第四章 「――聖司も、変わんないよね」


 聖司がホテルに戻った時には、当然ながら部屋には麻衣がいた。
「随分と遅かったわね」
 ――彼女にも仕事がある。
 少し考えた後、聖司はメモ帳を用いて麻衣に返答を返した。
「……その様子だと、ちゃんと謝ってはきたみたいね」
 メモ帳、筆談するための準備をしていたことから、麻衣がそれを推測する。
 頷き、聖司は部屋に二つあるうち、聖司に割り振られたベッドへ腰を下ろした。
「――朱雀、あんた……」
「……?」
 驚いたような表情で呟いた麻衣に、聖司は疑問を込めた視線を向ける。
「何かあったの――?」
 そう言われて、聖司はようやく気付いた。
 それは普通の人から見れば無表情以外のなにものでもない。しかし、毎日のように共に顔を合わせ、行動を共にしている麻衣には、その表情の変化が判ったのだ。
 聖司の表情は今までのものより、柔らかいものになっていた。
 全ての事象に興味を持たず、ひたすらに戦い続けていた今までの聖司の表情は、本当に無表情だった。だが、今の聖司は違う。今は何の感情も見えないが、そこには自然な表情がある。
 ――まぁな。
 メモ帳で答え、聖司は小さく笑った。
 それに麻衣が目を丸くする。
 聖司は、そんな麻衣を尻目にベッドへと潜り込んだ。メモ帳はベッド脇のナイトテーブルの上に置いた。
「――そうだ、朱雀、話があるんだけど……」
 真剣な麻衣の言葉に、聖司は身を起こした。
 そうして、麻衣へ視線を向けた聖司の表情には、自然な表情は消えている。今までと同じ、仕事をする際の表情を麻衣へ向けた。
「……局って、知ってるわよね?」
 その問いに、聖司は一度頷いた。
 事実上、委員会と敵対する組織の略称だ。正式には『空間統一計画局』と呼ばれている。
 名称の通り、局は全ての空間を一つにする事を目的として動いている集団だ。その理由は定かではないが、不正干渉を行う高等生命体の多くは局に関係している者が多い。
 空間を一つに統一する、という目的こそ判明しているが、具体的に局がどうやってそれを実現させようとしているのかは不明だ。ただ、様々な空間で極秘裏に行動している事ぐらいしか分かっていない。
「……局が、動くわ。それも、この休暇のうちに」
 その言葉に、聖司は表情を険しくする。
 委員会ですら、局の動向ははっきりとは掴めない。しかし、局の下部構成員として潜入している委員会の工作員は存在する。その人物から得られるのは、ある程度の動向だけだが、それでもないよりはマシだ。情報漏洩を恐れるが故に、詳細な情報は局が信頼できる人物にしか回されず、実際に行動に移す時も、下部構成員に伝わるのは実行直前になってからなのである。
 無論、局が動くとなれば、聖司や麻衣も休暇を中断して対処に加わらねばならないのだ。局の全貌が判らないだけに、特殊対処員は必須戦力なのである。
 委員会が不正干渉者を相手に対処員を投入しているだけあって、局に関わる高等生命体の中には戦闘能力が極めて高い者も存在しているのだ。それに対抗するには、この空間の人間の力では対処しきれない。エニグマを持つ、特殊対処員はいわば、委員会の切り札なのだ。
「どう思う?」
 麻衣が問う。
 ――準備が整った、という事だろうな。
 ナイトテーブルの上からメモ帳を取り、文字を書いて麻衣に見せる。
 下部構成員にも伝わる情報という事は、恐らくそれだけ時期は近付いているという事だ。もっとも、そこに準備の最終段階を早めるよう、構成員を高揚させる目的もあるのだろうが。
「あんまり、こんな話した事ないけれど、朱雀は局の事、どう考えてるの?」
 麻衣の言葉に、聖司は沈黙し、考える。
