第三章 「悪魔さん」 1 結花は、気付いた。 ――何に? 異変に。 現在時刻は午後の七時少し過ぎ。六月の半ばを少し過ぎたこの季節では、太陽は沈み、空は闇の中に壮大な宇宙の色を醸し出している。 だからといって真っ暗という訳では無い。 結花がいま立っているのは駅前の公園であった。午後六時からは無人駅となる『刈縞駅』ではあるが、明かりは当然灯っている。それに、街灯だって弱々しいながらも、無機質な白色の光を闇の一角に照らしていた。 暗くは、無い。 だから異変に気付く事が出来た。 最初は何なのか分からなかった。新しく出来た銅像か何かなのかと思ったが、それにしてはおかしい。何せそれは駐輪場の入口に居座っているのだから。 ――何なのか? 『馬』、だった。間違い無く、そのシルエットは『馬』なのだ。 こちらを向いている。駐輪場の中ほどに位置する街灯は、『居る筈の無い生物』の体を後ろから照らしていた。 逆光だから、その表情を読み取る事は、できない。 だが、『馬』は、確かに生きていた。逆光の中に居て、ギラギラとした生気を感じさせる瞳が結花を見つめているのだから。 ――何が起こっているのか? それは、途方も無い疑問であった。 結花は訳も分からないままに一歩後ろに後退する。『馬』も、一歩前に進み出た。 恐怖とは気がついた時にやってくる――。 紛れも無い恐怖である。が、恐怖は認知されない。 何故ならば、『恐怖』を認知するのは、そこにすでに『恐怖』が存在している時だから―― だから、結花は恐怖に気がつくのである。 瞬間に、弾けるようにして、駆け出した。公園の出口に向って――いや、入口に向って。 道路に飛び出した。恐いから、だから逃げ出した。人間の生理が、自己防衛本能を働かせるから。 理解できていないものに対する、最も適切な本能―― それが恐怖であり、逃亡という選択肢を選ばせる結果となる。 結花が駆け出す時、あるいは駆け出している時には、不思議と悲鳴はなかった。 いや、声そのものが出ていない。 喉を通って唇から漏れるのは、必死の息遣いだけである。 彼女の脳は、現在の状況を理解できてはいなかった。ただ、それが他の人間であっても、正常に判断できるかどうかは疑問である。 『恥じる事はない』 頭に響くような重厚な声。それが、自分の鼓膜に入って来た。 「えっ?」 ここで迂闊に振り向いてしまったのが失敗だった。網膜に映し出された映像は瞬時に電波となって神経を駆け抜け、脳へと到達する。 視覚器官が、完全な恐怖を捉えた。 目の前に迫る、『馬』の洗練されたシルエット。その額にポツンと存在する、大きな角までも脳が正確に解析する。 息が詰まる、とはこの様な感覚を言うのだろう。 少なくとも結花が今までに感じた事の無い異様な触感が、少女の、幼い体を駆け抜けていた。 「いやっ……!」 ここで始めて声帯が震えた。錯乱した精神状態の中でただ、自分が発した音が無機質に反響した。 その瞬間で 少女は静かに光を見る――。 2 刈縞ニュータウンの最も背の高いマンションの屋上。そこに立つ聖は、視界にある確実な状況を正確に読み取り、行動を起こす事を可能にした。 右手を突き出し、中指と人差し指を目標に突きつける。親指を人差し指に添える様にして、中指と人差し指の間の狭い溝に、ターゲットを入れるだけ。 それだけで、粒子は魔力という『質量』を得る。 魔力は、現地球上の何者をも凌ぐスピードで目標に到達し、同時に、目標である『馬』は派手に転がった。 聖は、その光景を覚めた目で見る事しか出来ない。同時に『馬』が死んでいない事も了解している。 聖の腕から放たれた『光』は、拡散する巨大な質量を持った、速いだけのただの『光』でしかない。魔力耐性が出来ている魔族には――ましてや、人間形態の本態を持つ上位悪魔には、それは子供騙しにしかならないだろう。 だが、その子供騙しが大切なのである。 目測。目標の位置は既に分かっている。あとはここからそこまで移動するだけ。 ――どうやって? 刈縞ニュータウンの一番背の高いマンションの屋上。目の前とは言え、公園とは少なくとも百メートル以上は離れているのだ。 階段を駆け降りて全速力で走っても、少女を助ける事など到底不可能だろう。どんなに足が速くても、そこまでの距離を瞬時に詰める事など不可能に近い。 どんなに足が速くても―― あくまでも肉体での問題でしかなかった。空を飛ぶ事が出来るのならば話しは別だが、残念ながら聖の場合はその様な能力を持ち合わせてはいない。『魔力』を使用する事で巻き起こる奇跡――『魔法』は、決して様々な力を一つの素体に与える事はしないのだから。 つまり、空を飛ぶ事が出来ない者としてそれが出来るのは、世界のどんな生物すらも持ち合わせていない特殊な能力を持つ、『魔界公爵』であるバルバトス以外には到底出来ない芸当である。 バルバトス――つまり、聖以外の者には。 移動する、と決めた瞬間には、彼の体は脳の命令に従って『擬態』への変化を進めていた。 遺伝子が、その中に組み込まれたプログラム通りに変更される。 体が粒子として分解され、『聖』が『聖』では無くなる瞬間。 そして彼は光となる―― 『悪魔』と『人間』の境目は、実は驚くほど明確に線が引かれている。 その理由の一つに、魔族の持つ幾つかの特異な体質がある。 『擬態化』能力が、正にそれであった。 実は、古今東西の悪魔を表す禍々しい姿の殆どが、その悪魔の『擬態』なのだ。 一言に『擬態』と言っても、その姿は様々であり、また能力もそれなりに差があるのだから、一つにまとめる事は出来ないだろう。 だが、それぞれの擬態には一つだけ、共通点がある。 戦闘におけるパターンの増幅――戦闘局面での攻撃の多彩化、である。 それは、自然界――つまり地球上――における『擬態』とは全く違う物であった。 悪魔の擬態は、戦闘能力の強化だけが目的とされているのだ。 擬態化前の姿は、生物学的に最も優れた肉体、つまり人型である。それから変化する姿は、人の形である場合では決して得られない、極端な攻撃力を持ったバランスの悪い形状になる。身体を巨大化させパワーを優先したり、何らかの動物の形に変化してその特性を身体に備える事が出来るのだ。 ただ、それは上位に属する魔族の場合であって、下位魔族の場合は『擬態』そのものが自然界において不自然な物とならない為の、本物の『擬態』である場合がほとんどだし、戦闘能力の強化よりも相手を騙す事に集中する上位魔族が居ても何ら不思議な事はない。ただ、擬態化には共通する事がある。 普段、生物が自分の体の各部分を動かす事と、何ら変わりない動作であること。 種族として埋め込まれた、『魔力』を使う力。その不思議な力は、生物学的にも物理学的にも全く有り得ない事を、有り得てはいけない事を可能とした。 そもそも、『魔力』という呼称自体が人間がつけた、自身には関わりの無い不可解な能力の事を指すのであり、それは魔族が使おうが天使が使おうが大差の無い、『訳の分からない』力である事に変わりはない。今まで、名称を持つ事すら意味の無かった『力』は、人間の言う『魔力』という便利な形で呼ばれているだけだ。 擬態は魔族特有の能力である。その姿は、自身の『能力』と関わりがある時とそうでない時があるのだが、その中で最も能力との関わりが激しいのが『バルバトス』である。 彼の擬態は、『光』。光そのものとなる力は、一秒で地球を七周半という出鱈目な移動力をも有する事となる。同時に、魔力によって『光』の特性をも変化させた。 『方向転換』――これは、光には無い特性である。 通常、光は真っ直ぐにしか飛べないのであり、本当に地球上を七周半もすることは出来ない。それは、天体が球状であるからである。 だが、『魔力』は自然界の法則を完全に無視する力であり、バルバトスが『神出鬼没』たる由縁は彼の特殊な擬態化にある。 『擬態』が、生物ではない。それは余りにも特殊な物であった。 それゆえに、彼の持つ魔力は擬態に集められる結果となり、彼の持つ能力も『光』を使う事になった。 バルバトスは、『光を操る』のではなく、『光になる』事が出来るのだ。 3 一瞬、という言葉が一番似合うだろう。 『光』となった身体はそんな物の比ではないスピードで目標の地点に到達するのだが、聖の擬態は余りにも特別な為に他の擬態とは全く違う特徴を持つのだ。 擬態化・解除に一秒余りの時間を要する―― それは、他の魔族にとっては有り得ない事であった。 擬態とは、一つの動作でしかないものであり、彼らがもともと持っている能力の一つなのである。そんな一挙動に、目に見える形で体力を消費する事も無ければ、擬態化に制限時間など加えられる訳はない。 好きな時に、どちらかの姿でいられるのである。 だから、聖は――いや、バルバトスと言う悪魔が、正に『予定外の公爵』であったのは容易に想像がつく。 聖の肉体が、再び構成される。粒子として拡散していた筋肉や骨、皮膚などが瞬時に、刈縞公園の入口に現れた。 少女と『馬』の間である。 問題の少女――良く見たら毎朝駅で見掛ける、ちまっこい方の少女だった――が大きく口を開けて驚いた様子でこちらを凝視していた。状況が良く分からないのだろう。 まぁ、唐突に『馬』に襲われて、しかもその『馬』が唐突に吹き飛び、人が目の前に現れたのだから、驚いて当たり前だろう。ましてや一般の民間人である。