第六章 「災難の終焉」




 親父が来てやがる――
 中々に良い言い訳だな、と思った。少なくともあの突然の状況の中でならば、頭の回転が遅い自分としては非常に機転の利いた言い分だ。
 そこまで考えて、修の唇に笑みが宿る。自嘲。自分のエゴだ、と言うのは分かっているし、こんな言い回しをしなければいけないのも自分の責任なのだ、と思っている。
 しかし、これは本能だった。
 『機械的』――そんな言葉が似合いそうな誕生の仕方をして、教育のされ方をした。両親の間に愛が無かったのは感じていたし、自分に対して向けられるのが愛情ではない事は最初から理解できていた。
 だから嫌だった。だから反発した。だから逃げ出した。
 その結果がこうだ。弟の修二には悪い事をしたと思っている。修が親に課せられた義務を放棄したから、修二にそのツケを全て押し付けてしまったのだ。しかし修は後悔していない。中学から無理矢理に公立に通い、父の描く理想をかけ離れた物としたのが修の選択だったのだから。
 おそらく、親子関係は教育義務が消える二十歳までで終りだろう。そう考えるからこそ、次に何をしようかと日々考えを巡らせていた。だが、考える事が出来なくなった。
 光の事があったからだ。そして次は、有希。
 この二人が置かれている状況は、修とは比べ物にならないほど複雑で、そして世界的な事だった。故に、本来は修には関係の無い事だった筈だ。しかし関わりが出来てしまった以上、修は自分が終わるまでこれを見届けねばならないと考えていた。いや、違う。見届けるのではなく、そこに居たかったのだ。
 修は、自分を殺した。かつて習った帝王学の中に、自分の感情全てを押し殺す事を学ばされたのだ。それを応用し、自分自身を、正に『殺す』事を選択したのである。
 それは簡単な事ではない。だが、やらねばならない。彼はそう感じていた。そして、メリハリをつけるという意味では、修は完全に『殺し』てはいない。それが自分の計算高さだと、感じる。
 自分が少し嫌になる事も当然のように、ある。それでも見詰めていかねばならないだろう。そう感じるからこそ、彼は求めた。
 有希を――自分を支えてくれるであろう、その存在を。
 修は窓の外を見た。見た事のある光景だな、と考える。思考は数瞬。すぐに思い当たる節が出てきた。
(廃工場?)
 そうだろう、と思った。
 修の脳裏に浮かんだのは、二週間ほど前の事だ。光が吹っ切れる原因になった戦い(事件と言っても良いかもしれない)の時の事。VANに拉致された修が連れて行かれた場所が、修が思い浮かべている所。そして、これから行くであろう場所。
 そこに
 そう――
 そこに
(そこに有希が、いる)
 足が震えた。いや、足だけではない。腕も視界も、頭さえも。全身が細かい振動を繰り返している。背筋に這い登る悪寒に、彼は全身を震わせているのだ。その理由はただ一つ。
 恐怖。
 くそっ、と思った。逃げ出したくなる自分を否定したい。しかし、それすらもある意味では当然の事なのだろうと考える。今回の相手は不良程度ではない。具現力能力者――しかも、熟練しているであろう計算高い相手。電話を通じての会話だけでも、そいつの実力は感じた。
 恐らくは、死。
(構うものか!)
 修は自分自身に対して、無理矢理に説得をする。
(元々、使い道の無かった命だ……)
 ギリッ。奥歯を噛んで、拳を強く握った。それは、震えを止めようという懸命な努力。
(今さら消えるからって、もったいぶる事はない。ただ、有希を巻き込んだのが失敗だ。アイツ等にあの子の存在を知られてしまった。それが一番に厄介な事だ)
 瞳に宿るのは苦悩の感情。同時に映る後悔の念は、唯々、自分の情けなさだ。
 光だったら――彼のような力があれば、こんな事にはならなかったのだろうか。
「違う……」
 小さく、呟く。これはそんな事じゃない。これは、俺自身の問題だ。俺自身が解決しなきゃ行けない事なんだ――
(あの子の為なら俺は死のう。これが勝手なエゴだったとしても、それは悔やむ必要の無い選択だ)
 瞼を閉じる。浮かぶのは有希のイメージ。女神のような神々しき閃光を放ち、何もかもを優しく包み込むような美しさで彼を見詰めてくれるミスリルの瞳。それは、夢の中に出てきた少女の姿だった。
 それを浮かべながら、修は思う。
 もしも――
 『もしも』、それはifのイメージ。有り得ない事を前提とした仮定。だが、修は思う。
 もしも生きて帰る事が出来るのならば。
(その時は、君が嫌でなければ、俺は君に傍にいて欲しい)
「俺は、心底から君を求めてるのだから」
 小さく喉を震わせたのは、言葉。口から紡がれる声は、スポーツカーの喧しいエンジン音に掻き消される。しかし修の心の中にその思いは留まり、消える事はなかった。
 瞼を開ける。その時には、彼は充分に落ち着いていた。震えが止まり、整理された脳内の心境は、至ってクールだ。自分としては不思議なくらいに冷静になれた事に少し驚きつつも、視界に入ってくる景色に改めて納得する。
 やっぱりか。
 そう、思わず呟いていた。
 やはりそこは見覚えのある場所だった。あの時と同じ道順だ。人気の無い、山間の森。恐らくは携帯電話を始めとする無線などの電波機器は使用不能だろう。電波が通じないのならば、外部との連絡手段はない。
 外から応援を呼ぶ事は不可能。修は光を呼ぶ事ができないのだ。
 だが、と思う。これで良い。今回は自分の問題だ。自分だけの問題だ。光の手は借りない。借りる必要も無いだろうと、そう思う。
(よっし!)
 スッキリとした気分だ。緊張はある。だが、適度な興奮は逆に身体を柔らかくする物だ。修はゆっくりと車の窓から周りを睥睨し、そこが何処かを再確認。
 野犬注意の看板や、少し元気になった緑の葉。風雨に晒されながらも、微かに残った轍の跡など、丸っきり同じに見える。
 やはりな、と思っただけ。ここはあの時と変わり無く、ただそのままに残されている。
 それを、無感傷で見詰める。修の中では、これは既に過去でしかない。
 過去としてしか、見てはいけない。思い出すと悲しくなるから。
 悲しくなるのだ。無力のままに終りまでを見る事しか出来なかった自分が。
 なら……。
 先程の決意が胸の中に蘇る。今回は逆だ。今回は、俺がやれるだけをやろう――
(どうせ、光に救ってもらったんだからな)
 そう考えるのならば諦めも付く。光には悪いが、その命をここで使わせてもらおう。
 使わせてもらい、そして限界を出す事が出来れば、結果はどう転ぶかは分からないのだから。
「そろそろだな……」
 小さく呟き、前を見る。急な曲がり角があった。そこを過ぎれば、もう私有地に突入だ。
 そこが、戦いの場所なのだろう。



 やはりそこも変わる事が無い場所だった。
 崩れた廃工場、所々が抉れた地面、折れ曲がった木々。全てが、あの時のままだ。森の中でその一角だけが巨大に切り開かれた土地は、当初の目的から外れた場所として存在している。
 火蒼 光の殺害という、その目的の為だけにVANに買い取られた場所。今では、近隣一帯の反抗勢力粛正用として保持されているのであろう土地。
 ただし、あの時から今日までに、その目的の為に使われたという事はなさそうだった。修の少し曖昧な記憶の中とその場所は、一見だけでなくとも重なっているように思えるからだ。
 前と違う場所があるとすれば、それは明瞭な違いであった。
 修が、歩いて工場の敷地へと侵入する。周りをフェンスで囲まれてはいるが、そのフェンスが所々で折れ曲がれ、そして吹き飛ばされていた。恐らくは本来のようをなさないであろう金網を見詰めながらも、ただ一人で正門から入る。彼を乗せてきた男は、徒歩二分ほどの駐車場で修を下ろしたら何処かへと消えた。
 ふうっ、と溜息を一つ。それは緊張を吐き出す為の行為。高揚してしまうのは仕方が無い事ではあるが、焦っても仕方が無いと自身の心を落ち着かせる。目を閉じ、鳩尾に力を向けて背筋を伸ばし、その後で全身の力を抜いた。中学の頃に、担任の先生に教わったリラックス法だ。
 そう言えば、と思う。入試の時にこれをやって自分を落ち着かせた物だ。
 緊張が、少しは緩んだのだろう。口元に小さな綻びを浮かべる。修は、完成された自分の『現在の』精神状態に満足する。
 瞼を上げる。視線を上へと持っていき、彼は明らかに以前と違う場所を見た。
 明瞭な違い。それは、崩れた瓦礫の前に立つ二人の男と、少女。
「有希ちゃん!」
 修は呼びかけた。彼女が大丈夫なのか――安心しても良いのか、それを確かめる為に。
 しかし彼の声は空しく響くだけ。空気を震わせた言葉は、確実に彼女の元まで届いている筈だ。しかし有希は動かない。虚ろな様子で、そこに立っているだけ。
(くそっ……!)
 遅かったのか、と緊張する。怒りに満ちた瞳で、二人の男を睨んだ。
 クックックッ、と背を震わせる男がいる。二人の内の一人、金髪の長身。もう一人は動かない。視力が弱まってきている修では、少し二人の顔は判別できないが、恐らくこちらも外人なのだろう。羽織った薄手のジャケットは、双方ともに茶色。VANの制服か何かなのだろうか、と考えたが、迎えの男や二週間前に出会ったVANの男達の服装は違った筈だ。
「ヤザキ・シュウ君ですね?」
 声が聞こえる。明瞭な、完璧なイントネーションの日本語。電話で聞いた声だ、と修は思った。未だに背を震わせる金髪の方だ。
 修は、答える代わりに足を踏み出した。少し大股で、しかし焦らぬように。不用意に間合いに近づかないよう気を付けながら、二人の元へと近寄っていく。
 五m程の距離を置いて、修は止まった。煮え滾るような怒りを瞳に宿らせながら、視線で敵を射る。金髪の方は、ユダヤ系の美男だった。澄んだ瞳が特徴の、口元に微笑を浮かべたそいつ。その横にいる男の顔立ちは、彫りが深く鋭い眼光。中東アジアかそこらの出身なのだろう。浅黒い肌が、赤道に比較的近い地域で生まれた事を示している。
 二人に挟まれて、有希。修の大切な少女に、乱れはない。服装や髪の毛、外気に晒されている手や足などの肌にも、何ら異変はなかった。
 ただ、その瞳に焦点が合っていない、という事だけが尋常ではない。その虚ろな視線の先に何を見ているのかは分からない。そして、彼女の大きな瞳はミスリルに変化しているのだ。
「っ、彼女に何をした!?」
 少女の様子に、修は言い知れぬ不安に襲われたのだ。衝動的な――絶叫とも取れるような声を張り上げ、二人を睨む。しかし男達は平然としていた。
「特に何もしてませんよ。ちょっと小細工をしただけです」
 おどけた様に、金髪。その仕草に腹を立てた修は、身を震わせながらも、暴行ではない事に何処か安心した。
 しかし納得できない部分もある。
「小細工って――」
 やってんじゃないか、と修は再び叫んだ。
 その次に感じたのは、圧力。
 何が起こったのかは分からなかった。ただ、気付いたら肩を地面に強く打ち付けている。ガッ、と衝撃が来たときに、ひゅっ、と肺から空気が絞り出されたのを感じた。
 ドサァッ。砂の地に身体を横たわらせ、跳ねる。そのまま転がると、脇腹に来た激痛に眉根を寄せた。
「はぁっ……っくぅ!」
 ゲホッゲホッ、と咳き込み、そこに手を当てた。鈍い痛みに頭が覚醒する。急場の触診。素人判断ではあるが、肋骨が無事であろうと見、そして内臓にダメージが来てないとの見解も得た。
 立つ。
 痛い。
 身体が軋んだ感じだ。それでも、そいつは手加減したのだろう。能力者の異常な身体能力と攻撃力をまともに浴び、痛い――もしくは痣――だけで済んでいる。
 修は見た。先程まで自分が立っていたであろう場所に、中東系の男が存在しているのを。片足を上げた姿勢を見る限り、修はそいつの蹴りを受けたらしい。
(くそっ!)