 全ての空間が一つに統一されるという現象自体、どういう事になるのか予測できない。いくつか推測はなされているが、そのどれにもメリットがあるとは思えない。異空間を一つに統一する事で、局自体には何らかのメリットがあるのだろうが、他の面から見ればそこにはデメリットしか存在しない。
 ――何故、それをするのか判らない以上、何とも言えない。
 そう、メモで返答する。
「……理由が正しいと思えば、朱雀は局の味方になるの?」
 真剣な瞳を向けて問う麻衣に、聖司は首を振った。
 ――判らない。
 見せた文字は本心を綴ったものだ。
 委員会にいるのは、今までの経緯からのもので、正しいとか間違っているとかいう理由を考えて所属している訳ではない。逆に、局の動く理由が正論であろうとなかろうと、それに聖司が追随するかは不明だ。その状況にならなければ判らないというのが、聖司の本音だった。
「そう……」
 麻衣が小さく溜め息をつく。
 それを見て、話が終わったのだと判断した聖司は、ベッドに横になった。
「電気、消すわね」
 聖司が寝ようとするのを見てか、麻衣が電気を消した。
 暗闇で目を閉ざした聖司はゆっくりと眠りに落ちていった。自分でも思っていた以上に疲れていたらしい。

 *

 目が覚めた時、隣のベッドに朱雀の姿はなかった。それはいつもの事だったが、普段とは違っているものがあるのに、麻衣は気付いた。
 ナイトテーブルに残された書き置きには、しばらくホテルを空ける、と書かれていた。つまりは、ホテル以外の場所で寝泊りをする、という事だ。
(何か趣味でも見つけたのかしら……)
 そう考えつつ、麻衣はベッドから出た。
 着替えを済ませ、食事をホテル内で済ませると、麻衣はホテルから出る。
 周囲を歩く人達の様子は昨日と変わらず、平穏な日々を暮らしているような顔をしていた。毎日に疲れているような表情をしていても、それは平穏な暮らしの中で疲れているに過ぎない。
 麻衣にとっては、皆、遠い世界に生きている。
(……ここで局が動いたら、どうなるかしらね……?)
 ふと、考えてみる。
 恐らく、この街はパニックになるだろう。混乱し、逃げ惑う人々はあらゆる場所で騒動を起こしつつも、それでも逃げようとするに違いない。
 もっとも、局が、その目的のために動き、この場所で目的を達成してしまえば、逃げ惑う人々はおろか、世界そのものが無事ではすまないだろう。全ての空間が統一されたらどうなるか、麻衣でも正確には推測できないのだが。
(他の空間はどうなんだろ?)
 この空間では、異空間の存在は秘匿されている。しかし、一部の空間では異空間の存在が公式に発表されているらしい。
 そういった空間では、委員会の存在や局の存在やそれらの動きも公の情報として流れているのだろうか。だとしたら、その空間に生きる人々はどういった意識を持って生活しているのだろう。
(考えてもしょうがないか……)
 小さく吐息を漏らし、麻衣は周囲を見回した。
 左右の足が交互に、リズム良く足音を刻む。雑踏がまだそれほどでもないからこそ聞こえる、自分の足音。一人分の、足音。
(なんだかんだ言っても、四年も一緒にいたからなぁ)
 朱雀の事を思い、小さく苦笑を浮かべる。
 委員会に入ってから、こうして一人で街を歩くのは、任務以外ではこの休暇が初めてかもしれない。任務では別行動する事も何度かあったが、穏やかな状況で一人でいるのは久しぶりとも言えた。
(やる事ないってのも、暇よね……)
 いっそ寝て過ごそうかとも思ってしまう。
 休暇と言われて何もする事がないのは朱雀の特権だと思っていたが、そうではないのだと改めて苦笑した。買い物は昨日のうちに堪能してしまったし、趣味も一人ではできない類のものだった。
「――あら?」
 不意に、麻衣の視線が一箇所に向かう。
 眺めの黒髪を首の後ろでまとめた、青年の後姿が見えた。
(――間違いない、朱雀だわ!)
