第八章 ――「真実と希望と」――




 遠田がどういう宗教を信仰していたのかはわからなかった。だから、壁に寄りかからせたままだが、腕を組ませて、静かに瞳を閉じさせた。
 その後ですぐに移動した。鉄筋コンクリートの一部が突如として崩壊したのだ、否が応でも目立ってしまう。あの騒音と異様な光景の中で、むしろ誰も来なかったことのほうが、驚くべきことだろう。
 ただ、膝が限界に来ていた聖のことを配慮してくれたのか、カレンが少し歩いた後で休憩にしてくれた。ガクガクとした震えが治まらなかった聖は、カレンの手を借りて、ゆっくりと腰を下ろす。
 ふうっ、と2人の口から、溜息が零れた。そのタイミングが全く同じだったので、2人は肩を寄せ合って、くすくすと笑い合う。
 先程までの張り詰めた空気が溶解する。そんな実感に肩の力を抜いて、聖は優しい気持ちでカレンの端正な顔を見つめた。
 ありがとう――、とそんな言葉がついて出る。
「えっ?」
 聖の突然の感謝に、カレンがキョトン、とした。
 その表情に笑みを深くしながらも、聖はさらに言葉を紡ぐ。
「助けてくれたでしょ? ――その、戦ってるときに」
 カレンはそれで、合点が言った、と言うように眼を見開いて、今度はバツが悪そうにそっぽを向いてしまう。しかし少女は耳まで真っ赤だった。
「気付いてたの?」
 恥ずかしそうに視線をチラチラと送りながら、カレンはそう言った。
「うん」
 と聖は頷いて、
「あの時、ね。カレンの力が無かったら、多分、俺は死んでたよ。ああやって周りが見えてたからこそ、俺は、ウィル少佐の『ガルム』に焼かれずに済んだんだ」
 あの時。
 聖の中で、突然に周囲を感知することが出来たその瞬間。
 『ガルム』の突撃を、その詳細を理解することが出来た時から、戦闘が終わるまで。ずっと、感覚を開放しているような、全てを見通せているかのような不思議な感触が続いていた。言葉で表すならば、飛躍、が適当であったろう。飛躍的に認識能力が向上したのだ。
 あれは、カレンが自分の精霊力を、聖へと貸与したからこその感覚だった。
 カレンが聖の為に自分を預けてくれたのだ。
 聖を信じて、カレンは彼女の感覚を、繋いでくれた。
 その事による精神的な疲労とストレスは相当なものだ。表情にはおくびにも出していないが、少女はその可憐な心の中に、大きな負担を抱えている。能力を共有していたからこそ、聖にはそれが分かる。
 一方のカレンは、少しだけ俯いて、上目遣いに聖の表情を覗いてくる。恥らうように頬を染めた少女が、口を開いた。
「知らなかったの……」
「えっ?」
 今度は聖が、素っ頓狂な声を上げる番だ。
「知らなかった、て――?」
「知らなかったのよ……私にあんな力があるだなんて、ぜんぜん知らなかったの。それに、どうやったかも、全然覚えてないのよ……」
「じゃあ、あの時が、初めて、なの?」
「うん……。まさか自分のことが分かってなかったなんて思わなかったから、なんだか恥ずかしい……」
 それに――、とカレンが頬を染める。
「あの時、ね。聖が危ない、て気付いて……どうしようもなく恐くなったの。そしたら、イヤ、って強く思ったの。聖と離れたくない、もっとあなたと一緒にいたい、って。そう思ったら怖くて、恐ろしくて、どうしたら良いのか全然分からなくて……。その、一生懸命、聖のことを考えたの……そしたらね、いつの間にか、あなたと一緒に居るようになって、あの、――あう、何が言いたいのか分からない……」
 聖は少しばかり唖然としていた。カレンが初めての能力を使ったから、ではない。カレンが混乱して、慌てているのが、凄く珍しい光景に映ったのだ。あの聡明で、可憐で、強い娘が、まるで小学生のように気持ちを伝えようとして、こんがらがっている。首まで真っ赤にして言葉を懸命に吐き出すその姿が可愛くて、愛しくて、聖は彼女の肩を抱いた。
 あっ――
 と少女は身を硬くした。そう言えば、と聖は思い当たる。カレンをこういう形で――自然な形で抱きしめるのは、始めてだ。
 先程よりもさらに真っ赤に、きめ細かく美しい白肌を桜色に火照らせて、しかしカレンは抵抗しない。その事に安心感を覚えて、聖はさらに強く、少女を胸に押し付けた。