状況を正確に認識していたとしたら、逆に恐いな、と思った。 「ねぇ」 「!」 聖が話し掛けると、少女はビクン、と肩を大きく跳ね上げさせて、聖の瞳に少女の大きな瞳を合わせた。 「……大丈夫? 怪我とかは無い?」 「………」 少女は、無言で聖の瞳を凝視しているだけだ。 こりゃ駄目だな、と思った。とりあえず近寄ってみる。少女はまだ動かない。 肩に手を触れてみる。柔らかい、女の子の肌の感触がした。名門青葉女子のセーラー・タイプの可愛らしい夏服を通して、彼女の体温が掌に伝わる。 「おーい、聞いてますか?」 少女は、はっとした様子で目を数回だけ瞬きさせた。瞼と一緒に長いまつげが上下する。 「…あ、あの、えっと、その……?」 少女は再び固まった。状況の認識は未だに出来ていない。当然だ。 「大丈夫?」 聖がそう言ってからしばらくして、あたふたと首を巡らせていた少女は、言葉の意味をようやく理解したらしく、激しく首を上下させ始めた。 なんだか、とても可愛い。 「そうか…。怪我は?」 「……な、無い…です」 今度は瞳に困惑の色を湛えながらも、声を出して返答してくれた。 「良かった。じゃあ、急いでこの場を――」 言葉を継げなかったのは、脇腹に鈍い衝撃が来たからである。 「ぐぅっ……んぐ!」 喘ぐ。同時に、殺気を感知しておいて良かった、とも思った。 馬の巨大な角をギリギリで躱してはいるものの、胴体に馬の頭がぶつかっており、その衝撃で三メートルは軽く吹き飛んだ。 「……ってぇな!」 聖は拳銃を持ってこなかった事を悔やんだ。USP(ユニバーサル・セルフローディング・ピストル。ドイツ軍正式採用拳銃で軍用名はP8)は現在、車の中に置き去りにしたままだ。 危険はないだろう、という無意識的な油断があったからに他ならない。自分の怠惰な根性を心底恨んだ。 『おあいこだろう。それよりも、さっきの面妖な技はなんだ?』 その声は――低く、聞きにくいその声は、目の前の馬から聞こえて来た。その口振りからすると、自分の事を知らない様である。 ああ、そういう事か。 そう聖は納得した。 「お前は生まれたばかりなんだな」 その形容は、少し正しくはない。だが、目の前の馬は頷いた。 『知っているのか?』 「こう見えてもお前の仲間だ。先代とも知り合いだった」 ゆっくりと立ち上がる聖を、馬は見様によっては愛らしい瞳で凝視した。 『そうか……』 同時に、『馬』が消えた。既に一角馬の姿は見る影も無い。 代わりにそこには男が立っていた。背丈だけで聖よりも頭半分は高く、筋骨隆々とした逞しい身体を緑色のTシャツで覆っている、大男。 「俺が、新生『アムドゥスキアス』だ」 男は、先程の『馬』と同じ声で、それだけを告げた。 アムドゥスキアス――地獄の公爵の一人であり、『ソロモンの霊』に列挙される七十二人の一人として数えられている、バルバトスと同列の悪魔。馬の擬態を持つ、対魔力性に優れた戦闘能力を持つ上位魔族である。 「厄介なのが出て来たな」 聖は、それだけを口の中で呟いた。『肉体』を武器とする馬の擬態を持つ魔族は、本当の意味での脅威に当たる。 それは、魔族の特性にある。 『人』と『悪魔』を区別する所に、魔力耐性という特殊な能力があるのだ。 普段から魔力に干渉されている異世界生物達は、その魔力を防ぐ為に耐性が存在する。それは、肉体を、ある程度の魔力が起こす力を弱めてくれる、と言う事にある。 つまり、魔力が生み出した『炎』だと、人は瞬時に消し炭になるが、魔族はある程度の温度を耐える事が出来る、という事である。 先程、聖が狙撃に使った能力は、魔力を使って自身の肉体の僅かな一部分を擬態化して光粒子に変更し、魔力で覆って質量を与えて射出したものだ。コンクリートを大きく凹ませる威力を持つそれを、しかしアムドゥスキアスは吹き飛んだだけでダメージが無い。それは、魔力によって得られた破壊力を減殺しているからである。 魔力を持った攻撃ならば、ある程度の威力を絞る事が出来る――魔力耐性の強みは、そこにある。 そこで出てくるのが、『魔力』を肉体に作用させるだけの能力。単純かつ、自身の肉体にある物のみの破壊力は、魔族にとっては大きな天敵となる。 魔族とはいっても、魔力を持たない攻撃にはダメージを受けるためだ。 一番良い例が、銃。あれは純粋な破壊力であるが為に肉体を破壊する兵器なのだ。先日、聖が放った弾丸がレッサー・デーモンを死亡させたのは、その様な理由からである。決して、あの鉛弾に魔力をかけていたと言う訳ではない。 そして、アムドゥスキアスは突撃力をもった『馬』の擬態を持つ。 自身の肉体を武器として特化させた彼は、自身の力で公爵の地位まで上り詰めた、正しく『厄介な』相手であった。 「お前は何者だ?」 男が――いや、『新生』アムドゥスキアスが言った。スラックスに包まれた太い足をこちらに向けて一歩を踏み出す様は威圧感がある。 「これはまた、随分と逞しいのが出て来たものだな」 聖は相手の質問には応じようともしなかった。ただ、感慨深げに呟くだけである。 「お前は、何者だ、と聞いている」 アムドゥスキアスが近づいてくる。さして慌てた様子も無く、聖は彼に向って歩を進めた。 「聞いてもしょうがない事だよ」 「名前くらい名乗ったらどうだ?」 「そういうものかもな」 聖は少し手前にいる少女の隣に立った。事情が全く掴めないらしく、困惑した表情で立ち尽くしている。 「聖。姓は『渡』で名前は『聖』だ」 言ってから、隣の少女を見る。混乱の極みにあるのだろう。聖を見上げる大きな瞳は、その奥が震えていた。 「聖。聖か……知らんな」 「そりゃ、こっちの名前だからな」 「こっちの?」 「ああ、何でも無い。でも経験が浅いんなら知らなくても当たり前だと思うよ」 それだけで、大男は納得したように頷いた。次いで、思い出したように聖の顔を凝視する。 「それで? 貴様は何をしに来たのだ」 「お前を止めに来た」 聖は即答した。 アムドゥスキアスは、それが意外だという風に首を巡らせた後に、唇の端を釣り上げてみせた。笑っているらしい。 「何故、お前が俺を止めるのだ?」 「そういう仕事に就いてるからだよ」 答えながらも、隣で未だに固まっている少女の肩に手を伸ばした。 別に卑しい気持ちがあった訳ではない。単に少女が微動だにしないので心配になっただけである。 だが聖は、その手を――いや、指先すら少女の肌に(衣服の上からだが)触れる事は出来なかった。 凄い殺気が感じられたからである。 「……何だよ」 聖は、聞いては見たものの、答えはおおよそ分かっていた。それでも、聞いた。 「その娘に触れるな」 アムドゥスキアスの声には焦りの色が含まれていた。何故なのかは分からない――いや、こういうことをする愚か者の答えなど、彼は幾らでも知っている。その中から、有力な選択肢を選べば良いだけの話だ。 「その娘は、俺への生け贄だ」 ゆっくりと首を巡らした聖に対して、アムドゥスキアスは笑みさえ浮かべていた。その瞳には危険な色が多分に含まれている。 ああ、そうか――と、聖は納得した。彼は要するに、絶大な力を得た事に驕っているのである。それでは、元の形がなんであれ、先代がどんなに強かろうとも、聖を――バルバトスを殺す事など出来ないだろう。聖は、刹那の時間に心に訪れた空虚な気持ちの中に、不意に悲しみを放り込んだ。 ただ、聖に出来るのは同情までだ。それ以上は在ってはならない。何故なら、目の前の大男は、『先程の一撃』で彼を殺せなかったのだから。 最大のチャンスを活かす。 それが、魔族同士の衝突で最も重要な事だからだ。 聖は目の前の男の力を推し量る事が出来た。だから、アムドゥスキアスは聖に勝つ事が出来ない。 「驕るなよ……」 聖は、悲しみの色を声に含ませた。 「お前が何をしようと、まずやらなければいけない事は、『俺を殺す』ことだったんだ。傲慢が綻びを生むのは、すでに数々の歴史が証明している」 さり気無く体を正面に向ける。つまり、アムドゥスキアスに対して向き直る。動き易い様に構えながらも、少女を背中に庇おうと腕を伸ばした。 「…………?」 少女は伸ばされた腕を掴んでいた。不意の行動に聖が向き直ると、その瞳は恐怖と不安に揺れていた。 無意識だったのだろう。それが、聖の思いである。人は――いや、精神を持つものは、恐怖の中に自分が放り込まれた時に、掴むものを欲してしまう。それを掴む事で、精神の安定を図るのだ。 だから、聖はその少女が少し愛しくなった。同時に、誰かに頼られた体験が過去にあったような気がしたのだが――少し意味合いが異なるが、既視感の様な物だろうと思い直した。 「大丈夫だからさ」 聖は笑いかけてやりながらも、これだけでは足りないような気がした。少し、言葉を探してみる。 「安心して」 結局、月並みな事しか言えない、そんな自分の語彙の少なさを少し呪った。 ただ、それでも彼は少女を安心させるように背中を撫でてやって、少し離れるように促した。 ここで、下手に逃げろ、だなどと言ってしまうと、アムドゥスキアスの神経を逆撫でしてしまうからだ。そうなると、馬のしなやかな筋肉に肉体強化を施した彼は、瞬時に少女を捉えるだろう。移動力が上でも、擬態化所有時間に後れを取る聖では、アムドゥスキアスを止めるのは無理に近い。 だから聖は少女を退かせたのだ。 その後で改めて、聖は大男に向き直った。