。
 だが、それも百パーセント確実、というわけではない。今夜にも賞金稼ぎが現れる可能性も、低いとはいえゼロではない。ゼロでないのなら、用心しておくに越した事はない。
「店っつったって、全部閉まってんじゃねぇか」
 十六夜が呟く。
 セトと過去の事を語り合っていたために、日付は変わっている。そんな時間帯に開けている店など、無いのが普通だ。
「十六夜、知らなかったのか?」
 小さく呟き、ヴィアは目線を前方に向けた。
 そこには、確かに明かりのついた店があった。街道からはだいぶ離れた路地裏ではあるが、しっかりと開店している。
 顔を知られている賞金首や犯罪者は、一般の店に立ち入る事が難しい。だが、それを逆手に取り、一般の店に立ち入る事のできない者を対象として商売する者もいる。需要と供給とでもいうべきか、真っ当な生活ができない者達は、自分達が捕まる心配をする事もなく物を買える店があれば、たとえ多少高い値段になっているとしても迷う事なくそこで買い物をするものだ。
 犯罪者や賞金首を通報する事は、義務ではない。仮に、見ていたとしても、それが誰だか解らない事もあるのだ。義務にはできない。
 それを逆手に取った商売なのである。
「――さて、依頼の方はどうです?」
 店に入ろうとしたヴィアに、背後から声が掛けられた。
 振り向くと同時にウェストベルトと十六夜の連結部の角度を変え、抜刀しやすい体勢に身構える。柄には既に右手が添えられていた。声を掛けられるまで気配を感じなかった事に、ヴィアは警戒していた。相手は、解る。
「……レジウム・デュレイ!」
 抜刀さえしていないが、ヴィアは油断なく、レジウムに対して身構えていた。
 綺麗ではあるが、人間味の無い奇妙な笑みを湛えたその表情から、意図は読み取れない。
「戦うつもりはありません。そう構えないで下さい」
 数秒の沈黙の後、ヴィアは構えを解いた。
 連結部を回転させ、十六夜を斜めに背負う。柄が右手に触れるように位置を瞬時に調整し、自然体で立つ。ただ、右手は十六夜に触れたままで。
「それで、依頼はどうですか?」
 催促しているのだと、直ぐに解る。
「その判断を下すのは俺だ」
 言い放ち、ヴィアは一歩身を退いて自然と半身になっていた。
「ええ、ですから、受けてくれるのですか?」
「……まだ決めていない」
 依頼を断るのは簡単だった。ただ、受けない、とさえ言えばいい。
 だが、それをする事がセトに対して敵を増やす事になる。敵が増えれば、セトに協力を依頼されたヴィアの敵が増える事にも繋がる。
 レジウムは、ヴィアがセトと接触した事ぐらいは見抜いているはずだ。だからこそ、ヴィアのセトへ対する態度を知っておきたいのだ。
 断れば、レジウムはヴィアではなく別の便利屋にセトの抹殺を依頼するだろう。ヴィアが曖昧な態度を取り、依頼に対する決断を下す時間を引き延ばせば引き延ばす程、レジウムの動きを抑える事ができる。
 もっとも、その考えも見抜かれているのなら、ヴィアが曖昧な返事をする事に利点はないのだが。
「そうですか。一つ、言っておきます」
 表情を変える事なく、レジウムは告げる。
「もし、あなたがセトの味方をするのであれば、私は他の便利屋にあなたも排除対象であると伝えるつもりです。依頼を受けないのであれば、それはそれで結構ですが、くれぐれも邪魔をしないようお願いしますよ」
 それだけ言うと、レジウムはその場から一歩だけ、身を退いた。だが、そう見えた次の瞬間にはその場にレジウムの姿はなかった。
 闇に溶け込むだとか、そういった言葉は当てはまらない。移動したという気配すら残さず、初めからいなかったかのように、レジウムはその存在を消している。
「あいつ……」
 ヴィアの言葉は、最後まで続かなかった。