「ありがとうって――。俺はそれだけ、伝えたいよ」
「う、うん……」
 カレンは徐々に、身体の力を抜いてくれる。聖の胸に身体を預けてくれるのだ。その事が凄く嬉しくて、聖もカレンの身体に体重を預けた。
 安心できる空気が流れる。戦場と化した町のビル街で、その一角でアスファルトの上に座っているはずなのに、2人の心は温かい。通じ合ったんだ、と思える、とても幸せな時間。重い疲れに寄りかかりながら、疲労を気持ちのいい布団のようにして、互いの心にたゆたう心地よさに、身を委ねることが、どれほど素晴らしいことか。
 そんな平穏の時間の中で。
 唐突に、一発の銃声が、響いた。
「――――――っ!」
 バッ! 2人とも面を上げた。
 ここは戦場だ。銃声はそこら中で響いている。しかしこの一発の銃声に緊張したのは、それが一際大きな――つまり、すぐ近くで発砲されたものである、と言うことだからだ。
 そしてもう一つ、聖にはより気にかかることがあった。それは、その炸薬音に聞き覚えがあることだ。忘れることなど出来ない。その銃声と共に陥没したヘルメット、吹き出た血液、倒れる肉体。そして、表情を失った、部下の顔。
 平原を撃った狙撃銃と被るのだ、この銃声は。嫌な予感がする。この近くにスナイパーが居るのならば、ここに居るのは余りにも危険だ。
「逃げよう、この場から、早く……!」
 立ち上がろうと脚に力を入れる。
 そこでようやく、カレンからの返事が無いことに気付いた。
「カレン?」
 顔を向けて、少女が青褪めているのが見えた。ただ事ではない――そんな雰囲気に危機感を覚える。
「カレン!」
「そんな……!」
 聖の呼びかけすらも聞こえていない。呻き声にも似たような叫びを上げ、カレンは立ち上がり、駆け出した。
「カレン!?」
 急いで追いかけようとした。しかし膝がガクンと崩れ、思わず尻餅を突いてしまう。くそっ! と毒づいて自分を叱咤した。足元の機関拳銃を引っつかみ、立ち上がり、走り出す。疲労が濃いとは言え現役自衛官だ。体力的には普通と変わらない、高校生の少女に置いていかれることは無い。
 カレンはすぐ目の前のビルの中へと入っていった。何処にでもあるような、賃貸用の雑居ビルだ。階段を駆け上がって二階へ、そして三階まで走りこむ。
 『古村探偵事務所』と書かれたドアを開けて、カレンは中へと飛び込んだ。その後ろを、数歩遅れて、聖も飛び込む。落ち着いていた息が、三階までの階段で、ふたたび荒くなってしまった。肩で息をしながら周囲を見回すと、右手側に扉が開いており、カレンはそこに入ろうとしていたのだ。
「危ないぞ!」
 動き回るな! と言う意味で叫んだ直後、カレンの上半身が屈む。そのまま少女が部屋に入ると、直後に銃声が響いた。
 ダーンッ、と重い銃撃音。先程のものと同じだ。射線上のガラスに弾丸が当たって、その衝撃波が周囲のガラスを吹き飛ばし、道路側に大きな穴を開けてしまった。
「カレン!」
 聖も急いで駆け込んだ。その目前には、長いボルト・アクション式の狙撃小銃を持った少年が現れる。カレンに対して射撃姿勢を取ろうとしていたのだろう、身体をそちらへと向けたまま、彼は新たに出現した聖へと、驚愕に歪んだ表情を向けている。
 米軍正式採用スナイパー・ライフルM24のボルトを手動で開いた状態で、狙撃手はその銃口を聖へと向ける。ボルト・ハンドルを戻して新規装填しようとする動きを見て、聖は咄嗟に、そのボルトへと精神を集中させた。ボルトの回転を強引に阻止したのだ。
「うわっ……!?」
 小銃の装填が唐突に停止した。その事に狙撃手が驚愕する。無理矢理に押し込もうとして、しかし聖が発生させる圧力に対抗できず、焦れたような脂汗が噴き出していた。
 聖がM9の銃口を上げる。
「う、うわあああぁぁぁぁぁっ!」
 狙撃手が絶叫した。その瞬間に、彼の空間が歪んだように見えて、聖はM9のトリガーを引き絞る。
 フルオートで約一秒間。五発程度のパラベラム弾が狙撃手の腹に撃ち込まれる。銃腔が赤黒い穴を作り、狙撃手の身体は弛緩して、背後に倒れこんだ。