アムドゥスキアスは、判っているじゃないか、と言うように満足そうな笑みを見せていた。 その笑みが意味する所は明白である。この戦いで勝った物が、この少女をどうするかを決める事が出来ると言う事。 一瞬の、静寂の、後だった―― 刹那の睨み合い。その瞬間に、男は『馬』になった。恐るべき加速力で、瞬時に聖との距離を詰める。 風になった悪魔は、常人なら触れただけで全身の骨を砕かれる様な突撃を開始した。大気が揺れ、彼の通った後には突風が巻き起こる。 それでも、聖は動かなかった。動けなかったのではなく、動かなかった。 視点は一点。アムドゥスキアスの巨大な体躯に焦点を合わせながらも、一瞬の内に懐に飛び込んで来た額の角を躱す。同時に、心臓を貫くはずの必殺の一撃を繰り出していた角を掴み、頭を押え込む。想像を絶する衝撃が、一瞬遅れて全身に襲いかかった。それでも、聖は両足を踏ん張って耐えた。 ミシッ――筋肉と骨格が悲鳴を上げる。とてつもない突進力に、聖の体は後方に移動した。スニーカーの靴底が嫌な音を立てながらも、コンクリートに黒い線を引いていく。 聖は二メートル近くを後退した。しかし、それでも両の靴底は地に密着しており、また彼の体はアムドゥスキアスを押さえていた。 途方も無い突撃が止まっていたのだ。 馬の巨躯は、頭を押え込まれた状態で微動だにしていなかった。いや、全身の筋肉、特に両足に全力を入れているアムドゥスキアスの体は、震えていた。しかし、それでも聖は動かなかった。 勢いが無くなれば、もう聖は退かない。拮抗した力の中で、二人は完全に静止していた。 聖の腕――決して細くはないが、アムドゥスキアスの巨体の前では余りにも貧弱に見えるその腕は、しかし馬の洗練された筋力と同等の怪力で、動物の中でも随一の脚力を誇る者の姿をした悪魔と拮抗していた。 これが、渡 聖の、バルバトスとしての恐ろしさである。 通常状態での――つまり、擬態化による戦術法の転換も身体構造の変化も無しに、ここまでの怪力が出せる聖は、その特異な擬態とも相俟って、魔族界での<イレギュラー>であった。 魔力による特殊能力がある程度制限された異世界生物同士の戦闘において、魔力の応酬よりも自身の肉体による近接戦闘は、実は意外と重視される。でなければ、アムドゥスキアスのような偏った能力を持つ者が高位に位置づけられる事が無い。つまり、自身の肉体能力は魔族の間ではかなり重視されているのである。聖の――いや、『バルバトス』という高位悪魔が持つ擬態化能力は、それ自身の魔力が余りにも偏っている。だからこそ、聖は接近戦を重視した魔力の改装を行っており、同時に筋力にかなりの魔術が施してある。故に通常の魔族以上に恐られる存在となっていた。 とは言っても、所詮それは通常魔族の話である。擬態化後の能力が筋力の異常発達にあるアムドゥスキアスには勝てる訳が無い。ではなぜ互角なのか―― それは、まだ彼が『新生』アムドゥスキアスだからだ。恐らく魔族となってまだ日が浅い。だから自身の肉体を巧く操作する事が出来ずに居るのだ。自身の全力を出すどころか、恐らく全体の五割程度しか、能力を発揮することができないのだろう。 それが狙い目だった。生死を分けた戦闘の中では、その時の力の差によって全てが決まる。所詮は運や相手の油断で得られる勝機など、圧倒的な戦闘力の差の前では小さな要素にしか過ぎないのである。 聖はそれでもじりじりと圧迫されているのを感じていた。同時に、これが本領を発揮したのならば勝負は判らなかっただろうと、少し残念にも思う。聖の手がアムドゥスキアスの前足の付け根に向って移動していた。 能力起動――魔力の集中制御。一部の組織が擬態化し、粒子として魔力により収束される。指先に光が集中し、そして波長が揃えられた。一点集中により指先から超高熱のレーザー・ビームが迸り、それがアムドゥスキアスのしなやかな前足を貫いた。 直後に拮抗していたバランスが崩れる。 脚の付け根に激痛を覚えたのだろう。その瞳が驚愕に奮え、顔が苦しそうに歪む。前足一本分の力が消え、全体のバランスを崩した馬は聖の怪力に押され、横に体が傾いた。 が――聖が遠慮することはない。油断や慢心は死を招くと知っている。 腕を振るう。横一文字に一閃された腕の先に伸びる、長さ十cmほどの短い光。波長が揃えられた光は、接触した場所に対して超高温の刃による修正を加える。如何に魔力に対する耐性があろうと、極一点に集中される粒子を弾く事は困難だ。レーザーを振るわれた脚は、瞬時に本体から切断された。その強力な刃が傷口を焼き払い、全てを薙ぐ。 「ぐああぁあぁぁあぁっ――――!」 悲鳴――と言うよりも、絶叫に近かった。激痛に倒れ伏すアムドゥスキアスは、いつのまにか擬態化を解除していた。切断された腕は肩口から消え去り、火傷を負ったように焼け爛れた切断面から、一瞬遅れて大量の血液が噴出した。 街灯の光に照らされ、漆黒の空間に鮮やかな『紅』が躍った。 同時に、聖も顔をしかめた。アムドゥスキアスが倒れ伏した時に、その巨体を支えきる事が出来なかった聖もまた、バランスを崩していた。何とか倒れはしなかったものの、右足に負傷。 ただ、それでも聖はすぐに顔を戻した。挫いたのか――と、足首が気にもなったが、瞬時に脂汗の浮いた顔を隠すように、冷たい表情でアムドゥスキアスを見下ろす。 「気分はどうだ?」 最初、何故かそんな質問が口をついた。 「……良い訳が無い」 アムドゥスキアスの声は、しかし冷静だった。圧倒的な力の差を見せ付けられた事に対する一瞬の自失に、彼は既に立ち直っていた。 見ると、彼は傷口を掌で覆っていた。その指の間から、完全に消え去った右腕が、まるでまだそこに存在するかのように、淡々と血液が垂れ流れている。 見る限りもうアムドゥスキアスに戦意はないようだ。聖はそれだけを確認し、さっきの少女を探そうと首を巡らし―― 「あれっ?」 居ない事に気がついた。 帰ったのか? と思った。 違った。 少女は聖の隣に居たのだ。それに気が付いたのは、彼が視線をアムドゥスキアスに戻した所で視界の隅に入った、鮮やかなブラウンの髪の毛の御陰だ。 そのことに驚愕していると、 「あの――?」 少女がおずおずと問い掛けて来た。その表情が恐怖と不安で彩られている。声も震えていた。 「なに?」 安心させるように、極力、優しく問い返す。 「この人は――大丈夫なんですか?」 「え?」 「この人は、大丈夫なんですか?」 「はいっ!?」 少女の顔は真剣そのものであった。 聖は微かに感心した。理由は――自分でも分からない。何故なのだろう、と自問するが、答えなど出るはずも無かった。何より考える時間も無かった。 「ああ、ああ。こいつね。大丈夫じゃないかな。今から手当を済ませればね」 「勝手に話を進めるなよ」 アムドゥスキアスの言葉が割り込んで来た。公園の外周にある花壇に寄りかかる様にして座っているアムドゥスキアスが、顔中に脂汗を流しながらも、不満をあらわにしていた。それを無視するように、聖は再び少女に視線を戻す。 「それより、君は何故ここから離れないんだい? 早く家に帰った方が良い。親御さんも心配するよ」 「家には、遅くなるって電話してあるので大丈夫です。……多分ですけど」 「こいつが君の事をまた襲うかもしれないんだよ」 「大丈夫ですよ」 断定する少女を訝しむ様に、聖は眉間に皺を寄せた。 「この人、とても辛そう。それにさっきまでの恐い感じが無くなっているでしょ」 そういうと、少女はしゃがんでアムドゥスキアスの傷口にそっと手を伸ばした。が、傷には触れずに、太い肩に繊細な指を乗せた。 「何を――!」 アムドゥスキアスが残った左腕を上げようとした。聖は少女の脇に手を差し入れる。そのまま立たせると、自分の後ろに下がらせる。内心、少女の冷静な態度に驚いていたのだが、反射的に少女を庇う事は出来たようだ。そこに安心した。 「……とにかくだ」 少女が自分を見上げたのが分かる。その瞳には特に感情が写っていない。その視線を真っ直ぐに受けながらも、アムドゥスキアスに諭すように言う。 「お前は俺と一緒に来い。手当と、尋問を受けてもらう」 「それで、俺をどうする気だ?」 「それは分からんさ。でもな、このままここに居たらお前は失血死だ。手当だけでも受けたらどうだ?」 アムドゥスキアスは沈黙した。その後で、思い出したように聖に疑問を投げかける。 「お前は何者なんだ。普通の人間が、俺をここまで負傷させる事など出来ない筈だ」 「俺は渡 聖だよ」 「そんな事を聞いているんじゃない。お前は、何者なんだ?」 「私もそれ、聞きたいです」 背中から、少女の声が聞こえた。聖は溜息を吐いた。 「お前と同じ。魔王だよ」 アムドゥスキアスは、やはりそうか、と頷いて、 「名前は?」 「バルバトス」 「そうか。バルバトス、か。聞いた事があるぞ。お前がそうか」 そういうと、アムドゥスキアスは黙った。何かを考えるように、深く俯く。 「君――」 「はい?」 聖は少女に振り返った。即座に反応してくる少女に対して、何故か懐かしい物があるような気がした。 少女も聖の顔を見上げている。その瞳の奥には、何か静かな感情の流れが存在していた。 何だ――? そこまでは分からない。それに、少女の瞳は静かではあったが、表情全体から見れば多少困惑しているようにも見える。まるで、聖を見て何かを決め兼ねている様であった。 それは自分も同じなのかもしれない、と思う。