 その、麻衣から見ての不自然さに、麻衣自身は驚いていた。
 朱雀が、ゆっくりと振り返ろうとするのを見てとり、別段そんな事をする必要もないのに、麻衣は建物の陰に身を隠した。その建物の陰から、そっと朱雀の様子を伺う。
 ただ単に背後を見ただけの、首だけ振り返った朱雀の横顔が麻衣の目に映った。
 普段の朱雀とは似ても似つかないその動作に、麻衣は目を丸くする。そこには、確かな一人の人間としての無表情があった。今までの、射抜くような視線はそこにはない。
 ただの、落ち着いた雰囲気の青年でしかない、朱雀の表情がある。
 麻衣が背後にいた事に、朱雀は気付いていないという事も、麻衣を驚かせた。これまでの朱雀は常に周囲の警戒を怠らず、味方が来る時でさえその数秒前に察知している。それがたとえ麻衣でも、変わらない。一定の距離に踏み込めば、どんな状況であろうが、朱雀は麻衣をまず認識した。
 その注意力を、朱雀は消している。それが麻衣を驚愕させていた。
 何があったのだろうか。
 立ち入った事に触れてはならないと、麻衣の心のどこかが告げる。だが、あの無防備ともいえる表情は、その意識を捻じ伏せるには十分過ぎる程の力を持っていた。
 まるで何かがそこにあるかのように、朱雀は静かにその場に立っている。誰かを待っているのだろうかと思い当たるのに数秒の時間を要したのは、麻衣には朱雀と待ち合わせをするような人物に心当たりがなかったからだ。だが、もしそんな人物がいるとすれば――
(……?)
 建物の陰から様子を見ていた麻衣は、朱雀の小さな動きに気付いた。
 立った姿勢からの身体の重心が微妙にずれる。上着のポケットに突っ込まれていた両手が引き出され、更に重心が動いた。足が持ち上がり、一歩を踏み出す。
 その先にいた人物を見て、麻衣は自分の想像が当たっていた事を確認した。
(やっぱり、あの娘……)
 麻衣はまだ、その女性の名を知らない。
 朱雀がここ数日で出会い、その様子を一変させる事ができたであろう、人物はその女性以外にはいなかった。
 小さく微笑んで駆け寄ってくる女性との距離を狭めるように歩いて行く朱雀の背中は、今まで麻衣が見た事のない感情を宿していた。それを、四年間も共に働いてきた麻衣は感じ取っている。
(朱雀が……)
 喜びとも、楽しみとも、そういったどの感情とも違い、しかしその全てを含んでいるような感情。
 その背を見た麻衣の胸の奥に、今まで感じた事のない何かが湧き上がる。
 建物の陰から出た麻衣は、朱雀と女性が横に並ぶようにして歩き出すのを見ていた。
 周囲の雑踏が遠くに聞こえ、周りにいる人々の存在が麻衣の意識の中から抜け落ちる。ただ、この場所に自分と、朱雀と、その女性だけが存在しているかのような意識の中で、朱雀が女性に顔を向けた。その横顔が麻衣の瞳に映る。
(朱雀が――)
 ――笑っている。
 微笑と言えるレベルでも、朱雀の横顔には確かに『笑み』が浮かんでいた。
 四年間、麻衣ですら見た事のない、朱雀の感情。今まで麻衣が触れてきた朱雀の感情は、どれもが冷たく褪めた悲哀で、微かに怒りを感じた事があるぐらいだ。
 二人が遠ざかって行くのを見て、麻衣は無意識のうちに足を踏み出そうとしていたのに気付く。意識を引き戻し、半ば無理矢理に自分の意思を捻じ伏せ、歩き出そうとする身体を抑えつけた。
(……何してるのよ?)