 聖がM9の銃身を下ろした。反射的にコッキング・レバーを押さえてからトリガーを引き、ゆっくりとデコッキングする。ボルトを閉鎖した後に安全装置をかけ、自らが倒した狙撃手を見つめた。
 まだ若い、高校の制服を着た、少年だ。まだ幼さが残っている顔立ちに、無骨で物騒なスナイパー・ライフルが余りにも不釣合いで、それだけに背筋すら凍るほどの恐さを覚える。
 こんな少年が、平原の頭を撃ち抜いたのだ。
 そんな考えを振り払い、聖はカレンの方を向いた。大丈夫か、と。怪我は無いか、と問いかけるつもりだった。
 表情が凍った。
 カレンが泣いている。そして、その横で倒れ伏した少女の姿が、聖には信じられなかったのだ。
「奈津…、う、奈津ぅぅ――!」
 声を出して涙に咽ぶカレンの声。彼女の腕には、空虚な眼を見開き、胸に大きな血の花を咲かせた少女の亡骸が、抱えられていた。
 椋本 奈津(くらもと なつ)――優の親友で、聖とも非常に深い親交のあった、快活で物怖じしない明るい少女だった、娘だ。
「な、奈津……?」
 呻き声、だった。信じられないのだ、目前の光景が。倒れ、生を感じさせない少女の姿が、聖には恐ろしい夢の一部にしか、映らないのだ。
「奈津が、奈津の身体が、――息をしてない……! 奈津が死んじゃったわ! 聖、奈津がぁ……!」
 カレンが叫んだ。怒鳴り声にも近い、錯乱した怒声が、狭い部屋に響き渡る。そんな状況に現実感が感じられなくて、聖はペタン、と座り込んでいた。
 脚には力が入らなかった。
「そん、な……」
 そんな――?
「どうして、奈津が? 奈津がどうしてここに居る? どうして奈津が、死んで……しまったんだ?」
 カレンの胸に抱えられた奈津の姿。後ろに纏めたポニーテールの髪型、Tシャツの上にパーカーを羽織り、ハーフパンツからは健康的なスラリとした脚が覗いている、そんな普段の奈津の格好だ。白のソックスや、動きやすさを重視したスニーカーなども、奈津らしい、快活なファッションを表しているのだ。
 そんな彼女が戦場に居て、しかも胸に鮮血を散らして死んでしまっている。そんな事は信じられるわけが無いのだ。
(なんで――?)
 どうして――?
 頭の中が完全に混乱している。
 分からないことだらけ、信じられないことだらけで、聖はただただ、呆然とその場に座り込むことしか出来なかった。
 そんな時。
 不意に――
『ごめんなさい』
 と、聞こえた。
 え――?
『ごめんなさい、優ちゃん……ごめんなさい、カレンちゃん……。ごめんなさい、お兄ちゃん――』
 奈津の声だった。
 前回の休暇――優の初七日の時には聞けなかった、少女の馴染み深い声が響いているのだ。鼓膜の振動ではなく、頭に直接、刷り込まれるように。
「奈津……! 奈津!」
 這うようにして、少女の遺体に駆け寄った。しかし少女の瞳は暗く濁り、呼吸の為に上下するはずの胸は、完全に停止してしまっている。
 しかしそれでも、触れた指先には、温もりが残っていた。
「奈津? 喋りかけてきたのは奈津だろう……?」
 懸命に、訴えかけるように、言葉を搾り出す。思わずカレンの顔を見て、少女の首が悲しげに横に振られるのを目の当たりにした。
「これは奈津本人の声じゃない……。この娘の残留思念が訴えかける、悔恨の映像が、空間に満ちているのよ」
「残留、思念? 悔恨の映像っ、て――?」
 聖には解らない。何もかもが突然すぎて、何もかもが信じられなくて、聖には何も理解できないのだ。
 カレンが静かに、聖の顔を直視した。涙で頬を濡らした少女が、その震える声を、絞り出す。
「聖……。あなたにはとても辛い現実なの。できれば私は、あなたに知られて欲しくなかった。でも、ダメ。優も奈津も、あなたの事をとても慕っているの……。だから、真実を見せないといけない、て私にずっと訴えかけてる。――だから、ね」
 聖はその時、意識が急速に遠のくのを、感じた。
「見て、聞いて、感じて……ね。私たちが見た真実を、そうしてあなたに、受け入れて欲しいから――」

 映像、だった。
 衝撃的な。
 医者が言った、『鋭利な刃で左胸を貫かれて死亡していた』、という言葉。
 優の左胸が裂けたその瞬間が、見えたのだ。
(ゆ、うっ――――――――!?)
