第一章 「一難去ってまた一難」




 ――航空自衛隊の誇る二十八のバッジ・サイト(自動警戒管制システム)の一箇所、本州西部の海栗島のレーダー・サイトが捉えたのは、北朝鮮空軍の切り札・Mig29戦闘機であっただろう。

 緊張感たっぷりの活字に、胸が躍る。ようやく物語が『良い所』に来たので、少年はゴクリと唾を飲み込んだ。

 ――ようやく来たか、と言うように空自基地は要撃機を舞い上がらせた。それが来る事を既に理解していたからだ。同時、配置に付いていたE−767早期警戒管制機からの連絡も入った。

 パラリッ、と紙を捲る。この瞬間には、彼は何者の干渉も受ける事はない。全神経を活字に集中させている今、実は意外と騒がしい教室内の雑音は、鼓膜を揺るがしても脳には入っていなかった。

 ――要撃機が最大加速で戦闘空域へと入り、瞬時にそこが戦場へと変わる。白み始めたばかりの空に、ミサイルの尾が引かれた。

 戦闘開始のその時、少年はMigと張り合うF−15戦闘機を思い浮かべた。イーグルの放つAAM−3が敵戦闘機に直撃し、爆光を明け始めの空へと咲かせる。臨場感たっぷりのドック・ファイトが展開された戦闘空域で、超音速で互いにすれ違う戦闘機の勇姿。日本海に煌く朝日に照らされ、機体が美しく輝く『世界最強』――昔の事ではありますが――のF−15J要撃戦闘機がまたカッコイイ。
 その続きを読もうとした所で、声が聞こえた。
「矢崎ー、矢崎 修ー。いないのかー。飛ばすぞー」
 そこでふと我に返り、少年は顔を上げた。そこには、数学教師の嘉手納平 田五郎(かでんだいら でんごろう)の嫌みな笑顔。
「ういっす」
自分の番か、と思い立ち、少年は席を立った。そのまま教諭の目の前まで来ると、採点済みのテスト用紙と一緒に回答が渡される。
「何事も程々にな」
 くくっ、と笑いながら、嘉手納平教諭は言った。そろそろ三十路も近いベテラン教師で、中々良い感じの性格をしているので、少年も素直に頷いた。
「やぁ、どうもすいません」
 そう言いながらも、とりあえずは席に戻る。窓際最前列と微妙に目立つ座席の前に立ち、改めて自分の点数を見て溜息を吐いた。
「どうだったよ」
 声に振り返ると、親友の笑顔。如何にもからかってます、と言う感じの悪戯な光を帯びた瞳に、コンチクショウ、と思った。
「そっちは?」
 用紙を渡して、代わりにそいつの机の上にあるそれを取る。その点数を見て、やはりコンチクショウ、と思った。
「ま、こんなもんだろ」
 答える声は余裕シャキシャキ。少年の落とす目線の先には、九十二点の良くできましたスタンプが押された紙切れ一枚。その一番上に記された氏名は、『火蒼 光(かそう ひかる)』。
「でも、お前はヤバイな」
 光の言った言葉に、冷や汗タラリ。『矢崎 修(やざき しゅう)』の名前が書いてある答案用紙には、それはもう言えないような点数が赤インクで記されている。
「うむ、イカンな」
 もっともらしく頷きながら、さっさと読み掛けの本を開き始める修。その頭にチョップが来た。
「んなもん読んでるからこういう事になんだろうが」
 呆れた、と言う風に大袈裟に肩を竦めて、光は修の手の中にある文庫を指差した。
 その本のタイトルは、「北朝鮮世界侵略計画 日本編」と書いてある。如何にも怪しい感じだし、この手の物は結構沢山出されているのだが、文庫と言うのが少し気になって買ってみた作品だ。
「中々面白いぞ」
「知るか」
 掲げてみせた文庫を見て、このド阿呆、と言う感じで言い捨てる。そんな光を見て、修は淡々と返してみる。
「ま、過ぎた事はしょうがなし」
 返答にはなっていない。
「大体、何でお前は古本屋を巡るかな」
 光は言って、修を睨んできた。だから彼は欠伸を一つ。
「行きたかったからさ」
 ゴンッ
 ぶつかった物体は、分厚い現国の教科書。角の部分がまた固く、躊躇う事無く振り下ろされたそれは痛かった。
「痛ぁっ――飼い犬に手をかまれた……」
「誰が飼い犬か! そして、テスト前日に古本屋を巡るな!」
「やっぱ、駄目?」
「当たり前だ!」
 ズゴン。
 今度は百科事典の一撃。
「何故そんな物を……?」
