第四章 ――「夢幻の精霊に抱かれて」――




ちらつく微笑は真っ白な空間にあった。
微笑と分かったのは何故だろう。それはただの光であった筈だ。しかしそれは、間違いなく微笑みであった。何故ならばそれは、感情を見せていたからである。
温かい笑み、悲哀の笑み、楽しそうな笑み、皮肉げな笑み、自嘲的な笑み。そんな様々な感情が浮かぶ光。純白に潜んだ美しき生の脈動に感じるのは、背筋を駆け上る、寒気にも似た衝撃であった。
そんな中で感じられる自分という存在が、どれほど矮小な物なのかを見せ付けられた時、彼は自分にあるべき身体が存在していない事に気付く。
精神世界――そう呼ばれる、一種の幻想空間。それは間違いなく夢うつつでしかない。にもかかわらず、その圧倒的な存在感に、彼はただ唖然となる。
どこだろう、そう思ってしまうような場所だった。
そこに浮かぶのが自分なのだ。何故、こんな所に来てしまったのかが分からなかったが、ここに居る事だけは意識できた。不思議な気持ちだ。自分自身を再確認させられている。
暫く、感情のさざなみに耳を傾けていた。非常に小さいのに、非常に力強い。それが感情――人の、力。聞いていて気持ちの良いものだ。安らげる空間に身を任せる事で、心に宿るゆとりを意識できる。それはとても幸せな時間だった。
喧騒と静寂が混ざり合い、そこは、美しい安らぎをくれる不思議な空間となっていた。光の中に自分がある事に、彼は心底から感動を覚える。同時に、自身を包む暖かい感触に、温もりに抱かれた自分を意識した。
(――ああ……!)
世界はなんて広いんだろう。
人とはなんて美しいんだろう。
この世はなんて素晴らしいんだろう。
(光があるんだ……!)
全てが輝いているからだ。何者にも邪魔されない、絶対的な輝きが満たす空間だから、だから世界は美しいのだ。素晴らしい人々――いや、生命の、その全ての吐息が世界を彩り、輝きを更なる高みへと導いているのだ。
そしてそれは、全ての思惟が宿した、一つの魂なんだ――!
(精霊なんだ――)
彼は理解した。
精霊という意味を。
それは全ての意識から生まれた、奇跡なのだ。
奇跡は超越を許し、それはやがて世界の軌跡となる。
全ては奇跡に生まれ、全ては軌跡としてここにある。
これ以上素晴らしい事はない。
精霊の示すものは破壊でも暴力でもない。
彼らは人の可能性の具現化なのだ。
精霊使いは、決して、突然変異なんかではない。
彼らはこの地球に存在する。
この地球に生まれた者達なのだ。
もう一度、ああっ、と吐息した。
(優……)
視線を上げ、無い筈の手をさまよわせ、彼は、探した。
(そこにいたんだ、優……)
さまよわせた腕に人肌の感触が返り、見上げた視線にあどけない少女の笑顔を見付ける。柔らかく、暖かい感覚が全身を包み、彼を抱きしめた。
妹は優しい微笑を返しながら、ただ、彼を抱きしめてくれる。彼は湧き出す安堵感に涙を流し、噎びながら、その優しさに縋り付いて、ただ、安心を得る。
『兄ちゃん……』
胸に染み入る、優しい声音。
彼は震えた。
(優……!)
取り戻された自分。
彼はただ、愛しい存在に抱きしめられる幸福を一杯に感じて、ただ妹を抱きしめ返す。
今の彼はその為だけにここに居た。
『大丈夫だよ、兄ちゃん』
幼子をあやすような口調。背に添えられた少女の手が、優しく、彼を撫で擦る。
『兄ちゃんは何も怖がる事はないんだよ。兄ちゃんは何も悔しがる事はないんだよ。兄ちゃんは何も寂しがる事なんかないんだよ』
彼は、ただ、頷くだけ。
喉に何かが詰まって、言葉は紡げなかった。
『だから、ね――』
彼は顔を上げた。
『何も悲しむ事なんて、無いんだよ』
自分はこれを求めていたのだ、と、気付いた。
その笑顔はすべてを発散させてくれる。優には誰も及ばない。彼をここまで勇気づけてくれる笑顔を見た事はない。
彼は一言、ありがとう、と呟いた。
『ううん、良いの。さぁ、兄ちゃん――』
立ち上がる。自分の力で。自分の意志で。
(優、ありがとう……)
添えられた小さな掌。優のそれを握り、正面を見据え、気付いた。
少女の背に広がる純白の翼。金色の輝きを放っているにもかかわらず、それは純真の白色をしている。そう気付く事ができる、神々しい天使の翼。
天使になったんだ、と、笑った。すると優も、微かに笑みを返してくれる。
『私はここまでしか手助けできないけど……頑張ってね』
(うん。俺は精一杯、生き抜こうと思うよ)
『そうじゃなくちゃ、兄ちゃんらしくないよ』
ああ、と彼は頷く。それを見て、優は思い出したように悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
『そう言えば兄ちゃん、私の友達、可愛かったでしょう?』
(えっ? ああ、うん……)
彼の脳裏に蘇るのは、美しい少女だった。金色の長髪に、整った顔立ち、憂いの篭もった紺碧の瞳。そして何よりも、悲壮を背負った少女の寂しそうな表情。
その少女は確かに、綺麗だった。
『あの子は一人ぼっちなの。だから、兄ちゃんが支えてあげて』
(俺が? どうして?)
