プロローグ




 町外れにある古い神社。
 小さな丘にあるその場所の入り口、鳥居をくぐった階段を、焦ったように下りてくる少女が一人。
「遅刻、ちっこくっ」
 と言いながら、紗月 花織(さつき かおり)は、大急ぎで学校へと向かうのだ。
 背の半ばまで伸びた細く長い髪の毛、クリクリの瞳に、真っ直ぐな鼻筋。小さい顔に小さい身体で、鞄を背負った姿はまるで小・中学生だが、その身を包む白 面積に赤カラーのセーラー服は、残念ながら近所の秋鷹高校の物なのであった。そして彼女の首からぶら下がる、なんともチープでメッキな十字架の首飾りが、 走りに合わせるように忙しなく揺れているのだ。
 遅刻、遅刻、と石段を下りきって、さぁ学校へと公道を走り始めると、程なくして横から声が掛かってくる。
「おー、ねほ。部活かぁ? 早いのに偉いなぁ」
 ふぇ? と足を止めてそちらを向く律儀な花織。塀の奥では、隣の深山さん家のご長男、深山 聖司(みやま しょうじ)が、寝ぼけたようなノッソリ顔で、庭の花壇にホースで水撒きをしている所だった。
「あー、うん、学校。ちょっと遅刻しそうだから急いでるんだ!」
「ほかー。頑張れよぉ」
「うん、ガンバルよ!」
 幼なじみの励ましに気合いを注入された花織。ふんふーっふっふーん、と上機嫌な聖司の鼻歌を横に聞きながら、再びダッシュで登校路を進もうとして。
 ………………?
 首を傾げた。
「ねぇ、しょーちゃん」
 塀に手指を乗せて尋ねてみる。すると聖司は、んー、と気の抜けた返事で水撒きを続けていた。
「なんだぁ、ねほ」
「しょーちゃんは、学校、行かないの?」
 ………………。
 時は止まるのである。
「……ガッコウ?」
 聖司が時を動かした。先程までの、サァー、という耳に心地良い流水のBGMに、引き攣った低めのテノールが良い味を出しているのである。
 花織は聖司の瞳を直視した。真っ直ぐに。一転の曇りも無く。
「今日、月曜日だよ」
 彼女の愛らしい唇から紡がれた言葉。聖司は細めた瞳をちょっと惑わせ、眉根を少しだけ歪めてから小刻みに頷き、左手でゆっくりと後頭部を掻き毟ったりした。
 なるほど納得ぅ! と一人ごちたように呟いた彼が、その口角を少しだけ上げて微笑んだりして、その次の瞬間にはホースが空を舞うのである。
「そげんバカんこつがー!?」
 と大音量で発せられた聖司の叫び。放り投げられたホースの軌道、撒き散らされる流水が宙を落ちて、花織は一人、あっ、虹、と新しい発見をするのだった。
 バシャア、ダクダク。音で表現するとそんな感じ。ホースが接地して撥ねて落ち着き、水を垂れ流す一部始終を目で追っていた花織の耳に、大慌てな聖司の声。
「ね、ねほ! ちょっと待ってろ!」
 言うが早いか、彼は、おかーちゃーん! と叫びながらドタドタと家の中へと戻っていった。
 おかーちゃん何で起こしてくれへんのー?
 えー、だってアンタ、休みだって言ったじゃーん。
 曜日いっこ間違えたんやー!