何故か、聖の理性と欲望が正反対の答えを弾き出していた。 「女の子が、こんな時間にこんな所にいるものじゃないよ。早く帰りな」 内心の動揺を気取られない様に、努めて事務的に告げる。だが、幾ら理性がそうしろといっても、偽れない感情が聖の心の中にあった。 もっと、この子と居たい―― 何故なのだろうか。それは、聖には分からない。 少女も一瞬、聖の顔を見上げた表情に逡巡の色が見えた。瞳には明らかな名残惜しさが渦巻いていた。だが、それも一瞬の事である。一回、思いっきり俯いてから頭を戻す。その時には、諦めたようにさっぱりした表情が、少女の可愛らしい顔にはあった。 「分かりました」 「送るよ。途中までだけどね」 右足を上げようとして――激痛。 捻った足首が批難の色を脳に訴えかける。痛い。聖は、それでも表情に出さない様にして、少女の隣を歩こうとして―― 「っ!」 殺気――同時に少女を突き飛ばす。右足に鈍痛。痛覚を遮断するなんて器用な事は、流石に聖には出来なかった。それでも、できるだけ感情を隅っこに追いやると、左足だけに体重をかける。バランスが取れない。が、聖は目の前に迫った拳を捌く事が出来た。 「っ、何をする!」 アムドゥスキアスの左拳が、聖の右腕によって滑らされていた。巧く体重の乗った正拳を、聖は軌道だけを変えるという正確無比な技術で躱してみせた。 もちろん人外の怪力である。ただ受けただけならば、聖の細腕は中身がぐしゃぐしゃになっていただろう。 「その女は置いていけ!」 瞳に、血走った欲望の色が見える。聖は、大方の理由を理解した。 「『気に入った』――だから犯すなんて、短絡的な事を言うつもりはないだろうな!?」 「それの何が悪い! 我々は元来、短絡的な欲望の為だけに全てを実行して来た者であろうが!」 くそ――! 小さく毒づいて、アムドゥスキアスの左腕を押え込む。そのまま右足を上げる。痛い――無視。 ゴキャ、と耳障りな音が響いた。アムドゥスキアスの左腕が、押し込められた聖の右膝によって、曲がってはいけない方向に傾いでいる。アムドゥスキアスの口から、苦痛の呻きが聞こえた。ここで悲鳴を上げないアムドゥスキアスに対して、聖は感心しつつも、 「馬鹿なことを……!」 相手が次の動作に移る直前――多岐に渡る選択肢を選ぶ間の一瞬の躊躇と、自身の体が使用不能になった時の心の空白時間。それだけの時間があれば、聖が躊躇わずに次の行動を実行するだけの余裕が生まれる。指先に精神を集中。先程と同じようにレーザーを展開。超高熱の刃を一閃する。それが、アムドゥスキアスの太い首を捉え、瞬時に切断した。ごとりと頭が落ち、切断された頚動脈からは、酸素を含んだ鮮やかな赤色をした血液が勢い良く噴出した。 恐らく、アムドゥスキアスが苦痛を感じる事はなかっただろう。聖は、アスファルトに転がった首を見た。その表情は何も写し出してはいない。瞳は完全に生気を失っていた。 聖が、ふう、と息を吐く。 するとアムドゥスキアスの体が闇に包まれた―― それでも聖が驚く事はない。それは、聖にとっては見慣れた光景なのだから。 「あっ……!」 しかし、少女はそうはいかなかった。驚愕の色を多く含んだ声。見ると、驚きに目を見開いた少女が、道路に尻餅を付いていた。 「ごめん。大丈夫かい?」 近づこうとして、右足の痛みがそれを阻止する。正直、歩くのが辛い。それでも、歩けないというほどではない。そのうち痛みも退くだろう。聖は勝手に判断して、少女に歩み寄った。 手を差し出す。しばらくそれを見つめていた少女だが、いきなり慌てたようにその手をとって、 「あの、えっと、その……ごめんなさい!」 勢い良く立ち上がり、 「―――――――――――――――――――――――――――ぎゃぁ―――――――!」 勢い良すぎて聖の右足首(恐らく腫れているであろう場所)を踏みつけていた。聖は、声にならない叫びを上げる。辛うじて音となったのは、喘ぐ様にして吐き出された息と混じって消えそうな、ごく小さな悲鳴だけだった。 「す、すみませんでした!」 が、少女は気付いていなかったようだ。そのまま、違う所で謝って、慌ただしく走り去ろうとする。 「―――――――待って!」 何とか呼び止める事に成功した。少女が弾かれた様に振り返る。聖は、脂汗を浮かべた顔で、声を上擦らせながらも、息も絶え絶えにこう告げる事が出来た。 「お願い、肩貸して」 立っていられるのが不思議なくらいに、足首の痛みは酷さを増していたのであった。 4 何故こうなったのだろうか――? 聖は、本日で何度目かの自問を、飽きもせずに繰り返した。その彼の横にはあの少女が居る。少女は水葉 結花と名乗った。良い名前だよな、と聖は思った。 そんな結花の肩を借り、聖は閑静な高級住宅街を歩いていた。彼の車は、とっくの昔に置き去りにされてしまっていた。 何故か。 考えるのが面倒になった。疲れるくらいに思考を巡らしたというのに、答えは依然として闇の中でみえない。聖は、自分がここまで押しに弱かったとは思っていなかったので、心底から自分を情けなく思うのだ。 さっきまで同列の公爵を相手に勝利した男が、こんなか弱い女の子に支えてもらわなければ、歩く事さえままならなくなっている。少女は、聖の腕を自分の肩に回して、一生懸命歩いていた。その顔は真剣そのもので、汗までかいて頑張ってくれている。 本当に情けなかった。足を挫いた。それだけの事なのに、魔王が少女に言い包められて、結花の家で介抱される事になってしまったのだ。それもこれも、聖が負傷したと聞いた時の、結花の強い態度に押されてしまった自分が悪いのだ。聖はそう考える。 最初、聖はちゃんと断わったのだ。ただ車の所まで手を貸してくれさえすれば良かった。だが、少女は強く反対した。 「そんな足じゃあアクセルもブレーキも踏めませんよ!」 それが聖の足の具合を見た時の結花の言葉である。 危ないじゃないですか――彼女の言葉はそう続く。 確かに聖の足首はこれでもかと言うくらいに腫れていた。結花に無理矢理なくらいの勢いで靴と靴下を剥ぎ取られた時に、こりゃあ痛くもなるわなぁ、と自分のことなのに他人事みたいに納得していた程である。ただ、少女がまるで自分の傷のように顔を顰めてくれたのは、聖にとっては嬉しかった。 優しいんだな、そういう思いである。 同時に、聖は安らぎを覚えていた。それは自分がまだ『生まれたままの』自分であった頃の思いと似ていた。 今では忘れてしまった、懐かしい事を思い出させる。 だから聖は、疑問を感じてはいても、悪い気はしない。 いや、どちらかと言うと、むしろ嬉しいとさえ感じている自分が、何だかおかしかった。 「あの――」 振り向くと、少女が玉の汗を浮かべながらこちらを見つめていた。 その真摯な瞳に吸い込まれそうになりながらも、 「なんだい?」 実はすっかり吸い込まれていたりする。だがそんな事を気取られる風なく、悠々と答えてみせた。 「さっきのは……」 「知りたい?」 皆まで言わせる気はなかった。その疑問は当然の事であり、知る権利もある。 いや、思想の自由を許されている今の時代だからこそ、誰かに知ってもらった方が良いのかもしれない。が、厄介事に首を突っ込むべきでもない、とも思う。 だからこそ本人の意思を尊重する。それもまた憲法によって国民の主権がしっかりと定められている現代日本のルールでもあるからだ。 「教えて下さい!」 それは、そんなに大きい声ではなかった。 しかし聖は呆気に取られる。さっきまで落ち着き払っていた少女が、唐突に強い調子で言って来たのだ。それに対して、あまり一般の人に免疫のない聖が驚かない訳がなかった。 変な人もいっぱい見てきてはいるのだが(そしてこの少女はどことなく変な気もするが)、一般論に対する知識は、自身の興味も湧かない事も手伝って、良く分かっていないのが聖である。 だから、実際、何に驚いたのかも良く理解していなかった。 ただ、それでもやはりプロである。プロの意味合いも異なってくるが、聖はすぐに自分を取り戻した。 「じゃあ何から聞きたいかな?」 踏み出した右足に鈍痛。 痛い。 ただの捻挫だ。聖はそう、自身に言い聞かせた。気にすることはないのだ。 額に浮いた脂汗を手の甲で一払い。結花の質問を聞く。 「何が起こってるんですか?」 結花は本当に真剣な表情で問い掛けてきた。それが少し面白くて、聖は少しだけ意地悪な気分になる。 「別に何も起きてはいないよ」 「へっ?」 結花の呆けたような表情が微妙に面白い。 「だから、何も起きちゃあいないよ」 事実だった。 悪魔や天使と言った異世界生物と人間の関係は深く、またこの世界との繋がりも重なる様にしてまた深い。彼らが人との接触を持つのはいつもの事であり、またアムドゥスキアスのように悪魔が驕るのも、今に始まった事ではない。当り前のように繰り返されて来たような事なのである。たまたまその場に聖が居たに過ぎなかった。ただそれだけの事なのである。 だから、別段何かが起きていると言う訳ではない。 「何も起きていない」 聖は、ゆっくりと、強調する様にして言葉を紡いだ。 「え? えっと、それじゃあ……えっとぉ……」 眉間に皺を寄せて困る結花。切り替えが早いな、と感心した。しかしそれ以外の質問が思いつかないらしい。 そこまで結花を困らせても可哀相に思えた。ただ、困っている時の表情が可愛かったので、少しだけ間を置いてから言う。 