『もーっ!』
怒ったように眉を吊り上げ、口をへの字に曲げて、優は彼を睨み付ける。好きなんでしょ、と唇が動いた。
(そんな……!)
慌てたように口を開こうとして、優が、あっ、と声を上げた。
『もう行かなくちゃ……』
名残惜しそうに、少女が眉尻を下げる。その後で彼の頬に急いだようにキスをして、すぐさま後ろを向いてしまった。まるで照れた顔を隠すかのように。
えへへっ、と優が笑う。彼はただ突然の事に呆然としているだけ。
そうしている間に、優の小柄な身体は少しずつ宙に浮き始めた。
(優!)
彼は急ぎ手を伸ばす。しかし少女は、指先すらも触れずに何処かへと消えていってしまう。
『兄ちゃーん!』
優が声を張り上げた。その表情は、一点の曇りも無い笑顔で満たされていた。
『あの子達を、お願いね!』
声が届いた瞬間、目前で、光が弾けた。



聖が目を覚ましたのは、ガシャン、と真横で音がしたからだ。
(なんだ……?)
ぼやけた視界の中で、ゆっくりと辺りを見回す。昨日殴られたばかりの全身が鈍い痛みを訴えて来た。
しかしそれを無視して、腫れぼったい瞼を開くと、そこは少し広めの個室だというのが分かった。同時に右手に違和感を覚えて、そちらを向くと、鎖に繋がれた手枷がある。
が、妙だ。枷に繋がれた鎖は半ばで何か強引な力によって歪められ、捻じ切られている。その断面が非常に猥雑で、いったい何が起こったのだろう、と訝んだ。
「うっ、つ……!」
呻きながらも立ち上がる。大丈夫だ、全身の打撲は軽い。栄養失調気味で少しふらついたりもしたが、体調は概ね良好。空きっ腹は充分我慢できる。
もう一度、今度は高い視線で室内を見回してみる。革張りのソファーに趣味の良い花瓶と、そこに活けられた花。品の良い調度品に、上等な執務机。窓はブラインドで閉ざされ、外からの視線を遮っている。そして、壁に埋め込まれた巨大な、杭。
どこで手に入れたんだ、と疑問に思うような、鉄製の杭だった。右手に着けられた枷とセットで、鎖で繋げて戒めとしていたのだ。捕虜をこんな所に縛り付ける余裕があったとは、これは驚きだ。
(普通はワンセットにしとくものだからな)
それを、個々で部屋に閉じ込めて、しかも自由まで制限する。この念の入れ様はまさにアマチュアのする事だが、その分、こんな道具を手に入れるルートと、なによりもコンクリートに杭を捻じ込むほどの怪力を知りたい。
(精霊能力か……?)
どういう訳かは分からないが、とりあえず自由になった。それを確かめて、聖は部屋に物騒なものが無い事を見回してから、ドアに近づいた。そっ、と耳をドアにつける。が、そこに人が居る気配はなかった。仲間との談笑やらなにやらが無いのは当然として、息遣いや身じろぎなどの当然の事が無いというのは、これは見張りが居ないという事だ。
全員が出払ったのか? その疑問を浮かべ、急いで時計を見る。午後一時半。捕まってから、一日しか経っていない。そして、この時刻は既に――
(第一空挺部隊が来ている時間だ)
特殊部隊の投入。これで合点がいく。捕虜に構っている余裕など無いのだ。
聖は静かにドアノブを捻った。案の定、扉は固く閉ざされたまま。よし、と意気込み、今度は扉に体当たりする。しかし思うより頑丈だったそれは、ビクともしなかった。
さらに二回・三回と当たってみるが、依然として動きが無い。それに苛立ちを強め、聖は扉に拳を叩き付ける。
「くそがぁ!」
咆哮。
それと同時に、自分自身から、今まで感じた事も無い『力』が溢れ出すのを感じる。
ミシッ――
「えっ?」
聖の見ている前で、ガァン、と扉が吹き飛んだ。
なっ――!?