 自分自身に問いかけるように、麻衣は深呼吸を繰り返す。
(朱雀にだって知り合いぐらいいるわよ)
 その自分への言葉が単なる気休めでしかないのは、既に気付いていた。
 麻衣のプライベートには朱雀は干渉しない。ならば、朱雀のプライベートにも麻衣は干渉しない。それはずっと前から麻衣の中で決めてあった事だ。
 何か重量感のあるものが鳩尾辺りに吊るされたような感覚を味わいながらも、麻衣は遠ざかる二人に背を向ける。
「――おい、麻衣」
 不意に掛けられた声は、いくらか重さを和らげた。
「白虎?」
「緊急速報って奴だ」
 目線で促され、麻衣は周囲に警戒しつつ路地裏へと入った。
「局の準備終了時刻の予測が立ったぜ」
「いつ?」
 緊急などと言うからには、それなりに最近なのだろう。ある程度の心構えをしながら、麻衣は返答を待った。
「明日の夜、七時頃だ」
「中々、早いわね」
 苦笑ともつかない笑みを浮かべ、白虎の言葉に麻衣は答える。
 つまりは、もう明日には局は、最終目的のための行動を開始できる状態になるという事だ。
「何か不都合は?」
「朱雀ね……」
 白虎の言葉に、麻衣は反射的に呟いていた。
「朱雀が、どうした?」
 怪訝な表情で告げる白虎に、麻衣は自分が意識せずに口にしていた言葉を思い返す。
「ちょっと、知り合いと再開しちゃったみたいなのよ」
 思い返していた間は、どう言おうか考えたように白虎には映ったらしい。
「それに、まだあんまり話せてないのよね」
 余計に話し辛くなっちゃった、そう言いながら、麻衣は白虎から視線を外し、朱雀達が歩いて行ったであろう方角へと視線を向けた。
「知り合いか……まぁ、この状況じゃあちょっとキツイな」
 頬を掻きながら、白虎が苦笑する。
 もしかしなくとも、局がこの街で動けばあの女性も巻き込まれてしまうだろう。逃げ惑う人々の群れの中に存在する者の一人となり、委員会が勝利しない限り、その存在は周囲の空間と共に消滅してしまうはずだ。
「まぁ、どの道、時は来るんだ。話せなかったらそれまでだな」
 白虎の言葉に麻衣は頷いた。
 昨夜は、朱雀の様子の変化に戸惑い、その感情を消してしまうのを麻衣が恐れたためにあまり話す事ができなかった。それでも話しておくべきだったとは、今でも思っていはいない。あの、朱雀の横顔を見てしまって、それは確信していた。
 今夜はホテル以外で外泊すると言っていたから、早くても麻衣が朱雀と会って話ができるのは明日の夕方になるだろう。その時まで朱雀と接触できなかった場合は、事が起きてからになってしまう。
「そうね……」
 結局のところ、先に会話できなかったのは麻衣のミスでしかない。
「まぁ、その時の方が最終的には良かったりするかもしれないけどな」
 白虎が口元に小さく笑みを浮かべる。
「……それで、話は終わりかしら?」
 その麻衣の問いに白虎が頷くのを確認した。
「さて、じゃあ俺は行くぜ。今回はまだ青龍や玄武には伝わってないからな」
 白虎が言う。
 麻衣に先に伝えに来た、という事だ。その言葉に、長い間ここに居座る事ができないという事を悟る。それに頷き、麻衣は路地裏から外へと出た。
 背後で白虎の気配が遠ざかって行くのを感じながら、麻衣は周囲を見回した。
 朱雀達の行方は完全に見失ってしまった。それを意識してしまう事に麻衣は小さな嫌悪を覚えながらも、朱雀達が歩いて行った方向の逆へと意識的に歩き出した。
 その後で何をするかは考えていなかったし、たまには何も考えずに散歩するのもいいだろうと思った。
(――叶わぬ恋、なんだもんね……)
 結局、どうあっても朱雀とあの女性は結ばれる事はない。
 委員会が局に勝ったとしても、朱雀は委員会に所属するエージェントなのだ。そして、あの女性は委員会とは何の関わりもない一般人でしかない。
 委員会が局に負けたとしたら、あの女性は空間統一の際に消滅してしまうだろう。恐らく、この世界と共に。