「最初っから話そうか」 そういって微笑んでやると、少女は安心したように顔を綻ばせる。 「お願いします」 そう、笑った。 本当、可愛い。 表情がコロコロ変わる様は、とても可愛い。 それに一瞬見惚れて―― 目覚めたように首を振る聖であった。 聖が詳しい経緯を説明している間に、幾つかの疑問を解いておこう。 アムドゥスキアスとの戦闘の時に出て来た、『生まれたばかり』や、『新生』やらの用語の事である。 これは、高位魔族にのみ許された、とある特性の事を指している。 後継者選びの事だ。 魔族だけではなく、長年それと対立して来た天使族にも、この特性は存在した。 いや、存在しなくてはならなかった。 高位に属する者達は、それぞれが持つ種族名そのものが彼らの名前となっているのである。『レッサー・デーモン』や『サキュバス』の様に、種族が人間で言う『白人』・『黒人』・『黄色人』という風に区別されている訳ではなく、厳然として『バルバトス』や『アムドゥスキアス』という個人名となっているのである。また、それによって能力や階級もある程度は定められてしまっている手前、その貴重な人材が消える事は、『悪魔』や『天使』のようにいがみ合っている者達にしては、大きな痛手となる。だが、消えた魂が再生される事は決してない。 ならば、どうするか。 所属している組織の者達が、一時的に魂を保護するのである。 輪廻転生が有り得ない高位種達は、その特性上、死滅したら存在そのものが消える事となる。だが、一定期間だけ魂を保護状態にすることによって、制限された範囲でならば動く事も出来る。それによって、死亡した者は、自分の後を継ぐに相応しい者に対してその力を継承するのである。 そうして、魔族達は自分の力を何代も受け継がせる事が出来るのだ。これは、ある種の自己保存本能が進化した形であると言っても良い。 つまり『生まれたばかり』と言うのは、最近に能力を継いだばかりで、強大な能力による戦闘のノウハウを知らず、またその力を思うように発揮できていない状態の事を指すのである。だからこそ、聖はアムドゥスキアスに、そこまで苦戦する事もなく勝利する事が出来た。もしも、先代のアムドゥスキアスが生きていたのならば、聖は油断していた最初の一撃で完全に胴体を真っ二つに引き裂かれており、瞬時に勝負は決していただろう。 もちろん、聖も先代のバルバトスからその地位と能力を任せてもらった。宮都もまた、そうである。 と、言うよりも、ほとんどの上級魔族は大体、二代目・三代目である。未だにその力を継承していないのは、魔族の中では数えられるほどしかいないのが実情であった。 5 時々、右足に走る激痛に眉根を寄せる。 むりやりに引きずっている感がある足首から、鈍痛が脳髄に響き渡るのを特に構いもせずに、聖は一通りの事情を話す事に成功した。 しどろもどろになりながら、ではあるが。 元来、人と話をする、という事にそれ程慣れていないのが聖であった。 だから、その説明は必然的に解り難い事になるのだが、それでも結花は熱心に聞いてくれた。 話し終えた後の少女の反応は、 「じゃあ、貴方は『悪魔さん』なんですね?」 と、ちょっと予想外の物では在ったのだが、まぁ、特に気に留める事はない。少女は自分の話を信じてくれたようだ。 「そんな儀礼的な呼び方じゃなくていいよ」 聖は、ミリ単位で動かす毎に痛みを訴えてくる右足に対して、本当に挫いただけなのかといぶかしみつつも、大人の余裕と言う物を見せたかったので笑顔で言ってのけた。 それも多少は引き攣ったような感じではある。よく見ると額に脂汗が浮いているのが分かった。 ただ、それでも脳の一部は痛みから切り離してはいるので、あながちハッタリだけじゃなかったりする。 「じゃあ、聖さん、ですか?」 「それ良いかもね」 「時々、硝酸と間違えるかもしれませんよ?」 「……どういう時に?」 「硝酸アンモニウムを合成する時とか……」 「そんな事する時があるのかなぁ?」 ようやく、ツッコミに覇気が出て来た。聖は少し安心した。 「無いですよね」 結花はそういって、あははっ、と笑った。 少女の肩から緊張が抜けていくのが、聖の腕に伝わって来た。聖は少し嬉しくなる。 「ようやく笑ってくれたね」 「えっ?」 一瞬、結花は呆けたような顔になる。直後に、慌てたように顔を触り始めた。 「……笑わなかったですか?」 「そりゃもう、てくらい見事に」 俺の事が嫌いなんじゃないかって思ってた―― そんな事は勿論、口に出さない。 「それは、あの、ほら、えっと…――すみません」 しょんぼりと肩を落とす結花。その仕草が小猫みたいで可愛いな、と聖は思った。 「いや、謝られても……ねぇ」 そういって笑いかけてやると、結花は少し頬を染めて、はにかんだ様に笑ってくれた。コロコロと表情が変わるのもまた特徴的だ。 「あ、そろそろ着きますよ」 じっ、と聖の顔を見詰めていた結花が、気が付いたように前を見る。知らない内に、結構奥まで来ていたようだ。と言うか、さり気無く周りが高級住宅に囲まれているので、聖は自分が場違いな所に来ているようで、何となく落ち着かない気分になった。 こういう高級住宅地とは縁の遠い人間なのだ。 特務庁の仕事はそれなりに報酬がデカイのだが、それは大きな仕事をやった時だけである。時々、警察庁から交通整理のバイトみたいな仕事まで入って来たりするので、正直言って一長一短で安定の無い仕事だと言っても過言ではないだろう。それに、家も国から紹介された、社宅と呼んでもいいような専用マンションに住んでいるので、住宅地と言うのには馴染みが無いのである。 ちなみに一戸建ては聖の夢だったりもする。 この世界に来てから早十年以上が過ぎた。いつの間にか、魔界の大公爵バルバトスは、そこまでみみっちい男になってしまったようだ。 結花の家は何処だろう? 聖は周囲を見回してみた。どれもデカイ家である。こんな少女がこんな所に住んでいるのかと思うと、何だか自分が悲しくなってくる。 ただ、見回してみても表札に『水葉』の字は無かった。もっと奥の方に在るのだろう。聖はどんな家なのだろうかと想像してみた。 「…………」 所詮は想像なので細部までは設計する事が出来ない。やはり、こういうのは実物を見てみた方が良いのだろう。聖の胸が期待に少し膨らんだ。 出来る事ならば、この様な住宅地に家を構えてみたいなぁ、と思いつつ。 「着きましたよ」 という結花の声を耳にしたので、聖は視線を前方に移した。 「―――――――――――――――はい?」 目の前にあったのは、門。 特大に構えられた門の左右に、これまたデッカイ塀が構えられており、その先にある広大な敷地と巨大な家を想像させた。 住宅地のもっとも奥まった場所にある、巨大な門。よくもまぁ、郊外とは言え東京都の住宅街に、この様な広大な敷地を保有する事が出来た物だ。大陸に住んでいるような、成り金風情ならばこんなのもザラなのだろうが、狭い日本の中で、よくもまぁ、と聖は思った。 同時に、冗談だろう、とも。 この近くなのかもしれないと思い、左右に目を走らせる。今や、目の前の門に比べて見劣りしてしまうような家々には、しかし水葉の表札はない。 そうこうしている内に、結花が聖を引きずったまま門に取り付いた。 聖は気が付かなかったが(と言うかこういう物をみた事が無いのだ)、その門に小さくインターホンが存在しているようで、そこに向って結花が喋ると、門が物々しく開き始めた。 「さ、入って下さい」 にっこりと言うと、そのまま是非も無く引っ張っていく。聖は、ややドギマギしながら踏み出そうとして、 グキッ! 「ぎゃあ!?」 足の傷が更に重症になった。 6 門の中は、やっぱり広かった。 そりゃもう、って位に広い庭に、大きな屋敷がポツンと突っ立っている。その周りには緑豊かな木々が見えた。小さな林にでもなっているのかもしれない。 庭には、向って左側に噴水、右側に和池、と言う和洋を合わせたちぐはぐな景色が乱立していたのだが、まぁ気にするほどの事でもあるまい。それなりに他の景色とも同化しているので、別に違和感なんかも無い。 屋敷の門は開いていた。その中に、初老の男女が心配そうに立っている。 結花の祖父である憲三と、祖母である静香の二人だ。 屋敷の中には、他に人はいなかった。聞くと、使用人達は全員が慰安旅行に出ていて居ないそうだ。 「メイドさん達に頼めば、もっと手際が良かったんですけど……」 結花はそう言っていたが、後の二人は密かに首を横に振っていたりする。 「………」 大丈夫なのだろうか。 でも、今は大丈夫じゃなくても任せるしかないのである。聖がそう心に決めた時、彼はリビングに運び込まれた。 「とりあえずここに座って。――汚い所でごめんなさいね」 聖を、今まで彼が触った事すらないような高価そうなソファーに座らせて、静香さんが優しく微笑んだ。 「ちょっと、見せてね」 聖は言われた通りにズボンの裾を上げた。靴下の上からでもはっきりと、そこが腫れているのが分かる。 「これは痛そうねぇ」 「だから、さっきから言ってるでしょ!」 結花が微妙に切迫した声で伝えてくる。実際に痛いのだが、そこらへんは顔に出さない。そんなやわな面の皮をしている様では、特務庁になど居られないのだ。 平然としている聖の顔を見て、静香さんは思いっきりその部位を押した。 