息を呑んだ。だが、彼は既に感じ取ってしまっている。これが、自分がやった事なのだという事を。
この力は――?
おそらく、これが、精霊能力なのだろう。
優が――?
夢の中で彼に語り掛けて来た妹。きっと、彼女が関係している。
聖は優しく微笑んだ。
「ありがとう、優……」
もう一度、正面を睨む。今度は閉ざされた扉なんかではない。先程よりも狭い空間は秘書室か何かだろうか。どうでも良い。聖は前に進み、静かに、ドアを開けた。
廊下だった。目前に窓があり、そこから睥睨できる景色は四階のもの。最上階だ。
辺りを見回して、左の部屋に入る。ガランとしたオフィスに、銃が散乱していた。今まで押さえて来た武器の類いだろう。
それの一つを掴む。九mm機関拳銃だ。そのスリングを肩に引っかけ、拳銃の入ったレッグ・ホルスターを太腿に装着して、ベルトに通した。さらに銃剣も腰に備え、少し考えて、上着も手に取る。目当てのものじゃない。次、その横のものを触り、感触を確かめた。
ビンゴ。胸ポケットにイルカの形がある。それに袖を通して、機関拳銃用の弾倉を専用ポーチに幾つか収め、それも装着した。武器を見回して手榴弾が無いのを確認すると、非殺傷用のスタン・グレネードを数個、取り付ける。その後で雑多な装備を抱え、外に出た。
人が居た。
「な、貴様……!?」
捕虜が武器を抱えてそこに居る。確かに驚愕すべき事だろう。だが、その男はすぐさま気を取り直し、聖に銃を向けて来た。素晴らしい状況判断能力だ。恐らく、ここ数日の戦闘で身についた事なのだろう。それは感嘆に値する。
捕虜がどうやって逃げたかは知らない。しかし、そいつは今、武器を抱えて両手が塞がっている。それを見て取って、すぐさま無力化する事を念頭に置いたのだろう。しかし彼の誤算は、聖の付加価値について知らない事だ。
聖が思い浮かべたイメージは、織物だった。その織物に力を加えると網目が歪む。そして、撓んだ織物は、そのベクトルに何かを引き込んでいく。
がっ、と男が呻いて、倒れた。局所的に加えられたベクトルが男の脊髄を瞬間的に叩き、脳の一部分を麻痺させたのだ。そこから、男は意識を失った。後遺症などは残らないだろうが、暫くは頭痛に悩まされる事だろう。
それに目をやって、聖は、静かに歩を踏み出した。遠くから、近くから、雑多な銃声や爆発音が聞こえる。本格的な掃討作戦が展開されているのだろう。急がねば、本部が決断を下したならばここに攻撃ヘリを仕向ける事くらい簡単にやってのけるだろう。
(その前に投降してほしいな……)
そんな事を考えながら、聖は自分が捕まっていた部屋を飛ばして向かいのオフィスに入る。そこには二人の男が居た。
「新田、大浦!」
聖と同じように、壁に突き刺さった杭に鎖で戒められた二人の自衛隊員。聖の小隊で、合流隊にいた二人だ。
彼らは聖を認めると、隊長ぉ、と情けない声を上げた。そこに機関拳銃の銃口を向けると、躊躇せずに引き金を引く。カァン、と澄んだ音を立てて鎖が弾け跳んだ。さらに大浦の鎖も解き放ってやって、聖は彼らに向けて口を開く。
「他の奴等は?」
「何人かは捕まってます」
「そいつらの居場所は?」
「大体把握しています」
「そうか」
答え、少し考えてから、
「お前達はこの武装を持って残りの捕虜を解放し、即座にここから脱出しろ。最優先すべきは怪我人の移送だ。市内を離れ、手当を受けてくれ」
二人に持って来た武器を差し出す。
「餞別だ。自衛に使え」
「……って事は、隊長は?」
当然の疑問だな、と思う。だが、こればかりは、譲れない。
「少し用事がある。……元気のある奴は、空挺部隊の援護に回してやれ」
大浦にショットガンを渡す。モスバーグ&サンズのライオット。M500の正式名称を持つコンバット・ショットガン。あの時に聖を狙ったものと同じ銃だ。
それを、今度は信頼する味方として、部下に託す。皮肉なものだな、と少し笑った。
「頼んだぞ、二人とも。ここも長くはないだろう」
BUDDY小銃を新田に投げて、その他の雑多な武器を二人に押し付ける。その間に発した言葉には、言外に、自分も必ず脱出する、と含ませている。それは紛れも無い、彼の信念だった。
(ここから出る。だがその前に、やらなきゃならない事だって、ある……!)
