第一章 「……あの、どこかで会いましたか?」


 昨夜の事件は新幹線の脱線事故という不自然なものとして報道されていた。
 基本的に、新幹線の事故というのは経済的な打撃も相当なものになる。原因の究明を急ぐよりも、新幹線に関わる政府高官達は事後処理のために大慌てだろう。
 普通の事故ではないのだから、余計に。
「やってらんないわよ、もう!」
 ホテルのドアが音を立てて開けられ、声を荒げて一人の女性が部屋に入って来る。
 彼女の名は夏樹麻衣。肩の辺りで適当に切られたショートの髪を茶色く染めた、整った顔立ちに、身体つきの良い女性だ。その形の良い眉を不機嫌に折り曲げていることからも、感情を前面に出すタイプであることが窺える。
「事前に回避できなかったのか、ってうるさいったらありゃしないわ。こっちは久々の休暇だったってのに!」
 麻衣が文句を並べながらベッドに倒れ込んだ。
 それに対して小さく溜め息をつく。
 神薙朱雀、それが青年の名前だった。端整な顔立ちにはほとんど表情がなく、細身だが見た目よりしっかりした身体付きの青年。長めの黒髪を後ろで束ねて垂らしている、どこか達観した雰囲気を持っている。
 その対照的な二人が属しているのは表向きは存在しない組織だ。だが、世界各国の重要人物達はその存在を認知し、その活動を容認している。それだけ世界にとって重要な組織ということだ。
「もうタイミング悪すぎ……!」
 麻衣の愚痴に朱雀はもう一度溜め息をつき、窓の外へ視線を向けた。
 異空間というものの存在が判明してから数年。偶然にもその存在を察知したのが政府関係者などであったために、世間一般には知られていない。それが世間に知られれば世界中が混乱するであろうことが明白だからだ。
 現在、人間や動物が暮らしている地球が存在する、この世界も一つの空間であり、それとは異質な空間が複数存在することが判明している。異空間はこの宇宙に存在している別の惑星である、と主張する研究者もまだいるようだが、それでは説明不可能なことも多く、別の空間、別の宇宙が存在しているという見方が主流だ。現時点で判明している異空間は、この地球を含む空間も入れて、十三。
 それらの異空間はそれぞれ他とは異なる世界が存在し、この世界の物理・科学的法則とは異質な、その空間独自の法則を持っている。人間たち生物が、物質が存在しているのは、この空間が持つ性質に基づいていると言い換えられる。別の空間では、その異空間が持つ性質に基づいてその空間内の世界が構成されているという考えだ。そして、その十三の異空間それぞれに共通して、生命体が存在している。
 この世界で言う人間は、異空間を考える場合では『高等生命体』もしくは『上級生命体』と呼ばれる。本能以外の意識、つまり理性を持ち、本能に逆らうような行動を取ることが可能とされる生命体。その高等生命体が存在するかは別として、十三の異空間には独自の生命体が存在している。
 この空間に存在する全てのものが、この空間が持つ性質に依存しているように、異空間に存在する全てのものは、その異空間の持つ性質に依存している。それはつまり、ある空間に存在するものが別の空間に存在することは困難であることを意味する。
 それもあって、今まで異空間との交流はなかった。無論、異空間同士を繋げる方法も、なかった。
 だが、ある時、他の空間に存在する高等生命体が異空間同士を繋げる方法を発明してしまった。この空間の言葉では『リンケージ・デバイス』と呼ばれる装置により、空間の一部を歪ませ、別の空間にその歪みを捻じ込むようにして繋げるという方法だ。
「……聞いてんの、朱雀ー?」
 背後からかけられる不機嫌な声に、朱雀は肩をすくめた。