「でっっ! だっ! の!?」 「我慢しなさいな。どれくらい痛いの?」 中々いい性格をしている。と、聖は思った。 「……かなり痛いです」 「そう。骨が痛んでるかもしれないわね。……どうしたらこんな風になるまで強く捻る事が出来るのかしら?」 「いや、あの、え〜っと……」 聖は返答に窮した。 まさか、馬の突撃を真正面から受け止めたから、等とは言える筈も無い。 二人には、結花に向けて車が突っ込んで来たのを庇った時に足を捻った、と言う事にしてあるのだ。 「えっと、聖さんは私を庇った時に空中で一回転して、数メートルの高さまで浮き上がったんだよ。それで、着地に失敗して……」 凄い言い訳である。 「いや、数メートルの高さまで飛ばされたんですか、俺?」 と、聖が突っ込むと、 「そう。若いからって余り無茶しちゃ駄目よ」 「そうだぞ。君みたいな若者は今が大事な時期なのだからな」 二人は快く事態を了承してくれた。 「………」 違うだろう、と思いつつも、流石に口には出せない。 「ちょっと待っててね。いま、お水持ってくるから」 そういうと、静香さんは結花を伴って部屋を出ていってしまった。 「……君」 「はい?」 いきなり憲三氏に話し掛けられ、聖は少しびくりとした。顔を向けると、更にびくりとなる。 憲三氏の瞳が、真剣な色合いを帯びていたからだ。 「君は、特務庁の人間だね?」 「えっ?」 「隠さなくても良い。私は既に、君を何回か見ているはずだ」 「そ、そうなんですか?」 何と言う事だろうか。憲三氏は既に聖の正体に感づいていたのだ。聖は、いつバレたのだろうかと記憶を遡ろうとして―― 思い出した。憲三氏の顔が記憶と合致したのだ。 「参議院議員の水葉 憲三先生ですね」 「そうだ。ようやく思い出してもらえた様だね」 憲三氏は、柔らかな微笑を見せた。 なぜ、今まで気が付かなかったのか。水葉 憲三は、政治の上でもかなりの力がある大物である。彼はついこの間まで与党第一党の幹事長をやっていたのだ。現在は幹事長を退いて通常の議員として党幹部のポストから抜けているとは言え、過去の実績が消えた訳ではない。彼は今でも政治家達の間に強いネットワークを持つ。 そんな彼が、ついこの間の中東アジアへの視察を試みた時に、護衛として特務庁の人間が何人か駆り出された事がある。その時に護衛隊長としてその場に同行したのが、他ならぬ聖だったのだ。 実は、その時は憲三氏に結構可愛がられたのが聖である。そのことをすっかり忘れていた。 「君がここに居る――しかも負傷している。と、言う事は、結花は何らかの事件に巻き込まれたという事なのかね?」 「はあ……そんな所でしょうかね」 「一体、どういう事件に?」 「事件というほどではありませんよ。ほんの些細な事故です。その事故に、運悪く当たってしまったんですよ。ただ、そこに俺が――いや、私が居たというだけです」 「畏まる必要は無いよ。それに、その調子だと君が結花を助けてくれたという事なのだろう? 孫の命の恩人だ。楽にしたまえ」 「……すみません。恐縮です」 「ただ――」 そこで、憲三氏は一旦言葉を切った。まるで、言うのを躊躇っているかのようだ。憲三氏の顔に逡巡の色が浮かぶ。その瞳が聖の顔を見た。 「どうぞ、おっしゃって下さい」 「これからも、結花の身に何か起きる可能性は?」 「どうでしょうか。あるといえばありますし、無いといえば無いですよ」 「それは?」 「確率の問題ですよ。これから何かが起きるとしても、それはやはり事故になるでしょう。あの子を個人的に恨んでいる人間なんていますか?」 「あの子を恨んでいるような人間は、多分いないだろう。ただ、問題は私を恨んでいるような人間が、腐るほど存在するという事だ」 「それでも、そんなに心配するような事ではないと思いますよ。俺とだってこうして会う事が出来たんですから」 「大丈夫なのだな?」 そんなに念を押さなくても、と聖は思った。だから、逆に問い返してみる。 「何か心配なんですか?」 「ん、ああ。これは愚痴になるが、聞いてくれるかね?」 「どうぞ」 「実は、結花が事件――失敬、君の話では事故だったな。とにかく、それに巻き込まれたのは今回だけじゃないのだよ」 「と、言いますと?」 「ああ、実は――」 憲三氏は、そこで言葉を切った。聖が、言葉を紡ぐ事を制したのだ。 聖には、この部屋に近づいてくる足音が聞こえていた。スリッパのパタパタという音と共に、隠そうともしない気配。それは刺客やら何やらの類いでは有り得ない事だが、憲三氏の話を他の人間に聞かれても良い物かどうかも迷った。 と、足音が部屋の前で止み、ドアが開かれそうで―― 開かれなかった。 「ごめ〜ん、開けてぇ」 困ったような結花の声。憲三氏がドアに近寄って、ドアノブを捻る。すると、結花が隙間から顔を出した。 「ごめんなさい、湿布は今おばあちゃんが探してるの。だから、これで我慢して下さい」 そういって、両手に抱えたバケツを聖の前に置く。その中には、なみなみと注がれた水に氷が大量投与してあった。 「………」 とても冷たそうである。 結花を見ると、ニコニコしながら、どうぞ、とでも言うようにバケツを聖の方に近づける。 もう一度バケツの中身を見る。冷気の湯気が立ち上っているかのような幻覚が見えた。 聖は、覚悟を決めた。 「お言葉に甘えて……」 そろーりと、右足を慎重に水の中に浸していく。 冷たい。 全身の皮膚が粟立った。 ただ、冷たいだけに、腫れ上がっていた踝の辺りは、其処に溜まっていた熱が急速に冷やされる感じが解る。正直言って気持ちよかった。 慣れれば、六月の湿気を孕んだ粘っこい空気に対しては、その冷気は中々どうして、結構ちょうど良い。 「どうですか?」 「ん、良いよ」 そういうと、結花は笑ってくれた。その笑顔が、真夏の向日葵を連想させる程に明るい物なのだが、聖は日頃から注意深く向日葵を見るような男ではない。なので、その表現は浮かばなかった。 ただ、表現したいとは考える。なので、語彙を増やしたいとはつくづく思った。 ちらりと憲三氏の顔色を伺うと、彼は首を横に振った。さっきの話はまた今度、という事だ。 「結花――」 聖は、言葉に詰まった。どう呼んでいただろうか、と考え、自分がまだ少女の名前を呼んだ事が無いのに気付く。『ちゃん』じゃ馴れ馴れしいし、『君』は何処と無くおかしい。 「――さん」 結局、他人行儀にならざるを得なかった。さっきは自分で、『他人行儀になる必要は無い』といったはずなのに。 結花はそれに頬を膨らませたが、それでも失礼だと思ったのだろう。よくよく考えたら、まだ出会って一時間くらいしか経っていないのだからそれもしょうがない事なのだ。少女はそう納得したのだろう、と聖は勝手に結論を出した。 「なんですか?」 「悪いんだけど、電話貸して。ちょっと応援呼ぶから」 「あ、分かりました」 結花は立ち上がると、小走りに走っていった。棚の上に電話があるらしく、そこで立ち止まって、今度は子機を携えながら戻ってくる。 「どうぞ」 「ありがとう」 「どういたしまして!」 素直にお礼を言うと、結花はまた笑顔を見せた。聖は、すでにその笑顔に魅了されているのだが、本人はその事には気が付かない。 特務庁の窓口に向けてダイヤルを押す。スピーカー部分に耳を押し当てると、三回のコールの後で、 『はい、もしもし』 か細い、しかし聞いていて耳に心地良い声が聞こえた。 「あ、静琉さんですか?」 聖は、ラッキー、と思う。情報部が仕切っている特務庁外部通信窓口の現時刻の担当は、静琉 真紀だったのだ。彼女の澄んだ声に比べれば、窓口の首領、啓 芳子の甲高い声など天と地ほどの差もある。それに、わざわざ細かい説明を求めてくるくせに、今回の事を話したらネチネチとお小言を言われるのは目に見えていた事なのだ。ちなみに聖は、芳子の声を聞きたくないので普段は窓口になんて電話しない。 『あ、渡さんですか。どうかしましたか?』 「いや、ちょっと事故がありまして。迎えが欲しいんですよ」 『そうですか。大変そうですね』 「中々どうして、結構大変なんですよ」 『判りました。今、何処にいますか?』 「それは――」 聖は、ちらりと憲三氏の顔を見た。彼は一つ、頷いたっきりだ。 「――刈縞駅近くの住宅街で一番奥にある、水葉さんのお宅に非難してます」 『判りました、すぐに迎えの車を遣します。――窓口なんて、珍しいですね』 「いや、携帯を車の中に置き忘れたんで」 『そうなんですか。じゃあ、後で車を取りに行かせましょう。あと、麗華さんにも伝えておきますね』 「すみません。このお礼は、その内デートにでも誘って……」 『え!? そ、そんな……』 聖の冗談めかした言葉に、真紀が電話線越しに慌てている事が手に取るように判った。有能な受付嬢なのだが、純真さを失わない所が女性として魅力的だ。 『えと、も、もう用件は……?』 「あ、特に無いです」 『そ、それでは。――デートって、本気ですか?』 「いや、ちょっとしたジョークですよ?」 真紀は多少元気が無くなった風に、『あ、そう、そうなんですか』と言ってから、おやすみなさいと言って電話を切ってくれた。 「ありがとう」 聖はふうっ、と溜息を吐いてから結花に子機を返した。すると、その顔が多少強張った感じがしているように見えるではないか。聖が心配して、どうしたの、と尋ねてみると、慌てたように顔の前で手を振って、 「何でもありませんよ!?」 