 目を見張る修。百科事典の背表紙には『か〜けぇ』とあった。
 が、光はそんな疑問に付き合うつもりはなかったらしい。彼はやれやれ、と言う風に首を振ると、
「俺ん家来れば良かったのに」
「いや、後悔はしてますけどね」
「後悔するんだったら来れば良かったんだよ」
「しゃあないだろうに、行っちゃったんだからさ。あの日に行かなかったら、気になって考査どころじゃないんだしさ」
「それよりも自分の進退の方が大事じゃないのか?」
「ん〜、あんま。今が良ければ全てよし、みたいな感じだからさ」
「コノヤロウ……」
 光が百科事典を振り上げた。
「わー、待て! まず何処からそれを出したんだ!?」
「えーい、黙れ黙れそして死ね!」
 ゴイン、という音響が頭蓋中を駆け、修の脳味噌が震わされた。その衝撃によりグルングルン視界を回しながら、結局疑問の答えが返ってきてない事に不満を覚えるのであった。



 そして放課後。
 義務教育中も同じ学校に通っていた修と光は、互いにサイクリングロードを通りながら帰途につく。
 その際の会話は、当然のように土・日の予定になっていた。
「ほんじゃ、そっち行っても構わんな」
「ま、暇だしね」
 それは、他愛も無い会話である。人気の無いその道を通っている二人は、酷くゆったりとした時間を過ごしていた。
 会話を進めながらも、修は思う。
(静かだな……)、と。
 それは、心地良い静けさだ。自分と光が同一の時間を共有しているその時、周りは全く邪魔にならない。二人でゆっくりした時間を過ごすのは、素晴らしいくらいに幸せな事だろう、と思った。
 完全に、日常が取り戻せていた。誰もが過ごすその世界は、少し前の彼らにとっては酷く遠い世界でしかなかったのだから、それはとても有り難い事であった。巻き込まれる事しかできなかったあの時以来、少年達は強くなれたのだろう、と思う。
 だから彼らは、平凡でつまらない「いつも」と言う空間を楽しめる。飽き飽きとしていたそれは、今はとても嬉しいもののように感じられる。
 過去に憧れる事をしない。それが、落ち込んでいた光との、密かな約束なのだ。修は、自分が光の親友でいてやれた事を心底から嬉しく思った。
 表面上は全く変わり無い様に見えるが、光の心は未だに不安定だ。元々、さっぱりしてはいるがどこか落ち込み易い光は、まだ引き摺っている所が在る。だからこそ、修は自分がしっかりしなければ、と一人で密かに使命感に燃えていたりするのだ。
 やがて、二人は歩道の分岐点に遭遇した。その十字路はつまり、二人の帰宅路の分岐を意味するのである。だから光は左に行き、修は真っ直ぐに進む。
「んじゃ、また何かあったら知らせんさい」
「何も無い事を祈るか」
 そう冗談を言う光に、少し前までの影はない。順調な回復を見せているのだろうと考えた修は、胸中でひっそりと安堵する。
 が、光はそれに気付かない。恐らく、光自身の精神的な変化も判っていないだろう。そういう可笑しな所で間抜けな部分が、修にとっては好感の持てる所だったりもする。
 じゃっ、と手を振って光と別れ、修は一人で帰路を急ぐ。帰り際が一番用心しなければいけない事だと言うのは理解しているし、人一倍神経質にならざるを得ない状況でもあった。
 以前、自宅に盗聴機やら隠しカメラやらが設置されていた事がある。他にも、怪しい車が自宅付近に停められていたり、如何にも怪しい人影があったり。
 何より、一人になると余計に感じる事があるのだ。
 それは、視線。明らかな監視の目を感じ、修はいつも危機を身近に置くようになっている。が、彼にはそれをどうする事もできないし、どうにもできないのである。
 口惜しいと、いつも思う。が、これが現実。現状はどうにもできないし、ここ一週間は何かされるような気配も無い。
 だから大丈夫――とは、思わない。しかし、どうにかしようとは、今更思えなかった。
 今日もまた修の見張りに精を出す努力屋がいる。その視線は恐らく二つ。右斜め後方と、左遥か遠方。
 御苦労様、と皮肉った。
 そうして歩いていると、いつも通りの代わり映えしない景色に一つ、花が添えられる。
(およ……?)