胸ポケットを握る。あの時の幻を思い返し、確かな覚悟として、自身の胸に刻み付けるのだ。今の自分には、それが唯一無二の、原動力となっている。
「さぁ、早くいくぞ!」
『了解ぃ!』
勢い良く飛び出すと、聖は左に向って駆け出した。お気をつけて、と背に二人の声がかけられたのに、手を軽く挙げて答える。現状でエレベーターを使う事はできないだろうと考えて、即座に非常階段に飛び出すと、ゆっくりと辺りを警戒しながら階下へと進む。
屋上を見る、と言う選択肢もあったが、何故か行く気にはなれなかった。彼女はそこには居ない。そう、ほとんど直感的に感じ取っていたのかもしれない。
吹き抜けを見下ろす。しかしそこに人の気配はなかった。非常階段には誰も居ないのだろうと見当をつけて、急ぎそこを降りていった。もちろん足音を最小限に留めるのは忘れなかったが、ブーツで階段を降りていくだけに消し去る事はできない。靴底の鉄板が澄んだ音を響かせた。
三階と二階を無視して、一階に足をつけた。それが何故か、聖自身にも分からなかったが、ほとんど吸い込まれるように降りて来ている事に、驚きを覚えている。
扉を開ける。慌ただしい喧騒に、この階だけで少なくとも五人以上の人数が居る事を悟った。
素早く左右を確認して、通路に紛れ込む。目指したのは市長室。何処かの県の知事室を真似た、ガラス張りになったそこは、市民に信頼してもらう為の相談室としても活用される場所だ。ガラス張り――監視には御誂え向きの部屋。
そこは市庁舎の南側に位置している。大通りから少し内側にあり、最近改装されたばかりのそこは、床や壁がまだ真新しい。だから他の場所と区別して、中に居る人間に非常に分かり易い造りになっているのである。
近づいていくと、そこら中から銃声が聞こえてくるのが意識できた。廊下が外側に設けられているからと言っても、これは異常と思えるほど、街が騒然としている。急がねば彼らはここに辿り着き、内部を掃討するだろう。それまでに自分は、彼女を連れて脱出せねばならない。
緊張に、掌がじっとりと汗ばんでいた。
角に一人、歩哨が立っている。八九式小銃を提げて、緊張の面持ちで、しきりに辺りを見回しているその男に、聖は近づいていった。
歩哨が気付いた。同時に銃口が跳ね上がり、
「なんだお前は!」
予想以上の素早い反応に、聖は少し気持ちが波立つのを感じた。焦りだ。だが、それを表に出さず、男の首筋に思念を集中させた。途端、ビクリと男が震えて、前に倒れてくる。
自分がしっかりと力を扱えた事に、ホッ、と安堵した。
何とかなるかな、と思った。これで誰も殺さずに、ここを無力化できるかもしれない。ほとんど希望的観測ではあるが、聖はこの時、本気でそう考えた。
次の瞬間、角から銃口が伸びて、銃声が廊下に木霊した。
くっ、と呻き、壁際に寄る。そのまま角にベクトルを働かせると、ぐあっ、と言う呻き声が聞こえた。しかし相手は瞬時に体勢を立て直すと、角から突出して、ニューナンブM60リボルバーを向けてくる。
三十八口径の銃口からマズル・ファイアが噴出して、弾丸が高速で吐き出される。横に飛んで回避するとコンクリートに弾痕が空いた。
もう一度、相手にぶつける様に力場を発生させるが、相手は驚異的なバランスで踏み止まり、さらに発砲して来た。
聖は上着の裾を跳ね上げた。スリングで吊るした機関拳銃――M9サブ・マシンガン――のコッキング・レバーを引ききり、ボルトを開けると同時に、初弾を装填。避けようとする相手にベクトルを働かせて動きを抑え込んだ上で、トリガーを押し込む。
パパパッ、と連続した発射音。熱く焼けた九mm弾が突き刺さり、腹を中心に後ろに吹き飛ばされた敵は、壁に激突して、項垂れた。
カラン、が三つ、続いた。
澄んだ金属音に意識を取り戻して、聖はすぐに駆け出す。角の奥では、数人が叫ぶように声を発して、瞬時に応戦が来た。それにM9のフル・オートで対応して、手前の一人を絶命させる。
ここは任せろ、と声が響いた。それに困惑する返事が二つ、吐き出される。その間に聖は弾倉を破棄し、マガジン・キャッチに細長いそれを差し込み、ボルトを開いた。
「気にするな!」
聞こえてくる野太い声に、すまん、と返事が返された。構わず、聖が銃口を突き出す。
ガガガンッ! 大音響の連続音の直後に、聖の周囲で散弾が盛大に弾ける。即座に身を引くと共に、驚愕を覚え、無意識に一歩、下がっていた。
何か物理的なプレッシャーを感じる。なんだ、と思いながら、背筋の悪寒に眉を顰めた
「おおおぉぉっ!」
さらに散弾が連射される。その光景に絶句した。相手は一人だと確信したのだ。
同時に疑念も湧いた。フル・オートで撃てるショットガン。そんなものが日本にあっただろうか。
巻き上がる埃と、削られるコンクリート。だが銃声は長くは続かなかった。
相手の弾切れと同時に飛び出し、銃口を向ける。だが、相手は箱型弾倉を既に交換し終えていた。即座に引かれた引き金に、聖は自分自身に圧力をかけて横に吹き飛び、尚且つ相手に急激な負荷を加えて銃口を下に引き摺り下ろした。床が鉛弾に削られて、聖は肩を掠った弾丸に血を滲ませ、横の壁に激突して顔を顰める。
だがそれよりも、目の前の事実に愕然とした。
――大塚、章!