 聖の喉は震えなかった。
 私立葵女子大学付属高等学校の茶色の制服が、胸の部分だけ裂けて、非常に鋭利な穴を開けたのだ。
 優の小柄な身体が傾いて、前のめりに、倒れこんだ。
『――優っ!』
 カレンの叫び声が聞こえた。彼女はすぐに優に歩み寄ると、その身体を抱きかかえた。先程まで、奈津の真っ赤に染まった身体に対してしていたように、その肉体を抱きしめたのだ。
 優、優っ! とカレンが大きく呼びかけ続ける。しかし少女の瞳は虚ろで、もはや何も映しては居なかった。
 ただ、血の泡と混じって吐き出される苦しそうな吐息や、どんどんと青ざめていく肌の中で震える指先が、彼女がまだ生きていることを示していた。
 妹の瀕死の現場を見て、聖はすぐにでも駆け出したい衝動に駆られた。走りよって抱え上げ、抱きしめて、そして助けてあげたい――。もしその場に居たとしても、どうしようも無かっただろう、と言うことくらいは解ってる。それでもないかをしてあげたい、と強く願った。
 叶うわけがないのに。
 これは過去の映像なのだから。ただそれだけが、聖が納得していた事だった。
『奈津っ!』
 カレンが甲高い叫びを上げた。キッ、と強い視線で睨みつける。その先に一人の、顔色を蒼白にした少女が、立ち尽くしていた。
 カレンの声でようやく、びくり、と身を動かしたのだ。
『奈津――これが結果よ! あなたが望んだことは結局、こうなってしまうのよ! 私は何度も見てきたの! 感じてきたの! 今の世界のどんな場所でも、これと同じことが起きているのよ!』
 普段のカレンからは想像もつかない、声を嗄らした訴えだ。ただ言葉をぶつける、感情をぶつける為の、それだけの叫び声だ。
『あなたは知らなかったから――だからこんなことができた! でもそれで優が死んじゃうのよ! あなたが大切に、本当に大事にしていた人が、死んでしまうのよ!』
『う、あ……』
 奈津が喘いだ。気圧されてよろめき、一歩を後退した。ふらふらと、平衡感覚を保てていないかのように、少女はその頭を両手で抱える。
『違うよ……あたしはこんなこと、望んでいないよ! ただ、あたしたちが、仲間が苦しんでるからって、だから助けたいって言っただけなのに! こんなことするつもりじゃなかったのに! なのにどうして、こうなってるの!?』
 奈津もまた、混乱していた。一生懸命に頭を抱えて、今この状況を否定し、どうすればいいのかと苦しそうに喘いでいた。
『こっちを見なさい! 奈津! あなたのせいで優が苦しんでる、死んでしまうのよ!』
『いやあ! いや、いや、いやぁぁっ!』
 奈津は大きく頭を振った。追い出そうとしているのだ、頭の中から、今と言う現実を。
 一方の優もまた、苦しみに喘いでいた。カレンの胸の中で、風の刃に貫かれた胸を必死に上下させながら、優は必死に口をパクパクとさせているのだ。その言葉は意思となって聖に流れ込んできた。
 優は必死に、『止めて』、と言っていたのだ。
『止めて――苦しまないで、2人とも……。私は大丈夫だから、だから、いつもの、笑顔で溢れた2人に戻って――』
 そう、訴えかけていたのだ。声にならない思惟で必死に、彼女たちに、大切な友達に、伝えようとしていたのだ。
(ゆう……優……! 優――!)