 それは、少女であった。
 世に言うバス停という場所。少女は日除けの中でベンチに座っていた。肘くらいまでの、長く艶やかな黒髪は紺のブレザーにマッチしている。スカートの色はブレザーと同じ。プリーツの入ったそれの下には細く華奢な脚がスラリと覗き、スカートの直下にある膝小僧は可愛いらしい。腕部には、近くの有名私立女子学園である七瀬学園の校章。襟の部分に巻いてある赤のリボンは、その少女が中等過程の二学年である事を表していたが――それは修には分からない。小作りな顔立ちの少女にはその全体的に可愛さを重視された制服は似合っているのだ。横顔は端正に可愛く、黒髪に小さな三つ編みは更に萌え度をアピール。素晴らしいくらいの美少女である。
(うおおっ……!)
 心の中で何度も素晴らしいと頷く。誰かを待っているのか、少女は鞄を前に持って、下を向いていた。
 それを遠巻きに眺めながら、修は車道を渡って反対側の歩道を歩いた。全くと言って良いほど車が来てないからできる芸当だが、何故にわざわざ距離を取るのかと言うと、そんなに素晴らしい少女を間近で見る勇気も免疫もないからであった。
 と言う事で、修は歩を進める。近づくにつれて視線を外し、その少女を視界にいれない様にしながら。それはやはり、ジロジロ見られたら迷惑だろうし、それによって不審に思われるのが嫌だったからだ。そう、修は心の中で言い訳した。が、実際はそんな素晴らしい美少女を近くで直視できるような勇気がないからであり、他人との干渉を極力抑えようとする本能があったからに他ならない。
 彼は、決して精神的に強靭な訳ではない。いつもビクビクと他人の目を気にする臆病な性格は、学校内に親しい人間が一人しか居ないと言う事からも伺えるのである。
 だから、修は少女と距離を置いた。幸いにも左側は彼の家のある方向だ。バス停が右側で良かった、と修は思った。
 そのまま猫背気味に微妙な前傾姿勢でヘコヘコと面倒臭そうに歩いていく。足音は少し抑え目にして、眠そうに目を擦りながら。今日は麦茶飲んでとっとと寝よう、と心に決めた。日は少し高い所にあるので、ちょっと熱い感じなのだ。だから少しばかり冷やした麦茶がまた格別に上手いんだろうなぁ、と思った。
 麦茶の一気飲みでクフーッ、と一息ついている自分を想像していると。
 ふと、気付いた。
 視線に。
 今まで無かった視線だ。隠そうともせずに、しかもすぐ近くから注がれるその視線。じっ、と凝視しているのだから修に向けられた物なのだろう。何だろう。気のせいなのか、その視線はバス停から来ているように思えるのだが。
 いやいやそんな筈はない、と彼は頭を振る。最近、少し敏感になり過ぎているのだ。それが、あんな素晴らしい美少女を目の当たりにした事で少々ばかり自意識過剰気味になっているだけだろう。きっと、自分は勘違いをしている。ここで振り返ったら、ただ大恥をかくだけだ。とりあえず振り返りたい衝動を抑え、彼は自分に言い聞かせた。今はそれしかできないからだ。
 しかし。
 足音が響いてきた。たったったっ、と規則的に、やや小走りな感じで。それは紛れも無く右側から、こちらの方へと近づいてくる足音だ。どんどんどんどん近づいてくるその気配は、ある意味でプレッシャーを強いられるのだが、聞こえてくるその足音は軽いので大丈夫。
 何が大丈夫なのだろう、と困惑。しかも自分に。そして、それについて深く考えようと意識をそこに強めた時だった。
「あの、すいません!」
 特別大きな声じゃなかった。
 でも、それは酷く心地良い声だった。
 だから、振り向いたのだ。無意識的に動いた視線が到達したのは、彼の右斜め後ろを三歩ほど行った所だった。
 あの少女だった。頬を紅潮させ、瞳を涙で潤ませている。哀愁の横顔も良かったが、真正面からの少女も可愛かった。
 が――それを気にする余裕は、今の彼には無い。
「な、なんでしょうか?」
 声が上擦っていた。
 修は心底からの緊張を感じる自分に焦りを感じているのだ。こんな事は今まで無かったのである。見ず知らずの女の子(しかも飛び切りの美少女!)に声を掛けられる。女子に免疫の無いウブな少年は、恥じらいに頬を染める可憐な少女の姿に焦点を合わせる事が出来ず、しどろもどろに視線を右往左往させるのみ。それでも何とか声を出せたのは、半ば反射的な行動だったのだろう。修は自分自身に感心する。