 なんて会話が奥の方から聞こえてきたり。ドタドタと急がしそうな音を立てながら、聖司は身支度を整えているらしい。
 花織は、あややぁ、と思いながら未だ流れ出る水道水を眺め続けるのであった。もったいない。
 律儀に待つこと数分ほど。さり気無く聖司の家に侵入した花織は、庭に来て深山さん家のご両親に挨拶してから、キチンとホースの水を止めたりしていた。そのままオジサンやオバサンと談笑していると、すぐさま聖司が階段を下りてくる。
「い、急げ急げー!」
 引っ掴んだ鞄に、羽織られていないブレザーを靡かせながら飛び出してきた聖司。そんな彼の様子に苦笑しながら、花織は玄関へと向かった。
「ご飯は良いのー?」
「あかん、食えん! チャリ借りるぞ!」
 という家族の会話を聞きつつも道路に出て、腕時計を確認して冷や汗を浮かべる花織。これは走っても無理かなぁ、と思った所で、扉が開いて聖司が顔を出してきた。
「あ、おはよー、しょーちゃん」
 花織がそう言うと、母親の相手をしていた聖司が振り返って、
「んー、はよ、ねほ」
 と言った。その後で、ホレ、と何かを放ってくる少年。花織は、わっ、と驚きながらそれを受け取って、またビックリした。
「座布団?」
 それは、ネコだか何だか良く分からない白い少女用キャラクターが、こちらに向けて手を挙げながら、イタリア語で言うボンジョールノと同じ意味の英語を語りかけてくるイラスト入りの、小さな座布団だった。
 花織は、唐突に渡されたそれに困惑して、あわ、はわわ、とうろたえたが、目の前にやって来た聖司が引っ張り出してきたものを見て、納得したのだ。
「時間が無いけん、とっとと行くぞ」
 聖司はママチャリのサドルに跨ると、早くしろ、と言いたげに荷台を叩いて花織をせっつく。少女は急いで荷台に座布団を敷くと、ピョン、と大袈裟にお尻を落ち着けた。
「ぅう、固いよぉ」
 古ぼけた座布団は、あまり意味を成さないようである。
「うん、悪い。それしかなかった」
 聖司が謝ってくれたので、花織は我慢することにした。
 ほんじゃ行くか、と聖司が身体に力を込めたので、花織は彼の腰に手を回した。ギュッ、と抱きついて密着させて、あぁやっぱり大きいなぁ、と思った。小柄な花織がすっぽり隠れてしまう、とても広くて温かい背中だ。
「発車確認ー。ドアロック、ギアはニュートラル、座席位置とルームミラー修正。クラッチ踏んでエンジン始動ー」
 聖司は変なことを言いながら体勢を整えると、右足をペダルにおいて漕ぐ準備に入る。
「ほんじゃギアをローに入れてブレーキペダルを開放、徐々にアクセルを踏みながらクラッチを離してー、離してー……、発進ー!」
 ブレーキパットを離して軸足を蹴りこみ、自転車が進みだす。二人乗り特有のアンバランスさで、出だしをフラついた揺れが襲うが、聖司が懸命に安定を取り戻して軌道に乗った。
 いってらっしゃーい、と聖司の母が玄関から手を振ってくれる。それに片手で振り替えしながら、花織は必死に右手で聖司にしがみ付きつつ、彼に話しかける。
「ね、しょーちゃん。さっきの、なに?」
「んえ? さっきのって?」
 風を切りつつ進む自転車。その進行方向に目をやりながら、聖司はチラと花織に目配せした。
「んっとね。発射確認、ていきなり言い出したから、ビックリして」
 花織の言葉に、ああ、と聖司が頷いて、
「あれは自動車の発車手順だよ。マニュアル免許の、教習の始めにやらされる奴」
 と、あっけらかんと言ってのけた。
「へー、そうなんだぁ」
 花織は素直に感心した声を上げる。その目の前で、緩やかな下り坂に入った自転車が加速するのを、聖司がブレーキで少しだけ押さえつけていた。
 ビュービューと耳元を掠める風切り音。ギュッ、と聖司の背中に抱きつきながら、花織はさらに、質問をぶつける。
「しょーちゃん、自動車の免許なんて持ってないよね。何で知ってるの?」
「ギクッ」
 思わず声に出すほどの動揺。そんなマヌケな聖司の背中を感じつつ、坂を下り切った自転車を、彼は力強く前へと進める。
「……さ、さぁ急ぐぞ我らが学びやヘ! 予備の鐘はすぐにでも響かんとしているのだぁー!」
 高らかでいて謎の宣言。少女の疑問は聞こえないフリで流されたが、花織は聖司の頼もしい背中に身を委ねて、彼の心音を聞き入るのだ。
(ふわぁ……っ)
 ドキドキ、と。その動悸が自分とシンクロしているような気分になって、花織は少し、頬を赤らめた。
 かくして二人の乗った自転車は、遅刻を免れる為の速度で道を走りながら、秋鷹高校へとひたすら進み続けるのである。
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