 自分が無力だという事を、改めて痛感させられた。それだけで、修は自分自身が腹立たしい。
 男の、その彫りの深い瞳を見た。先程までの漆黒は消え、くすんだ灰色がどんよりと濁っている。しかしそれは、まるで光沢を放っているかのように鈍い輝きを持っていた。
 鉄のような輝きだ、と修は考える。こういうのを、正に刃物のような視線というのだろうか。
 睨まれるだけで身を切り裂かれるような気分、と形容できるだろう。修はその初めての感触に、肌が粟立つのを感じた。
(くっそ……!)
 修はもう一度、自身の情けなさに毒づく。奥歯を噛むと、ギリッ、と音がした。
 その視線の先、男の瞳が動いた。修から、入口へと。修もそれを追って首を曲げる。ザリッ。革靴が砂を噛む、硬質な音が届いた。
「なっ……!?」
 まさか、と思った。
 そこにいるほとんどの視線が――有希は相変わらず虚ろな瞳で虚空を見詰めている――その者を凝視していた。丁寧に着こなされたスーツに、灰色の髪の毛を揃えてオールバックにし、鋭い視線でこの場を見詰める男。その瞳の中に怒りを熱しながらも、端正な眉は崩れてはいなかった。こけた印象を与える頬と、美しくバランスの取れた口髭が、その男の威圧感を増しているようにも見える。彼は、以前に出会った時とは比べ物になら無い程の殺気を放っていた。
 有希の父、仲居 良一は、そこに居るだけで空気の質量その物を変えてしまっているかのような男であったのだ。
 彼は、ちらりとこちらに視線を送ってきた。
 が、それだけ。一瞬だけ叩き付けられた殺気に修は背筋に悪感を覚えたが、良一はすぐに視線を外して男達の前へと歩み出た。修は、何故に自分に殺気が向けられたのかを疑問に思う。
「バシル・ザルフの仲間か?」
 良一が放った言葉に、修は訝るように眉根を寄せた。いや、実際に訝って居るのだ。良一の口から出てきた『バシル・ザルフ』なる名を修は知らない。
 それに対して、男達は少し表情を変化させた。中東系の方は眉を上げる程度だが、金髪の方はあからさまに、おやおやと言う顔をしてみせる。
「彼の事を覚えていたんですね」
「その返答は、イエスと取れという事か」
 静かな声音だ。今にも飛び出して行きそうなほどの殺気を放出しているというのに、表情は変わらぬ険しさを保っている。
 彼の瞳が見詰めるのは、虚空を見詰める有希の姿だった。少なくとも、修はそう思えた。
 フオッ、と風が鳴る。見えたのは、光。良一の身体を光が覆う。それと同時に、彼は消えた。修の視界から瞬時に消えた良一の姿が現れたのは、それからたっぷり二秒ほど経った頃だろうか。
 澄んだ金属音が辺りに響き渡る。首を巡らしていた修は、音の発生源へと視線を合わせた。
 二人の男が肉薄していた。一人は良一、もう一人はアラブ系。コンバット・ナイフと――拳銃、であろう。それが重なっていた。先程まで二人の居た場所からはそれなりの距離がある所で、互いに静止している。
 その拮抗も一瞬。良一が後方への跳躍で修の隣へと着地する。アラブ系はそこを動かず、隙の無い構えで良一の動きを見ていただけ。
「奇襲が好みですか?」
 金髪が言う。
「そういう訳ではないさ」
 良一は、油断無く掌中の拳銃を構えた。目の高さまで持ってきて、照門と照星を一致させる。グリップを右手で保持し、トリガー・ガードに左手の人差し指を当ててブレを押さえる。微動だにしない様子を見、理想的な姿勢だと感心した。
 そして、気付く。彼が持つ拳銃が、陸上自衛隊が正式に採用している九mm拳銃と同じタイプ――シグ・ザウエルである事に。
 良一のその様子に、金髪が微笑む。それから優雅に一礼して、
「そう言えば名乗ってませんでしたね。僕はスィンス・ディ・リスターク。彼はアリトゥ・ブラク。共にVAN第二特務所属の別働小隊です」
 スィンスというらしい金髪は、緊張感の無い声で、微笑混じりに言葉を紡ぐ。まるで、自身に向けられた良一の手の中にある拳銃がただの玩具の様に。
 スィンスの笑顔は変わらない。しかし、彼の雰囲気は圧倒的な変化を遂げた。少なくとも、修にはそう思えた。
 それは、殺気。修に向けられた訳ではないにも関らず、スィンスの周りの空気が質量を増したように感じられるのだ。
 スィンスは、こういった。
「只今より、あなた方を抹殺せよ、との命令に従い、任務を遂行させて頂きたく存じます」
 元の笑顔のままに紡がれる言葉。修は、彼が本気である事を今さらながらに悟った。背中に浮いた脂汗に背筋を凍らせながらも、修は震える脚を叱咤する。
「おい貴様」
 声に振り向く。隣に立つ男と、そして修にしか聞こえぬであろう声量だった。つまりは修への呼びかけと言う事だ。
「何ですか?」
 反射的に敬語となったのは、目上の人間に対する癖だったからだ。初の実戦となる修の、その緊張に満ちた声に良一は唇の端を少し上げたようだった。
「たしか、修と言ったな」
「ええ」
「君の事は有希から聞いている」
「そうですか」
 修は再び、首を前に向けた。こちらを睨むアリトゥの瞳とぶつかる。少しずらすと、面白そうに目を細めるスィンスが居た。その横で、生気を抜かれたように立ち尽くす有希の姿も。
 くそっ、と毒づく。心の中に依然として存在している焦りを無理に抑え付け、彼は今現在で考え得る最低限の作戦を浮かべた。
「聞いているのか、修」
 相変わらずシグ・ザウエルを構えたままで、声のみをこちらに向ける良一。彼は充分落ち着いているようで、その声に焦燥の色はない。
「あの二人」
 修はあえて良一の先の言葉を無視した。
「貴方だけで止められますか?」
 良一は、自分の言葉が無視された事を理解しながらも、それを流した様子だった。瞳を細め、目前に存在している脅威を見る。
「出来る、とは言わん。しかし出来得る限りの努力はしよう」
「そうですか。ではお願いします」
 腰を落として、突撃の姿勢を取る。良一にならば任せる事は出来るだろうと思えたからだ。
「ならば早速、実行か?」
「ええ――」
 言い終わらぬ内に、パンッ、と激発音が空気を震わせた。伸びる火線に、スィンスが体を傾ける。それを横目に眺めながらも、修は走り出した。
「頼みます」
 同時に、隣で空気が揺れ動く。良一が動いたのだ。
 修を簡単に追い越し、既に戦闘に突入したのだろう。銃声がこだました。今度は、三つ。
 修は振り返る事をしない。良一へと視線が集中している今、スィンスとか言うふざけた男の死角へと移動しなければならないのだ。大きく迂回し、瓦礫の影から有希を救う。それが作戦だ。つまり良一には囮になってもらうのである。それは酷く単純だが、この状態ならば最も効果的で迅速だと思える行動だった。
 少なくとも修にはそう思えたし、だから良一が動いたのだと考えた。故に彼は急ぎ、自分の役割を遂行しようとしているのだ。
 修は瓦礫の裏に回り、くそっ、と舌打ち。たった数十日で、雑草が足元を覆っている。南側が森になっているこの場所は日当たりが悪く、この間の雨が残っている様子だった。濡れた草叢に足を突っ込むと、湿った土の感触に苛立ちを強める。足場が悪く、所々がぬかるんでいる地面に歩を削られるのだ。焦りに気を急かしていると感じ、修は、冷静になれと自身に言い聞かせた。
 戦闘音は全く衰えずに、修の耳に響いている。金属音と激発音が交錯し、時には悲鳴とも呻きとも付かない声も届いていた。
 再び、くそっ、と呟く。回り終えると、表の風景が目に入った。
 良一はよくやってくれていた。アリトゥと密着しながらも、銃口はスィンスから離さない。高速運動中の彼らは修の目には捉え難かったが、満身創痍なのは見て取れた。修は彼に感謝しながらも、静かにスィンスの背後へと歩を進めた。
 気配を消す。緊張に震える足を無理矢理に前に出し、背に流れる冷や汗を感じる。スィンスは前を――戦闘の只中に居る二人を見、放たれる弾丸を避ける事に集中している様子だった。
(よしっ!)
 成功を確信する。
 修はスィンスの背後を通り抜けると、有希の肩に手をかけた。そっと耳を寄せると、話し掛けようとする。
「有希――」
 その瞬間に大気が震えた。
 ゴッ。そんな重低音が鼓膜を刺激する。世界がブレ、一刹那後には目の前が別の光景になっていた。
 呆然は一瞬だった。周囲で起こった盛大な音は、何かが崩れ、そして何かに叩き付けられる音。もうもうと舞い上がる土煙に霞める視界は、明らかに後退していた。それを考える事も出来ずに止まっていた思考が目覚めさせたのは、容赦の無い激痛である。
「ああっ……!」
 全身に走った痛みに、呻きが唇を割って漏れてしまう。蹴られた腹が重い鈍痛を呼ぶ。内臓に疵は付いてない様ではあるのが幸いか。だが、それはつまり加減されたという事だ。能力者が本気で蹴れば、俗に一般型と呼ばれる平均なタイプでも、常人の修に致死ダメージを与えるのに充分な威力なのだから。
「あぐっ……!」
 喉が痙攣したのは、全身が震えていたからだ。意識の外で、身体が恐怖を感じでいる。瓦礫に打ち付けられた部分は、背を始め多くの箇所に鋭い痛みを齎していた。
「修!」
 良一の声に、遠くなりかけた意識を取り戻す。皮膚や骨が訴える鈍痛に呻きながらも瞼を開くと、相変わらずの光景が視界に飛び込んできた。
 良一とアリトゥが激しい戦闘を繰り広げ、スィンスは微笑を浮かべながら、有希は虚ろな瞳でそれを眺めていた。
 スィンスの態度に舌打ちする。自分を蹴った事などまるで気にしていない様子だ。いつでも殺せる――そういう事なのだ。今さらながらに自分がここではただの足手纏いだと言う事を思い知らされたが為の虚勢が、修に舌打ちをさせた。しかし、自分の額に浮かぶ脂汗が自身の余裕の無さを通告しているように思える。
 そして、先の光景とは全く違う所がある。良一の表情に切羽詰まった物があるからだ。脂汗を浮かべながら、何とか攻撃を凌いでいる。圧されているのだ、そんな明白な現実は修を更に追いつめた。良一は防戦一方で、スィンスに注意を配る暇さえないのだ。
 くそっ、と修は毒づいた。結局、自分が行動に移した幼稚な作戦は無意味だった。相手を見縊り過ぎていたのだ。己の浅はかさに、修は奥歯を噛んだ。同時に、自分が考えてしまう事実に心底から自己を嫌悪する。
(光がいれば!)
 甘えだ、と自身を叱咤する。確かに、光の強大な戦闘能力があればこの場面を打開する事が出来るかもしれない。いや、戦うどころか足を引っ張っている修に比べ、遥かに有用だろう。光が今まで向き合った敵は全員が強かったのだ。光の戦闘経験から言えば、いま目の前にいる相手もそれ程の脅威にはなるまい。見てきた限り、光はここにいる全員を凌ぐだけの戦闘能力を持っている。
 しかし、それではいけないのだ。光は今、戦いに臨める精神状態ではない。そう判断したのは他ならぬ修であるし、これまで戦い続けてきた光の姿を見続けてきたのもまた修である。再び彼を無意味な争いの中へと仕向ける事を、修は望んではいない。光のあんな姿を見るのは辛い。
 だから、光には何も言わなかった。一人でやれると、そう思った訳ではない。そこまで傲慢だとは思いたくない。もしかしたら、そういう馬鹿な気持ちもあったのかもしれないが、修はそれに期待できるほどの能天気ではなかった。
 ガッ、ゴォォォッ――。轟音に意識を引き戻す。
「ぐあぁぁっ!」
 良一の悲痛な叫びが鼓膜を振動させた。立ち昇る土煙に、思わず身を乗り出す。その瞬間に走ったのは、激痛。それに眉を顰めながらも、彼は焦点を合わせた。
 倒れ伏しながらも、次の瞬間には一動作で起き上がる良一。だが、明らかな疲労の色に、彼の動きは精彩を欠いているように見える。その証拠とでも言うように、間合いを詰めたアリトゥの一撃が再び良一の膝を地に付けた。
「おおおぉぉ!」
 ザシャ――。
 咆哮に凄惨が重なる。手の甲に突き立った刃が、良一の動きを封じていた。
「!」――修が息を呑む。無理矢理に引き抜こうとした良一の顔面に鋭い蹴りが来た。大きく後ろに首を反らした良一ではあるが、しかしナイフは抜けない。どういう構造になっているのか、ほとんど微動だにしていないのだ。それと同時に、アリトゥの手から更に二つの銀線が閃いた。
 再び、良一の肉体に刃が滑り込む。今度は足。革靴を抜け、やはりそれは地面に突き立ったようだった。
「あああぁぁぁぁぁっ――――!」
 今度こそ、良一の喉を悲鳴が震わせる。痛々しい叫び声に、修の喉から掠れた音が出た。ひゅうっ、と言う情けない、小さな音だ。
 アリトゥは数瞬だけその姿を眺め、しかし興味を失ったように良一に背を向けた。その様子を見て、良一を拘束するのが目的だと理解する。ならば、この後は何だ?