 そんな事を考えて心を安定させようとしている事に気付き、麻衣は自分への嫌悪を深めた。
(まるで朱雀が好きって言ってるみたいじゃない……)
 否定するかのような言葉。それが本心でない事は、何よりも麻衣が理解している。
 ここに来て、はっきりと理解してしまっていた。
 朱雀が、知り合いらしい女性に見せていた笑顔が、頭から離れない。一度も、麻衣には向けられた事のない表情。朱雀自身の明確な感情。
 羨ましい、と感じている。
 朱雀のプライベートなのだから、麻衣は干渉しない。それでも、あの女性に嫉妬に近い感情を抱きつつある事を、麻衣は自覚している。しかし、それを抑える術を知らない。
 やり場のない複雑な感情を抱えたまま、麻衣はただ街を歩き回っていた。

 *

 一昨日の夜、再開した時の聖司とは全く違う聖司がそこにはいた。穏やかな、自然な無表情で、傍にあった電柱に左肩を預けるぐらいの接点で自然に体重を預け、不自然さの全くない様子で両手を上着のポケットに入れている。その聖司の姿に、藍璃は一瞬だが歩みを止めていた。見蕩れていたのだろう。
 恐らく、その聖司を直視していれば藍璃でなくてもその姿に見蕩れていただろう。そう思わせるには十分だった。しかし、そのたたずまいは背景に溶け込んでしまうほどに自然で、待ち合わせをしていた藍璃でなければ気付かかったかもしれない。
 待ち合わせには十分も早く向かったはずなのに、その場には既に聖司がいた。いつから待っていたのか、という藍璃の質問に聖司は小さく笑みを浮かべただけだった。その返答に、恐らく藍璃が来る十分前に来ていたのだろうとあたりをつけて口を開いた。
「二十分前に来てたでんしょ?」
 その問いに、聖司は微かに驚いたようだった。だが、その表情はすぐに柔らかい表情に変わる。
 アルバイトは今日は休むと電話で伝えてあるから、その点での問題はない。財布の中身も少し多めに持ってきている。
 目が覚めた時、時間と場所を指定したメモ帳の一枚が藍璃の部屋の入り口の郵便入れに挟まっていた。恐らく、早起きした聖司が藍璃のアパートまで来て、わざわざ待ち合わせる旨を藍璃が気付くように用意しておいたのだ。喋れない聖司には、電話での連絡は不可能なのだから。
 歩きながら会話を交わしながら、小さなレストランに向かった。丁度、昼時になる前の空いている店内に入り、窓際の席に二人で陣取る。
「何食べようか?」
 メニューを開いて、藍璃は問いかける。
 藍璃が注文するものを決めた後で、聖司はメニューを指差して藍璃に伝えた。それを、通りがかったウェイターを捕まえて伝える。
「そういえば、コーヒーは苦手なんだよね?」
 先程の聖司の注文での、セットの飲み物は紅茶だった。それを思い返して、藍璃は聖司に確認を求める。
 聖司は頷いた。互いにコーヒーは苦手で、あまり飲まない。飲めない事はないが、進んで飲もうとは思わないし、紅茶などの方が好みだった。
 昨日、藍璃の元を訪れた聖司に紅茶を出したのは正解だったのだと、改めて思う。
 食事を取りながら、色々な事を話した。勿論、聖司は喋る事ができないため、藍璃の方が一方的に話をした。四年間に起きた事を、昨夜のように巻き込まれた悪い出来事だけはなく、良かったと思える事を押し出して話した。
「あのね、嘉島君っていたの覚えてる? ほら、聖司と喧嘩した事もあったじゃない。彼ね、半年ぐらい前に結婚したんだよ。坂下さんっていたでしょ、彼女と」
 四年前まで、二人のクラスメイトだった人の結婚話には、聖司も驚いたようだった。藍璃も結婚式に呼ばれ、見に行った。いつか、自分にもあんなに幸せそうな笑顔で誰かを家族として迎える事ができるだろうか。そう、感じた事も全て聖司に語った。
 高校生活でできた友達の事、授業中に居眠りして、授業を受けている夢を見てしまった事、通り魔から必死に逃げた事、暴漢から運良く助けられた事。