ただ、唐突に耳が真っ赤になったのは気になる。本当に大丈夫なのかと少しいぶかしんだが、本人が大丈夫と言うのならば大丈夫なのだろう。聖は持ち前のアバウトっぷりを遺憾無く発揮し始めた。 その後、静香さんも加わって、迎えが来るまで他愛も無い話題が四人の中で交わされた。その空気の、何と和やかな事か。 7 ピンポーン、とベルが鳴る。 「はい、どなたですか?」 静香さんがインターホンに手を伸ばし、丁寧な応対をする。すると、帰ってきたのは品のある、落ち着き払った声であった。 『そちらにお邪魔している渡 聖の迎えの者です』 聖は、おや、と思った。その心を言葉で表すならば、 (何でレイさんが迎えなんかに?) と、なる。 そんな事はお構い無しに、話はどんどんと進んでいく。ほんの二言三言で話は済み、聖は結花に肩を貸してもらって玄関に出る事になった。 結花が近づいて、肩に腕を差し入れる。その時に、少女特有の甘い香りが聖の鼻孔を擽った。その、何とも甘美な香りに一瞬だけポケーッ、とする。が、すぐに気を取り直して廊下まで出た。 「悪いね、毎回毎回」 「いえ、大丈夫ですよ。聖さんこそ苦しくないですか?」 「ん、オッケ。むしろ気持ち良いくらいですよ?」 結花は、ヘヘッ、と笑っただけだった。だが、実際に、服の上からでも少女の温もりが伝わってきて安心するし、半袖の為むき出しの白くて細い腕なんかは直に肌が触れる。その柔らかい感触が、気持ち良い。 玄関には、二人。知っての通り、七海 麗華と、彼女に寄り添う様にして一歩後ろに高井 宮都である。 二人は、憲三氏と静香さんに向けて丁寧にお辞儀をした後、聖の方を見た。 「よう、どうした? その情けないカッコは」 宮都が茶化すように言ってくる。 「うるさいよ、お前は」 ちょっとムッと来たのだが、足が痛いのでそれしか言えなかった。これが万全の状態ならば脛に蹴りでも入れている所だ。 「ほらほら、行儀良くなさい」 麗華はそういうと、聖の代わりに宮都の脛を蹴ってくれた。 「痛いっ!」 当然ながら、ハイヒールは痛い。 「私の部下がご迷惑をおかけしたようで、申し訳御座いませんでした」 深々と、頭を下げる麗華と宮都。いや、宮都は青くなってるだけか。 「いえいえ、こちらこそ娘が大変お世話になりまして」 憲三氏と静香さんも深々と頭を下げた。 「………」 この場合、自分はどうすれば良いのだろうか。聖は迷いながら隣の結花を見ると、少女も困ったように頭をオロオロさせていた。 その様が何となく可愛らしかったので見詰めていると、少女が視線に気付く。聖と目を合わせ、二人して困ったように苦笑いした。 「おーい、聖。早くこっちに来なさい」 宮都の声に顔を正面に戻す。手招きしていたので、結花に宮都の所まで運んでもらって、今度は宮都の肩を借りる事になった。 「ありがとね」 「いえいえ、どういたしまして」 少女は笑顔で答えてくれた。 「それでは、お世話になりました」 聖が憲三氏と静香さんに頭を下げると、 「是非また来てくれたまえ」 老夫婦も笑顔で答えてくれた。 「それでは、ご迷惑をおかけしました」 聖はそういって頭を下げると、少女に笑顔をむけてから去った。宮都と麗華も礼をし、三人は広大な庭を横切る。 「宮、もうちょっと優しくしてもらいたいな」 「へ? 俺の優しさが伝わらんのか? バファリンくらいの」 「かなり乱暴なんですが。痛いし」 「痛いのはお前の責任だろう」 「まぁ、ね」 でも、結花の優しい、気遣いのある態度と接した後では、どうしてもしょうがない事だと言えた。 「ほらほら、二人ともお喋りは止めて。宮君、運転よろしく」 麗華はすでに門を潜っていた。そこから顔だけ出してこっちを手招きする。 「分かりましたよ、マム」 「よろしい」 宮都も門を潜る。すると、そこには一台のリムジンが止めてあった。 「リ、リムジン!?」 さり気無く黒塗りである。 「あぁ、あんまり気にしないで。急ぎだったから備品を調達したのよ」 「さ、さいですか」 宮都が後部座席を開けて聖を中に放り込むと、麗華が助首席に座った。宮都も運転席に滑り込むと、キーを回す 「おいおい、キー付けっぱなしだったのか?」 「あんま気にすんなよ。すぐに用事は済むんだしさ」 「そういうもんかね?」 「そういうもんさね」 こうして、リムジンは水葉低を離れて一路、特務庁へと戻って行くのであった。 8 特務庁医療部。 国内でも最高峰の設備を揃え、最高峰の人材を抱える、現代日本の医学の頂点。この部が抱える課は、たったの三つ。特務庁内の三つの部署の内、最も少ない数であり、またそれでいて最も多いスタッフを持った、庁内の実績No,1の部署である。また、それぞれが非常に優秀な人間の為に、庁内に限らず国公立や私立の病院などにもそれぞれの人員を貸し出す事がある。信頼度だけでも、間違いなくこの国の医療のトップを飾るだろう。 そんな国内最高峰の医療設備を備える特務庁内にいるのだから、それを使わない手はない。 もちろん、負傷した聖はそこに運び込まれる事になる。 聖がいるのは、特務庁医療部診察課の一室。普通の病院の診察室みたいに、白を基調とした簡素な部屋だ。ただ、聖は普段は普通の病院なんて使わないので、どちらかと言うと学校の保健室みたいな雰囲気だな、と言うのが実感だ。 いや、そうではない。聖が始めて学校の保健室を訪れた時の感想が、診察室みたいだな、というものであった筈だ。 その聖の目の前にいるのは、綺麗な白衣を着た落ち着いた雰囲気の女性。 美しいブラウンの髪は少し長め。顔の造形が少し小さ目ながら、大き目の瞳が可愛らしさもアピールしている。透き通るような白い肌に細く華奢な体つき。全体的に柔和な雰囲気を醸し出す、目を見張るほどの美女だ。 彼女の名は、柊 香美。昼間は私立青葉女子校一年四組の担任にして国語教師。だが、彼女の正体は特務庁医療部の腕利きの女医である。 眼鏡を外しただけで、大き目の瞳が強調されて、キリリとした表情が優しく柔和な感じに変化する。そんな彼女も魔力を有しており、医療部にいるのはその能力が治癒魔術だからだ。勿論、医師としての資格も所持しており、彼女は医者としても有能な、貴重な人材であった。 そんな彼女が、聖の足を触診している。大きく腫れ上がった患部をしげしげと見詰め、時々触る。触られると、そこから脳味噌に向けて激痛が走り、正直言って辛いのだが、そこらへんは泣きごと言ったら格好悪いので口を閉ざして無表情。香美はそれが面白くないのか、時々聖の顔色を窺っては力の加減を変えてくるので、聖もそれに合わせて眉根を寄せそうになる。その様を見て小さく笑うのは、流石に酷いのではないのだろうか、と思う。 一通り観察し終えた香美は、 「聖君、よくこんなので我慢できるわねぇ」 と、不思議そうに言った。 「へ?」 「相当痛かったでしょう? それでも不平一つ言わないなんて、私、つまんない」 「いや、つまるとかつまんないじゃないと思うんだけど」 「医師にとって、患者の顔色がどんどん悪くなって行くのを観察するのは、生き甲斐なのよ?」 「すっげぇ嫌な生き甲斐だな」 香美は、冗談よ、と笑った。 「それで、話の続きなんだけどね? 聖君、よくこんな所まで我慢できたわね」 「いや、話の意図する所が分からんのだが」 「うん、つまりね。骨に罅がはいってるのよ」 「へぇ、罅が、ねぇ……」 どーりで痛い訳だ、と言いかけて、聖は言葉を切る。そのままたっぷり一秒間止まって、聖の周囲の空間が再び動き出した。それ即ち、 「罅っ!?」 と、叫んだからである。 「うん、そう。綺麗に罅が入っちゃってるのよ。だから、痛かったんだろうなって思って。ね?」 「いや、ね? じゃなくて……」 「これ以上に適切な説明を、私は心得てません」 「いや、そんな断定的な言い方せずとも、さ。とりあえず、もう少し重みのある口調で言おうよ」 「聖君、人には向き不向きと言う物が在るのよ?」 「いや、あんた国語の教師だろう」 「関係ないわ」 「関係あります、大ありです!」 「我侭ねぇ」 「我侭関係ないがな!」 「それが大蟻なのよ」 「ちょっと待て。なんでそれで『蟻』になるんだ?」 「細かい事は気にしないの」 「いや、気にしろよ!」 「細かい事は気にしないの。男の子なんだから。それじゃあ治療しようか」 香美はそういうと、聖の患部に手を伸ばした。長くて繊細な指が腫れ上がった右足首に触れると、暖かい感触がそこを包む。香美の手が足首全体を包み込むと、痛みは暫くして薄らいでいった。 「そういえば聖君」 相変わらず腫れた所を手で包みながら、香美が話し掛けてくる。 「ん?」 「今日、結花ちゃんとこ行ったんだって?」 「知り合いなん?」 「私の生徒よ、ああ見えても」 「あ、そうなんだ」 「それでね、聖君」 「何だよ、改まって」 「結花ちゃん、可愛かったでしょ」 「はい?」 なんだそりゃ、と言いかけて、咄嗟に口からでない。とりあえず、聖は固まった。 そんなことはお構い無しに、香美は更に話を続ける。 「可愛いいよねぇ、あの子。聖君は惚れなかった?」 「な、ほ、惚れる!?」 「惚れるよねぇ、普通の子は。それに、聖君ロリコンだもんね」 「な、何で!?」 「皆知ってるわよ?」 「何処からの情報だ!?」 「見てれば分かるわよ」 「はい?」 