 修は身を起こした。打撲が鈍い痛みを呼び起こす。脚に体重を掛けて始めて、そこに鈍い痛みが走ったのを理解した。だが、構いはしない。鈍痛を訴える右足を半ば引き摺る様にして、修は前へと進んだ。
 それを見たスィンスが、クスクスと笑む。アリトゥが近くに来た事を確認した彼は、口を開いた。
「そう焦らないでください。この子はすぐに返しますよ」
 そう言って、有希の背中を軽く叩く。しかし有希は、やはり何の反応も示さなかった。
 修はスィンスに対して一瞥をくれる。今はそれしか出来ない自分が情けない。そう思いつつ、良一の元へと少しずつ寄っていった。
「返す、とは?」
 良一がスィンスに向けて口を開く。右手と両足を地に戒められた彼は、その傷口から赤い水溜まりを大地に広げていた。そして、顔面に広く浮かぶ脂汗。顔色が悪く、幾つも老けたような印象にもかかわらず、彼の瞳は依然として力を放っていた。
 その不屈の闘志に畏怖の念すらも覚えながら、修は囁きかける。
『大丈夫ですか?』
『大丈夫…ではないな』
 皮肉げに口を歪めた良一を見、無理してるな、と直感した。だが修に出来る事はない。彼はスィンスの方を向く。こちらを窺っていた碧眼の男は、軽く微笑んで続けた。
「言葉通りですよ。ただ、その後であなた方には死んで頂きます」
「随分と勝手な言い草だな。こんな物で私を拘束できたと思うか?」
「ふふふっ。まぁ、思いはしませんよ。でも、先の戦いでも分かる通り、そちらに勝ち目はないでしょう」
 ギリッ。そんな音が聞こえそうに見えた。奥歯を噛む良一は、苦々しい思いを抑え付けているのだろう。勝てない、それは確かに明白な事実だったのだ。
 何故ならば、ここに戦える者がいないのだから。
 修は丸腰の上に非覚醒者だ。良一は、まさか修に期待するほど馬鹿でもあるまい。仮にここで覚醒できたとしても、勝ち目はないだろう。――普通、は。
(ちきしょう……!)
 修もまた、奥歯を噛み締める。ここで覚醒できたのならば、少なくとも戦力にはなる筈ではないのか。当然、目覚めたばかりでそんな強力な力を発揮する事は出来ない。慣れない能力に振り回されるだけなのは自明の理だ。そんな状態で百戦錬磨の良一と肩を並べる事などできまい。ましてや、その良一すらもが勝てない相手なのだから。
 ただ、それでも修は諦めたくなかった。もしかしたら、と言う小さな希望に縋り付きたい気持ちになる。
(光の例だってある――)
 思い出す。火蒼 光は、強力な具現力に目覚め、その力で初めての戦闘を振り切り、今ではVANのブラック・リストに名を連ねている。――多分、上の方に。
 そうだ、自分はその光の親友なのだ。なのに何故、こんな所で呆然としているのか。自分は何も出来ないからと、このまま突っ立っているだけで良いと言うのか。
(――そうじゃあ、ないだろう?)
 言い聞かせると同時に、修は一歩を動いた。再び、スィンスの死角に入るように横移動をする。目指すのは、左。そこに、良一の取り落としたシグ・ザウエルがある。
 目測は一瞬だった。瞬時に瞳をスィンスの方へと戻し――
 目の前に、アリトゥの顔があった。
「あっ……?」
 咄嗟に退く。同時に、空気が揺れ動く気配を感じた。ヒュッ、と切り裂く音が、腹部に響く重低音と入り交じりながら耳朶に届く。
 かっ…はぁ……! 喉から吐き出されたのは、そんな呻きだった。腹を押さえ、前のめりになる。自分の肉体が少し浮いたのが理解できていた。その一瞬後に重力に引かれて接地した靴底は、自分の体重を支えきれなかったのだろう。膝が折れ、息苦しさに噎びながらも、修は目前の脚を見た。黒のスラックスとスニーカーが動き、爪先が自分の額に当たったのが分かった。
 ぐらり、と世界が揺れる。自分がいつのまにか空を見ていたのに気付き、鳩尾が絞れるように苦しくなる感触を思い出して、再び丸くなった。
「野暮な真似はするな。これからが面白い所だ」
 アリトゥの声を始めて聞いた気がする。低く、威圧感のある響きが鼓膜に残り、修の背が脂汗に冷えた。
 しかし男は、それ以上は修に興味を失ったようだった。すぐに後ろを向き、元居た場所へと戻って行く。その背中に、修は喘ぎながらも上体を起こし、その男を精一杯に睨み付けた。
 内心では、屈辱に臍を噛む思いで一杯だったし、自分の情けなさに泣きたくなる。
 アリトゥが戻ると、スィンスが肩を竦めたようだった。その後でスィンスは、有希の肩を叩く。それまで何者にも興味を示さなかった少女は、依然として虚空を見詰めながらも、ビクリと身を震わせた。
 そんな少女に、浅黒い肌の手が差し伸べられる。その掌中では、銀光を反射させる冷たい刃があった。
「何のつもりだ!」
 良一の声。だが、有希はそれが聞こえていないかのように、アリトゥが差し出した刃を受け取っていた。そして、その白銀の瞳を真っ直ぐに向ける。
 視線の先には、良一の姿があった。
「有希!?」
 悲鳴のような声が自分の喉を震わせていた。それが多少掠れたようになっていたのは、未だにダメージが残っているからだ。だが、そんな息苦しさを無視して、修は立ち上がっていた。
「リョイチさん。娘さんは貴方に恨みがあるらしいですよ」
「――っ、貴様!」
 何をした、と言う叫びが空しく跡地に響く。森に囲まれたこの土地で、空気振動は開けた空に吸い込まれるだけ。
 有希は、ゆっくりと足を踏み出した。おぼつかない足取りに危なさを覚え、同時に修は既視感を見る。
(この違和感……)
 すぐに思い至る。まるで何かに操られたかのような動きは、高次 修だ。あの時の高次に似た違和感。それはつまり、有希は本当に操られていると言う事か。
(嗾けたって――そういう事か!)
 そこに気付き、愕然とする。同時に、それがスィンスの能力なのだろうか、と疑った。
「貴様がやったのか!?」
 修が叫ぶ。それにスィンスが、ニコリと応じた。
「そうですね。でも、これは彼女の意思でもあるんですよ」
「どういう事だ!?」
「僕はきっかけです。仲居 有希と言う少女が本来もっていた、父親に対するコンプレックスを表面に浮上させた。ただそれだけですよ。僕の能力はそういう物なんです」
 そうか、と悟る。だから高次や不良共が自分に対して攻撃を仕掛けてきたのだ。心の中に積もった恨みを刺激するのがスィンスの能力なのだろう。その規模が大きくとも小さくとも、そこにあると言うだけで殺傷衝動を駆り立てる。だから、ターゲットに仕向ける為にはターゲットの知り会いでなくてはならない。通常の精神状態をもって社会の中で人として生活する以上、少なからず摩擦が発生する。それに浸け込む物なのだとしたら、それはもしかしたら凄く恐ろしい物なのではないか。
 戦慄を覚えた。ならば、もしかしたら自分が操られる事となるかもしれないのだ。何故ならば、奴等が来た目的は、『修を殺す事』ではないのだから。奴等の目的は不穏分子の抹殺――つまり、光の消去も当然のように含まれているように思えた。それに囮として修を使う事だって出来るのだ。
 だが、それをやらないのは既に無意味である事を心得ているからだろう。修を人質としての脅しは、実は一回、失敗しているのだ。
 ならば、何故、修が狙われるのか。その理由もまた、彼には分かっていた。少なからず心の拠り所となっていた修を殺害する事で、光の精神に揺さ振りを掛けるのだ。具現力が意思の力であり、光の持つ能力が『顕著に精神と密接な関係にある』物である事を見抜いているからこその選択肢だろう。
 だからこそ、修は毒づいた。VANの組織力が強大である事を今更ながらに思い知らされたからだ。これらの情報を上まで集め、尚且つそれを担当の末端にまで完全に行き渡らせる。それが出来る組織ほど恐ろしい物はない。何故ならば、一連の動作を固く堅持できる結束力があると言う事になるからだ。
 そんな組織に狙われていると言う事に、修は背筋が凍るような思いを感じていた。同時に、ここで殺られてしまう事に対する憤りが自分の中に湧き上がってくるのを感じたのだ。
 巻き込まれた――ただそれだけの理由で狂わされてしまう運命に対する憤り、であろう。殺し殺される、そんな世界に唐突に押し込まれてしまった者の悲観である。だが、その悲観が耐え切れない物となってしまったのだ。
 理由は一つ。今、正に目の前で繰り広げれられようとしている理不尽な光景。
 巻き込まれてしまった少女の儚さが、修にはどうしても耐えられない物として映っているのだ。
 だから、だろう。
 有希が良一に近づいているのを見、重たい体を引き摺った。腹にある衝撃が鉛のように溜まっている事を呪い、無理矢理に意識の外へと弾き出す。駆け出したい衝動と、ついていかない身体への苛立ちを押え込んで、修は良一の前へと飛び出す。目前に迫った有希の左手には、鈍い光を放つ美しい刃があった。少し反った刀身が微かに恐怖心を煽ったが、そんな物よりも大きな気持ちが修にはあった。
 だから、叫んだのだ。
「有希――!」
 少女の手が振られ、刃が空を切る。その瞬間に修が思い出したのは、有希が右利きであった事だけだった。




 自分の腕を通して脳に伝わった生々しい感触に、あぁ、刺さったんだな、と無感傷に思った。
 その時の有希の気持ちとしては、呆然、が最も相応しい物であろう。それは今だけでない、少女の思考は現在、ほとんど停止状態にある。
 心の中は気絶した時のままだと言っても良い。精神を支配された有希には、自身の行動に対する決定権はなく、また支配に障害となる『自我』が封じられているのだ。それは、一種の催眠状態である。有希は自分が何をやっているのかを理解できずに、しかし頭の中に記憶を積んでいく。それがスィンスの『精神支配能力』の最も恐ろしい部分であり、催眠術との大きな差異であった。
 スィンスの具現力により心を支配された有希は、自分の中にあった、気付かぬほどの小さな憎悪を表層に浮上され、それを達成する為の欲望が湧き起こる事となった。
 それが、父親への憎しみの念である。
 有希の父、仲居 良一は、決して悪い父親ではない。だが、陸自方面隊司令官と言う責任ある立場から、家庭を空ける事が多かった。それに少ないながらも不満を抱いていた有希ではあるが、母と共に居る事で安らぎを得てそのストレスを解消してきた。しかし、三年ほど前に事故によって母・希を失ってから、彼女は『独り』になってしまったのである。
 だが、彼女は聡明であった。理性の上で、その孤独が必要である事を理解できていたのだ。それが自分と言う存在を抑え付ける結果となり、心の中にある寂寥感から目を背けなければならなくなったのは、正に不幸でしかなかった。故に、彼女は気付かぬストレスを抱える事となり、自身を蔑ろにせざる得ない状況に追いつめた――少女の孤独の元凶となった父に対して、見えぬ憎悪が堆積する事となり、尚且つそれを吐き出せる場所がなかったのである。