 しかし、現実は時を刻む物である。暫くは赤い顔でモジモジしていた少女だが、徐に手を修の方へと差し出してきた。
「………?」
 混乱する脳味噌ではその意図が理解できず、少女の小さく血色の良い掌と、細く繊細な指を凝視した。
「あ、あの、これ、どうもありがとう御座いました!」
 依然として、湯気さえも吹き出しそうなほど赤くなりながらも少女は手を差し出している。それを、半ば呆然として凝視しながらも、修は行動を起こそうとはしなかった。
 だから、少女の美しい掌に乗せられた白のハンカチの意図も、余り理解できないのである。
 修はそのまま固まった。始めはただ赤くなっていた少女であるが、依然としてリアクションを起こさない彼を不思議に思ったのだろう。顔を少しだけ上げ、上目遣いに問うてくる。
 どうしたんですか、と――
 それでも修は固まっていた。
 だから少女も声に出したのだろう。控え目に、蚊の鳴くような声で。
「あの、ど、どうしたんですか?」
 しかしそれは、やはり酷く耳に心地良い声で。
「え、あの、え、えっと、その、何だ、えっと、その、――えっ?」
 やはりしどろもどろになりながら、修はようやく何かを発した。
 意味不明な言語を、数個。凝視した先にあるそのハンカチは何ですか? 的なオーラを全身から醸し出しながらも、ドタドタと慌てる少年の様子に、少女は少し表情を崩した。くすり、と控え目な笑み。ハンカチを持ったままの手を顔の前に持ってきて、唇の少し下辺りにつけての上品な笑いだった。
 そのまま、くすくすとする。リスのような可愛い笑い声と、手の隙間から見える朱唇に胸を高鳴らせながらも、修は呆然としていた。
 一方の少女は、完全にリラックスした様子。カチコチに固まっていた肩の力が抜けたらしく、今度は優しい微笑を朱唇に刻みつつも、
「これ、本当にありがとう御座いました。約束通りに返しに来させてもらいました」
 再び、ハンカチを差し出す。とりあえずはそれを受け取る修。
「えっと、その、これ、は、何?」
 未だに事情が掴めていない。だからこそ、こんな疑問が出てきたのだが。
 微かに悲しそうな表情を見せ、少女は言った。
「忘れてしまったんですか?」
「えっ? その、うん、その、いや、何だ? 俺は、君みたいな可愛い子にあった事が無いような何だかそんな気がえっとだからその、何でしょうか、う〜む……」
 完全に困り果て、頭を抱える。
 もう一度、くすり。頭上から聞こえた笑い声に視線を向ける。
「四日前に助けて頂いた者です。その時、ハンカチを借りて、今お返しさせて頂きました」
 そういうと、深々と頭を下げる少女。そういやんなことあったっけか、と思いつつも修は言った。
「えっと。その時は、別に返さなくても良い、て言ったよね?」
「でも、お礼もまだしてないのにそれじゃ悪すぎます」
「いやいや、そんなに大それた事はしてないと思いますが……」
「私には凄くありがたい事だったから、だからお礼に来たんです」
「え〜っと……」
 語彙の少ない修には、もうグゥの根も出ない。
 ニコニコとした笑顔は、さっきまでの緊張に満ちた表情とは別物。太陽のようなイメージがある子だ。可愛くて、愛嬌がある。素晴らしいくらいの美少女が、二次元ではなく現実にここにいた。
 唖然とした顔を、今の修はしているだろう。年下の少女に完全に丸め込まれ、そして困り果てる自分の姿は酷く滑稽だったのだ。情けないを越えての滑稽。なんだか惨めだなぁ、と思う。朝から調子の悪かった空模様だが、しかし少女がいる事で全然気にならないくらいに場違いだった。
 場違い。それは、自分がこの子を目の前にしている、この状況。
 なんだか全然現実感が無かった。もしやこれは夢か? そう思い、古い手を使おうとして――
 ポツリ、と鼻の頭に当たる物がある。
 続いて、もう一滴。それは雫。水の粒が、地上に降りて来たのだ。
 その感触は冷たく、すぐに勢いを増してきた雨粒が修の薄着を染めて行く。
「………………………………」
 現実だ、と絶望。夢だったら最高に美味しいシュチュエーションだが、現実でこれは、経験も何も少なすぎる彼には荷が重すぎる。
 くしゅん、と今度は全く違う音がした。少女がくしゃみをしたのだ。
 実に可愛らしいではないか――じゃ、なくて。
「あっ、こっち!」
 反射的に、修は少女の手を引いていた。自分の家はもうすぐそこだ、と言う事を踏まえての行動である。
「えっ? あ、あの……」