 異空間に移動することは、その空間に対して悪影響を及ぼしてしまう可能性が高い。特に、この人間が存在する空間では、異空間の存在が世間一般には知られていない。それは、異空間というものの存在が公にされることによって生じる混乱や様々な犯罪を防ぐためだ。他の空間にいる高等生命体たちも同じことを考えたようで、それぞれの空間には、その空間での『空間干渉技術を司る組織』ができていた。それを見習い、人間もそういった組織を作った。この空間の言葉では『空間関連統轄委員会』という名前の組織がそれだ。それに属する者達は普段、委員会と呼んでいる。
 朱雀と麻衣はその組織に所属する対処員なのだ。異空間からの不正な干渉に対して即座に対応し、それが世間に知られることのないように、大きな影響を及ぼさぬように処理をする、エージェント。
 また、それぞれの空間の委員会を通して異空間へ移動の連絡を取り、明確な目的を伝えて、という正式な手順を踏み、来訪した異空間の高等生命体を迎え入れ、その周囲の対応をも時として行う。
 だが、不正干渉は絶えず、委員会は他の空間の委員会と提携し、一つの規定を作った。それが『異空間干渉規定』だ。
「あんたも何か言いなさいよー!」
 麻衣の言葉に、朱雀は視線を向ける。目を細め、険しい視線を向ける朱雀に、麻衣が表情を変えた。
「あ、そうだった。ごめん……」
 その謝罪に小さく嘆息し、朱雀は視線を戻した。
 十三もの数が存在する異空間の中で、人間は身体能力的にかなり劣る高等生命体である。だが、それを補うだけの知力と、対応力があった。
 異空間干渉技術による弊害として、その空間に存在する物質が他の空間に移動してしまう事がある。空間を歪ませて別の空間に歪みを繋げるという方法が問題なのだろうが、移動した後で歪みを消去しても、その『たわみ』は消えない。そうして、たわんだ空間が元に戻るために歪みを発生させ、結果として一瞬ながら異空間同士が繋がってしまうのである。その際、その空間に存在する下位生命体や物体などが別の空間に移動してしまうことがあるのだ。
 単なる物体ならばまだ良いが、下位生命体は問題である。別の空間に移動したことで、その生命体が普通に存在していられる『空間が持つ性質』がなくなってしまうのだ。そうして、別の性質を持つ異質な空間に放り込まれた下位生命体は、苦しみ、恐怖し、暴走する。そういった生命体の処理が本来の朱雀や麻衣の仕事なのだが、時として不正干渉を行い、別の空間に影響を及ぼしてしまう高等生命体も現れる。
 この空間にとって、別の空間から現れる生命体は、それが高等生命体であろうと下位生命体であろうと、人間を超えた身体能力を持っている。その上、その生命体よっては、この空間では原理不明の高エネルギーを操るものも存在しているのだ。
 それらを処理するために、エージェントには特殊な措置が取られている。
「はぁ、ゆっくり羽を伸ばせると思ったのになー」
 麻衣が溜め息をつく。
 異空間から現れた生命体を処理する際、周囲の空間に影響を及ぼさぬように、一定の範囲の空間をずらす。別の空間へ繋げるのではなく、一時的に一定範囲の空間を歪ませて空間的な位置をずらすことで、ずれた空間を視認出来なくすると同時に、移動などの影響を全て遮断するのだ。
 そのための道具、『アフェクト・クリスタル』には限界があるものの、指定した範囲の空間を統制する作用がある。処理後、つまり、生命活動を停止した生命体を消滅させることも可能なのだ。その存在だけで空間に干渉しているとされる全ての生命体を消滅させるには、生命活動を停止した、つまり、空間に影響を及ぼし、干渉し続けているという繋がりを小さくさせる必要があるのだ。無論、生命活動が停止したとしても、存在し続けることはその空間に対して少なからず影響を及ぼす。だが、生命活動があるのとないのでは、干渉の度合いが違うのだ。死体となった状態の、空間への繋がりの薄くなった状態のものでなければ消滅はさせることが出来ない。