 それにより、三年もの長きに渡って溜り続けた父へのコンプレックスをスィンスに浸け込まれる事になってしまったのである。スィンスの力は怨恨を増幅させる類いの物ではなく、心を支配するだけなのだ。
 有希にとっての更なる不幸は、修と会うのが遅すぎた事だ。これまでの孤独を癒してくれ、更に自分のコンプレックスの要因である、この『訳の分からない力』を理解してくれる存在である少年は、有希にとって初めてとも言える、本当の安らぎであった。
 今まで、親友にすら悩みを打ち明ける事が出来ずに、苦悩の中で人生を過ごしてきた少女が、たった一人の少年と触れる事で安らぎを覚え、心を曝け出した。それが有希の心の重りをどれだけ取り除いてくれたのか、修は知らないだろう。だが、少年は優しく、自分に触れてくれた。優しく、自分を護ってくれた。父とは違うタイプの、少しテレ屋な少年は、有希に生きる希望を与えてくれた。
 だから、だろう。乗っ取られていた意思が、自分の受光器官から伝わった映像を見た時、有希はその瞳を見開いていた。
「くうっ!」
 鼓膜を震わせたのが、父の声ではない事を察知した。左手の中にあった刃物から伝わってくる生温かい感触が、触覚を刺激している。身体が震えているのを意識し、鉄臭い匂いが嗅覚に入って電気信号に変わり、情報として脳が認識する。
 有希の理性が首を擡げた。眠らされていた『自我』が目覚め、スィンスの『支配』が緩慢になって行く。
 そこで始めて、有希は自分の今の状態を理解した。
 左腕の中で、鮮血に塗れた刃がある。それが根本まで埋まっているのは、修の右肩だった。
「――――――っ!」
 少女は悲鳴を上げた。冷たい感触の柄から手を放し、その場を飛び退こうとする。
 だが、無理だった。修の手が一瞬早く有希の腕を掴む。その間に、まだ支配の離れきらない脳がチクリと痛んで、良一への攻撃本能が刺激された。
 有希が再び行動を起こそうとする前に、少女は右手を引かれていた。きゃっ、と小さく悲鳴を上げると、次には修の胸の中へ。ギュッ、と抱きしめられ、有希は身動きが取れなくなる。
「あっ!」
 ビクン、有希の背が跳ねた。理性が押え込まれそうになる。頭がズキズキと痛み出し、視界が白銀の光を纏い、遠くなりだした。有希は恐怖に、助けて、と小さく呟いた。
 その時。
「大丈夫だよ」
 少年の声が、有希の耳朶に届く。背に回された左腕に、更に力が篭もった。白銀のヴェールが晴れ、有希の視界一杯に修の顔がある。
 その真摯な瞳に、彼女は心を奪われた。
「君は独りじゃない」
 修が続ける。
「俺も、『個』を殺してきた人間だ。君と同じ、自分を蔑ろにしなければいけなかった人間だ。だから君の気持ちは分かるつもりだよ」
 あっ、と有希は吐息した。修は、右腕も有希の背に回そうとして、しかし血液に汚れている事に気付いた様子だった。それ以前に、動かす事さえ困難な筈なのに、修は気にした様子もなく左腕に有希を抱いている。生半可な傷ではない、それは有希にも理解できた。それなのに修は、自分の事を優先している。『個』を殺す――これが、その行為だというのか。
「俺も、君と同じなんだ。だから寂しがる事はないよ。俺と君は出会えた、それだけが俺には凄く嬉しい。もし君が許してくれるのならば、俺はこれからも君と一緒に居たい。君が良いと言ってくれるなら、俺は君と連れたって生きたい。一緒になって、互いを認め合いたい」
 有希の中で、スィンスの支配が薄まっていった。少女の心の中にあったコンプレックスが、修の言葉に氷解していく。それは、長年の孤独を一瞬で消してくれる、少年の魔力であった。
「俺は有希を護りたいと、そう思った。有希が好きだ。だから、俺は有希に俺のそばに居て欲しい。そうすれば独りじゃなくなる、有希と一緒の時は『個』を保てる」
 修の瞳は、何処までも真剣だった。少し照れたように、それでも一生懸命に話す修の姿に、有希は、ああ、と思う。 自分の心が温まっていく感覚。修の胸の中で、その鼓動を聞き、有希はそれが前にも聞いた音である事を思い出す。
 彼の鼓動が感じられる。彼の生命が感じられる。今は、それが酷く幸せだった。
「だから、有希。君は俺が好きだと、――言ってくれるかい?」
 頭痛が消えた。頭の重りが除かれたように、鮮明に『自分』が戻った感覚。それが自分の心なのだ、と少女は確信できた。
 だから有希は、口に出した。
「勿論です……」
 震える声は、胸に詰まった涙のせいだ。言葉が巧く発音できなかった。しかし、有希は唇を動かした。
 ありがとう――
 そう、動いた筈だ。
 溢れる涙に、視界が霞む。唐突に身体が重くなり、脚が崩れそうになった。しかし有希は、修の腕にしっかりと抱かれて、胸に顔を埋める。そのまま、再び白銀の光を瞳の中に見出し、修の身体に流した。
 ごめんなさい、そんな気持ちを込めて、有希は自分の力を解放する。それは微量でしかなかっただろう。疲労困憊の精神が、具現力を上手く起動してくれないのだ。だが、それでも少女の純粋な心は、彼女の望みの通りに力場を癒しへと変えていく。
 そのまま、急速に遠のいて行く意識に、有希は抗えなかった。精神支配の影響なのか、それは酷く強制力がある。重くなった瞼が閉じられ、深淵が少女の視覚を支配した。
 しかし、彼女はもう寂しくはない。近くに愛する少年の温もりを感じていられるのだから。それは、心の中の大きな余裕となってくれた。
 有希は、意識を失った。でも、きっと修なら大丈夫だろう。そんな安心感の中で、有希はゆっくりと疲弊した心を休める。



 自分の腕の中で、有希は身体の力を抜いた。明滅するかのように、交互に色彩を変えていた瞳が完全に黒に戻った時に、修はようやくの安心を得る。
 その少女の唇が動いた。同時に、声が修の耳に届く。
「勿論です……」
 涙に震えながらも、その声はしっかりと聞き取れた。自分が受け入れられた事に、修は嬉しさを覚える。今はそんな時ではない、と思いながらも、自分の顔に笑みが浮かんだ。
 潤んだ瞳が、修を見る。今度は発音はなかったが、少女の唇は動いた。ありがとう、とそう動いた気がして、修の胸が締め付けられるように苦しくなる。有希の膝が折れ、重力に引かれそうになった。慌てて腕に力を込めて支えてやる。その直後に、俯いた有希の身体から白銀の光が溢れた。
 それが、修の体を覆う。全体量としては少なかったが、依然として刃が突き刺さっている肩口の出血が止まり始めた。直後に有希が気を失った。
 力無く項垂れる少女を抱きしめ、修も呟いた。ありがとう、と。
 ――君が居るから、俺はこうしていられる。
 想いを秘め、修は静かに有希の身体を横たえた。
「少し、待っててね」
 それだけを言うと、修は刺さった刃を引き抜いた。有希の治癒能力が働いているので、止血はほとんど済んでいる。切断された筋組織や穴の空いた肩骨が疼いたが、何かが埋まっているという違和感を持ったままで動くよりは、ずっと軽い。それに、修には大丈夫だという事が判っていた。
 立ち上がる。正面に二人を見据える態勢で、修は自然体で二人を見ていた。その瞳にあるのは、憎悪でも悲壮でもない。
 それは、使命感。
 やらねばならぬ事を目の前にした、そんな心境が空虚を埋めている。修は自分が不思議なほどに冷静な事を自覚していた。
「……修?」
 背後で、良一の声が聞こえた。含まれる戸惑いに、だろうな、と思う。だが、修は既にやる事を理解しているのであり、それをやらねばならない。
 無力な自分。足手まといな自分。何も出来ない自分。それらは、似て非なる状態。しかし、そこに帰結する物は同じであった。全ては、自分が出来る事を模索し、悔恨する事に繋がる。そして、模索した結果がここに至る事を、修は始めて知った。
 ――俺は、やれる。
 全ての雰囲気が一変した。
 全てが明瞭へと変化した。
 全てを理解する事が出来た。
 視界が暗くなる。それは、心地良い暗さ。闇が視界を覆い、これまで以上に全てを『見せて』くれる。まるで光を引き立てるかのように、闇は修の視界を補正した。
 鼓膜の震えが感知できる。捉えた振動が、どのような種類なのかを明確に理解できた。それが頭の中で組み合わさり、音をただの『音』ではなく物事の事象として捉える事が出来た。
 空気を理解する。肌で感じる雰囲気を明瞭に嗅ぎ分け、どのように何が動くのかを察知させる。触覚神経が伝えてくる何かを、『何か』ではなく『どれか』で捉えられた。
 全ての感覚が鋭敏へと進化したのだ。修がこれを感じ、成る程と思う。これならば理解できる。彼らが何故あんなにも強かったのかを。
 こんな感じなのか――
 修は一人、肌で感じる風を思う。これなら勝てるのではないか。何故かそう思えて、しかしそれは確信に近い自信がある。光が持て余していた具現力の強大な力は、修には体に馴染んでいた。
 能力の違いからだろうか、と思う。光の力が戦闘力に特化し過ぎていた物だというのは話に聞いていた。ならば自分の力は何なのか、それを知りたい。そして、今は感傷に耽っている場合ではないだろう。
 深く息を吸い込み、吐き出す。ちらりと、有希に視線を向けた。安らかな寝顔は、彼女が朝に見せてくれる可愛らしい表情だ。いつもと同じ、少女の顔だ。
 ほっ、として、修は自分の上着を脱いだ。薄手のシャツで大丈夫だろうか、と思いながらも有希に掛けてやる。
「行って、来るよ」
 小さく呟き、再び立ち上がった。正面に見据えると、二人の敵が油断無く身構えている。修の雰囲気が一変したのを悟り、戦闘の体制を整えたのだ。それを見て、修は小さく一歩を踏み出す。
 ザッ。修の一動作に、二人が同時に答えた。左右から挟み撃ちにする様にして狙ってくる事を、空気の流れで理解する。先程までは全く知覚できなかった彼らの動きを、二人同時に捉える事が出来ていた。
 攻撃動作を理解する。左側のスィンスが光弾を放った。一般的な具現力の力として吐き出される、力場を利用した遠距離攻撃。その到達時間と軌道を即座に計算し、少しだけ屈んだ。同時に上体を前方向に投げ出す様にして、前方に一回転する。右のアリトゥが向けた驚愕の眼差しを背中に感じ、自分の知覚速度が相手よりも速い事を理解した。
 自分の能力は、恐らくはこれなのだろう。そう考えて、頷く。他の能力者よりも知覚能力が高いのだ、と考えた。何故ならば、光が言うようなスピード感ではないからだ。
 修が振り返る。その動きが酷く緩慢なのを感じ取り、長く引き伸ばされた時の流れを感じ取った。後ろの二人が位置を入れ替えたのを理解する。交差する様にして、アリトゥが右となった側から鋭い蹴りを放ってきたのだ。
 脚が振られた瞬間に、修は自分の取るべき行動を実行していた。他よりも理解できる速度が速い分、肉体の動きに劣っている部分が有る。短い攻防の中で、自分の特性を修は見抜いていたのだ。頭の回転の速さに、自分自身も何処かで苦笑い。
 後ろに退き、薙ぎ払われる踵を受けた。防御力の試算だが、思った以上に頑強である事を認識。防護膜の役割は、余り変わらないという事なのだろうか。