 そう言いかけた少女であるが、強引に引っ張る。そのまま彼の住むマンションへと行くと、雨は本格的に降り始めていた。
 あらら、と思う。少し濡れたなぁと言う感じで天を仰ぐと、暗雲は厚く鉛の様に濁った色彩が空を覆っていた。
 修は、ふうっと息を付いた。そんな彼の手が不自然に温かい事に気付き、隣を見る。
「……うおっ!?」
 驚愕。
 彼の隣には、少女がいるではないか。
 いや当たり前の事なんですが。
 修はとりあえず驚く。暫し呆然と彼女を見詰めると、水を滴らせる艶やかな黒髪が美しく、彼の頬は熱く火照ってきていた。
「あ、あの……?」
 少女の困惑する声を聞いて、初めて修は手の温もりの正体を知る。
 握った掌が、やけに熱かったのは気のせいではなかった。その柔らかい触感を、彼は自覚する。
「あ、ご、ごめん!」
 大慌てで手を引っ込める。やはり声は裏返っていた。
 その後で降りたのは沈黙であった。お互いに顔を赤くしてモジモジモジモジと手をこまねいている間に、何だがとても話し掛け辛い空気が形成されているのである。それは、修が感じる初めての「甘酸っぱい青春の味」であるのだが、そんな事は彼には知る由も無く。
(え〜、う〜、の〜、へ〜、で〜……)
 とりあえず錯乱。
 どうしようかと思いながらも視線を上げると、降り続ける雨があった。
 そうだ、と思う。ここは外だ。何故に自分は家の前でこんなことをしているのであろうか。
 よし、と気合いを入れると、
「あの」
 そう、少女に話し掛けた。
 修の声に反応して首をこちらに向ける少女の顔は、依然として赤い。
「とりあえず、上がる? 散らかってるけど……」
 修としては精一杯の勇気を振り絞った、精一杯の親切であった。少女は一瞬、えっ? と言う風に目を開いたが、すぐに俯いた。
 その桜色に染まった頬が、揺れ動く。縦に動いたという事はつまり、OKと言う事か。
 修はその日、初めて女の子を自分の部屋に入れた。


 少女の名前は、有希と言うらしい。
 仲居 有希(なかい ゆき)。そう名乗る時、彼女は嬉しそうに言ったのだ。
「『希望が有る未来を過ごして欲しい』からって、お父さんがつけてくれたんです」
 その笑顔は心底から嬉しそうで。
 修には、酷く眩しかった。
 否――羨ましかった、と言うべきか。



 サァァァッ、と微かに響くのは、窓の外から聞こえる雨の降る音か、それともシャワールームに木霊する少女の肢体に弾けるお湯の音か。
 それに耳を傾けながら、修は思う。
 人生とは、何を目的としているのか。彼が考えるのは、それぞれの生い立ちであった。
 有希は幸せな人生を送っているようだった。それは、先の自己紹介の時の笑顔で良く分かる。正直に羨ましい事だと思えた。修は、そこまで充実しているとは思えない人生を送っているからだ。
 父親はとある資産家の息子だった。母親は、見合いで知り合ったどこぞの金持ちの息女だった。鼻持ちなら無い母と、ただ生活するだけの父。
 それにただ期待だけされて過ごした幼少期は、彼にとって最悪の環境を与えたのだから。
 だから、彼は今ここにいる。一人で少しだけ高いマンションに暮らし、成績が悪くてヒイヒイ言っている学校生活を送っている。それはある意味で彼が思い描いた、理想の復讐だったのかもしれない。
 少なくとも親の期待には背けたのだから。嫌気がさした、ではない。もっと深い部分で、彼は敷かれたレールを断った。
 今では、成人までの短い間を取り繕う為の生活資金を親から受け取る事で自分の生計を立てる日々。毎月に支払われる金額は、生活するには充分だが、その代わりなのか感情が無かった。ある筈が、無かった。
 すでに慣れたのだから、それはもうどうでも良い。でも、時々酷く鬱になる時が有る。躁鬱病、なんて言い方も出来るかもしれないが、今の彼にはどうでも良かった。
 今が本当に自分なのだろう、と思えるのだから。それだけで充分なのだ。
 天井を見詰める修の瞳は、別段普段と変わらない。何を考えているのか分からない、その瞳の奥はしかし彼の今までの人生哲学を廻しているのだ。
 全てを平等に出来ないのなら、それは実は平等である。そんな、考え方。
 ふと、天井に残る染みを見た。人が怨嗟の叫びを上げているかのように見えるそれ。そう言えば、前の住人は自殺したんだっけな。修はぼんやりと思い出した。