 食事をしながら、紡がれる言葉を、聖司はただ自然な表情で聞いていた。驚いたり、笑ったり、苦笑いを浮かべたり、それらの感情を激しくは出さず、穏やかに、自然に藍璃へと返す。相槌を打つ聖司は、楽しそうにも見えた。
「それでさ、食事代だけど、私が奢るからね」
 その藍璃の言葉に、聖司は意外そうな顔をした。
 少し考えるように視線を逸らした後で、聖司は代金見積もりの紙の裏に、自分が払うと書き記した。
「私だって少しは稼いでるんだから、貯えだってあるんだよ?」
 ――俺はほとんど使った事がないから、たまには使わせてくれ。
 藍璃はその返答に目を丸くした。
「え? 使った事、ないの?」
 その藍璃の反応がおかしかったのか、聖司は小さく苦笑した。
 結局、代金は聖司が支払った。レジの前に藍璃が立とうとする前に、自然に滑り込んだ聖司が全額を支払ってしまったのだ。
「――聖司も、変わんないよね」
 店を出て、歩き始めた藍璃の呟きに、聖司が驚いた顔を向けた。
「そりゃあ、ちょっとは変わったかもしれないけどさ」
 喋れない事は一番の変化ではない。肉体的な変化であっても、聖司としての本質的な部分は何も変わっていない。恐らく、それは藍璃も同じはずだ。
 驚いた顔はやがて苦笑となり、微笑へと変わった。
 そうして、また他愛のない話をしながら歩く。藍璃の住むアパートへ向けて。
 やがて、歩いているうちに、藍璃は聖司の腕に抱きつくようにして、聖司に寄り掛かっている事に気付いた。周囲に人通りの少なくなってからだったせいもあったのかもしれない。それに対する聖司は、何も言わずに微かに目を細め、ただ藍璃を支えるかのように、普通に歩いていた。四年間も離れていた距離が、それだけ狭まったという事なのだろうと、解釈しながら、藍璃はそっと聖司の腕を話した。
 離れていってしまう事が解っているせいかもしれない。離れてしまうからこそ、近くに感じていたかったのかもしれない。
「聖司は今日は、どうするの?」
 ――泊まらせてもらうつもりだけど?
 アパートの藍璃の部屋の前に立ち、問いかけた藍璃にメモ帳の文字が見せられる。
「えっ……!」
 同様する藍璃に、聖司は首を傾げた。
 ――別に、妙な事はしないぞ?
 文字を見せ、藍璃を聖司は落ち着かせる。藍璃の反応が指すものを聖司も察たようだが、そういう目的で泊まると言っているわけではないらしい。
(それはそれで残念な気がしないわけでもないけど……)
 複雑な言い回しを頭の中で呟きながら、藍璃は聖司を部屋に通した。
「じゃあ、どこで寝るつもりなの?」
 ――ソファででも寝れるさ。
 聖司の言葉を読んで、藍璃は小さく苦笑した。
 基本的に藍璃は一人暮らしをしていて、来客を呼ぶ事はあっても、泊める事まではしなかった。そのために、布団などの寝るための道具は藍璃自身が使っているベッド一つと、布団や毛布が数種類しかない。敷布団など用意してないのだ。
「まぁいいわ。でも、今度は聖司が話してよね」
 聖司の顔を見上げるようにして言った言葉に、聖司は微かに遠くを見るような目をして、それでも確かに頷いた。
 筆談を道でやるのはそう簡単な事ではない。余所見しているのと同じ事にもなりかねないのだ。恐らく、多少は聖司も周囲の視線に気を使ったのかもしれない。もしくは、藍璃が変な目で見られないためか。
 結局、聖司が落ち着いて自分の言葉を書き留められるのは、藍璃と二人っきりになっている時しかない。どこか、限定的な空間にいるか、藍璃の部屋にいるしかないのだ。
 それに、藍璃も聖司とはまだ一緒にいたいとも思っていた。無意識のうちに、共に過ごせる時間が限られているという事を意識してしまったのかもしれないが。それでも、離れたくはないと思った。
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