「私はそろそろ寝るけど、朱雀はどうする?」
 麻衣の言葉に、朱雀はベッドに横になった。
「ん、じゃあ電気消すわね」
 朱雀のその動作だけで意図を理解した麻衣が部屋の電気を消す。
 ベッドに横になり、朱雀は小さく、しかし深く息を吐くと目を閉じた。

 *

 自分は不幸だと思う。
 四年前、初恋の彼氏と別れたすぐ後に両親が事故で死んでしまった。すぐ後に控えていた高校受験に打ち込むことで悲しみを何とか抑えたが、高校に合格した後で気持ちは深く沈んだ。色々と考えて始めた一人暮らしも、やはりどこか虚しかった。
 三年前には通り魔に襲われたし、二年前には複数の男性に絡まれ、暴行されそうになった。何とか逃げ出して通報し、その場はなんとかなったが、あんな思いは二度としたくない。
 去年、高校を卒業したのはいいが大学受験には全て失敗してしまい、定職に就くことも出来なかった。更には架空請求が送られて来て、過って支払いしてしまいそうにもなった。空き巣にも入られ、金品の類は盗まれなかったものの、下着がいくつか消えていた。
 そして、今年。つい先日、新幹線の事故に遭う。
 幸い、比較的後ろの方の車両だったから大した怪我はしていないが、それでも感じた恐怖は好ましいものではない。
 一瞬浮いたような感覚があったのも束の間、慣性が働いて身体が前方に投げ出される。そうして、前の座席に身体を強打した瞬間には、車両全体が傾き、横転し始めていた。別の方向へ投げ出され、咄嗟に両腕で頭を庇ったが、打ち付けたのは背中だった。乗っていたのがギリギリ、新幹線の線路に残った車両で良かった。あと二つ前の車両に乗っていたら、防音壁を突き破り、住宅街に落下していただろう。そうなれば今、生きていなかったはずだ。
「はぁ……」
 堤藍璃は癖になりつつある溜め息を漏らした。
 自衛のために多少なりとも身体を鍛えていたのが良かったのか、打ち身程度で済んだが、まだ痛みは残っている。
 親戚の法事で休暇をもらって遠出した帰りに事故に遭ったのは運が悪い。一日余分に休暇を取ったおかげで欠席にはならなかったが、今日、休むことが出来ないのは辛かった。
 アルバイト先のコンビニエンスストアに辿り着き、藍璃は店員用の裏口から中へ入った。
「店長……?」
 いつもならそこにいるはずの店長の姿がない。藍璃以外のアルバイトの人も見当たらない。
 接客しているのだろうか。そう思い、待機所を抜けてレジの方を覗くと、探していた二人がいた。その二人は何やら強張った表情で客らしい人と向き合っている。その客の姿は藍璃の位置からでは見えない。
「……店長、どうしたんですか?」
 言い、出て行こうとした瞬間、店長は驚愕の表情を浮かべ、もう一人のアルバイトの男性も焦りの表情を浮かべた。
「――あっ!」
 そこにいたのは、覆面で顔を隠し、包丁を持った二人組みの強盗だった。
「てめぇ! 隠れてやがったのか!」
 刃物を突きつけらる。
 だが、自分でも意外と感じるほどに藍璃は冷静だった。
「…な?……何……?」
「おい、警察に連絡したりしてねぇよな?」
「し、してません!」
 凄味を利かせた言葉に、藍璃は首を横に振った。
 見れば、店内には店員と強盗二人しかいない。ここに誰か入って来たらどうなるだろうか。下手したら誰か殺されてしまうかもしれない。
(……さ、最悪…)
 どうやら、強盗が入ったのは藍璃がコンビニに辿り着いて裏口に入る直前だったらしい。
 自衛のために身体を鍛えているといっても、簡単な受身や護身術が使える程度だ。一対一ならともかく、障害物がある状態で、相手が武器を持ち、しかも二人となると藍璃の護身術では対応出来ない。
 店長はどうにか説得しようとしているが、それは通用しないだろう。覆面の隙間から見える強盗達の目つきには、揺るがない覚悟が見える。今までに見て来た通り魔や暴行集団と同じ類の目だ。単純な思い付きで強盗をしている目ではない。