 ミシリ、と腕が軋んだ。アリトゥの洗練された攻撃が、戦いに慣れていない身体に与えた衝撃は思いのほか大きい様だが、耐えられぬほどではない。横合いから来たスィンスの攻撃も、背中を反らす事で回避し、アリトゥの脚から放たれた衝撃に身体を乗せる事で後方へ。距離を取って、修は不利を悟っていた。
 二対一、は正直に辛い。肉体に馴染んではいるが、覚醒したばかりのこの力はまだまだ未解明の部分も多い。故に、自分は全力がどれだけの物なのかも知らないし、どのように戦えば良いのかという基本的な部分で、この力とシンクロしていない。絶対的な経験の差が、敵と対した時に勝てるかどうかを左右する重要な要素である事を修は心得ているし、こちらがたった一人である限り、この二人に同時に勝つなどという芸当は無理に等しい。
 それは、先の攻防を見れば明らかだった。修は二人の連携攻撃を避ける事は出来たが、それを返す事は出来なかった。余裕の無い防衛は、勝ち目が無い事を意味する。何より、修は攻撃の動作をする事さえも出来なかったのだ。
 この状況を改善するには、どちらかの動きを完全に封じなければならない。だが、いま戦えるのは修のみである。良一は地に縛り付けられ、有希はそもそもが戦闘能力ではない。
 しかし、それでも方法が無い訳ではない。勝つ為にはどうすれば良いのか、修は朧げながら分かっている。問題は修の特殊能力がどのような物なのか、だ。
 そして、修は自分の特殊能力がどのような物なのかを知っていた。覚醒した瞬間に、朧げながらもそれを心得ている。光も同じだったのだろうか、と感じながらも、それを使いこなす自信は、ない。
 だが、やらねばならない、という事もまた、感じていた。
 睨み合いは長くは続かなかった。再び揺れ動く空気に、修もまた動く。二人を感覚で捉え、身体を斜めに動かした。
 直後に通る銀線を、紙一重でパスする。アリトゥの手から投擲される瞬間を見、やはりな、と思った。アリトゥは自分の力場を作用させ、空気中の微少な原子すらも書き替えたのだ。その原子を組合せ、刃を生成する。何も無い所から物質を作り出すと言うのは、驚愕に値する能力だ。
 その直後に、修は自分の『能力』を使った。力場をある場所に作用させ、そこに『罠』を仕掛ける。その間、約三秒。思いの外の重労働に目眩を起こしながらも、身体は不自然にならない様に動かさねばならない。当然、作用させている間に攻撃の手が緩む筈も無い。修は必死になって、その場で攻撃を避けた。
 肉体にダルさが見える。だが、修はそれを無理矢理に押し込めて、設置を終えた。おぉぉっ、と気合いを裂帛させ、上体を下げる。同時に地を蹴り、背後に来ていたスィンスを、『そこ』に残した。
 自分の読みが当たった事に、小さく唇を上げる。同時に、修は『罠』を起動した。
 パキィ――と、一瞬だけ、そんな音が響く。その瞬間にスィンスの身体が割れた様に見えた。
 それもまた、音と同じ。一瞬だけの錯覚の後、視覚はその光景を修正した。世界がまるで何事も無かったかのように時を刻み、全てがまた進んでいく。
 ただ一人、修の視界だけは、それ以上を見る事が出来ていた。
「……何をしたのですか?」
 スィンスの問いに、修は立ち上がる。スィンスが立っている、至って普通の空間は、しかし修にとっては隔離された『監獄』となる。
「空間をズラした。貴様が居るその場所は、こちらとは遮断された場所だ。抜け出したいのなら、俺がその力場を解くか――」
 修は一旦言葉を切った。強力な空間の作用を利用した荒業は、抜け出す事はほとんど不可能である事を知っているのだ。故に疲労も激しく、修自身の体力もそんなに残ってはいない。だが、とりあえずこれで一対一に持ち込める。
 再び、口を開く。
「多分、俺を殺すかしか、ないと思う」
 スィンスの瞳が細まった。綺麗な碧眼が歪められたその様子は、見る物に威圧を与える。だが、修はそれに怯む事をしない。正面から受け止め、そして跳ね返す。
「気にするな」
 アリトゥがゆっくりと口を開いた。
「すぐに終わらせる」
 スィンスを見て、次に修を見る。その無機質な瞳は、スィンスとは別の意味でまた、恐れを抱かせた。無表情に加え、特に感情の篭もっていない声は、こういう時に圧されている方としてはプレッシャーを感じる。修は油断無く身構え、アリトゥを注視した。
 アリトゥの戦闘力は高い。その近接戦闘技術は目を見張る物がある。近接戦に特化していると言う良一を退けた手並みは充分な脅威だ。多分、VANの中でも決して弱くはない。
 だからこそ、気を付けねばならない。覚醒したばかりの自分は、戦い方を知らない。コンビネーションが無くなった代わりに、アリトゥは全力で挑んでくるだろう。それを迎え撃ち、生き残れるだろうか。
 いや、と修は思う。
(生き残らなければ、ならない)
 光の為に。そして、有希の為に。
 何よりも、自分の為に。
 今まで個を殺してきたが故に、また個を欲する欲望がある。だから、修は自分の利己主義を満足させたいと考える。
 その方法は、多分、有希と一緒に居るだけで充分だ。
 ちらっと視線を有希に向けると、少女は穏やかな寝顔で身を横たえていた。その表情を失わせない――それは、自分が戦うのに充分な理由になってくれる。
 覚悟を決めた。アリトゥを睨み付け、自分は小さく一歩を踏み出した。
 同時に、相手も動き出す。
 ヒュッ、と空気が切り裂かれた。それを明瞭な聴覚で感じ取り、軌道上を避ける。前へ地を蹴り、接近。アリトゥも同時に近づいてきた。すれ違い様の一刀を避け、間合いが離れる事を嫌う。瞬時に背後を振り向くと、修はアリトゥの回避軌道に向けて攻撃を繰り出していた。
 アリトゥは予測できなかっただろう。経験豊富であるが故に、回避の時には自分のカンを信用してしまうのが、彼の最大の弱点だ。勿論、これは知覚能力と情報処理能力が飛躍的に向上する修にしか出来ない芸当である。相手が、自分が攻撃を仕掛ける動作をした時には既に回避運動に入っている事を見抜いた事が、修にとっては最大の収穫だった。その時点で敵の回避予想経路を割り出し、そこに攻撃を変更すれば良い。
 突き出した脚がアリトゥのボディを捉える。ゆっくりと動く時間の中で、靴底から脚を伝わる衝撃を感じ取った。完全に体重の乗った物ではないが、始めて相手に一撃を与える事が出来た喜びが、少しだけ有った。
 素早く、足を引く。地を踏み締め、バランスを取り戻すと、次には横へと小さく飛んでいた。視界の中に写った、アリトゥの小さな動きを捉えたのだ。予想通りの弧を描いて振られる刃に前髪を数本、持って行かれたが、修は、自身にまだ平気であると言い聞かせる。
 接地と同時に、前方へと地を蹴る。急なベクトル変換に骨格が軋みを上げたが、肉体に反して知覚はゆっくりと動いた。その見える感触に多少の違和感を覚えるのは、仕方ない事なのかもしれない。それでもしっかりと反応している肉体に、寧ろ驚きすら覚える。
 再接近。空気の流れを感じ、読む。左手側からの圧力を感じて、軸足を少し捻ると、アリトゥの右足が跳ね上がってくるのを視界に入れる。冷静に、腕でブロック。自由な左手を使っての攻撃。防がれる。ならばと、少しだけ離れてのローキック。だが、それをやろうとした時に空気が動いた。
 慌てて回避行動に入ろうとする。が、修には分かっていた。避ける事は困難である、と。
 右肩に、衝撃。ゆっくりと入れられた右足は、修の身体を吹き飛ばした。浮遊状態から、体を捻って位置を入れ替える。着地。そして、回避。
 遅れた。左の二の腕に擦過。鋭敏な感覚が訴えたのは、痛みだけではない。刃の冷たさや、それにより配置を入れ替える空気の流れまで。
 ヒュッ。風切り音を捉える。動くが、見える軌道を止める事は出来なかった。腹に刃が当てられ、具現力によって威力を高められた刃がそこを切り裂く。
 飛び退った。後方へと大きく跳躍し、その時に自分の傷の状態を確認する。浅い。
 修は、そこの防護膜を少し厚くした。これは治癒能力促進効果が有ると聞いている。このくらいの傷ならば、そう時間をかけずに治癒する事は可能であろう。――勿論、有希の能力に頼った方が簡単であろうが。
 追撃は来ない。修は自分が圧されている事を認識していたから、それは正直にありがたい事だ。それから先程の攻防を思い出し、頭の中で軽く整理する。そして、自分の能力の欠点に気付いた。
 攻撃力が、無い。
 通常の具現力に比べて、彼の攻撃は余りにも決定打が無いのだ。アリトゥのように刃を使ったり、良一のように攻撃力を高めたりはできない。ましてや、一撃必殺だけの攻撃ばかりを繰り出すような光とは、比べ物にはならなかった。決定的な攻撃ができないから、圧されている。それと、この感覚に完全にシンクロできていない肉体もまた、絶対的な力量差を感じさせる要因だ。
 どうすれば良いだろう、と考えた。だが、答えは出ない。ギリッ。奥歯を噛んだ。
 アリトゥを睨む。その額に、汗が浮いているのを見て、少し驚いた。良一との戦いでも表情一つ変えなかった男が、修との戦闘では緊張している。そこに、まだ勝機があるように思えた。勝てる見込みはあるのかもしれない。その希望を見て、戦える、と思う。
 瞳が重なる。アリトゥの鋭い視線が殺気を帯びた。感情を表に出す事の無かった男が、修に対して送るメッセージ。それを察し、身構える。
 アリトゥが間合いを詰めた。同時に、ダガーが三つ、投擲される。体を捻り、背を反った。視線はアリトゥをしっかりと捉える。大きく肩を振り、左側から銀線が迫ってくる。
 今度は、身体を回す。
 深く倒して刃を避けた。掌を地に付けると、四つの支点の内の三つに力を加えた。防護膜を溜め、弾く。反動で跳ね上がった身体。左足を伸ばし、右足一本で体重を支えると、縦方向での後ろ回し蹴りを放った。
 踵がアリトゥの首筋へと吸い込まれて行く。それを察し、振った左のベクトルに逆らわずに更に回転。修の狙った脊椎を外させ、肩へと直撃。
 がきっ、生々しい音が響く。肩が外れたのだろう、ダランと下がった左腕を見て、好機と見た。すぐさま体勢を立て直すと、アリトゥへと突進する。
 懐に入ると、屈む。拳を握り、膝を伸ばした。少し前屈みになっていたアリトゥの鳩尾を狙い、全身のバネを活用したアッパー。アリトゥは背を逸らした。がら空きになったボディに対して、空中での静止状態のままに態勢変更。背に力場を発生させ、先と同じ容量で弾く。膝を突き出し、アリトゥのボディに蹴りを見舞った。
 手応えが返ってきた。仰け反った姿勢のまま、後ろへと吹き飛ぶ。アリトゥのその姿を見て、しかし追撃を緩めない。追う。が、相手はすぐさま起き上がると、右手を肩に当てた。
 ガコッ、が適切だったろう。外れた肩を強引に嵌めたのだ。鉄の様な、鈍い銀の防護膜を厚くさせたアリトゥは、動き具合を見るように肩を少しだけ振ると、両手に刃を出現させた。
(くっ……!)