銃口を上げられず、思わず、呟く。
「先生……?」
大塚は、彫りの深い顔立ちに笑みを形作った。
「宮枇、か。面白い事をしてくれるじゃないか」
彼は188の身長と、100キロに近い体重の大男である。聖の母校である公立西若月高校の体育教師であり、スキンヘッドの頭と濃い顔立ちで目立ち、その一種、硬派な性格に親しまれて来た。ラグビー部の顧問で、バスケット部だった聖とは親しくはなかったが、三年の時に授業を持ってもらったり、生活指導として幾つか世話になったりしている、生徒や他教師から深く信頼されていた教諭だった筈だ。
そんな男が、今、テロリストとして市を占拠し、聖に銃を向けている。
戸惑いは大きい。彼が精霊使いであった事もまた、聖には想像もつかない状況であった。
「何故、貴方が、ここに……?」
恐る恐る問い掛ける。ゆっくりと銃口を上げ、大塚の盛り上がった胸に、M9の照準を固定した。
大塚はそれに笑みを深くしただけだった。
「お前こそ、宮枇。どうやって拘束から逃れたんだ? あの鎖はそんなにやわじゃなかったはずだがな」
「それは今、関係の無い事だ。俺は貴方がこんな所で何故こんなことをやっているのか。そう聞いているのですよ……」
「ならば聞き返す。お前はこの力を持って居ながら、何故、俺に銃を向けている?」
「何故、と?」
聖は眉を顰めた。
「俺は陸上自衛隊第七師団の宮枇三尉だ。俺の任務はあなた達を止め、若月市を解放する事です」
「そうじゃない。お前は精霊使いにもかかわらず、同胞に銃口を突き付け、同胞を殺した。それが解らないのだよ。精霊使いならば我々に賛同し、世界中の同胞に応え、現状を改革すべき立場に居るはずだ」
「俺はそれを認めていない!」
思わず叫んでいたのは、大塚の言葉に抑揚が無かった為だ。自分の理想を、当然の事として、語る。上がる事も下がる事もせずに淡々と返された言葉は、まるで聖に対する義務のように、聖の心に滑り込んでくる。
それに恐怖心を抱いたからこそ、彼は、語調を荒げた。
「精霊使いだから、抑圧された立場だから、だからこんな事をするのか。それはただの妄想だよ! 一揆し、打倒・政府を掲げて、ただ犠牲者を出す。それが必要な犠牲だと言うのならば、正しくそれは偽善の世界だ。そんなものは詭弁にしか過ぎないんだよ! 分からない事じゃないはずだ、あんただって、先生だって、今の状況を疑問に思ったはずだろう? 自分を押し殺してまで嫌な事をやるくらいなら、そんなことはハナから辞めて、もっと自分にとっての有意義さを目指すべきだ! 固まってただ小さくまとまるだけなのを嫌ってた貴方がこんな事をする同義は一つも無いだろう!」
「小僧が――、偉そうに喚く事か!」
瞬間、強靭な力に圧されるのが分かった。それが自分の肉体ではなく、自分の起していた力場だと気付いた時に、下方向に展開されていた力が弾かれ、デーウーUSアサルト・ショットガンが跳ね上がる。トリガーが絞られ、12ゲージ・ショットブレットがフル・オートでばら撒かれる。それに対して身を屈め、前方への跳躍、同時に追うように力場を展開して自身を押して、大塚の懐に入った。三・四発のショット・シェルがポートから落ちるまでの間に弾丸が切れてボルトが開ききると、真下に入った聖を大塚の鋭い眼光が射抜く。
気圧されない。M9を離すと、肘の辺りまで下がっていたスリングが外れ、カシャン、とサブマシンガンが床に落ちる。大塚が振るってくる銃身を左腕で受けて、接触の瞬間に圧力を発生し、弾き飛ばした。ほぼ同時に銃剣を抜いて、逆手のまま真上に切り上げる。分厚い胸を切り裂いたとき、まるで厚手のゴムに傷をつけたかのような感触を覚え、致命傷に遠い事を悟った。と、伸び切った身体に大塚の拳が迫り、左のストレートが聖の横腹を襲う。
接触。恐ろしいほどの怪力が集中し、接着点を基点に激しい衝撃が胴を駆け抜け、全身の骨格から、腹に納まった内臓まで、全てがミリミリと悲鳴を上げた。
息が詰まる。眼球が飛び出しそうなほど瞼を見開き、しかし発せられる篭もった喘ぎに震え、物凄い筋力に体を圧される。しかし、吹き飛ばない。
空中に静止した肉体。殴られた力と同等のベクトルを反対側にかけた。拮抗した力が互いを打ち消して、聖の体は宙に浮いたまま、一瞬間、止まっている。