「早くしろ!」
「で、でも……」
 店長が顔を恐怖に引き攣らせながらも食い下がった時だった。
 一人の男が店内に入ってきたのが藍璃の目に映った。
 見たところ、歳は若い。藍璃と同じぐらいだろう。長い黒髪に、鋭い目つきの、薄手のジャケットを身につけた青年だった。その青年も店内の強盗に気付いたのか、一瞬動きを止めた。
「ちっ……おい、あいつを捕まえろ!」
「解ってる!」
 強盗二人も入って来た男に気付き、動きを止めた青年へと駆け寄っていく。その手にも包丁が握られていた。
「てめぇ、動くな!」
 一歩、横へ足を踏み出した青年に、強盗が言い放つ。
 その横へ踏み出すという動作が、藍璃には身構えたように見えた。
「――え…?」
 瞬間、強盗の身体が床に押し倒されていた。
 強盗が包丁を突き出す腕を、速度が乗る前に右手で外側へいなし、強盗に背を向けるかのように左手で包丁を持つ手首を掴むと、青年はそのまま回転の勢いを利用して肘打ちを強盗の腹部に叩き込んでいた。そうして、それと同時に強盗の足に引っ掛けた右足を引き、強盗を押し倒したのである。
 勿論、後頭部から床に強く叩き付けられた強盗は昏倒していた。
「こ、この野郎、動くな! 動くと殺すぞ!」
 仲間が一瞬で倒されたことに動揺した強盗が店長に包丁の切っ先を向ける。
(――今だっ!)
 強盗の注意が青年に向けられたのを見て取り、藍璃は店長の手を掴んで引いた。自分も倒れるようにして、強盗の包丁の範囲から逃れる。
 一瞬だけ強盗の注意を引きつける事で青年を動きやすくする。それは青年に強盗を任せてしまう事になるが、他にこの状況を打開する手立てを、藍璃は思いつかなかった。
「うわ――!」
 店長の声に、強盗が視線を戻した瞬間には、青年が走り出していた。
 強盗がそれに気付いた時には、青年の回し蹴りが強盗の腹に突き刺さっていた。強盗が背後の壁に叩き付けられる。体勢を崩しながらも強盗が振るった包丁を、その手首を左手で受け止め、右手の甲を強盗の肘に当てると、青年は強盗の腕を本来曲がらない方向へと折り曲げた。
 間接が外れ、激痛に手から放れた包丁は、曲げられた勢いのためにレジのカウンターを飛び越え、藍璃の方へと飛んできていた。
「――っ!」
 だが、その包丁は途中で青年の手が捕まえていた。
 藍璃が安堵の息を漏らした時には、青年は腕の関節を外されてもなお逃げようとしている強盗の首筋に手刀を叩き込んで昏倒させている。
「だ、大丈夫ですか?」
 アルバイトの男性の言葉に、藍璃は何とか身を起こしたが、店長は気絶していた。
「店長……情けないなぁ」
 苦笑いを浮かべる男性に、藍璃も苦笑した。
 見れば、青年は昏倒した二人の男性をビニールテープで拘束している。
「とりあえず、警察に連絡しましょう」
 アルバイトの男性は頷き、電話で警察に連絡を取り始めた。
 藍璃は気絶した店長を待機所まで運び、レジに戻った。
 カウンターの前には、先程強盗を退治した青年が立っていた。カウンターには、商品が置かれている。同僚は警察に電話をしていて、レジの仕事ができる状態ではない。
「あ……!」
 慌ててその商品をレジで読み取って行く。
 おにぎりを二種類にパンを二種類、スポーツドリンクのペットボトルを一本と、律儀に先程使ったビニールテープ。
「あわせて八百六十二円です」
 藍璃の言葉通りの、釣銭なしの金額を出し、青年はビニール袋を受け取った。
 ふと、その青年の顔に視線が向かう。
 鋭く見えた目つきは、間近で見ればそれほどでもなかった。整った顔立ちに、どこか達観した落ち着いた雰囲気を持たせている。強盗二人をあっという間に倒したその青年の顔には汗は浮かんでいない。スマートな外見からはそうは見えないが、相当鍛えられているのだろう。
(――あれ……?)