 刃が振られる。円を描いて、頚動脈を狙うように。見る。そして、動いていた。
 腕を上方へと向けたが、受け止める手段が無かった。防護膜を破り、刃は腕を切断してしまうだろうと、容易に想像がつく。だから修は、その行動を反射的に起こしていたのだ。
 キィンッ。澄んだ金属音が鳴る。自分の掌にある冷たい感触。汗が溜まったそこに金属を当てたが故に、皮膚感覚はより鋭敏に反応していたのだろう。そして、しっかりと握ったグリップは、その確かな重みを脳に伝えていた。
 銃が、あった。良一が持っていた筈のシグ・ザウエル。それがアリトゥの作り出した鋭利な刃を受け止めている。
 アリトゥが困惑した表情を浮かべていた。目の前に来て始めて分かるほどの、小さな綻び。が、修はそのチャンスを逃しはしない。右腕を上げる。ナイフを弾き、アリトゥの体勢を崩した。
 ポイント。銃把をしっかりと握り、固定。拡大された知覚が、絶対的な安定を与えてくれた。引き延ばされた時間の中で、肉体のバランス感覚が研ぎ澄まされているのを感じ、修は引き金を引く。
 パンッ。至近距離の発砲は、空中に突如として表れた金属に食い込んだ。威力が相殺され、鉄板にパラベラム弾の型を付ける。潰れた金属弾頭は鉄板を貫通する事無く、火花を散らした後で地面へと落下を始める。
 くそっ、と毒づく。至近距離であったが故に勢いがつけられず、薄い鉄を貫徹できなかった。だが、これは収穫だ。如何に回復力が高く、またその堅牢さで知られる防護膜も、銃弾は脅威となり得ると言う事が分かった。だから、アリトゥは自分の能力を使ってまで防御したのだ。それは、決定的な攻撃力不足の修からすれば有り難い情報だ。
 能力者とて、撃たれれば死ぬ。ならば自分はそれを最大限活用すれば良い。
 修は地を蹴る。間合いを縮め、今度は積極的に攻撃を繰り出していった。
 自分の中で、この力をどうすれば扱えるのか、解ってきた気がする。



 暗色が小揺るぎもしない光景を見て、自身の動揺の方が大きい事にジレンマを持った。だからこそ、刃を薙ぎ、多彩な攻撃を繰り出す。
 だが、それが尽く躱されていくのを、アリトゥは目の当たりにせねばならなかった。
 シュウの動きは、決して速い物ではない。寧ろ遅く感じるほどだと言うのに、彼はこちらが動いている頃には回避動作に入っている。
 だから、当たらない。右から左へ、横一線に引かれた刃の銀線は、完全に少年の姿を見失っていた。
 外したと同時に、アリトゥは動かなければならなかった。大きく肩を振った分、隙も大きい。シュウが拳銃を構えるのを目の隅で捉え、その射線軸を計算した。ここでアリトゥが気付いた事は、回避行動を、シュウが目標を固定する前に行ってはいけない、と言う事。彼は自分よりも早い目標の捕捉が可能である、と気付いたのは、自分の攻撃が最初に躱された時だ。
 引き金に力が入った。それを確認し、頭を跳ね上げる。パン。銃声が一瞬だけ遅れ、目前を九mmの鉛弾が通り過ぎていく。
 恐ろしい程に正確な射撃だった。音速を超えた鉛が切り裂いた空気が、スーパー・ソニックとなって顎を小さく切った。
 それに表情一つ変えずに――否、変える余裕が無かったのだ。それに気付いたのは、自身の腹部にシュウの爪先が入ったのを意識した時である。
 鳩尾、ではない。だが、それは並大抵の威力ではなかった。完全に、防御を失念していたのだ。攻撃に気を急いていた、その事実に、頭の片隅で愕然とする。改めて、今の状況を理解した。
 前に屈みそうになり、止める。刃を生成し、振った。紙一重で避けられる。その隙に体勢を立て直し、迫る。
 両側から、挟み込むように。最終地点で腕を交差させるコース。目標は、喉。動脈と静脈の両方を遮断し、脳を窒息死させる。
 だが、少年はそれを避けた。明らかにこちらが上のスピードでありながら、攻撃が完全に読まれている。屈む、だけの一動作で躱すが、それは必要最小限の動きだった。軌道ギリギリに頭を置き、数本の髪を薙ぐ。がら空きになったアリトゥに銃口を向けたシュウに、アリトゥは空気中にナイフを作り出した。総数は、5。それらを具現力で包み、後方に力場を附帯させて弾く。高速でシュウに向けて切っ先が放たれた。
 その後に、驚愕する。後ろに背を反らせると同時に、シュウは身体を横に倒した。まるで滑るように地を蹴り、低く、飛翔する。刃を避け、再び銃口を向けてきた。アリトゥは何とか脚を振り上げ、シュウの顎を蹴り上げる。
 それもやはり、察知されていたようだった。だが、回避動作は間に合っていない。入り、上空へと跳ね上がる。追撃をかけるべくアリトゥが近づいて、そして気付く。
 シュウの目が、自分を捉えていた。
 嵌められた、と気付くのにコンマの時間しか要す事はなかったが、全力で飛び出した自分の慣性を止めるには数秒を要する事となった。空中で体勢を入れ替えたシュウが、アリトゥの突きを躱す。同時に懐に飛び込んだ少年に、アリトゥは向き直った。双方の瞳が交錯し、シュウの暗黒の中に一瞬の閃光を見る。
 違和感は、その直後に来たのだ。
 何の前触れも無く、右腕が消失した。具現力起動時の鋭敏な感覚神経が、痛覚と共にその情報を送り込んできたのである。何が原因かは分からない。自分の額に浮かぶ脂汗が感じ取れた。背中が嫌に冷たいのは、そこに溜まった悪寒のせいだ。
 左で、薙いだ。僅か数センチの所で屈んだシュウは、それを躱す。そして、全身のバネを活用して身体を伸ばしてきた。
 迫り来る少年の姿に、アリトゥは重大なミスを犯した事を知った。ここでやるべき事は、回避であったのだ。薙いだ腕がネックとなり、身体を入れ替える事ができない。突き出された腕が自分に迫り、喉を圧迫した。
 異物感は刹那で消失した。それ以上を感じる事は、何者であっても不可能であろう。
 アリトゥは最後に、この相手を倒す事ができなかった事に、それほどを拘る事はできないだろうと思えた。なぜならば、それは当然の出来事に思えたからだ。



 人生で始めて使った貫手が決まった時に、真っ直ぐに伸ばしていた自分の指に不快な感触が伝わった。
 グシャ、が最も使われる表現だろう。喉が潰れ、動脈が破れ、肉が貫かれ、そして、脊椎が折られる。自分の腕がその感触を鮮明に伝えてくる事に、漠然とした現実感を味わい、修はそれを実感とした。
 人を、殺したのだ。
 ヌルリとした、温かな液体が腕を伝う。人肌の温度を保ったそれは、恐らくは血液だろう。他にも、食道などから分泌された多種多様な液体は、全てに粘り気があり、普段ならば嘔吐感を誘うような物ばかりであった。だが、頭の中が異常とも取れるほどに冷たく冴えていて、修は気にする事も無く腕を引き抜く。左腕だ。
 鮮血が吹き上がった。動脈が削られたのだ、当たり前だろう。脳へと酸素を運ぶ筈だったそれは、空気に触れて深い紅を景色に散りばめた。その一つ一つを感じ取り、自分は何をしたのだろう、と思う。
 アリトゥの亡骸は、右腕が存在しなかった。何故かは、分からない。だが、それは自分がやった事なのだろう、それだけは理解している。あの瞬間に、自分は確かに聞いたのだ。
 パキンッ――そう、何かが割れる音を。
 どうやったのかは、知らない。ただ、それは自分の特殊能力の一端なのだろう、と言う事だけしか解らなかった。
 自分の力は理解しているつもりだった。だが、漠然としか感じられないその能力を、自分の都合が良い様に解釈していただけなのかもしれない。これは全く次元の違う力なのかもしれない。そう思い、自分を恐ろしく感じた。
 ドサリ。アリトゥが倒れ、修は意識を戻した。痙攣したままのアリトゥの身体は、先程まで彼の身体を纏っていた鈍い『鉄』の光を消失させていた。完全に事切れているのだ。
「アリトゥ……」
 スィンスの呟き。信じられない、そんな感情が込められた、呆然とした様な声だった。そちらを見る。彼は、目を見開いていた。未だに閉じ込められたままの身体を震わせて。
 その気持ちも分かる。百戦錬磨の能力者が、たった今、目覚めたばかりの少年に、殺されたのだ。しかも相手は、最初は障害とも感じていなかったような一介の高校生。
 修はそのスィンスを見て、まだだ、と思った。まだ終わってはいないのだ。この存在を倒さねば、終りなど見えない。
 立ち上がった。同時に、空間を解放する。開け放たれた歪みを乗り越え、スィンスは自由になった足を前へと踏み出してきた。
 彼の瞳には、既に動揺の色は消えていた。冷静な、澄んだ色をした瞳が、修を見据えている。
 プロフェッショナルの、眼だ。明確な敵意と殺気が修に伝わってきた。冷たい心に、興奮したままの身体が訴えてくる。
 戦え、と。
 修は腕を跳ね上げた。シグ・ザウエルP220が咆哮を上げる。九mm弾が放出され、スライドが後ろに下がり、戻る。
 スィンスは弾丸を避けた。そして、一気に距離を詰めてくる。手刀を一閃。防護膜の厚みを増幅し、打撃力が強化されている攻撃に、修は首を反らして避けた。スィンスの動きはアリトゥほどの速さを持ち合わせてはいない。だが、油断はできなかった。
 修は、顔面に入った回し蹴りに気付かなかったのだから。
 吹き飛ばされて、始めて自分のダメージを知った。完全に隙を作っていた事を知り、舌打ちを一つ。
(何やってんだ、俺は!)
 自身を過信し過ぎた。使いこなせてすらいない能力をアテにして、致命的な欠陥を齎していたのだ。
 アリトゥを倒せた事は、単なる偶然でしかなかったと言うのに。
(さっき誓ったばかりの筈だ!)
 思い出すのは、有希の顔。自分の問いに、もちろんです、そう答えてくれた少女。彼女とこれからを生きていく為に、修は、ここで生き残らねばならない。それをする事が今の自分の全てではないのか。
 くそっ、と吐き捨て、修は地面に倒れた。
 その隙を突いて、スィンスが追撃を放ってくる。光弾。力場を増幅させるその瞬間に、修は跳ね上がっていた。
 倒れて終わり、などと言う無様な事はしない。地面に接地し、コンマで移動する。転がるのではなく、力場を発生させ、正に跳ねるイメージ。真横にベクトルを働かせ、急な起動に身体がミシリと悲鳴を上げる。慣性が内臓を引っ張るような錯覚を与えさせた。が、その不快感に構っている暇は無い。
 光弾が接地し、爆発する。
 スィンスが、修に対して驚いた表情を見せる。避ける事を予期していなかったと言う顔だ。自分に当たりそうな光弾を弾きながら、修は距離を取って再びスィンスに対峙した。
 パンッ。炸裂音と、リコイル。二つの振動を感知する。自分の掌中で、シグが咆哮したのだ。同時に、ブロー・バック――戻らない。
 弾切れ――?
 ホールド・オープンしたままのシグを見て、失念した、と思う。シグ・ザウエルの装弾数は9+1発。良一が派手に撃っていたのだから、簡単に尽きるのも当たり前だ。
 予備弾倉は――
 見当たらない。当然、スィンスは回避している。くっ、と呻き、気付く。
 良一が、取り出していた。黒く細長い、金属を。シグのマガジンだと気付き、手を伸ばす。が、その時にはスィンスは目前に迫っていた。
 屈む。額に掌が当たった。まともに掌低を食らい、脳が揺れた。視界が一瞬だけ霞んで、しかし意識を瞬時に引き戻す。背中が反っていた。そして、腕が伸びていた事に気付く。
 いつのまにか、そこに弾倉が存在した。無意識下で空マガジンを廃棄、そして、左手を少し上に上げる。
 ガチン。銃把に弾倉が納まった。その余りにも不自然な光景に、しかし修は驚かない。驚く余裕が、無かった。スライドを引き、薬室に弾倉内のパラベラム弾を送り込む。
 ジャック・ナイフの要領で起き上がる。スィンスの貫手。躱す。前方向へのベクトルをむりやりに変更して手刀で薙いでくる。後方へ。
 気付けば、スィンスの背後を取っていた。銃口を上げる。照門を除き、照星に合致させた。
 スィンスが振り向いた。揺れ動く金髪。額が見える。防護膜で腕を抑え付けて、ブレを打ち消した。
 トリガーを引き絞る。銃声。リコイル。そして、硝煙。
 血飛沫が舞った。反射的に首を反らしたスィンスの、喉にパラベラム弾が埋まったのである。物体が音速を超えた事によって巻き起こったスーパー・ソニックが、空気の刃としてスィンスの動脈を切り裂いた。隙間ができた血管に、流れていた血液が振り撒かれる。それにより起こったショック症状がスィンスの心音を停止させている事を知ったのは、彼の体を覆っていた防護膜が消失したからだ。
 防護膜とは、生命エネルギーの発現である。それが消える理由は、二つ。自らの意思で解くか、もしくはそれを維持できない状態に追い込まれるか。それは即ち、意識を失うと言う事だ。そして、当然のようにそれは死亡した場合でも適用される。生命エネルギーが途絶えるとは、そういう事だ。
「修!」
 荒い息遣いで肩を上下させていた修は、良一の声で我に返る。そちらを振り向くと、しかしその視界は動きが遅かった。
 良一は立ち上がっていた。アリトゥが死んだ事により、具現力で無理矢理に生成・維持されていた刃が消失していたのだろう。防護膜を傷口に集中させ、応急処置を施している。それでも痛みは相当だろう、彼は額に脂汗を浮かせていた。しかし彼の瞳は依然として鋭く、その力強さは失われてはいない。
 修も起き上がる。ふらふらとしたまま、足を踏み出した。
「有希……」
 呟く。喉がカラカラに渇いていた。それを癒すかのように、少年は少女の傍へと歩を進めた。
 有希は、すやすやと眠っていた。その安らかな寝顔に安心を覚える。護れたんだ、それが実感となって心の中に染み込むと、修は漸く安堵の息を吐いた。
 そっ、と有希を持ち上げる。小柄な少女は、軽かった。
 良一が隣へと立っている。見上げると、彼もまた安心したような表情を浮かべていた。だが、修はまだ完全に安心できる時ではない事を理解していたのだ。だから、彼は立ち上がり、捕捉していた気配を冷静に分析していく。
 振り向く。同時に、全方向から気配が近づいてきた。それも、多分は全速力で。
「何っ!?」
 良一の呻きが聞こえる。戦う事ができる二人が満身創痍の今、例え雑魚だったとしても多くの具現力覚醒者を相手にする事はできない。そう理解しているからこその呻きだった。
 VANの者達だ。恐らくは、あの二人の配下にあった人間だろう。作戦に失敗した事を知り、今ここで修達を消す気だ。
 一瞬で考える。頭の回転が速い。それは、今まで感じた事も無い感覚で、修は少し違和感を持った。が、気にする事はしない。今はこれで良い。
 どうやって逃げようか、そう思う。数はおよそ、十二。全員が戦闘状態にある。そして、こちらは幾ら覚醒したと言っても、所詮は初心者。攻撃力が特別に優れた訳ではない修にはキツイ。良一は傷ついているから、戦えない。何よりも、有希を抱えたまま戦えば勝機はないだろう。
 修は周りに視線を巡らした。
 そして、見付ける。
(あれは――?)