その間に意識を回復した。ちらついた白色は視覚の虫食いだ。世間で星と例えられるが、聖にはそれは虫食いでしかない。星などと言うロマンスに溢れたものならば、こんな時には表れないはずだ。
「、っ、ああぁ!」
咆哮。自身に喝を入れると同時に、大塚の瞳を睨みつける。それに一歩退いた大男に対して間合いを一歩詰めた。銃剣を持つ右腕を振るい、その手首を素早く返して、同時に右手に向った大塚の視線の視覚を縫う様に左手をひらめかす。デーウーの銃床を掴んで、自分の肉体に能力を発生させた。聖の体に、自身の体重の三倍の圧力が襲い、骨格がミシミシと悲鳴を上げる。ガコン、と何かのずれる音がして、右肩が外れた。
ギリッ、と奥歯を噛み締める。悲鳴を堪えて、左腕の筋力をデーウーに集中させた。瞬間的に掛かった圧力は二百kgを越える。それが唐突に発生した事に、大塚はウオオッ、と呻き、床に手をつく。
聖は攻撃を緩めない。圧力を消して、左腕を振り上げる。大塚が起き上がるよりも速く、首筋に手刀を振り下ろした。
「があっ!」
大塚の巨体が地に伏した。能力起動。大塚を地に縛り付け、その上で左腕を首筋にあてがう。
彼の視線が突き刺さった。血走った眼に宿る怨念に心を乱され、反射的に口を開いている。
「――言っておきたい事は?」
大塚は口元に笑みを浮かべた。
「大したもんだよ、青二才!」
ゴキャッ、で大塚の首が歪んだ。衝撃に巨体がビクン、と痙攣し、瞼が限界まで開かれた状態で、死んだ。
触れた肌から、消え去った生命活動を、感じてしまった。
くっ、と呻いた。悲痛に顔を歪め、ゆっくりと右腕を上げると、ガコ、肩を無理矢理くっつける。
「くあっ……」
吐息した。それでも数度、肩を回して、感触を確かめる。鋭い痛みが脳髄を刺激してくる事で眉根を寄せた。しかし動ける。聖は床に落ちたままのM9と銃剣を拾い上げて、後ろを向いて、
「…………」
振り返り、肩膝を突いて大塚の顔に手をやった。瞼を閉じさせてやってから、大塚がカトリックだった事を思い出して腕を胸の上で組ませる。その後で静かに十字を切った。
(ありがとう、先生)
立ち上がると同時に踵を返し、聖は廊下を駆け出した。
角を曲がりその奥を見据えると、そこはもう、市長室だ。その前で、見張りをしていたらしい男が構えたMP5マシンガンのセレクターを意識し、セイフティに変更させる。引ききれないトリガーに焦った男の鳩尾に力をぶつけた。白目を剥いて、男の膝が崩れ、ドサリ、と倒れる。
M9を構えたまま、ゆっくりと廊下を歩いていくと、市長室で椅子に座ったカレンがいた。その前に男が居て、精一杯、カレンを説得している。漏れてくる声を聞いて、ここから脱出しよう、と言っているのが分かった。だが、カレンは首を振り、悲しそうに俯いたまま。
市長室に繋がるドアを開ける。そこは待合室か何かなのか、簡素な長椅子と机が置いてあるだけだった。
左側にもう一つ、ドアがあった。それを潜ると、ソファーに座っていたカレンが顔を上げ、隣に立っていた男が気付く。驚愕に顔を歪めて銃口を向けてくるのに、こちらに身体が向き直る前に、聖は男に対して能力を使っていた。
がっ、と呻いて倒れた男を無視して、聖はカレンに歩み寄る。少女は憂いのある瞳でそれを見詰め、無表情で首を振った。
「私は行きません」
きっぱりと、彼女はそう言った。
「なぜ?」
「私は彼らを止められなかったからです」
聖は溜息を吐いた。
「君に責任はない」
「あります。ここが襲われた時、私は彼らに警告しました。こんな事は止めなさい、これは意味の無い事です。そう言ったのに聞かず、逆に私が戦争を起した張本人である事を気付かれてしまいました」
「戦争を起した、か。確かに精霊王が煽動したとは聞いていたな」
「私の責任なんです。全ては私が、こんな力を持って居たからいけないんです」
聖は無表情だった。彼女の決意は、一見、固そうに見える。だが今の聖には、少女はただただ小さく見える。一人ぼっちで罪悪感に苦しんでいる様は、何故か滑稽に映った。
カレンは、ただただ寂しそうだったのだ。
「こんな力、と言ったね。でも俺は君の力を見ていない。どういう力なんだい?」
「……こういう能力です」