 レジウムは、ヴィアがセトを敵視しないという事に、気付いたのだ。いや、もしかするとセトの味方となった事も感付いているかもしれない。彼の言葉は、忠告だったのだろう。
 不意に、ヴィアは気配を感じて顔を上げた。
「――まぁ、そういう事なんでな。あんたの結論がどっちかは知らねぇが、邪魔なんで消えて貰うぜ」
 路地の左右の建物から、一つの気配が飛び降りてくる。
「お前がレジウムに雇われた便利屋か……?」
「そういう事。この俺に出会ったのは不運だったな」
 ヴィアの問いに応じ、目の前に降り立った青年が答えた。
 茶色に染められたざんばら髪の下には、勝気な表情がある。人当たりの良さそうな顔つきをしているが、油断はできない。
「俺はギュレー・アルバス。その筋じゃ名が売れてきてるんだぜ」
「悪いが、お前に興味は無い」
 言い放ち、ヴィアはギュレーと名乗った青年に対して、身を退いた。
 ギュレーという名は、ヴィアも聞いた事がある。最近になって、名が聞こえ始めた便利屋だ。駆け出しではなく、中級者とでもいうレベルへ、最近になって到達したといったところだろう。
「二百億なんて大金を前に、悩むなんてのも珍しいよな。俺はちょっとあんたに興味あるね」
「お前には関係ない」
「まぁね。吐かなきゃ死ぬぐらいの状況に追い込んで、その悩みの理由を聞き出すさ」
 ギュレーは笑みを浮かべてそう言った。
 便利屋や賞金稼ぎ同士が争う事は珍しい事ではない。賞金稼ぎに限って言えば、賞金首の取り合いになって妨害をし合うという構図になるが、便利屋の場合は複雑だ。依頼主が違うために、必然的にぶつかりあう事もある。便利屋が排除対象の護衛になっているという事も少なくは無いのだから。
「……やる気か?」
 その言葉に、ヴィアは十六夜の鍔を弾いて、鞘から僅かに刃を除かせる。
 勝ち気なギュレーの視線と、鋭く細めたヴィアの視線が交錯する。
「結構、自信あるんだぜ」
 ギュレーが地を蹴る。
 その瞬間には、ヴィアは十六夜を抜き放っていた。逆手に握り締めた十六夜を、右下方から、左上へと振り上げる。同時に、十六夜から手を一瞬離し、逆手から握り直す。
 下方からの一閃を横へ跳ぶ事で逃れたギュレーが、懐に手を入れた。ヴィアは十六夜の柄に左手を沿え、袈裟懸けに一閃する。
 だが、ギュレーは懐から引き出した拳銃で十六夜を受け止めていた。いや、正確には拳銃ではない。拳銃の柄に、ナイフのような刃が取り付けられている。その刃が、十六夜を受け止めていた。
「ナイフ付きの銃さ。格闘にも射撃にも使える」
 自慢げに語るギュレーに、ヴィアは後退していた。ギュレーがもう一方の手に同じ銃を握り締め、ヴィアに向けたためだ。
 放たれる弾丸をかわし、ヴィアは十六夜を両手で握り締めた。
「狼(ろう)月(げつ)――」
 ヴィアがそう唱えた瞬間、十六夜の刀身に刻まれた幾何学紋様に白銀の光が走る。その直後、十六夜は二つに分離していた。
「なにっ!」
 ギュレーが驚愕に声を上げた。
 本来、魔鋼剣にそのような機能を持つものがある事はあまり知られていない。特注のものならば、二つに分離するという機能のあるものも存在するのだ。恐らくギュレーにとっては十六夜が初めての分離する魔鋼剣なのだろう。
 試作型魔鋼剣という、その時点では費用を無視して造られた長刀だ。分離する機能を制御する擬似知能は形成が難しく、だからこそ人間の知能を組み込もうとしたのかもしれないとも、今では思う。
 右手の刃を上弦の月、左手の刃を下弦の月という。狼の牙のように対となる刃、二つに分離した十六夜は重量が減り、素早い攻撃が可能となる。その一方で、一撃の重さが減少してしまうが、その分取り回し易い。
 拳銃にナイフを合わせた自作武具を二つ扱うギュレーには、同じく二刀流となる状態が丁度良い。