 だから、ここを借りたんだ。なんとか体面だけは取り繕えそうな外見のマンションだが、四階の左端の部屋だけは格安。それは、ここで自殺者が出たから。だから、別に住むのには苦労しないだろうと考えて、実際に住んでいる場所。
 一回、それらしい者には会った事がある。ただし、あの時は寝惚けてたからどうだったか。夢かもしれない。でも、夢ではないかもしれない。そんな曖昧な思考の中、彼は再び思考を集中させる。
 怨嗟の魂が人前に姿を現わす時、それは何を思っているのだろうか、と。
 それは悲しい事なのかもしれないな、と考えて、止める。もしかしたら明日は我が身かもしれないと思えたのだ。それ程までに危険な状況に、自分はいる。
 ふうっ、と短く息を付いた。それと数秒違いで、浴室のドアが開かれる音がした。脱衣所に入ったであろう少女に意識を奪われる。その、美しい肢体を一瞬だけ想像してしまった。
(うわあい……)
 自分の思考が良く分からなくなった。
 さっきまでは凄くシリアスに物事を考えていた筈だ。それが今は、破廉恥にも「いやん!」なことを考えつつもニヘニヘと笑みを浮かべている。男って、こんなもんなんすかね?
 どうなのですか、イエス・キリスト?
 どうなのですか、マホメット?
 どうなのですか、ガウタマ・シッダールタ?
 とりあえず宗教の先駆者達に語り掛けるが、答えが返ってくる筈も無く。
 代わりに聞こえた声は、少しか細かった。
「すいません、タオル貸してくださーい」
 はいよと答え、修はタンスを漁る。一番下の引き出しからバスタオルを引っ張って、異臭や目立つ汚れが無いかをざっと確認し、脱衣所の扉を開けた。
「ありがとうございます」
 恥ずかしそうに顔だけ出した少女の、ほんわか湯気の立った桜色の頬が美しい。塗れた髪は艶やかに黒い光沢を放ち、伸ばされた腕は汗ばんで妖艶だった。
「ど、どういたしまして」
 修はその強烈な光景に耐え切れずに、真っ赤になって目線を逸らすのみ。タオルを渡して、さっさと引っ込んでから強く後悔した。
(もうちょいしっかり見とくべきだったか……!)
 口惜しい事この上ない。
 まぁ、とにかくだ。修は窓の外を覗いた。
 雨は未だに降り続けている。そのついでに、幾つかの視線も感じてはいた。が、中までは覗く気はない様だ。様々な入口と出口を監視しているだけ。窓の外側の視線は一つ。修には余り脅威が無いからだろう。
 安全は確保されている、と思えた。それならば有希を返しても余り心配は要らないであろう。そう考え、常備している折り畳み傘を鞄の中から引っ張り出した。
 カララッ、と引き戸の開く音。有希が上がったのだろう。同時、
「すいません。ありがとう御座いました」
 と言う声が聞こえてきた。見ると、大き目のGパンとTシャツを着た少女が、バスタオルで髪の毛を拭きながらこちらに来る所だ。
「さっぱりした?」
 その瑞々しい肌にどぎまぎしながらも、声を掛ける。はいっ、と少女は嬉しそうに笑んだ。
「どうする? ご飯食べてくなら、スーパーの安弁当で良ければあるけど……」
 と言いながらも、既に二人分のそれを取り出していた。本当は夜食用のなのだが、別段今日は夜更かししなければいけない用事も無いので大丈夫。
「あ、大丈夫です。迷惑ばかり掛けちゃって悪いので、そろそろ帰ります」
「ホントに大丈夫? 結構降ってるけど」
「はい。それに、早く帰らないと父が心配しますし……」
「そっか。じゃ、送ってくよ」
「そんな、悪いですよ」
「良いよ。若い者があんまり遠慮しちゃいけない」
 修さんだって充分若いじゃないですか、と少女は笑った。
 その間に彼は、有希にドライヤーを渡す。つけっぱなしのテレビが、昨日発見された惨殺死体について報道していた。
「すいません、着替えまで借りちゃって……」
「どっちかって言うとこっちの方が悪かったね。俺の服だけど大丈夫?」
「はい。少し大きいけど、大丈夫ですよ」
「それは良かった。こっちも嬉しいよ」
 それに、良い物も見れたしね――。
 何て事は自分の胸の内だけに言う。修の貸した蒼いシャツは、少女には少し大きすぎるらしく、肩のラインが丸見えだ。その白い肌が、瑞々しく汗ばんで、尚且つ艶やかな髪の毛が纏わりついた美しいうなじは劣情をそそられる。
 素晴らしい眺めなのである。また、ジーンズによってその美しいラインが強調された小ぶりなヒップが、また感動物だ。
 そう、修は変態だったのです!