俯いたカレン。その金髪がサラサラと流れ、少女のか細い肩から落ちていく。直後、聖の視覚に異変が起こった。一瞬のノイズの後、聖は、自分の中にもう一つのイメージがある事に気付いたのだ。
それは映像だった。それは何故か、床を見詰める視線だった。視界の端に映る金糸のような美しい髪の毛が見えた時、それがカレンの視覚である事を理解する。
その映像は、瞬時に消え失せた。元の視覚に戻った時、少しだけ、立ち眩みがした。
「感覚の共有です。私は全ての精霊使いと交信する事が可能な能力を持っているのです。これを使って、私は二年前に、全ての精霊使いを煽動しました。戦う事を呼びかけたのです。ですが、その結果は、こんな混乱しか呼んでいません」
悲しそうに――しかし淀み無く、カレンは言葉を紡いで行く。それが少女の姿をより小さく見せていた。無理をしているのだ、そう、すぐに見て取れるからだ。
「カレン……?」
聖はほぼ無意識に、少女に向けて足を一歩、踏み出していた。
「来ないでください!」
カレンの悲鳴のような叫び声に驚き、体を硬直させる。
「……あなたは純粋な人なのですね。でも、私はそうではありません」
「どういう意味だ?」
カレンは、静かに、微笑んだ。悲しみに彩られたその笑顔は、なんと寂しいものであろうか。
「精霊使いは人間の進化だと言われ続けています。初めての精霊使い、マリア・リーブセルクの純真さに、人類がこの新しい存在に抱いた希望を、しかし私は自分の行いによって完全に砕いてしまったのです」
俯き、そして、言葉を紡ぐ。苦しそうに。しかしそれでも懸命に。
カレンはただただ、喘いでいるのだ。罪悪感に苦しみ、自分一人が全ての元凶と考え、自身を責める。そんな悪循環に心を削っているのだ。何と悲しい事だろうか、たった十七歳の少女が、自分に対してこれほどまでの絶望を感じているのだ。
それが彼女の心に与えた傷は、いったいどれほどのものなのか。聖はそれを思い、自分の胸に走った痛みに、眉を顰める。
彼にはそれしかできなかった。
「私はなにも考えず、ただ言われるままに、この災厄を引き起こしてしまいました。――人類の希望を、まさに『災厄』に変えてしまったのです。その罪は何者よりも重いものでしょう」
カレンの瞳が聖を見た。そこにある諦めを読み取り、聖はカレンに怒りを覚える。
「だからって!」
近づき、肩を掴み、無理矢理立ち上がらせた。
「だからって、自分が死ねば全てが解決するんだ、なんて考えてるんじゃないだろうな!?」
「違いますか!?」
目の前で、カレンの長髪が躍る。蛍光灯と外の光が金髪に反射して、光の軌跡が宙に引かれた。
「私がいなければ戦争なんて起こらなかったんです! なら、それを引き起こした張本人がいなくなれば、この戦争も終わります! 私が死んでしまった事を知れば、精霊使いの士気も低下して、いずれは戦いが沈静化するでしょう。そうなれば後は、世界中の精霊使いが人口比で過半数を超える日を待てば、世界は平和になるでしょう? だから、だから元凶である私がいなくなりさえすれば、皆が幸せになれるんですよ!」
「ふざけるな!」
聖はカレンを突き飛ばしていた。よろけて壁に背をつける少女。その顔が再び、聖に向う。怒りに紅潮した表情は、ただ拗ねた子供にしか見えなかった。
「お前のそれはただの責任逃れだ! 自分が起したって言うのなら、終りも自分でつけろ!」
「そんなこと、できる訳無いじゃない!」
頭を振り乱し、カレンはヒステリックに叫んだ。わだかまっていた気持ちに火が点いたのだ。聖の言った事など、彼女は始めから分かっていたし、そうしたいと思っていた。しかし、現実は、無力なだけのシンボルでしかない。そこにジレンマを感じ、酷い自己嫌悪に悩まされ続けた気持ちが、聖に吐き出される。
「私ではもう何もできない! 誰も、私の事を責めてくれなくて、ただ、私に教えと許しを請うの! そんな気持ちがあなたに分かるの!? 内心ではいやでいやで仕方が無いのに、皆、私の為に自分を犠牲にしていってしまう。その悲しみが、私に、嫌だ、て言わせてくれないで、私はただ何もできずに誰かが死んでいくところを見ているしかないのよ!? なのに、私にこの戦争を終わらせろ、て言ったら、だったら私が死ぬしかないの、それしか思い付かないの……!」