 『壁』の割れ目だ。恐らくは自然発生した物であろう、まるで古くなった皮膚が剥がれた後の様な見事な割れ目。それを見て、修はそこに向った。
「こっち!」
 良一の手を取り、有希を抱え直す。走る。視線の先にいる相手が身構えた。奴には――否、修以外には、割れ目は見えていないのだ。
「どうしたんだ!」
 修は、良一の怒鳴り声を無視した。自分が感じる情報に反して、視覚情報は遅い。引き伸ばされた時間の中で、修は左腕を振り回した。
 うわっ、そういう声が聞こえた。良一を放り投げたのだ。決して小さくはない、軽くも無い男の体躯が浮き上がり、そして投げ出される。良一の身体が割れ目に吸い込まれて、消えた。修も同時にそこに飛び込む。有希を抱く腕に力を込め、背を丸めて身を投げ出した。
 開いた瞳が、地面を捉える。冷静に腕を突き出した。掌が接地すると同時に、前方へとベクトルを加える。進行方向へと一回転。負担を拡散させ、修は身体を受け止めた。
「ここは……?」
 良一の問い。それは、明らかな困惑を含んでいた。当然だろう。周囲を見回せば、景色が一変しているのだ。殺気立った男が十数人で取り囲んでいる廃工場跡ではない。周りを森に囲まれてはいるが、そこは先の様な広い空間ではない。土が剥き出しのその空き地は、数台の車が止められているだけの場所だった。
 駐車場だ。それも、見覚えのある所。視線を外せば、修をここへと連れてきた車が停車しているのが見えた。ふっ、と息を吐いて、身体の緊張を抜く。
 良一も心当たりがあったのだろう。彼は地味目で年代物の乗用車に目を留めていた。
 成功したんだな、と思う。自分の胸の上ですやすやと寝息を立てる有希の背を擦った。うんっ、と気持ち良さそうに息を吐いて、笑顔を作る。何か幸せな夢でも見ているのだろうか。その様子に、修は安心して顔の筋肉を緩める。少女を庇って背中から落ちたのだが、ちょっとした痛みだけで別に異変はない。
 よっこいしょ、と身を起こす。その背に良一の問いが再びかけられた。
「どうなっているんだ?」
 顔を上げる。男の真剣な瞳を見た。それは、未だに薄緑の輝きを持っていた。
「空間が壊れてたんです」
「なに?」
 良一が訝んだ表情を浮かべる。唐突に修の口から発せられた言葉を理解できていないのだ。
 しかし修は、気にせずに続けた。
「向こう側が見えてた。だから、行けると思った。それだけですよ」
「どういう事なんだ」
「分かりません。でも、ここに来れた。それで良いでしょう」
 疲れてるな、と思った。よいしょ、と掛け声一つで立ち上がる。有希を抱えて、修は良一を車へと促す。早くこの場から離れよう、と言う意思表示だった。
 それを察したらしく、良一が車へと駆ける。幾つかある内の、白のカラーで塗装された一台に向っていった。一番目立たないタイプの、ありふれた乗用車だ。だからだろう。逃げるのには、変な特徴などはいらない。
 修は足を踏み出す。体中に疼くような痛みを覚えた。が、無視する。力を入れると、脇腹が熱くなった。アリトゥに裂かれた箇所だ。流石に少し深い様で、そう簡単には塞がらないらしい。見てみると、また血が滲んできていた。
 そこに、疑問が出る。さっきまでは止血がしてあった筈なのに。
(また、開いたのか?)
 体に負荷をかけ過ぎたのかもしれない。そこまで考えて、苦笑した。
 良一には、嘘をついてしまった。
 先程修は、ここに来れた、と言った。だが実際は、ここに来たのだ。空間が壊れていた――正に夢の中で見た『壁』の様に――のを見付けたのは事実だし、それに飛び込んでここまで来たのもまた現実だ。ただ、本来はこの場所には来る筈ではなかったのだ。
 壊れた空間に繋がっていたのはここではない。では、どうしてここに来たのか。
 修が、書き換えたのだ。
 どうやったのかは判らない。多分、修の能力に関係あるのだろう。具現力を使ったからこそ、体に大きな負担がかかったのだ。故に、肉体にダルさが残り、治癒に回す防護膜が薄れたのだろう。だから深い傷が開いたのだ。
 ややこしいな、と思う。自分が持っているのは、想定していた能力よりも、より複雑な力らしい。面倒な事になった物だ。
 溜息を一つ。その後で、有希の身体を背中へと背負い直す。良一の後を追って、歩き出した。
 修は後部座席を開いてみる。抵抗はなかった。
 鍵が掛かっていない。それを確認し、有希を寝かせる。良一が運転席に乗り込んできたので、修も有希の隣に座る事にした。
「大丈夫?」
 聞いてみる。鍵は掛かっていなかったのに、キーは無い様子だった。そこまで不用心ではないか、と思った。
「大丈夫だ」
 良一が冷静に答える。ポケットから小さなバタフライナイフを取り出すと、刃を開いた。同時に鍵穴に差込み、強引に捻る。エンジンの始動する微かな振動が来た。
 良一が浮かべた笑みを、修も返した。
 車がバックを始める。ゆっくりと回転すると、そのまま出口へと。森を出て行く道に出て、修は始めて安堵の溜息を吐いた。緊張を解いたのだ。
 同時に、自分の全ての感覚が狂った。気付くと、周りの景色が変わっている。今まで感じていた遅さが消え、いつも通りの視覚に戻り、身体が感じ取る空気は不明瞭になった。
(具現力が解けた……)
 ズキン、と熱を感じる。今までに感じた事の無い痛みに眉根を寄せると、斬られたんだ、と始めて実感した。傷口を押さえると、カサカサとした感触。血が固まったのだ。つまり、既に傷は塞がったと言う事だろう。
 それでも、人生で始めて覚えた斬撃の『生』の痛みに、毒づいた。そして、腰の後ろにある違和感を思い出し、自分のやった事を改めて知る。
 シグ・ザウエルの冷たい感触が、背中と密着しているからだろう。



 暗色が世界を支配し始めた。同時に、見下ろす町にポツポツと明かりが灯り始める。日が沈んだのは少し前だ。そして、宵の明星が消えるのは、もうすぐだろう。
 隣で、紫煙が宙へと舞った。山中を走る公道にちょこんと備付けられた日除けとベンチ。そこに座って、良一が煙草を燻らせている。疲れているのだな、そう思った。彼も、自分も。
 修は、公園とも呼べないその休息所を見回し、少し遠いのではないかと思っている街灯に舌打ちした。
 視界が、少しばかり悪い。この場所の輪郭は見えるし、暗くはないので歩行に支障はない。ただ、明るくも無い。作る所を間違えたな。そう思い、県を恨んだ。
 あれから、彼らはわざと迂回して、一旦は町から出た。随分と遠回りをしてから漸く戻ってきた時には、既に日没時刻は過ぎ、藍色が世界を侵食している。空を仰げば少しだけだが星が見えた。
 疲れた、と今日を振り返る。追っ手は完全に撒いた。彼らは恐らく、修も脅威の対象として登録してくれただろう。それで漸く、今回のような不足な事態の連発は防げるだろうと安堵した。下位の人材であろうとも、消耗はできないからだと考えたのだ。政治とはそのように運営しなければならない。
 修と良一は逃走中、常に気を配らねばならなかった。疲れた体に鞭を打ち、緊張を続けなければならなかったのである。これは、精神的な疲弊が大きい。二人は既にヘトヘトであった。
 だが、有希は依然として、スヤスヤと寝息を立てたまま、起きない。心配はしたが、ときどき眠りが浅くなるのだろう、寝返りを打ったり寝言を呟いたりしていたので、その内に起きてくるだろうと思う。その愛らしい寝顔に、起こす事は憚られたし、やってはいけない、と言う罪悪感みたいな物すらも抱かせた。だから二人は少女を起こさない様に更に気を使う事となり、疲弊は倍増である。修は、よくもまぁ寝心地の悪い後部座席の固いシートで寝てられるもんだ、と感心すらもした。
 振り向く。木の柵の向うに、所々で光を発する町の様子が見える。ちっぽけなそこは、いま起きたのだ、と言うように元気に視覚を刺激した。
 修は辺りを見回して、水飲み場を発見する。喉がカラカラに渇いていた。
 蛇口を開いて水を飲む。潤いが身体に浸透するに連れて、緊張が解れていくような気になった。
 ふう、と息を吐いて、口を拭う。振り返り、良一の座る腰掛けに、修もまた座った。
 二人は暫くは無言でいた。ただ、その視線が、広がる夜景を捉えるだけ。白色灯に照らされて、紫煙がゆっくりと上っていく。
「少し、話をしようか……」
 ポツリと、良一が呟いた。そうですね、と頷く。短くなった煙草を放ると、良一は革靴の裏でそれを揉み消した。
「有希の事だ」
 空を見上げる。日除けに狭められた視界の中で、徐々に数を増やしていく無数の星々。二千光年と言う限定された範囲で確認された単体の恒星が、その瞬きを少しずつ強くしていっているようだ。
「あの子の力の事は知ってるな?」
「ええ。俺も、あの子に命を救われてますから……」
 修は自分の腹を撫でた。アリトゥに裂かれた箇所よりもやや上の方に、高次に刺された場所がある。傷は完全に消え失せているが、それは間違いなく致死量の血液を振りまいていた所だった。それを消してくれたのは、他でもない有希だ。
「有希が覚醒したのは、今から三年くらい前になる」
 良一の顔を覗き見た。無機質な光に映し出された彼の表情は、変化の無い無表情。だが、それは何かを抑え込んでいるかのように見えた。
「当時の私は、既に覚醒していたよ。陸将として、入り込んでいたVANの工作員を人知れず消していた。非公式にだが、警察機関とも連携を取っていたんだ。奴等が探し出して、私達が片付ける。そんな事を繰り返す毎日だったよ」
 驚くべき事に、良一は陸上自衛隊の幹部だと言う。その特権を使い、陸自に専門部隊を作っていったらしい。今はまだ管轄内の中部方面隊にしか存在していないが、能力者の部隊もあるそうだ。それは、普段は各連隊に散らせてあるが、任務の時に集結し、遂行すると言う。かなり練度の高い様で、入り込んできていた多くのVANの特殊工作員を殲滅・もしくは拘留してきていると言う。
 ただ、そのどれもがVANの部隊構成にすら入れないような傭兵上がりの能力者達らしい。まともに部隊と交戦した事もあるが、それは珍しい事だと言った。だから、今回のような敵はイレギュラーだ、とも。
「情報はかなり絞り、最小限の動きで最大限の力を発揮していた。そう思っていたよ。だが、奴等はそんなに甘くはなかった。私のミスで、あれは起こってしまったのだ」
 休暇の日の事だった。家族三人で少し遠くの遊園地へと行き、へとへとになって帰ってきた時の事だ。久しぶりに味わった気持ちの良い疲労に包まれながらも、暗くなった山道を制限速度で走っていた。
 異変は、下りに差し掛かった時だった。有希はその時も疲れて眠ってしまっていたと言う。だから彼女は、何が起こったのかを理解していない。それは幸いな事だったろう、そう良一は言った。
「あの時、奴等が狙ったのは、完全な事故に見せ掛ける事だったのだろう。わざわざ上の方で爆発を起こし、石を落としてきた。爆発が起きた場所は、展望台を作るとかで工事が行われていた場所だ。夜中にそこで作動不良が起きて斜面が崩れる。良くある話だからな」
 上方から落ちてきた大量の土砂にハンドルを取られ、車はそのまま道路を外れて横倒しになった。直後に三人の刺客が襲いかかってきたのだ。急ぎ車を離れて応戦・撃退し、良一は妻と娘の居る場所へと戻った。
「そこで見たのは、正に絶望だった。忘れたいと思うような光景だ」