 と言うよりもロリコン癖が在った。彼は胸よりも尻の方が重要度を占める、マニアックなオタク人間なのだ。(流石にフェチのランクまでは行ってませんが)
 そんな事より。
「そう言えば、よくここが判ったね」
 微妙に気になっていた事だ。有希に初めて会ったのは約四日前の事。なのに、いつの間にやら少女は修の住所の近くまで来ていた。
 ただ、その質問は愚問だったらしい。修は有希の答えを聞いて、そう思った。
「だって、修さんはここに連れてきてくれたじゃないですか」
 現場から逃げた後、修は有希を一度ここまで連れてきていたのである。その後で、ここから先は知っているという事で彼は自分の家の中に入ったのだ。
「本当はその翌日に来てたんですけど、学校が終わる時間になっても来なかったので、暗くなるまで毎日待ってたんですよ」
 ええ子や、とはにかむ有希の笑顔を見て思う。因みにその時の三日間は、テスト期間で半日の時であったのだ。下校時間が噛み合わないのは、まぁしょうがなかっただろう。
「ああぁぁ……。え〜っと、ごめんなさい」
「うふふっ。何で謝るんですか?」
「いや、何となく」
 和やかに笑みを浮かべる有希を見て、完全にこの部屋に馴染んでしまったのだろう、という空気が彼女を取り巻いている所を見て、なんだかなぁと思う。いや、それはともかく。
「じゃあ、そろそろ行こうか?」
 どっこいしょ、と腰を上げ、修は有希を振り返る。少女は少し名残惜しそうな表情をしたが、
「はい!」
 その声は元気そうだ。
 玄関から外に出ると、まだまだ雨は降り続いている。結構勢いが良かったのだが、まぁ大丈夫か。そう考えて、少女の方を見る。
「………?」
 と、不思議そうな顔をした有希だが、その顔に浮かぶ微笑みは美しかった。
 それに魅入られて、少し顔を赤くしながら、修は慌てて目線を逸らす。
「い、行こうか?」
 少し声が上擦っていたのは分かったが、もう一度振り向く勇気はない。彼はエレベーターに向って歩き出した。



 その空間だけが、異様であった。
 暗い、暗い闇の中で、更に陰気さを増した空気が流れる中、粘着質の音が執拗に聞こえる。合わせて、酷く興奮したような息遣いだけが、人がそこに居るのだろうと言う事を伝えているのだ。
 空間の中に足を踏み入れたと思い、彼は大袈裟に腕を上げてみせた。
「ここに居たのか?」
 少し軽い感じの――しかし何処か誠意を感じさせるような――明るい声が響いた。それは、異常の中に降って湧いた正常の感覚。両者が交じり合ったそれは、正に混沌の真っ只中であったろう。
「ありゃー。また殺ったのか。無意味な人間を殺すなよ。今日もニュースになってたぞ」
「知るか」
 また、対照的な声が響いた。今度は鬱々とした――しかし何処か生気を感じさせる――暗い、声。すくっ、と言う感じで動いた空気の中に、光り輝くのは眼光。
「俺は殺りたいから殺っただけだ。それが出来ないのならば、こんな所に居る意味も無い」
「また、随分と極端な思考の持ち主だね。でも、ターゲット以外の殺傷はなるったけ禁止されてるぜ?」
「それでも殺れるのがこの部隊の良い所の筈だ。でなければ、こんな所に居ない。何度も言わせるな」
「おお、恐い恐い。そう怒るなよ。誰が後始末をすんのさ。結構大変だったんだぜ、俺」
「片付けはお前がやったのではあるまい。見え透いた嘘を付くな」
「おや、やっぱりバレてましたか」
「ああ。人形などにそんな高度な事をされて堪るか」
 素っ気無い答えを聞いて、しかし彼は動じなかった。その、異常な色の瞳を爛々と輝かせ、鬱々とした雰囲気の男に近寄っていく。
 公園、だった。しかし、それは何処か異常である。生臭い匂いが充満し、所々に植木にこびり付いた鮮やかな赤。暗いのは、決して下弦の月が雲に阻まれているからと言うだけではない。雨上がりで輝いた緑の中に、これほどの暗さがあるのは、その異常な雰囲気の為であろう。