 聖は、妹が死に絶える瞬間を目撃した。冷めていく身体で必死に行っていた生命活動が、どんどんと弱まっていっているのだ。そして、そんな彼女の為に、2人の親友が仲違いして、必死に叫びあっている。必死に自分をぶつけてくれる。
 そっ、と小さく息を吸って、優の命は、灯火を消した。
 それを感じ取ったカレンが、優? と問いかける。それでも反応が無い少女の身体、全身の力を抜いた優の肉体を見て、カレンが大きく瞳を見開く。
 アスファルトを蹴る音が、その場に大きく響いた。
 気付いたときには、奈津は後ろに駆け出し、見えなくなっていた。

 ごめんなさい――
 奈津は最期に、この言葉を残していた。
『ごめんなさい、優ちゃん……ごめんなさい、カレンちゃん……。ごめんなさい、お兄ちゃん――』
 そう、少女は、繰り返していたのだ。
 聖のことを、お兄ちゃん、と呼んで慕ってくれた、可愛い、大切な女の子が。
 あの、何事にも一生懸命で、茶目っ気があって、素直で、でも頑固なところがある、そんな憎めない、明るい奈津が。
 ごめんなさい、と言って、死んでしまった。
 優を殺してしまったことを悔い、カレンを傷つけてしまったことを悔いて、そして――
 残った聖にまで謝罪して、奈津はこの世を去ってしまったのだ。
「バカヤロウ……ッ!」
 聖の瞳が涙に揺れた。視界が歪んで、声が霞む。
「奈津の、ばか、やろう――!」
 なんで、と思った。なんでこんな事になってしまったんだ、と。なんで奈津が優を手にかけたのか、なぜ親友を殺さなければならなかったのか――
 しかしそれもまた、聖は知ってしまっていた。映像に織り込まれた記憶は全て、事情を流れ込ませている。解りきっているのだ、何故こうなってしまったのか、など。
 それは、奈津が、精霊使いだったからだ――
 そしてカレンが、精霊王だったから、だ――
 奈津が精霊能力に目覚めてしまって、そしてカレンが精霊王だと気付いてしまった。遠田とウィルバートの計画には、カレンは始めから組み込まれていたのだ。そして友人である奈津に、カレンの説得を命じたのだ。カレンが蜂起の先頭に立てば、確実に日本国内の精霊使いは立ち上がるのだから。
 しかしそれが失敗した。口論の中で、頭に血が上ってしまった奈津が、カレンに向けてその力を解放してしまったのだ。しかしカレンは助かった。優が2人の間に割って入ってしまったから。
 その後、幾ばくかの時間を置いて、遠田たちは作戦を開始した。何度も迫っても受け入れないカレンに業を煮やし、この若月市そのものを乗っ取る、と言う形で精霊王を監禁して。
 全ての事情を知ってしまった。
 聖は何もかもを、知ってしまったのだ。
 大粒の涙が零れて、聖の顔をクシャクシャに汚していく。悲しすぎた。こんな顛末、哀しすぎるのだ。聖が知っている、大好きな2人の女の子が、死んでしまった。それも互いに悲しみながら。お互いを心底から愛しながら。
 こんな事、酷すぎる。そう、思えて、涙が溢れる。
 ちくしょう、と。
 無力感に拳を握った。
「ひじり……」
 そっ、と肩に、柔らかな手が乗せられる。見上げてみると、カレンが心配そうに、覗き込んでいた。気遣ってくれているのだ、聖が潰れてしまわないか。聖が心を失わないか。
「大丈夫だよ……」
 と聖は言った。笑うことは出来ないけれど、それでも優しい声になるように、カレンを安心させられるように。
「大丈夫じゃないわ!」
 カレンは強く、そう言った。
「大丈夫なわけ、無いじゃない……。だってそうでしょう? 聖は悲しんでも当然のことを知ってしまったのよ。聖は泣いてもいいの、そうじゃなきゃ耐え切れないの。だから我慢しなくてもいいわ。私の前でだけは、気丈に振舞うのを、止めて欲しい……」
「カレン……。でも、それじゃあ、優が、奈津が、悲しんじゃうよ……」
 聖がそうして俯くと、カレンは聖の首に手を回して、彼の頭を抱きしめてくれた。
「そんなはず、ない……。2人とも、聖が本心を隠さずに、生きてくれることを望んでいるはずだもの。あの娘たちは、あなたのことが大好きで、心の底から慕ってくれていたじゃない。それはあなたの、本当の部分が好きだったんだから。優しくて、真面目で、でも少し泣き虫な、そんなあなたのことが大好きだったんだって、二人とも、思ってるわ」