 そう言った後で、俯く。
「ボロボロの身体で、有希が静かに涙を流していた。その手にあったのは、希の頭だった。引き千切られた首が地面を転がり、有希はそれを呆然と見詰めて、身体にくっつけようとしていた」
 まるで、くっつきさえすれば生き返るかのように――
 千切れた部分を合わせて、一生懸命に固定する。幼い少女に、その衝撃は余りにも大きかったのだ。心が散り散りになるくらいの錯乱が、その残酷な動作をさせていた。そして、有希はただ涙を零していた。
「あの子の瞳は、その時には既に変質していた。闇の中で美しく輝く白銀の双眸が、双子の満月を思い起こさせた」
 小さな身体から溢れた生命エネルギーが、有希と希の身体を包んでいたと言う。
「ゆっくりと、希の身体が綺麗になっていった。あの子の治癒能力が、身体的な損傷を治していったんだ。だから切れた首が繋がるのも、そんなに時間は掛からなかった。」
 制御されていない具現力は、有希の意識から完全に外れていた。だから、少しずつしか効力が発揮されていかなかったのだろう。今よりもずっと長い時間をかけて再生された希の鼓動が動き出す事は、無かった。
「有希は、あの時の事をまだ責めている。あの子の能力なら、あの状態から生命活動を再び促す事すらもできたからだ。だから、制御できなかった事を悔やみ、自分が救えなかったのだと閉じこもってしまう」
 体が完全に戻っても、急速に冷たくなっていくだけの母。それを一番身近で感じた事で、有希は心に大きな傷を持ってしまった。自分を責めてしまうのは、その傷がさせる事だ。そして、それは孤独を呼び起こしてしまった。
「だが、私はあの時の事を言えなかった。それをして、今度は有希が私を責めてくる事を恐れたのだ。過保護とも呼べるような事をしておきながら、一方であの子を避けていたのはその心から来る行動だったんだと、今なら分かる」
 彼は、苦しかったのだろう。その顔が悲しみに歪んでいる。だが、だからと言って彼を責める事はできないだろう。そう、修は思った。愛する存在に憎まれる苦しみ。愛されるべき存在から隔離された悲しみは、修の人生をも固定しようとした。同じだ、と思う。彼らの感性は非常に近い所で共感している。
「それからだ。あの子が、人の前で真に心を開く事ができなくなった。……他人には、やはりあの力が原因だろう。だが、悲しい事に、身内である私には余計にぎこちない態度しか取れなかった。事情が分かっている事と、血の繋がりがある事だけではいけなかった。いや、それがあるからこそだったのだろう」
 辛かったろう。それでも、良一は少女を護り続けた。余りにも唐突に、そして素っ気無く起こってしまった出来事が妻を殺してしまった。だから良一は、たった一人の娘を護る事を至上命題としてここまで生きてきたのだ。それが妻の希望した事だ、とでも言うように。
「それがどうした事だろうな。とても久しぶりに、あの子が心の底から笑顔を見せてくれた日があった」
「心の底から……」
 どんな時だったのだろう。修は真剣な表情で聞き入る。
「一週間くらい前になるのか。一人の男の子に助けてもらった、と言っていた。優しくて、強くて、とても素敵な少年だった、と。幸せそうな笑顔で、有希は私に語ってくれた。その日は久しぶりに、夕食の席が盛り上がったよ」
 嬉しそうな表情で、良一は語る。しかし、その瞳に滲んだ寂寥を見て、修は切なくなるような思いを抱いた。
 なぜ、彼は悲しそうなのだろうか……。
「それから数日後、私は久しぶりに家に帰宅した。その前夜にVANの戦闘員に襲われてな。急いで帰ったのに、有希は居なかった。そこで、必死になって探したんだ」
 暗がりの中で浮かび上がる良一の視線が、こちらを向く。修を見据え、彼は言う。
「見付けた時に、私は嫉妬を感じた。有希が君と一緒に居たからだ。それだけじゃない、あの子は心底から信頼した瞳で君を見ていた。私には向けられなかった瞳を。それが耐えられなくなり、飛び出した」
 その時の事を思い出す。スィンスに操られた高次たちを何とか倒して、有希を救った。彼女に治癒を施してもらって、そして良一が来たのだ。あの時の強い瞳は、忘れる事はできない。
「そして今日、もう一度、君に出会った。有希の言う素敵な少年は、私が思っていた以上の存在だった事を知った。嬉しい事だ。私は、ようやく気付けた」
「何を、ですか?」
「あの子は、私が縛って良い存在ではない。これからは、君に有希を託すべきだ」
 良一の声は、何処までも真剣だった。
「有希を、頼む」
 真摯な瞳に、寂しさがある。それを見ながら、修は頷いた。ゆっくりと、しかし確実に。
 二人の間にあった緊張が、確かに緩む。良一は椅子を立ち、柵に持たれた。その背が微かに震えているのを見て、修はそこを離れる。男の泣き顔は、見て良い物ではない。
 車に近づく。後部座席を開けると、窮屈な姿勢で、しかし未だに寝息を立てる有希が居た。可愛らしい寝顔を見て、柔らかい頬に触れる。
「んっ、むぅ……」
 小さく唸って、有希は身を捩った。だが、目を覚ます気配はない。指を上へと持って行く。長い睫毛が少し震えていた。何か夢を見ているのだろうか。
 少女の髪に触れる。そのサラサラとした感触に、有希の規則正しい呼吸音が重なった。愛しい少女の熱を感じ取り、この美しい生命を託された事に、誇りを抱いた。これからの生涯に、有希が重なってくれる事を喜びと思う。明日からは少し忙しくなるだろうか。そう、希望を見ながらも、有希を感じる事ができる自分を心底から幸せだと思えた。
 修は、これからを思って、笑んだ。希望は、有る。この子が居てくれるだけで、自分には充分に思えた。これからのパートナーを見詰め、優しい微笑が出る事に自分で驚いた。
 大変な歩みになるだろう。でも、有希と連れたって行こう。その為に、ねぇ、有希。
 今は、ゆっくりと、おやすみ――



 彼らにとって議場などはさしたる問題ではない。配慮ができるのならば、彼らは何処でも議会を開き、必要ならば決定する。
 今日の議場は屋内となった。美しい町並みを見据えながら、その高い目線に入る陽光と、無機質な室内灯の光に、その素顔を惜しげも無く晒している。
 穏やかなような、張り詰めたような、不思議な空気が流れる会議室内。そこでゆったりと腰を落ち着ける影が、将来を語り合う。のどかな雰囲気に似合わぬ彼らの素性を、広めの室内は受け入れていた。
 彼らはVANの政治担当責任者達だ。VANも一枚岩ではない。その巨大な組織は、大きいが故に目的を遂行する過程が広くなる。それらを解決するのは実力行使だけでは有り得ない。交渉事や内務の、雑多な仕事の担当者、いわゆる「背広組」を束ねるのが、彼ら老練の政治者である。
 この集まりは、「閣議室」と呼ばれていた。VANの政務を担当する各「室」の室長達の議会である。
 今、閣議室として集まっているのは、七人であった。誰もが壮年に差し掛かった男であり、これまでそれぞれの国で閣僚として偉大なキャリアを積んできた存在ばかりであった。現在はVANの理想を崇拝し、政治力を生かしてそれに貢献せんとする者ばかりだ。
 彼らが議会を開くのに、大きな規制はない。十四人が存在する室長達の、五人以上が居れば閣議は開催される事になっている。他は、どんな場所で何者が居ようとも、いつでもやりたい時に採択を可能とした。
 開かれるが故に決定される内容は、ただ一つ。彼らが崇めるその存在へ届ける意見だけ。閣議室に、実質的な意思決定力は無い。全ては彼らを束ねるその存在のみが決める事である、彼らはただ、それに促すように動くだけ。
 今日の議題は、最終案件に入った。憂鬱事、である。
「第二特務の別働小隊が壊滅したらしいの」
 にこやかな声が空気を震わした。彼らにとっての目の上のたんこぶについての話を、まるで関心が無い様に、彼らは話す。それが閣議室のスタイルである。
「悲しい事じゃ。奴等は優秀な駒だった」
「独楽、でもあったな。躍り狂った挙げ句に何の手柄もないらしい」
「おまけに厄介事を引き起こしてくれたらしいのう。もう一人、目覚めたんじゃろう?」
「そのようで。御陰で、外務担当者を仕向けねばならなくなりましたな。特殊な力だそうですから」
「問題は、そこであろう。その少年については、セイナは何も知らないと言っていた」
「彼女ですら計り知れん力の持ち主とはな。『問題ない』、と言っていた筈がとんだ憂鬱だ」
 未だに高い位置に有る太陽が、彼らに柔らかな陽光をくれた。空調の聞いた会議室に要らない不快感はない。柔和な空気が、創られたままの姿でひたすらに流れる。
「この案件、外務担当者を出す必要は無い」
 その声に、他の者がゆっくりと首を捻る。言っている事が良く分からなかったのだ。
「もうすぐ、あの地区の掃討作戦が行われる予定だ。その時に、そやつらも消せば良い」
「そうも行かぬよ。『五機動隊』には負担が大きくなり過ぎてしまう。ただでさえ厄介な、ROVとか言う民兵組織に、自衛隊、警察機関、個人活動者。それらを掃討し、抹殺するのは奴等にも荷が勝ち過ぎる。そこに特殊型閃光使いとアンノウンを加えれば、よもや判りきった事になってしまう。敵方に結束されれば、全滅の憂き目にも遭いかねん」
 空気が揺れ動く。皆が同様の動作をしたのだ。
 頷き――言葉の肯定。
「そこで、だ」
 横柄な声に、再び空気が揺れ動いた。六人の同じ動作。視線の集中。
「私としては、特別任務を帯びた小隊を二人の抹殺と言う目的だけに差し向けたいと思う」
 一旦、言葉を切る。男は静かに、しかしはっきりと口にした。
「差し当たって私が任を命じたいのは、『第二特殊機動部隊』だ」
「クライクスか……。だが、あいつは『長』のお気に入りだぞ?」
「しかし、この件については『長』が最も憂慮されていた。それをお気に入りが片付けるのも、また一興かも知れん」
「ダスクの反対が有りそうだがの」
「良い機会かもしれません。最近のダスクは少々ばかり危険な兆候が有ります。彼を戒め、また尖兵達の士気を上げると言う意味では人気の高いクライクスにこの案件を任せる事が重要になってくるやも」
「そうじゃのう。アーバック。おぬしの管轄区から出すとして、問題は無さそうか?」
「特に気になる所など無いよ。あいつは別の任に就いているが、すぐに解除しよう」
 全員が、また全員の顔を見渡す。それぞれに特に変化は無い。ならばこれは可決されたと言う事だ。そして、これらの小さな案件は、わざわざ『長』の承認を得る必要は無い。彼らは手足。反射できる所は、みずからが判断を下す事もまた、できる。
「では最終案件を可決する。手続は簡単に済ませてもかまわんじゃろう。即座に関係機関に連絡を取っておくれ。バリックは説明使節の用意を」
「解っている。カミルドを送るよ」
「ふむ。では、通過した案件の実行に移ろう。最優先事項はD案。『クライクス・ゼフィアール以下の小隊の派遣』と、その目的、『カソウ・ヒカルとヤザキ・シュウの抹殺』。それでよろしいかな?」
『是非も無い』
 それぞれが言う。そして、既に席を立っていた。彼らは常に動かねばならないからだ。閣議室は、常に変動するのだから。
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