 ヴィアが踏み込む。
 右手の刀を横合いから叩き付けるように振るい、同時に左腕を引く。一撃目をかわしたギュレーに、左手の刀を突き出した。右手で拳銃の柄と一体化しているナイフで刀身を逸らし、ギュレーは左手の拳銃をヴィアへと向ける。
「貰った!」
「――遅いっ!」
 ギュレーが引き金を引くよりも早く、ヴィアの右手が一閃されていた。
 白銀の光が閃く。
 刃はギュレーの右手が握る銃の銃口を真横に両断し、その照準を合わせているギュレーの顔をも掠めた。目の下、鼻の上が真横に裂け、血がしぶいた。
「くっ――!」
 右手の銃を取り落とし、ギュレーが空いた手で顔を抑えた。地面にぶつかった銃が、両断された内部部品が地面に散らばる。流れ出た血で、手と顔を濡らし、ギュレーはヴィアに視線を向ける。自然と、ギュレーは一歩身を退いていた。
 驚愕と、恐怖、悔しさからくる敵意など、感情の入り乱れた視線が叩き付けられる。
「今回は見逃してやる。その傷が警告代わりだと思って消えろ」
 冷たく言い放ち、ヴィアは左右の刀を身体の正面で組み合わせ、本来の十六夜へと戻した。
「……ちっ」
 舌打ちし、ギュレーはヴィアに背を向けて走り出した。
 普通の人間からすれば、ギュレーの身体能力はかなり高い方に位置する。だが、魔力を浴びた事によって身体の組織が強化されたヴィアには及ばない。異常なまでに高い身体能力を、ヴィアはこの三年間でさらに鍛え続けている。
 十六夜に応えるためにも。
「いいのか? 逃がしちまって」
「ああ、レジウムの掌の上で踊るのは御免だからな」
 十六夜の問いに、ヴィアは言った。
 何を考えているか判らないレジウムの思い通りに動きたくは無い。ギュレーでヴィアを抑えられると思ったのなら、それはレジウムがヴィアを見縊っているという事だ。
 ここまで来ておきながら、自分で手を下さないレジウムに疑問はあるが、本人に聞いた所で答えは返ってこないだろう。最初に出会った時に、既にそうだったのだから。
 もっとも、ギュレーを逃がした事で、レジウムの依頼を受けた人物がギュレーから変わる事はない。ギュレーが死なない限りは、レジウムは他の便利屋にセトとヴィアの排除を依頼する事はできないのだ。複数の便利屋に同一の依頼をするのは、対象を排除するタイプの依頼には向かないのである。同じ人物を皆が狙う事になり、その際に排除した賞金首の賞金を得られるのは仕留めた者一人だけだ。妨害し合う可能性も少なくない。
 後に、またギュレーが現れたとしても、相手の手の内を知っているヴィアならば、油断さえしなければ問題はない。
「にしても、あいつは何を考えてるんだろうな?」
 十六夜が言う。レジウムの事だ。
「さぁな。ただ、敵になった事だけは確かだ」
 レジウム自身がセトを襲わないのには、何か理由があっての事だ。それは解る。何故、レジウムがセトを攻撃しようとしないのか、それを行う事によって生じるデメリットは何なのか。
 ヴィアにすら感じ取れないレジウムの気配は、彼自身の戦闘能力の高さを物語っている。戦えば、ギュレーよりも苦戦する事は明らかだ。いや、もしかしたらヴィア以上に強い相手なのかもしれない。それだけの力を持ちながら、ヴィアに依頼を持ち掛けてきた事には、何かしら意味があるはずだ。
「次合ったら先にやっちまうか?」
「いや、そう簡単にもいかないだろう」
 ヴィアは答えながら十六夜を鞘に収める。
 レジウムの気配を感じた瞬間に、十六夜で先制攻撃を仕掛けて打ち倒す、という手を考えていないわけではない。ただ、それで確実にレジウムを倒せるか、と問われれば、ヴィアは首を横に振る。レジウムの纏う空気は、普通の人間とは違う。ギュレーや他の人間達よりも、むしろヴィアに近い。