 その青年の顔付きに、藍璃はどこか見覚えがあった。
 しかし、思い出せない。その青年の顔立ちにはどこか懐かしさを感じるというのに、それに該当する人物が思い出せない。
 藍璃の視線に気付いたのか、その青年の視線が藍璃に向けられた。一瞬、その瞳が揺らいだように見えたのは気のせいだろうか。
「……あの、どこかで会いましたか?」
 思わず口をついて出ていた問いに、青年は少しだけ考え、ゆっくりと首を横に振る。
 そうして、青年は店を出て行った。
「またありがちな口説き方だね」
「違うわよ」
 かけられた同僚の言葉に、藍璃は苦笑を浮かべた。
 本当に、見覚えがあった。はっきりと判別出来ない事から、誰か記憶にある人に似ている人物だったのかもしれない。
 その後、到着した警察に強盗犯二人を引き渡し、藍璃たちは事情を説明した。強盗犯は最近、二箇所に強盗に成功した者達らしく、このコンビニで三件目だったらしい。
 青年には警察から謝礼が出るらしいのだが、名前も告げずに去ってしまった事を告げると、警察官も困ったような顔をした。
 アルバイトの時間が終了し、コンビニでの仕事を終えた藍璃は帰路についていた。
 夕食はコンビニの待機所で済ませてある。後はアパートに帰って寝るだけしか、する事がない。
 もう既に太陽は沈み、月が暗い空に浮かび、星が瞬いている。
 藍璃は家までの道のりを、昼前にあった出来事を思い返していた。見覚えがあった対象の人物は、忘れてはならない人物だった気がする。だが、何故思い出せないのだろうか。
 青年は藍璃と会った事はないと、首を振った。だとしたら、青年が藍璃の記憶の中にある人物と別人だったとするなら、そこにある人物とは印象が違うのは当たり前だ。どこか記憶の中にある人物と似ているというだけなのかもしれない。それでも、藍璃はその人物を思い出したかった。
「……?」
 不意に、物音が聞こえた。
 場所は人通りの少ない、路地裏。藍璃が帰宅するためにいつも通っている道だ。
 周囲を見回すが、何もない。ただの風かと思った瞬間、また物音が聞こえた。ぎぎっ、という、何かが軋むような音。
「……何、かしら……?」
 急に不安感が胸に広がっていく。
 建物と建物の間に、脇道がある。その奥の方から物音は聞こえてきた。
 得体の知れない恐怖と、興味がせめぎ合う。それが何かを確かめる事にも、放って置く事にも、恐怖を感じた。
 だが、藍璃は恐る恐るその脇道へと入って行った。
 脇道は途中から少し広くなり、直角に折れている。その正面の壁には、影がかかっていて何も映っていない。その曲がり角を曲がらず、藍璃はそっと顔だけを曲がり角から覗かせた。
「何も……ない……?」
 小さく、声に出して呟く。
 壁から離れ、藍璃がその曲がり角の先の空き地に辿り着いた時、背後で何かが動いた。
 その動きが起こしたであろう風が、藍璃の髪を揺らす。不自然なその風に、藍璃は身体を強張らせ、ゆっくりと振り返った。
「――!」
 息を呑む。
 そこには、地球上に存在する如何なる生物とも異質な生命体がいた。目という器官を失った、爬虫類のような流線型の頭部はしかし、無機質な光沢を放つ甲殻のようなものに覆われ、頭部とは違う細めの首に、それほど大きくはない身体。細い腕の先には小さい鎌のような指が四つあり、甲虫のようにも見えなくもない。