 街灯は、依然として無機質な白色のみを真下に残している。その僅かな明かりに反射される赤は、微かに黒に固まっていた。男の足元にあるそれを見て、彼は端正な顔を奇妙に歪める。
「おーおー。こんなになっちまって、可哀相――」
 ズブリッ、が適切だっただろう。眼球に食い込んだ銀線が刃と言う形で具現化した時に響いたのは、言葉の続きではなくこの音だった。
 流れ出たのは透明な粘液。脳にまで達したと思われる、重い刃が確実に彼の命を奪っていた。それを見て、男はやる気を無くしたかのように『女の死体』がある場所を離れた。
 代わりにとでも言うように、今度は彼に突き立ったナイフを掻き回す。ピクリとも動かずに、奇妙な笑顔のままの顔を切り刻んだ。
「………」
 フンッ、と鼻を鳴らし、立ち上がる。やはり人形は所詮『人形』でしかない。飽きたかのように立ち上がり、出口に向って歩き出そうとした。
 そこで始めて、出口によりかかる二つの影に気付く。両方が長身であり、尚且つ日本人ではなかった。
 日本人ではない――それは、男とて同じだ。浅黒く、また彫りの深い顔立ちは中東系。感情の無い表情を、目深にかぶった帽子で見え辛くするのは、特に理由はないのであろう。男は、いつの間にか黒に戻った瞳で、よりかかる二人を見た。
「遅かったね」
 近づいてきたのは、くすんだ金髪。それを無視し、男はもう一人に視線を戻す。
 それは、酷く澄んだ瞳をしていた。誰が見たとしても、彼の第一印象はこれであろう。濁った無感情の男と比べて、余りにも純粋な瞳。しかし、それだけに恐ろしい瞳だった。
 そいつは黙って何かを差し出した。受け取ると、どうやら写真のようだ。何なのかと思ってそいつに目を向けると、
「今回のターゲットですよ」
 それを聞いて、成る程と思って見る。写真は二枚。一枚目は厳つい中年の男だ。長身痩躯で、しかし背筋はピンと伸ばし、紙の中からでも分かるほどに意思を滾らせた瞳が印象的。そうとう苦労を刻んだのであろう、その顔は酷く精悍で、紳士的な強さを持って居た。
「そいつが第一ターゲットだ。強そうだろ?」
「第一ターゲット、か。確かにな……」
 分かる気がする――男は頷くと、もう一枚を見る。そこには、少年が一人だけ。
 黒髪は、少し長めだった。なんだか疲れたような顔をしているが、頼りなげな普通の少年に見える。これがターゲットの中に入っているのか、と男は訝んだ。
「そいつが、ヤザキ・シュウだ」
 金髪にいわれ、一瞬だけの思案をする。それだけで、彼は思い出していた。
「ヒカルとか言う奴の?」
「そう。うちの頭領が一番敵視してる奴の、ウィーク・ポイントだ」
「そうか。こんな少年が……」
「ヒカルも同い年の筈だぜ。でも、戦績はピカイチだ。信じられねぇよな」
 金髪をウザク感じた男は、もう一人に向って写真を差し出しながら、
「女は……?」
「居ますよ」
 分かっている、と言うように、澄んだ瞳が男を見詰める。
「ヤザキ・シュウとも接触したらしいのですが、ナカイ・リョウイチの娘です。一応はリストにも載ってるはずですよ」
「そうか」
 深く、男は息を吐いた。それに満足したように、そいつは背を向ける。これから遊びが始まるからだ。
「行きましょうか。早く帰りたい」
 三人の男が、静かにその場を去っていく。それでも空間は、依然として異様であった。『彼』も、その生命の灯火が見られない瞳を精一杯に見開いて、刻まれた顔を笑みのままにしている。
 壊れた人形が捨てられる時――それは正に、その瞬間の姿であったろう。『彼』は、もう人形にもなれずに腐敗していくだけでしかない。
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