 何か得体の知れない部分を隠し持っている。それがはっきりしない限りは、ヴィアが先制攻撃を仕掛けても、返り討ちに合う危険性もあるのだ。冷静に、相手を見極めた上で戦わなければ、負ける。
「……余計な時間を食った。早く用を済ませて戻ろう」
「そうだな。あいつもセトの方に向かってるかもしれないし」
 十六夜の言葉を無言で肯定し、ヴィアは辿り着いた店の中へと足を踏み入れた。


 ヴィアが部屋を出て行った後、セトはシャワーを浴びた。賞金首として指名手配されていたために、落ち着いて身体を洗うのは初めてだった。無心で身体を、髪を、顔を洗い、バスルームから出たセトは濡れた身体をタオルで拭きながら、洗面台の鏡に視線を向ける。
 体格はそれほど大きくなく、身体自体は引き締まっている。筋肉質、というわけではないが、均整の取れた身体付きだ。ボサボサだった髪は、濡れた事で整い、髪型を少し調整すればヴィアと同じ顔ができあがるはずだ。
 髪を整える事もせず、乱雑にタオルで水気を拭き取ったセトは薄汚れた服をもう一度着込む。汚れているとしても、それしか服がないのだから仕方がない。
 服はヴィアが買って来ると言った。その間に、身体を洗うように指示したのもヴィアだ。
 これから暫くの間、ホテルの部屋に身を隠す事になるとはいえ、外に出る機会が必ずしもゼロという訳にはいかない。そのために、セトの身なりを整える事で、できる限りセトが賞金首であるようには見えないようにするというのである。確かに、追われ続けたセトの身なりは随分と痛んでいる。髪型も手入れのしていない、ボサボサのままで、いかにも訳有りといった様相を呈しているのだ。
 多少なりとも、整った服装にして髪型も整えれば、一見して賞金首には見えないはずだ。
 セトが普通の店で普通の品を買う事はできないというのは、皆知っている。しかも、人々はみすぼらしい格好のセトしか、知らないのだ。
「……まぁ、いいさ」
 誰もいない部屋で、セトは呟いた。
 自分が誰であろうと、セトである事には変わりはない。ならば、セトとして生き延びてみせるのが、シェラに応える事にもなる。
 たとえ、セトがヴィアの弟であろうとも、それは変わらない。生き延びるためなら、何でも利用する。勿論、ヴィアさえも。
 部屋から出て、セトはホテルの屋上へ続く階段を上った。都市ラドを大きく見渡せる高さにあるホテルの屋上に出たセトは、柵に両腕を乗せて街を見下ろした。
 夜でも、都市から光は消えていない。所々、明かりのない場所もあるものの、視界に明かりが入らないところは一つもない。
 セトはそれを綺麗だとは思わない。その明かりの存在は、自分が逃げ場のない場所にいる事を再認識するものでしかない。どこにいても、必ずセトは狙われていた。視界から明かりが消えないように、追っ手がなくなる事もなかった。
「こんばんわ、セト」
 不意に、懐かしい声がした。
 声と同時に、セトは振り返る。声がするまで気配は感じ取れなかった。
 声の主を見たセトは、言葉を失った。
「何? 私がどうかしたのかしら?」
 そこにいたのは、シェラだった。
 短く切られたアッシュブロンドの髪の下に、セトの見慣れた顔がある。
 死んだとばかり思っていた。いや、どこかで期待していたのは確かだ。あの時、ファストはシェラを連れ去った。セトは彼女の息を引き取る瞬間は見ていない。
「シェラ……」
 その名前が口を突いて出ていた。
「シェラ? 何言ってるの?」
「え……?」
 その言葉に、セトは耳を疑った。
 記憶がないとでもいうのだろうか。目の前にいる少女は、確かにシェラと外見が一致している。ファストに連れ去られた後に何かされたとしか思えない。
「憶えて、ないのか?」
 セトの問いに、シェラは眉根を寄せた。