 その化け物の後ろの空間が一瞬ぼやけたかと思うと、もう一体、同じ化け物が現れる。
「な……な――!」
 言葉が出ない。
 見たこともない不気味な生命体が、目の前にいる。恐怖で身体が動かない。
 と、生命体の頭らしい部分が、藍璃に向けられた。その生命体の背後で、もう一体、同じ生命体が現れていた。三体の生命体が、藍璃を見る。
 突然、一番前にいた生命体が藍璃へと飛び掛って来た。
「きゃぁああああっ!」
 悲鳴をあげ、身体の強張りを強引に振り解いた。
 鋭く尖った爪が突き出されるのを、藍璃は反射的に身体をずらしてかかわしていた。そのまま手首を取って捻り、押し倒すという、護身術の動作の流れを反射的に行っていたが、避けるだけで、精一杯の速度だった。
「なっ……!」
 生命体の手首を掴もうと、持ち上げた手が触れたのは、その生命体の腹部だった。
 無機質な見た目とは裏腹に、その質感は滑らかで、硬さはあるものの、思っていた硬さとは違った。その、感じた事のない質感に、背筋が粟立つ。
 生命体を突き飛ばすようにして離れた藍璃は、混乱と恐怖で、自分の掌と生命体とを交互に見た。
(……な、何、あれ?)
 不安と恐怖だけが増していく。
 何か、自分が妙な状況に置かれているという事だけが頭の中でぐるぐると回っている。
 どうすればいいのかわからない。目の前にいるものが何なのかわからない。ここにいる事が怖い。あんなものがこの世界にあったのだろうか。そんな世界だったのだろうか。
 突き飛ばされた生命体が起き上がる。その動作に、藍璃はぞっとした。生き物らしさもなく、ただ動いたように見えたから。
 三体の生命体が、ゆっくりと前に歩み出る。藍璃はそれに後退り、背後の壁に背中が当たった事で身体を大きく振るわせた。
(そ、そんな……!)
 逃げ場はない。目の前の生命体を振り切れるとも思えない。
 口の中が渇き、心臓の鼓動が感じられる程に早くなり、厭な汗が背筋を伝う。
 先程、避けられたのは運が良かっただけだ。人間の素早さではまともに対応出来ない身体能力を、目の前の生命体は持っている。
 と、あの、軋むような物音が聞こえた。
(――まさか……!)
 藍璃は気付いた。
 その物音は、目の前の生命体から発されていた。それがその生命体の鳴き声のように感じられる。
 妙なノイズが混じったような、その音が、一層不安と恐怖を掻き立てる。
 近づいて来る生命体は、機械仕掛けのような、しかし機械仕掛けにしては滑らか過ぎる不気味な動きでゆっくりと藍璃に近づいて来る。
「――はぁ、ついてないわねぇ……」
 不意に、頭上から声がかけられた。
 それに顔を上げると、藍璃の背後の壁、建物の屋上に人影があった。
 暗くて顔は良く見えないが、声から女性のものだと判る。その人影の後ろから、別の人影が現れ、三階以上ある高さから飛び降りた。
「朱雀、とりあえず先に処理しちゃって」
 藍璃の目の前に降り立ったのは、青年だった。
 首の後ろで長い黒髪を束ねている。藍璃に背を向けて立つ青年が、少しだけ振り返った。感情の見えない、無表情な視線が、藍璃を見つめた。
「――あ……」
 藍璃の口から、思わず声が漏れている。
 その青年は、昼間、コンビニで会った、あの青年だった。
BACK     目次     NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送