「だって、聖君と親しい女の子って大体が小さくて若くて可愛い子じゃない」 「そ、そうなの?」 「しらばっくれても無駄。情報は割れてるのよ、吐きなさい」 「てか、なんでこんな話になってんのさ」 「何でって、気になる?」 何だか少し嫌な予感がする。 「いや、別に」 「教えてあげるわ、特別に」 「いや、だからさ。別に良いって」 「そうねぇ、あれはついこの間の事……」 「もう話し始めてるし!?」 「実は、私ってあの子のファン倶楽部の会長なのよ」 「………」 それだけ? と視線で尋ねる。香美も、それだけ、と視線で答える。 「をい」 「結構重要でしょ?」 「何が……」 だよ、と続く予定だったのだが、聖はようやくさっきの香美の言葉の意味を理解した。 「ファン倶楽部なんてあんの!?」 「あるわよぉ、女子校なら当たり前」 「で、会長」 「そう、会長」 そこで香美は一拍置き、 「でもね、聖君が結花ちゃんを奪うって言うんなら、それもしょうがない気がするのよね。だって、聖君ってカッコイイし、女の子ウケする顔だもんね」 「ちょい待て。話が飛躍しておる気がするぞ」 「それに、私は二人とも好きよ? だから聖君、結花ちゃんを幸せにしてあげてね」 「だから、飛躍してんでしょうが!?」 「大丈夫。私の事なら気にしないで」 「ちょい待て! なんで涙ぐんでんの!?」 その後、幾らかの漫才の応酬の後に聖の足が完治したので、誤解を解く為に幾度か説得を試みた後に診察室を退室した。その際に、最大の誤解を解く為に一言、 「俺はロリコンじゃないかんな」 とだけ言い残したのだが、香美本人は気にした風も無く、 「あんまり無理しちゃ駄目よ」 と言っただけだった。 因みに、聖がドアを閉める時に小さく、「結花ちゃんを幸せにするのよ」という呟きが聞こえた様な気がしたが、これはあえて無視。 9 ゴン、という衝撃が、少女の意識を戻した。 「へ? な、何?」 結花の網膜にただ映し出されていただけの景色が、途端に意味のある現実の映像として脳内にまで到達する。刈縞駅の三番線、郊外へと向う上り列車を待つ人がちらほら見えるホームの閑散とした光景が、少女の目の前には在った。 ――訂正。実際に結花の目の前に在ったのは、意外と大きい掌だけ。 「おーい、気が付いたかぁ〜」 佐緒里の平坦な声が鼓膜を振動させる。それで少女は現状を認識した。後頭部にまだ残る鈍い痛みが、結花の身に何があったのかを伝えている。 「佐緒ちゃん、ぶったね?」 「親父にもぶたれた事無い?」 「一回だけあった気がする」 「あったんだ、以外さねぇ」 「で、佐緒ちゃん。何でぶったのさ」 「おお、話を戻すかね? なんでぶったのかって、あんたが意味も無くポーッとしてるからに決まってるでしょ」 「ポーッとしてた?」 「してたしてた。スンゴイしてた。ね、栞?」 「そうねぇ……。このまま線路上に落としても気が付かないんじゃないかってくらいポーッとしてたわよ?」 「例え方が酷いと思うよ」 と、言いつつも、結花は今朝から調子の上がらない自分に気が付いていた。それに、その原因も。 やはり昨日の出来事が原因だろう。それしか考え付かない。それに、その事を考えると、自分でも間抜けなくらいに、ポーッ、としているのが分かるのだ。 (聖さん、今日もいるのかな) 少女が気にする所は、そこだけだった。 渡 聖と名乗った少年が、実は少年じゃなくて悪魔だった事に対して、結花は必要以上に驚いている。それにそうなると、結花が彼に対して抱いていた訳の分からないときめきも説明が付いてしまう。 渡 聖は、十年前の悪魔さんなのだ。 それは、結花の中では確信であった。だから、彼に対して朝からいきなり、どうしようもない程の恋心が湧いてくる事に対して慌てふためいている自分に驚愕している事も、自覚している。 だから、困るのだ。これからこのホームに来る電車に彼が乗っているとしたら、結花は困り果てる。 その気持ちを表すと、 「どういう態度で接すれば良いのかわかんないよ……」 という物である。もしも彼が同じように電車に乗っているのだとしたら、会えた事は凄く嬉しい事なのだが、同時にどういう顔で接すれば良いのかも分からない。乙女心は複雑である。 「結ー花っ、ちゃん!」 見ると、佐緒里がニコニコ顔でこちらを凝視している。 「おんやぁ、誰に対して『どういう態度を取れば良いか』わかんないのかなぁ?」 お姉さんに教えてごらぁん、と佐緒里は変態チックに指をワキワキさせながら迫ってきた。 「へ?」 「お惚けなさんな。すでにネタは割れてんぜよ」 「ね、ネタ? 何言って――あ!」 ようやく意味に気が付いた。 「もしかして私、口に出してた?」 「バッチリ」 「うぅぅ……」 とても恥ずかしい。結花は真っ赤になって、頭を抱えながら俯いた。 「それで、結花。本当にどうかしたの?」 「え、あ、うん。べ、別に……」 「しらばっくれても無駄よ。貴方、ホントに分かり易いんだもの」 「え、そ、そうなの?」 すでにバレていた。栞が言った通りに、結花は嘘を付き通せない性格だ。 結花は溜息を一つ吐いて、 「うん。実はね……」 そこで周りをキョロキョロして、人が居ないのを確認する。そんな事をしなくても誰も聞く者など居ないのだが、結花はそれをせずには居られなかった。 ――だって、恥ずかしいんだもん。 そんな様子を見て、二人は結花に耳を近づけた。結花の口元に寄せられた耳朶に少女も顔を近づけ、昨日のあらましと現在の胸の内を掻い摘んで話す。勿論、『馬』に襲われたなんて言えないので車に轢かれそうになった所を助けてもらったという事にして。 そうして説明を終えると、二人は納得して顔を離し、 「そう。やっと、自分の気持ちに素直になったのね」 と、栞は感慨深げに溜息を吐く。その様は、ようやく独り立ちした息子を思う母の姿だ。 「結花、そんなに立派になって……!」 と、感銘を受ける佐緒里。涙を微妙に滲ませたその様は、娘の大学入学が決定した時の母の姿だ。 で、一通り感激した二人は互いに顔をにんまりとして、 「じゃあ、私達から結花にプレゼント!」 と言って、懐から一枚ずつ、何かのチケットを取り出した。 「な、何これ?」 目の前に差し出された紙を、困惑したように見詰める結花。 「いや、実はさ。昨日、商店街で寄り道してたら福引きやっててね。これ、当たっちゃったのよ」 「最近できた遊園地、『テリーズランド』の無料遊園券なんだけど、二人分しかなくて困ってたのよ。そんな事なら、デートにでも誘って、二人で行ってきなさい」 そういう二人の顔を交互に見比べ、 「え? へ? え? い、良いの?」 未だに困惑顔の結花。 「良いの良いの。ただし、目一杯楽しんでくるのよ?」 「あと、それ有効期限は今週の日曜日までだから。その日を逃したら唯の紙屑だから気を付けなさい」 「え? あ……ありがとう、二人とも!」 結花はようやく事態を把握し、心から二人にお礼を言った。二人はそんな結花の顔を見て、「良いから良いから。ほら、電車来ちゃうよ」と言って、結花を立ち上がらせた。少女はそんな友達思いの二人に囲まれて、この二人がそばに居てくれて良かった、と思った。 そうこうしている内に、本当に電車が視認できる距離まで近づいている。結花は気合いを入れ直した。 少女の戦いは、これから始まるのだ。 * これまでの間、本にのめり込んでいた聖は、次の駅に到着するという車内アナウンスに意識を現実に引き戻した。次は確か刈縞駅。結花が乗ってくる駅の筈だ。聖は文庫をしまって、足元の紙袋を持った。 紙袋の中には菓子折りが入っている。今朝、和菓子屋に詰め寄って無理矢理に買ってきたのだが、まだ開店時間には程遠い時間帯に来た事にビックリしていたのか、店長は少し上機嫌でおまけまでくれた。なぜ上機嫌なのかと言うと、店長曰く、 「こんな朝早くから俺の店に来てくれるなんて、若いのに嬉しいねぇ」 という事らしい。とりあえずお礼を言って、電車に遅れそう(というか歩いていては確実に間に合わない時間)だったので、しょうがなく擬態化してなんとかここまでやってきたのだ。 と、電車が減速を始めた。軽い加重が肉体にかかって、その後で完全に停車する。ドアが開いて、いつものように三人組が乗ってきた。 聖はそれを確認すると、結花に近づいていった。挨拶もそこそこに紙袋を差し出す。 「昨日は迷惑かけて悪かったね。おじいさん達と三人で食べて」 「あ、はい。あの、有難う御座います」 少女は紙袋を受け取ってくれた。聖は、他の二人の視線が妙に恥ずかしかったので、すぐに所定の位置に戻りたかった。なので、それじゃ、と言って踵を返す。と、その背中に少女の声がかかる。 「あ、待って下さい!」 「へ?」 聖のワイシャツを微妙に掴んだ少女を見詰めると、結花は顔を赤くしてモジモジしだした。その背中に友人二人が、がんばれだの勇気を出せだの言っている。その声援に勇気を出したのか、結花はオズオズと握り締めていた紙を取り出し、 「あの、今度の日曜日に遊園地に行きませんか?」 「は、はい?」 問い返しても、少女はただ赤くなっているだけ。そんな結花の横で、友人二人が、「良く頑張った!」だの、「偉いわ!」だの言っている。 そのまま聖と結花が固まっていると、ガタン、と車体が揺れた。 電車はとっくに動き出している。 |
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