「私とあなたは初対面のはずよ。誰の事か知らないけど、私はシェラじゃないわ」
「じゃあ、お前は……」
「私はゼロ・フォー。コードネーム、フィア」
 彼女の言葉に、セトは愕然とした。
 状況は理解したが、心がそれを受け付けない。
 フィアは、シェラとは違う人間なのだ。外見が似ている理由は解らないが、確かにシェラとは違う。セトには、言葉遣いや口調がシェラよりも攻撃的なように感じられた。完全に記憶を消されているのなら有り得ない話ではないが、その差異はセトにとって、彼女とシェラの決定的な違いに思えた。
 ただ、彼女がシェラであって欲しかった。その思いが理性の決断を押し留めている。
「私はね、あなたを殺せって言われてるのよ」
 フィアが笑みを浮かべる。
 彼女が動いた瞬間、セトの身体は反射的に動いていた。
 フィアが拳銃を向けるのと同時、セトは彼女の真後ろに瞬間移動していた。意識せずとも、右手に握られた拳銃がフィアの後頭部に突きつけられている。
 真正面から向かって来る敵を速攻で仕留めるための動作が、条件反射となっていた。今までの生活で身に着いた、生き残るための術だ。
 ただ、セトは引き金を引くのだけは堪えた。引き金にかかった指が震えているのが、セト自身にも解る。
「へぇ……」
 引き攣った笑みを浮かべ、フィアが感心したように呟いた。
 少しだけ首を動かし、セトと目線を合わせる。
「撃たないの?」
 フィアの問いに、セトは何も答える事ができなかった。
 撃てばいい、そう思うのに、引き金にかかった指が動かない。
 目の前にいるのはフィアであって、シェラではない。容姿は似ているが、別人なのだ。頭では理解しているのに、引き金が引けない。
「なら、こっちから行くわよ!」
 セトが撃たないと見るや、フィアは振り向きざまに回し蹴りを放った。
 相手の攻撃行動に、反射的にセトの身体が動く。フィアの蹴りを後方に跳んでかわし、セトは銃口を向ける。ただ、引き金だけが引けず、攻撃に転じる事ができない。
 それを見抜いたのだろう、フィアは銃口を向けられても躊躇う事なくセトへと向かって来る。セトの下腹部目掛けて掌底を繰り出すフィアに、セトはその背後へと瞬間移動した。すかさずフィアが蹴りを放ち、セトは横に跳んで逃れる。
「フィア、お前はそれでいいのか!」
 セトの着地と同時に繰り出される蹴りを、セトは瞬時に空間を跳躍してかわした。
「お前には自分の意思がないのか……?」
 セトは問う。
 かつて、自分自身がそうだった頃、セトの意思を教えてくれたのはシェラだった。記憶がない事、何も持っていない事が、研究員達の指示に従うだけのゼロ・スリーとなっていた要因だ。そんな中で、シェラだけは、ただ過ごすだけの日々に疑問を感じていたのだ。今なら、セトにもそれが解る。
「あなたの生き方は、それで楽しいの?」
 背後へ移動したセトへ振り返り、フィアが言った。
「賞金首になって、戦い続ける日々が、あなたには楽しいの?」
 自分の意思がある、フィアがそう言っているのが解った。
 研究所を飛び出して賞金首となり、指名手配されて、追っ手を倒しながら、それでも生き続けて来た。その日々は、セトにとっては辛いものでしかなかった。シェラが死んだのも、脱走したためだ。彼女が隣にいた頃は、辛くても、その中に二人で感じられる喜びがあった。シェラという存在がいなくなってから、セトの生活はただ苦しいだけのものになっている。
 それでも、セトは戦い続けた。
「俺は、死ぬわけにはいかないんだ……」
 思い出した。セトは、ここでただ一方的にやられるわけにはいかない。
 シェラの願いは、セトが生き続ける事だった。たとえ、フィアが記憶を失くしたシェラだったとしても、それは変わらないはずだ。
 ならば、セトが取るべき道は一つしかない。