 カレンは聖の瞳を真っ直ぐ見て、こう言った。
「だって私が、そうなんですもの」
 優しい声だ。
 優しい瞳だ。
 優しい温もりが、聖の心に広がっていくのだ。
「う、ん……うん、うん、うん――――!」
 聖の瞳に、再び、涙が溢れ出した。今度は悲しいだけじゃない。カレンの言ったことが本当だと、本当に皆が自分を愛してくれたんだと、実感できた。その嬉しさも込み上げてきたのだ。
「大丈夫よ、聖。あなたはあなたが大切な人たちに愛されているの。だから正直になってもいいの。優と奈津は、もうこの世にはいないけど、代わりに向こうであなたの事を見守ってくれる。それにここには、私がいるわ。だからあなたには、あなたらしく、自分を見失わないように、生きて欲しい」
 ぎゅっ、とカレンが抱きかかえてくれる。その温もりは、なんと尊いものだろう。彼女の言葉に、どれほど救われたのだろう。計り知れないほどの温もりが、数え切れないほどの感謝が、聖の心の中に溢れ、行き渡る。
 だから聖の口から、自然に、言葉が紡がれた。
「ありがとう――」
 そう、呟けた。
 しばらく、カレンの胸で泣いた。気持ちが落ち着くまで、悲しみが涙と一緒に出て行ってくれるまで、カレンは聖の背を擦ってくれた。だから聖は安心できたのだ。女性の広い器に抱かれて、聖は自分を正直に、吐き出せていた。


 どれくらいの時が経っただろうか。聖はそっと顔を上げ、落ち着いたよ、と小さく呟く。それでもカレンは、まだ安心させるように背を擦り続けくれたが、聖が苦笑を浮かべて立ち上がると、彼女もまた、それに倣う。
 静かに奈津の遺体に歩み寄った。そして少女の、冷たくなってしまった身体に触れる。また少し、感情が昂ぶって、涙が出そうになった。しかしそれを堪えて、奈津の瞳を閉じさせた。
「やっぱり奈津は、強い娘ね」
 不意に、カレンがそう言った。えっ? と聖が視線を合わせると、彼女は静かに微笑を刻む。
「奈津は優の時の轍を踏まなかった……。部屋を見てみて?」
 そう言われて、聖は狭い室内を見回してみた。事務所のオーナーが居住用に使っていたのであろう、そこにはベットや机、本棚、クローゼットなどが置かれている。そしてこの場所は、壁のそこら中に大小の切り傷があった。
「奈津は、自分には何が大切なのか、気付いたのよ。だから隣にいた人があなたの事を狙っていたとき、それを止めようとした。戦ってでも、聖を守ろうと、したの……」
 奈津の精霊力は、風を操るものだった。ならば室内の切り傷は多分、奈津が大気を刃に変えた、その時に出来たものなのだ。
 そしてこの狙撃手に撃たれてしまったのだろう。奈津の胸の銃創は、M24ライフルの強力な7.62ミリ弾によるものなのだ。
「奈津は、あなたの為に、仲間を止めることを選んだ。選択を変えるほどに、聖のことを大切に思っていたのよ。そして、大切な人の為に、行動を迷わず実行できる心の強さが、奈津の一番の魅力だったよね……」
「うん……」
 聖は、奈津の頬へと、その手を滑らせた。火傷の痕が疼いてしまうが、そんなものも気にならないほど、今は奈津への愛しさが強い。
「ありがとう、奈津」
 そっと、優しい気持ちで、少女の頬を撫で上げた。
 聖は上着を脱いだ。そして、そのディジタル・ウッドランドの制服を、奈津の身体にかけてあげる。傷口を覆うように、出来るだけ奈津が綺麗に見えるように。
 そして少女の、動かない身体を抱え上げた。
「奈津を置いていくのは忍びないよ……。一緒にここから、連れて行こう」
 そう、聖は言った。
「ええ。奈津は私の親友だもの」
 そう、カレンは言ってくれた。
 聖は優しく微笑んだ。カレンも優しい微笑を刻んでくれる。すっ、と立ち上がると、カレンは聖の隣に連れたってくれる。その事を幸せに感じながら、聖は出口へと歩を進めた。
 2人は大切な少女と共に、この戦場から、歩き出すのだ。
 幸せな明日へと向けて――
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