だだっ子がひたすら我侭を叫び続けているかのように、カレンは本音を捲くし立てる。大粒の涙が頬を伝い、今まで自分の胸の内に隠し続けていた思いをすべて、聖に向けて叩き付けた。
少女はもう、限界だったのだ。このままこの場所で死んでいく事を、カレンは望んだ。しかし、それはただ自暴自棄に陥っただけである。カレンはただ、自分が起した災禍に心を押し潰され、楽になる事だけを夢見ていたのだ。
「……君は、精霊使いが、人間だと、思うか?」
静かに開いた唇から、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
カレンが息を呑んだのが分かった。
「いいえ。精霊使いは人間の進化、つまり、先に行った存在よ。学術的な『ヒト』と認められない……」
「ふざけるな!」
びくん、とカレンが震えた。
「人がヒトたる由縁は、その精神にある! 複雑な精神構造を持った生命体、それが人間だ。そして、人間は、それ以上でもそれ以下でもない。精霊使いだろうがなんだろうが、精神構造が俺達と同じなのなら、それはヒト以外の如何なるものでもないだろうが! カレン、お前はただ、甘えてるだけだよ。現状をどうにもできないんじゃなくて、どうにかしたくても、ただ動きたくないだけだ。その心の中では、精霊使いがヒトよりも高等な生物だと思っているところがあるんだよ。偏見と差別だ。そんな事を考えるから、物事が複雑になっていくんだ。進化だと言うのならもっと崇高な精神を持って見せろ! だが、考え、そして行動にいたるまで、精霊使いはヒトと同じ事をする。それは詰まり、彼らもまた、人間だと言う事だ!」
一気に言って、聖は一つ、息を吸った。
「だから、さ、カレン。君の行動は人の歴史の中の一つでしかない。それで変わる事は無数にある。その全てが君の責任じゃなくて、責任と言うのは、関った全てにかせられる事象だ。一人で抱え込む事じゃあない。精霊使いの発見はロセルト・リーブセルクの功績だが、世界の全員が彼を責めて来た訳じゃない。同じように、非精霊使いだからって君を責める人間ばかりじゃないんだよ」
説き伏せるように、そっと、囁いてやる。
「大丈夫。君は縛り付けられてなんていない。君の心は自由で、君はいつでも、好きな場所に好きなように飛び立てるんだ」
聖の言葉に、カレンはただ、呆然と聞き入っていた。だが、その瞳から溢れる涙に気付いた時、彼女は俯き、聖の胸に頭を埋める。
「でも――!」
その声は震えていた。
「でも、私は、あの子を殺してしまった。私を解ってくれたあの子を手にかけてしまったの……! じゃあ、私はこれから、どうやって生きていけば良いの? 私を解ってくれる人は居なくなってしまった、私の親友は死んでしまったの……」
「優の事か?」
カレンの肩が震える。怯えたように、恐怖するように。
「カレン。優は君の事を心配していたよ。あの子は俺に、君を頼む、て言ってた。だから安心して言い。優はいつまでも、君の事を思い、君を大切に見ていてくれる。それだったら、君も、優を大切に思ってほしい。あの子は親友を裏切らない。だからカレンも、優を裏切らず、あの子を信じて、あの子の導きに笑いかけてやってくれ」
「え……?」
「終わらせよう。どんな方法でも良い。君には何の責任も無いから、自分の事を大事にして、これからを生きてくれれば、それで優は幸せになってくれる」
聖は微笑み、胸に押し付けられたままのカレンの顔を、上げてやる。
「それでも君が責任を感じているのなら、俺は君に協力する。君のやる事を応援する。君の行動を援護する。今から俺は、君へ指揮権を譲渡する。だから行動しよう。怖くはない、俺が、優が、ついている。君のやる事をすべて尊重し、そして俺は、それに従おう」
零れる涙を拭いてやる。透き通った碧眼に視線を合わせ、聖は、少女の手を取った。
「ただ一つ、アドバイスだ」
「……なぁに?」
「ひとまずここから出よう。ここを生きて、それから、決着を考えよう。俺はそれが一番良いと思う。これはただの助言でしかないけど、どうかな?」
握り締めたか細い手。そこから、確かに、握り返される感触がして、聖は微笑んだ。
「……はい」
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