「生きるんだ、俺は!」
 フィアへ向けた銃の引き金を、セトは引いた。
 放たれた弾丸が、フィアの頬を掠めた。間一髪のところでかわしたらしい。
「私だって、死ぬ気はないわ」
 フィアが掌を持ち上げた瞬間、セトは衝撃を感じた。
 身体の前面から叩き付けるような衝撃波に、セトは一歩よろめいた。それは紛れもなく、シェラが扱う事のできた能力だ。魔力を風という形で作用させるのではなく、純粋な衝撃エネルギーとして放つ。
「どう? 効いたでしょ?」
 フィアの言葉に、セトはただ視線を返した。
 確かに、能力も容姿もシェラにと同じだ。だが、フィアはシェラではない。それが解っているから、セトにはもう迷いなどなかった。
 ただ無言で、セトは屋上の床を蹴った。空間を跳躍し、フィアの背後へと跳ぶ。振り返ると同時に銃口をフィアへと向ける。
「はぁっ!」
 瞬間、フィアの全身から衝撃波が放たれた。
「っ!」
 衝撃波を浴び、セトが吹き飛ばされる。背中から床に叩き付けられながらも、セトは受け身を取って直ぐにその場から飛び退いた。続けて放たれる衝撃を、後退してかわす。
 その場に留まればフィアの放つ衝撃波が命中してしまう。避けるためには、常に動き回る以外に方法はない。目に見えない衝撃波を見切るのは難しいが、セトには空間跳躍という能力がある。だが、空間跳躍でかわし続けるだけではセトに勝ち目はない。空間跳躍をしている最中はセトも攻撃ができないのだから。
「言ったでしょ、死ぬ気はないの」
 フィアが手をセトへと向け、衝撃波を放つ。
 衝撃波を放つという特異な能力には、死角が無い。視認できない方向にも、衝撃波を放つ事が可能なのだ。ただし、放たれた衝撃波を制御する事はできない。
 セトはフィアの目の前に着地すると、銃を向けた。同時に、フィアがセトへと掌を向ける。
「――! あぅっ!」
 瞬間、フィアの身体が弾き飛ばされた。
「お前の力は知ってる」
 セトは告げる。
 特異な能力について、セトはシェラと情報を交換し合っていた。能力自体も、互いに鍛えていた。どこまで力を扱う事ができるのか、どれだけの応用が可能なのか、それを知るためだけではない。力を使いこなす事が、二人が生き延びる上で重要な事でもあったのだ。たった二人で逃げ延びる事ができていたのも、その力を使って戦ってきたからだ。
 セトはフィアの放った衝撃波が存在する空間を転移させる事で方向を変え、フィア自身にぶつけたのである。
「くっ……」
 立ち上がり、フィアはセトに敵意の篭った視線を向けた。
「悪いが、お前にはここで死んでもらう」
 フィアに向けて引き金を絞った瞬間だった。
「それは困る」
 声が、響いた。
 セトが最も嫌いな男の声だ。
「ファスト……! どこにいる!」
 敵意を剥き出しにして、セトは叫んだ。
「妹を殺そうとするとは困ったものだな、スリー」
「なら、お前はどうなんだ!」
 フィアの隣に姿を見せたファストに、セトは言葉を返した。
 同じナンバーの名を持つ者が兄弟なのだとすれば、最初にシェラを殺したファストこそ、妹を殺したといえるのではないのか。
 ファストは無表情にセトを見つめていた。その傍らにいるフィアも、無表情に立っている。ファストからは一歩退いた位置で、フィアは構えを解いていた。
「この場でお前を殺すのは簡単な事だ。解るだろう?」
「それはやってから言え」
 セトは銃口をファストへ向けた。
 ここで発砲したところでファストには当たらない事はセトも解っている。ファストはセトと同じ力を持っているのだ。セトがフィアの衝撃波を凌いだように、ファストもセトの銃弾をかわす事ができる。
 それでも、セトはファストへ攻撃の意思がある事を見せずにはいられなかった。負けを認めるわけにはいかないと、そう感じていたのだ。ファストから逃げたくない。
「ヴィアライル・ウルフという便利屋を雇ったそうだな?」
 ファストの言葉に、セトは眉根を寄せる。
 情報が早過ぎる事にまず疑問を感じた。セトとヴィアが出会ってから、一日も経っていない。今に至るまで、一度も他の者と接触した事もないのだ。にも関わらず、ファストはセトがヴィアを雇った事を知っている。
「その判断は間違いだ」
「何だと?」
 セトは薄々、ファストの言いたい事に気付いていた。
 この場でファストがセトとヴィアの関係を知っているという事は、必ずどこかで情報の漏れがあったという事だ。何も無いところから情報は漏れない。そして、ヴィアはここにはいない。考えられるのは、ヴィアがファストに情報を与えたという可能性だけだ。
「彼はお前を殺す依頼を受けている」
 無言で、セトはファストを睨んでいた。
 可能性としては、低くない。ヴィアがセトを探した理由の一つに、セトがヴィアの弟かもしれない、という推測があるのは間違いない。過去の話が作り物でなければ、の話だが。
「お前を殺そうとしている相手を雇うとは、お前の思考力も低下したかな?」
 嘲るように言い放ち、ファストが口元に笑みを浮かべた。
「ふふ、私の言葉を疑っているな? 本人に聞いてみたらどうだ?」
「黙れ!」
 銃声が響いた。
 ファストの姿は既にその場になく、セトの背後に気配が移動している。
「お前はまだ、私には及ばない」
 振り向きざまに銃口を向けるが、ファストは動じない。
「俺を、殺したいんだろ?」
 セトは問う。
 ファストの行動が理解できない。
 何故、ファストはシェラだけを殺し、セトを見逃したのか。何故、今になってまた姿を現したのか。何故、ファスト自身ではなく、フィアがセトを殺そうとするのか。
 今このように対峙しても、ファストはセトの攻撃をあしらうばかりで反撃をしてこない。
「さぁて?」
 ファストはからかうかのような笑みを浮かべる。
「逃げる気か?」
「逃げる? 間違えてもらっては困るな。見逃してやるのさ」
 セトの挑発を見抜き、ファストが笑った。わざわざセトの神経を逆撫でするように言葉を返している。
 能力から考えれば、セトとファストは互角なはずだ。だが、ファストは余裕を持ってセトと対峙している。その自信がどこからくるのか解らない。何故、セトがファストに及ばないのか解らない。自分の方が力量不足だと実感しているが故に、セトにはファストの挑発が悔しかった。
「暫く様子見だ。いいな?」
「了解」
 ファストの言葉にフィアが答える。セトと戦っていた時とは違い、感情を消し去った声と表情だった。ただ、セトにはフィアの態度がファストに感情を悟られまいとしているかのようにも見えた。
「一つだけ、言っておくわ」
 歩き出したフィアが口を開いた。
「私は、私のためにあなたを殺すの」
 すれ違う瞬間、フィアは小さな声で、しかしはっきりとセトに告げた。
 セトが振り返った時には、既にフィアとファストの姿は屋上から消えていた。ファストが空間跳躍でフィアも一緒に連れて行ったのだ。
「フィア……」
 ただ一人、屋上に立ち尽くしてセトは呟いた。
「――何かあったのか?」
 不意に掛けられた声にセトが振り返れば、屋上の出入り口にヴィアが立っていた。ロングコートに十六夜を背負った、外出時の姿のままで。
 ファストの言葉が脳裏に蘇る。
「どうした?」
 無反応なセトに、十六夜が言葉を投げる。
「……ヴィア、お前――」
 確認しなければいけない。セトはゆっくりと口を開いた。
「――俺を殺す依頼を受けているのか?」
 セトの問いに、ヴィアが視線を細めたのが解った。
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